映画・テレビ

「四月の魚」再考

1月27日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

最近は、ほんとうに1週間単位で、生きていることへの安堵を感じる。

高橋幸宏『LOVE TOGETHER YUkIHIRO TAKAHASHI 50th ANNIVERSARY』(KADOKAWA、2022年9月)という本が出ていることを、つい最近知った。ユキヒロさんが亡くなる前に刊行されたものである。

実に多くの人たちがユキヒロさんの思い出話を語ったり、あるいは過去にユキヒロさんがいろいろな人と対談した記録がまとめられている。とにかくユキヒロさんと関わりの深い人たちが、この本の中で一堂に会しているのである。

この中で僕が読み耽ってしまったのが、三宅裕司さんへのインタビューと、2015年4月6日に行われた大林宣彦監督とユキヒロさんとの対談である。

三宅裕司さんがまだぜんぜん売れていない頃、ユキヒロさんが劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に注目し、「高橋幸宏のオールナイトニッポン」で三宅さんを抜擢し、「SET劇場」というコーナーを作った。それが三宅さんが頭角を現すきっかけになったのである。その後、YMOの最後のアルバム「SERVICE」に、曲間にSETのコントが入っていることはよく知られている。

そのインタビューによれば、三宅さんが所属するアミューズの副社長・出口孝臣さんが、ユキヒロさんにお世話になったお礼に何かしなきゃというので、映画を1本作ろうということになった。それが『四月の魚』だというのである。『四月の魚』の企画は、アミューズの出口さんと大林監督によって立ち上げられたのだ。なるほど、そういうことだったのか。

三宅さんのインタビューに続いて、大林監督とユキヒロさんの対談が収録されている。2015年の対談なので、まだ『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の企画が立ち上がる前である。

この対談も、僕にとっては興味深い。ユキヒロさんが「この映画(『四月の魚』)、ちょっと早すぎたかも知れないねと、監督がおっしゃってましたね」というと、大林監督が答える。

大林「そう。こういうおしゃれなラブコメディは、当時、まだ日本になかったから。まだまだシリアスなものがほとんどで」

司会「監督のフィルモグラフィの中でも珍しいタイプの作品ですか?」

大林「珍しいですよね、これは。たまたまジェームス三木が書いた原作が面白かったから、『よし、これでビリー・ワイルダーやジャック・レモンのような、おしゃれな映画を作ってやろう』と。でも、いい役者がいませんよ。いや待て、高橋幸宏という人がいるじゃないか、と」

たしかに。大林宣彦監督には珍しいウェルメードなおしゃれなラブコメディ。僕の見立ては間違っていない。

『四月の魚』の撮影のあとは、原田知世主演の『天国にいちばん近い島』に、原田知世の父親役でゲスト出演する。もっとも、映画の中で二人が絡む場面はなく、原田知世がユキヒロさんの遺影を持っているという場面のみである。このことについて、大林監督は次のように語っている。

大林「しかも今、実際に知世ちゃんと一緒に(pupaを)やっているんでしょ?僕はね、『辻褄が合う夢』って言っているんだけど、そのときは勝手な夢を見てやっているだけのつもりが、時間が過ぎて後から振り返ると、すべて物事の辻褄が合っているんです。今、幸宏ちゃんが知世ちゃんと一緒にやっているということは、もうここで既に決まっていたという」

高橋「僕も運命論者なので、それは何となくわかる気がしますね。偶然は必然だっていう」

大林「人間の偶然は神様の必然でね。僕たちは、上の人(神様)の必然に従って生きているだけでね。ただ、それがわかる能力がないから「偶然だ、偶然だ」と思っているだけで、ちゃんと繋がっているんですよ」

このあたりの大林監督の言葉は、監督の哲学がよくあらわれているところである。とくに「辻褄が合う夢」は、僕自身がこれまで生きてきて実感していることでもある。

そして対談の最後。

大林「必然的に出会ってから随分と親しく、こうやっていろんな映画に出てもらって、僕にとって、友達です」

高橋「監督に、そう言ってもらえるのが一番嬉しくて。あるとき監督が、『僕は友達が多そうにみえるかも知れないけれど、友達ってそんなにいないんだよね』とおっしゃっていて。そんな中の大切な一人だからと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった」

大林「皆さんはどうかな?『友達』っていうと、年中会ってね、無駄話をしたり、お酒を飲んだりしてると思うでしょうが、幸宏ちゃんと会うのは久しぶりだよね?ほんとうに大切な友達っていうのはね、みだりに会っちゃいけないんです。どうかしたら一生会っちゃいけないかもしれない。人は会うと下品になるから、会わないでいるほうが上品になれる。今日はこういう形で、仕事として会いながら、とても大切な友情の場になっているんだけど、『幸宏ちゃん、ちょっとお酒飲まない?』といういう風にはいかない。離れていると、お互いに詩的な素晴らしい関係でいられるけど、会うとすぐに駄洒落が出たりするしね(笑)」

高橋「確かに(笑)」

大林「そんなわけで、幸宏ちゃんは、みだりに会っちゃいけない大切な人。その代わり、いつも心の中にいます」

この「友達論」も、大林監督がよく語る哲学で、僕もこの生き方を真似している(つもりである)。「またこんど、飲みに行きましょう」ではなく、「またこんど、一緒に仕事しましょう」というのが、再会を約束する言葉である。

この対談の3年後の2018年、大林監督は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の撮影を開始し、ユキヒロさんはとても重要な役にキャスティングされる。大林監督は、ユキヒロさんとの大切な友情の証として、人生の最後に、一緒に仕事をするという約束を果たしたのである。

なんという「辻褄の合う夢」だろうか。

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いまになってわかること

12月31日(土)

朝、ボンヤリとNHKを観ていたら、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」が再放送されていた。

観たいと思っていた番組だ。

今年の6月に、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークで、大竹まことさんが訥々と、この番組について語っていた。

以下、そのときのトークの様子を、文化放送の公式HPから引用する。

「6月14日(火曜日)大竹まことゴールデンラジオ(文化放送)で、パーソナリティの大竹まことが2019年に撮影されたウクライナ・キーウの平和な街歩き映像をテレビで鑑賞し、現在のキーウの映像との違いに打ちのめされたことを語った。

大竹が観たのはNHKの「世界ふれあい街歩き」という番組で、3年前のキーウの静かで平和な映像が映され、その後、現在の同じ場所にあるロシア軍戦車の残骸が映されたそう。2019年の映像で子供たちと一緒にピザを作り、食べさせていた現地の帰還兵らが、今は戦場に赴き、一人は亡くなっていると明かされたり、また、2019年の映像でウクライナ伝統の楽器を演奏し歌っていた街の人も、現在は戦場に向かっていると説明されたりしたという。大竹は「ウクライナは過去に色んな戦いからやっと落ち着いて、平和に暮らせていた時に、今回のことが起きた。歌っていたあの人は楽器を捨てて銃を持っているのだよね」。と短い期間に起きたあまりの変化に信じられない様子。

フリーライターの武田砂鉄も「バンドのクイーンが以前ウクライナでライブを行った映像を無料公開したのを見たが、その会場で熱狂して音楽を楽しんでいた人々が、今は文化やエンターテイメントを奪われてしまっている。そういうところへの想像を常に持っておかないといけないと感じる」。と現地に人々の現状に思いを馳せた。大竹は「判断はともかく、こういうことになっているといいたかった」。とリスナーへ力を込めて語った。」

少し補足をしておくと、このときに大竹まことさんが観た「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ」は、今日再放送された「特別版」と同内容で、2019年に放送されたバージョンに、戦争が始まったその後の状況について、ナレーターのイッセー尾形さんが補足している、というものである。ちなみに、大竹さんとイッセー尾形さんは、古くから親交のある芝居仲間である。

僕はこのときのオープニングトークがずっと印象に残っており、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」をいつか観たいと思っていたのが、大晦日になって、やっと実現した。

2019年放送の時点では、キエフは実に穏やかな街であった。2014年のウクライナ危機から帰還した兵士が、社会復帰のために子どもたちとピザを作る、という、その帰還兵の顔は、穏やかで楽しそうな顔をしていた。しかしこの時点で、ふたたび戦地に赴くことになるとは知らない。

長崎に原爆が落とされる前日の、長崎の人々の日常を描いた、井上光晴の『明日』という小説を思い出した。黒木和雄監督によって『TOMORROW 明日』というタイトルで映画化されており、僕は映画を観たクチである。

翌日に原爆が落とされることがわかっている後世の人間にとっては、その前日は特別な日常に映るのだが、そのときに生きていた人々は、いつもと変わらない平凡な日常である。

2019年時点でのキエフは実に穏やかな日常にみえるが、いま、この時点で見ると、かけがえのない日常に見えてしまうのは、おそらくそういうことなのだろう。

その番組の中で、チェルノブイリ原発事故を伝える博物館の前を通りかかる場面がある。その博物館の前にいたふつうの若者が「歴史に学ばない者に未来はない」と何気なく語っていたのが印象的だった。

そしてこの日の夕方に、NHKのBSプレミアムで映画「ひまわり」が放送された。映画「ひまわり」については、すでに述べたことがあるので省略する。

あらためて映画「ひまわり」を見直してみると、細部についてはほとんど忘れていた。

ストーリーとは関係ないのだが、戦争で行方不明になった夫を妻がいまのウクライナで探す場面で、ほんの一瞬だが、鼓胴のような形をした巨大な建物がいくつか並んでいるのが映っている。どこか見覚えのある建物だと記憶をたどると、チェルノブイリ原発とよく似た建物である。チェルノブイリ原発そのものではないようだが、ウクライナに置かれた原発であることは間違いないようである。驚くことに、原発に隣接してふつうの人々が暮らしているのだ。映画を観ていたつもりであっても、見えていなかったことが多すぎる。いまになってわかることも多い。関心のないものは目に映らないということなのだろう。

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蒲殿の活躍

12月30日(金)

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第21話くらいまで見てそのままになっていたのだが、「今年の大河は今年のうちに」ということで、一昨日、録りだめておいた22話から48話までイッキ見した。もっとも、録画に失敗した回もあったので、途中、何話か抜けているのだが、それでも、ゆうに20話以上をイッキ見したことになる。

昨日は、これも途中で観る時間がなくて撮りだめておいた関西テレビ制作のドラマ「エルピス」の、後半数回分を観た。

そして今日、「エルピス」の最終回と、昨晩NHKで放送されていた「未解決事件」シリーズの「帝銀事件」のドラマを観た。

帝銀事件のドラマ、観る前は、再現ドラマのようなものだから、たいしたことはないだろうと思っていたら、さにあらず、がっつりホンイキで作られていた。そんじょそこらのドラマでは太刀打ちできないくらいの作り込みである。とくに、松本清張役を大沢たかおが演じるというので、想像がつかなかったが、このキャスティングが見事にハマっていた。大沢だけではなく、他のキャストも見事に役にはまっていたのだ。これ、編集長役の要潤と二人でバディもののドラマシリーズとして成立するんじゃないだろうか?いや、『日本の黒い霧』を松本清張扮する大沢たかお主演で大河ドラマになるんじゃなかろうか。

…という妄想を抱きつつ観ていると、帝銀事件の犯人が平沢貞道ではなく、別に真犯人がいるのではないか、と最初に疑った新聞記者役の俳優が、どこかで観たことがある。つい最近何かのドラマで観たぞ。

その新聞記者は、帝銀事件の犯人が平沢貞道であるという矛盾点をついた記事を書いているのだが、どうもあまり歯切れがよくない。その記事を読んだ松本清張は、その記者の慧眼に敬意を表しつつも、その点に不満が残った。そのことが、松本清張を帝銀事件の真相究明に駆り立てていく原動力になる。

実際にその新聞記者に会ってみると、実に気弱そうな新聞記者である。大きな権力を恐れて、事件の核心に踏み込むことができない。そのことを、松本清張に詫びたのであった。

うーむ。どこかで見た俳優さんだ、と思って、思い出した!「エルピス」に出ていた、「大門副総理」の娘婿だ!

大門副総理が数々の事件を政治の力でもみ消してきた事実を知り、秘書である娘婿が良心の呵責に耐えられなくなり、マスコミに告発しようとしたのだが、事前にそのことを察知され、大門副総理の手のものに殺される、という悲劇的な役柄を演じていた。

いや待てよ、この俳優さん、ほかにもドラマに出ていたぞ。

わかった、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝の弟・源範頼(蒲殿)を演じていた人だ!

調べてみると、迫田孝也という俳優さんだった。かなり注目されている俳優さんだということもわかった。

この、源範頼という人物も、正義感にあふれ、「いい人」であるにもかかわらず、最後は謀反の疑いをかけられて流罪の憂き目に遭う、悲劇の人物である。

つまり、いずれのドラマでも、「割を食う」人物を演じているのである。「いい人なのに割を食う役の顔」選手権があったとしたら、優勝である。

ところで、「エルピス」と、「帝銀事件」のドラマは、えん罪を扱っているという点で、期せずして共通点がある。

無実の人間をえん罪に仕立て上げた真相を暴こうとすると、大きな権力から圧力がかかる。この点もまた、共通している。

もし、その真相が明るみに出たら、この国は、たいへんなことになる、政治体制は崩壊する、国際的にも信用を失う、この国のためを思ったら、えん罪事件の真相を掘り返すべきではない、などと、権力者の側は、そう説得しようとする。

これに対して大沢たかお演じる松本清張は、

「大義の話にすり替えてはいけない」

と反論する。この言葉が、胸に刺さる。

まるでいまのこの国の政治ではないか。

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ストレンジワールドとすずめの戸締まり

11月26日(土)

この週は、4歳の娘と二人で、映画館で2本の映画を観た。23日の祝日にディズニー映画「ストレンジワールド」、26日の土曜日に新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」である。娘とまる一日、二人で過ごすという日は、映画館に行って映画を観ると、時間が持つのである。

ひとつはディズニー映画だし、もう一つは日本のアニメ映画だし、どちらのジャンルもテレビ放送から録画して繰り返し観ている経験をしているから、全然問題ないだろうと思って観に行ったのだが、これがなかなかたいへんだった。

どちらの映画も、映画のはじめのほうから、「パパ、恐い…」と言い出したのである。

あまり書くとネタバレと言われそうだから書かないが、どちらの映画も、序盤の段階から、「ニョロッとしてもの」が出てくるのである。どうもそれが恐いらしい。いままでそんなことはあまりなかったのだが、この2つの映画に関しては、映画を観ている途中で、

「パパ、おしっこ」

と言い出した。

「映画を観る前におしっこしたでしょ!」

「でも、おしっこ」

といって聞かない。

恐くておしっこが漏れそうになったのか、あるいは恐い場面を観たくないという防衛本能がトイレに行かせようとするのか、だと思うのだが、いずれにしても、映画の途中で席を立ってトイレに連れて行く羽目になった。おかげで、なぜあの人が、あんな感じになっちゃったのか、という肝心な部分を、見逃すことになる。

今後は、恐い場面が訪れると尿意をもよおすという娘の悪いクセをなんとかしなければならない。

それはともかく、「ストレンジワールド」は、大人の僕が観ても、1回ではその世界観を完全に理解することは難しかったし、「すずめの戸締まり」も、その世界観に圧倒されはしたが、これを一度観ただけでその内容を受け止めるのは至難の業である。ま、ストーリーが追えなくても、何かしらの場面は娘の心の中に残っただろう。

2つの映画は、対比するようなものでは全然ないが、「ストレンジワールド」は父と息子の絆を確認する物語で、「すずめの戸締まり」は母と娘の「喪失」の物語で、対照的である。とりわけ後者は、主人公の「すずめ」が4歳だった頃に母親への喪失感を抱くという場面がくり返し登場し、ちょうど4歳の娘を持つ親にとっては、涙なしには観ることができない。うちの娘は、何かを感じとっただろうか。

後者については、つい最近観た「天間荘の三姉妹」もそうだったが、11年前のあの出来事が映画の主題となる、しかもかなりリアルにあの時の出来事を思い起こさせる仕掛けになっているのは、そろそろ、そういうことを映画としてとりあげてもよいだろう、という時期になったということなのだろうか。しかし、あの出来事に巻き込まれた当事者たちにとっては、まだちゃんと向き合うことができないのではないかと、なかなか複雑な気持ちになる。

おっと、あやうくネタバレしそうになった。関係ない話を書こう。

全然知らないある人のツイートで、「2人がフェリーに乗り込むところは『転校生』のオマージュ、愛媛の道路で大量のみかんが転がってくるところは『天国にいちばん近い島』のオマージュだろう。やっぱり新海誠監督は大林映画が大好き」とあるのを見つけ、なるほどそうだ、と思った。

そういえば、『天国にいちばん近い島』にそんな場面があったな、と思い出して見返してみると、ミカンではなく、大量の椰子の実がトラックから転がってくる場面があって、なるほどそっくりだと思った。

そのことがきっかけになり、『天国にいちばん近い島』全編を見直してみたのだが、同じ原田知世主演作品でも、ぼくはあの名作『時をかける少女』よりも『天国にいちばん近い島』のほうが好きかも知れない。映画全体が、劇伴を含めて古きよきハリウッド映画へのオマージュになっていて、たぶんこれは大林監督の完全な趣味だろう。脇を固める赤座美代子、泉谷しげる、乙羽信子、小林稔侍、松尾嘉代、峰岸徹、室田日出男といった俳優陣の演技もすばらしい。

剣持亘の脚本もすばらしい。剣持亘は尾道三部作の脚本などを手がけているが、どうも寡作の人だったようで、大林映画の脚本をもっと書いてもらいたかったと思う。

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エンドロール

11月24日(木)

イベントの準備がのっぴきならない状況になり、気持ちが殺伐としてきている。こういうときこそ、心に余裕を持たなければならない。

昨日の祝日は、4歳の娘と二人で終日いっしょに過ごしたのだが、そういうときは、映画館に映画を観に行けば有意義に過ごすことができる。

いまだったら、さしずめ新海誠監督の『すずめの戸締まり』なのだろうが、バカみたいに混んでいる。猫も杓子も、というやつである。

こうなったら観てやるもんか!と思っていたところ、ちょうどこの日、ディズニーアニメの『ストレンジワールド』の封切り日だったので、そちらを観に行くことにした。

映画の感想は措くとして、僕が注目したのは、最後のエンドロールの部分である。

どんだけの人数で作ってるんだよ!と言いたくなるくらい、長いエンドロールである。

これが日本映画だったら、この半分くらいの人数じゃなかろうか。誰か、エンドロールに出てくる映画にかかわった人の人数の日米比較をやってくれないかなあ。

いや、映画だけではなく、ドラマならどうだろう?

日米比較だけではない。日本の中でも、たとえば30年前のドラマにかかわった人の数と、いまのドラマにかかわっている人の数も、だいぶ違うんじゃなかろうか。予算が減らされている現在は、当然、限られた人数でドラマを制作しているはずである。

こんなことばかり最近気になっているのは、いま準備しているイベントで、実際に手を動かして準備しているイベントのスタッフは、わずか数名だからである。僕を含めて2,3名である、といってよい。もちろん、多くの人の協力はあるのだが、それをとりまとめる作業の負担が、思いのほか大きい。

そもそも世界的なマーケットを持ち、最高級のクオリティーで作られるディズニー映画と、こちらのひっそりしたイベントとは、くらべる方が間違っているのだが、せめてあと一人でも二人でも、下支えしてくれるスタッフがいれば、仕事はそれだけでもかなりの余裕ができるのにと、最近は映画のエンドロールを見るたびに、そんなことを思うのである。

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天間荘の三姉妹

11月3日(木)

文化の日。

午後、4歳になる娘とふたりで過ごさなければならない。そんなときは、困ったときの映画館である。

娘と観る映画は、最初はディズニーのアニメとか、そういったものだったが、最近は「さかなのこ」「耳をすませば(実写版)」と、だんだん難易度が上がっている。今回選んだのは、さらにその上をいく難易度である。

北村龍平監督の『天間荘の三姉妹』である。上映時間は2時間30分。さかなのこの2時間19分をさらに上回る上映時間なので、娘の集中力が途切れないか心配である。実際、2時間ほど経った頃に「パパ、おしっこ!」と言ってきたが、エンドクレジットまで我慢してもらった。

それでも、この映画を選んだのは、「さかなのこ」に主演していたのんさんが出演しているということ、人間関係の設定が、娘が好きな是枝裕和監督の「海街diary」と同じような感じに思えたという2点からである。娘の入り込みやすい映画ではないかとふんだのである。しかし実際は、さすがに4歳の娘には難しい映画のようであった(最後まで飽きずに観てはいたが)。

なんの予備知識も入れずに見始めると、なるほど、そういうことかと、だんだん状況が飲み込めてくる。大人がそう思うくらいだから、ましてや4歳の娘には難解に思えたはずである。観た後で、どんな内容の映画だった?と聞くと、その内容を説明できなかった。そりゃそうだわな。

僕の個人的感想を言うと、最初の導入こそ、是枝裕和監督の「海街diary」の設定を思わせるが、内容的には、大林宣彦監督の「あした」「異人たちとの夏」と、構造がほぼ同じである。とくに「あした」を思い起こさずにはいられなかった。

もうひとつ、最後に、家族写真を撮るというシーンがあるのだが、そこでみんながカメラに向かって見せる指サインは、ピースサインではなく、晩年の大林監督が好んだ「I Love You」の指サインだった。

ここまでくると、この映画は、大林宣彦監督作品へのオマージュなのではないか、と妄想を膨らませたくなる。もちろん、製作者側はたぶんぜんぜんそんなことを意識していないと思うけれど。

ある種の人々にとっては、辛い思い出を喚起する映画だとも思うので、鑑賞には少し注意が必要かもしれない。

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20世紀劇としての「耳をすませば」

10月2日(日)

いま公開中の映画、『耳をすませば』(実写版)を、4歳7か月の娘と二人で観てきた。

4歳の娘には難しい内容かな、と思ったのだが、つい最近、ジブリアニメ版の『耳をすませば』が放送され、その録画を娘が何度かくり返し観ていたので、娘も抵抗なく観てくれるだろうと思ったのである。僕はジブリ映画全般にそれほどの思い入れがないから、一人だったらまず観に行かなかっただろうと思う。

同名の原作漫画が発表されたのが1989年で(ちなみに僕は原作漫画は未読である)、ジブリアニメ版は1995年に公開されている。今回の実写版は、その10年後の物語ということで1998年という時代設定なので、ジブリアニメ版は、原作が書かれた1989年頃の時代設定だったということか。

今回の実写版では、10年前の回想シーンが幾度となくあらわれ、ジブリアニメ版を観ていると、それがどういう場面だったかを思い出すことができる。つまり、ジブリアニメ版を観てから実写版を観た方が、より楽しめるということである。

驚いたのは、隣で観ていた4歳の娘である。ある回想場面で、娘は僕に耳打ちした。

「このあと、指切りげんまんをやるよね」

僕はジブリアニメ版の細かい場面描写をあまり覚えていなかったので、本当にそうかなあと思って観ていると、その言葉通りほんとうにその回想場面の最後で指切りげんまんをしていた。ジブリアニメ版を何度かくり返し観ていた娘は、実写版の回想場面がアニメ版のどの場面にあたるかを、しっかりと覚えていたらしい。まったく、娘の記憶力のよさにはいつも驚かされる。

僕は、この原作やアニメ版の熱烈なファンというわけではないので、今回の実写版と、原作やアニメ版との細部の違いにひとつひとついきり立つようなこともなく観ることができた。印象としては、キャスティングがどれも見事にハマっていて、脇を固める人に至るまで行き届いているキャスティングだと感じた。

ただ、この映画を観る上で、注意が必要だと思う点が一つあった。それは、時代設定が1998年ということである。「10年後の物語」とはいっても、設定は決して現在ではなく、四半世紀近く前なのである。当然、映画の観客はそれを前提として観ていると思われるので、いまさら指摘するまでもない。

映画の中では、携帯電話もパソコンも出てこない。実際、1998年は携帯電話やパソコンがそれほど普及していなかったことは事実である。そればかりではなく、たとえば会社の事務室でたばこは吸い放題だし、「パワハラ」という言葉もなかった。

いまだったら、そういったことの一つ一つに強烈な違和感を抱くだろう。本来ならば、

「編集長、いまのその言葉、パワハラですよ」

という台詞が出てきてもおかしくない場面で、部下は上司に罵倒されっぱなしである。鍋料理を囲んでいるとき、女性が男性に対してあたりまえのように小鉢に取り分ける場面も、いまならば違和感を抱くしぐさである。しかし映画では、女性がそれをあたりまえのようにして、男性がそれをあたりまえのように受け入れている。

実際のところ、1990年代頃はそんな時代だったのだ。その頃を知らない人が見たら、演出に違和感を抱くかもしれないが、時代のリアリティーを重視するならば、その演出は正解なのである。

僕がいちばん違和感を抱いたのは、いちばん最後、つまりラストシーンである。感動的なハッピーエンドでこの映画が終わるのだが、いま、この「アップデートされた時代」にどうにかついて行っている僕からすると、

「そんな終わらせ方でいいの?」

という疑問がどうしても残ってしまった。しかしそれも冷静に考えれば、1998年だったらこの結末が最高のハッピーエンドとして受け入れられたのだろう、ということはよくわかる。演出側はあえてその当時の価値観をリアリティーをもって示したかったのだろう。

つまり何が言いたいかというと、この映画は「20世紀劇」として観る映画であり、演出側の意図も徹頭徹尾その点にあったのではないか、ということなのである。

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さかなのこ

10月9日(日)

4歳6か月の娘と二人で、沖田修一監督の『さかなのこ』を観に行く。

あとで気づいたんだが、『南極料理人』と同じ監督だったのね。

あらかじめ得た情報だと、上映時間が2時間19分もあるということで、4歳の娘は集中力が持つだろうかと心配だったが、『南極料理人』と同じ監督だから、きっと気に入るに違いない、という方に賭けた。

この映画は、さかなクンの自伝をもとにした映画である。僕は常々さかなクンを尊敬しているし、それをのんさんが演じるというだけで、もう観るしかない映画である。

映画の中では、のんさん演じる魚好きの主人公は「ミー坊」と呼ばれている。そしてさかなクン本人も映画の中に「ギョギョおじさん」として登場し、ミー坊に「おさかな愛」を伝授する。こうして虚実皮膜のうちに、物語が進んでいくのだが、ひとつ、さかなクンの登場場面で僕にとっては衝撃的なシーンが一瞬あらわれるのだが、そこが衝撃的であるがゆえに、その場面はとくにグッときた。

進学した高校には、いわゆる不良生徒たちがいて、「総長」だの「赤鬼」だの「青鬼」だの「カミソリ」だの「狂犬」だのと、やたら威勢のいい集団が出てくるのだが、根はみんないいヤツである。さかなクンは、僕よりも下の世代だが、まだ「不良」とか「ツッパリ」が学校に跋扈していた時代だったのだろう。僕の中学時代にも、やれ総番だの裏番だのといったツッパリ連中が学校で幅をきかせていたが、根っからの悪ではなく、総じて気のいい連中だった。僕は生徒会長をやりながらも、なぜか彼らに気に入られていたので、さかなクンと不良連中との交流のシーンは、懐かしい思いで観ることができた。

劇中に「普通って何?ミー坊、よくわからない」というセリフがあり、これがこの映画のキモである。それをのんさんを通したセリフで聞くと、ほんとうにハッとさせられる。

音楽は僕の大好きなパスカルズだった。大林宣彦監督の映画『野のなななのか』の主題曲を担当したことがきっかけになってその存在を知り、それ以来、ファンになっている。

映画の途中、娘は小声で、「おもしろい」と言ってくれたが、僕に気を遣って言ってくれたのかもしれない。それでも2時間19分、娘の集中力はほとんど途切れることはなかった。

次は、「ギョギョおじさん」こと、さかなクン本人の出演番組を娘に見せてやろう。

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最強のスピンオフ映画

7月10日(日)

朝、投票に行ったあと、4歳3か月の娘を連れて映画を観に行く。

観に行った映画は、ディズニー・ピクサー映画の「バズ・ライトイヤー」である。

バス・ライトイヤーは、「トイ・ストーリー」シリーズに出てくる架空のおもちゃのひとつだが、映画の中ではメイン・キャラクターであるカウボーイの「ウッディ」の脇を固める。

つまりこのたびの「バズ・ライトイヤー」は、いわばスピン・オフ映画ということになるのだが、スピンオフ映画というと、なんとなく「面白くない」というイメージがあった。とくに日本の刑事ドラマの「劇場版」なんかでは、主役ではなく、脇役が主演をするスピンオフ映画がけっこう作られてきたと思うが、あまりおもしろいと思った印象がない。

なので、僕自身はあまり期待していなかったのだが、なにしろ娘は「トイ・ストーリー」のファンなので、娘が喜ぶだろうと思い、内緒で、「バズ・ライトイヤー」を観に行くことを計画したのである。

ところが娘は、

「大泉さんの映画泥棒の映画がみた~い」

という。何のことかわからなかったのだが、数日前に、ある民放のバラエティー番組の中で、映画の直前にスクリーンに流れる「NO MORE 映画泥棒」の映像が怖くて、映画館で映画を観ることができない、という若いタレントの悩みに、大泉洋さんが、実際に「映画泥棒」のキャラクターを連れてきて、その若いタレントと仲良くさせることで、「映画泥棒」へのアレルギーを解消させる、といった内容が放送されていて、それを観た娘が、「映画泥棒の映画を観たい」と思ったようである。

なんともわかりにくい説明ですみません。

「じゃあ、映画泥棒の映画を観に行こうか」

「やった~!」

と、娘を誘って、「バズ・ライトイヤー」を観に行くことにしたのである。

で、肝心の「映画泥棒」は、映画の直前に、数十秒流れただけで終わり。娘は、これが映画の本編だと思ったらしく、

「え?これだけ?」

と狐につままれたような表情をした。

すると、おもむろに、「バズ・ライトイヤー」が始まった。ここからが本番である。

…ということで、前置きが長くなった。

期待せずに見始めたのだが、これがすげーおもしろかった!

スターウォーズのような世界観の映画である。

「トイ・ストーリー2」の中で、バズ・ライトイヤーは敵である「ザーグ」とちょっとした対決をするのだが、そこでザーグがバズの父親であることがわかり、バズがショックを受けるというシーンがある。この設定は、明らかに「スターウォーズ」へのオマージュである。

つまり「トイ・ストーリー2」からわかる設定は、

「バズの敵はザーグであり、そのザーグはバズの父親である」

ということのみなのであるが、この映画では、その設定を見事に回収している。回収するばかりか、そこからひとひねり、物語を転がしていくのである。

無敵のバズを支える、頼りない仲間たちもすばらしい。

会社でたとえたら、「こんなヤツ、使えねえよ」という連中ばかりで、バズにとっては足手まといになるばかりなのだが、行動を共にするにつれ、次第にこの仲間たちがかけがえのない存在になっていく。この世の中に、必要でない人など、だれひとりいないのだ、という気にさせてくれる。

それと、LBGTQ+についてごく自然に描いているのもこの映画の特徴である。

というわけで、あっという間の2時間弱であった。

終わったあと、娘に感想を聞いたら、

「おもしろかったけど、ちょっと怖かった」

と言っていた。たしかに、大人でも怖いと思う場面はいくつかあったし、劇場では泣いている子どももいた。しかし一方で、コメディー的要素も強い映画である。

敵が迫ってくるというのに、ポンコツロボットが、どうでもいい説明を延々と喋ってバズたちが足止めを食らう場面では、後ろにいた子どもが、

「おまえは喋るな!」

と、ツッコミを入れていて、それがたまらなく可笑しかった。

娘にどんなところがおもしろかった?と質問すると、どうでもいい場面をよく覚えていて、それを細かく説明していた。

大人はついストーリーを追ってしまいがちだが、子どもはそれよりも、自分にとって印象的な場面こそがその映画のポイントなのかもしれない。

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ベイビー・ブローカー

7月1日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

今週は異常な暑さに加え、投薬期間が重なったせいか、思いのほか副作用が強くてしんどかった。こういうときに限って、金曜日の夕方に「肉体労働」が入っていて、異常な量の汗をかきながら作業をした。一緒に作業していた人たちは、かなり引いていたことだろう。

今週のある日、ちょっと仕事から逃避したいと思い、映画を観に行った。是枝裕和監督の「ベイビーブローカー」である。じつは「アシタノカレッジ金曜日」のゲストが是枝監督と聞いて、予習をするつもりで観に行ったのである。もちろん、僕が10年以上前からの大ファンであるソン・ガンホを見たいというのも、大きな理由の一つである。

感想を書くとネタバレになりそうなので書きにくいが、この映画の中で、「正義」が逆転する瞬間があり、それがとてもよかった。あたりまえのことだが、自分にとって「正義」だと思っていることが、いつの間にか自分の思う「正義」とはかけ離れてしまうことがある。そこに気づかない人がほとんどなのかも知れないが、この映画では、そこに気づく瞬間があるのだ。武田砂鉄氏は「あの場面は見事でした」と言っていたが、僕もその通りだと思った。

「善意」と「悪意」が入り交じったソン・ガンホの演技はやはりすばらしい。ラジオで是枝監督は、あの役はソン・ガンホの当て書きだと言っていたが、たしかにソン・ガンホのよさが存分に発揮された役だった。というか、この映画は、主要な俳優をキャスティングしたあとの当て書きではないか、と思えてならない。

ソン・ガンホのセリフは、役の設定の関係からか、やや慶尚道訛りが入っているように思えたが、それでも、彼の韓国語はほんとうに聞きやすい。それは、僕がソン・ガンホ「推し」だからかも知れないが、もともと彼の韓国語は、荒っぽい口調でセリフを言っているときでも、不快にならない聞きやすさなのだ。そのあたりは、ソン・ガンホと渥美清はよく似ていると僕が感じる理由の一つである。

トークの後半では、映画界改革の話だった。パワハラのない撮影現場、労働環境の改善など、海外で作られているガイドラインを読み込み、この国の映画界の旧態依然とした意識をどのように変えていくかを思案していた。もちろんそれは自分の撮影現場にもふりかかってくる。海外のガイドラインと照らし合わせると、自分の現場にもまだ不十分なところが多すぎる。だからこの国でも早急にガイドラインを作らなければならない、と。

印象的だったのは、自分の過去の作品をふり返り、あれは間違ってました、と率直に認めていたこと。「そして父になる」における、父性や母性を所与のものとしていた偏見への反省が、今回の作品のテーマに向かわせた動機の一つであるとも語っていた。

是枝監督は、以前の取材で、「日本の映画界にはいつも絶望していますよ」と答えていたが、それでも希望を持つことをやめないことは、僕の残りの人生への羅針盤である。とりあえず、「怒鳴らない生き方」は貫き通そうと思う。

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