映画・テレビ

ベイビー・ブローカー

7月1日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

今週は異常な暑さに加え、投薬期間が重なったせいか、思いのほか副作用が強くてしんどかった。こういうときに限って、金曜日の夕方に「肉体労働」が入っていて、異常な量の汗をかきながら作業をした。一緒に作業していた人たちは、かなり引いていたことだろう。

今週のある日、ちょっと仕事から逃避したいと思い、映画を観に行った。是枝裕和監督の「ベイビーブローカー」である。じつは「アシタノカレッジ金曜日」のゲストが是枝監督と聞いて、予習をするつもりで観に行ったのである。もちろん、僕が10年以上前からの大ファンであるソン・ガンホを見たいというのも、大きな理由の一つである。

感想を書くとネタバレになりそうなので書きにくいが、この映画の中で、「正義」が逆転する瞬間があり、それがとてもよかった。あたりまえのことだが、自分にとって「正義」だと思っていることが、いつの間にか自分の思う「正義」とはかけ離れてしまうことがある。そこに気づかない人がほとんどなのかも知れないが、この映画では、そこに気づく瞬間があるのだ。武田砂鉄氏は「あの場面は見事でした」と言っていたが、僕もその通りだと思った。

「善意」と「悪意」が入り交じったソン・ガンホの演技はやはりすばらしい。ラジオで是枝監督は、あの役はソン・ガンホの当て書きだと言っていたが、たしかにソン・ガンホのよさが存分に発揮された役だった。というか、この映画は、主要な俳優をキャスティングしたあとの当て書きではないか、と思えてならない。

ソン・ガンホのセリフは、役の設定の関係からか、やや慶尚道訛りが入っているように思えたが、それでも、彼の韓国語はほんとうに聞きやすい。それは、僕がソン・ガンホ「推し」だからかも知れないが、もともと彼の韓国語は、荒っぽい口調でセリフを言っているときでも、不快にならない聞きやすさなのだ。そのあたりは、ソン・ガンホと渥美清はよく似ていると僕が感じる理由の一つである。

トークの後半では、映画界改革の話だった。パワハラのない撮影現場、労働環境の改善など、海外で作られているガイドラインを読み込み、この国の映画界の旧態依然とした意識をどのように変えていくかを思案していた。もちろんそれは自分の撮影現場にもふりかかってくる。海外のガイドラインと照らし合わせると、自分の現場にもまだ不十分なところが多すぎる。だからこの国でも早急にガイドラインを作らなければならない、と。

印象的だったのは、自分の過去の作品をふり返り、あれは間違ってました、と率直に認めていたこと。「そして父になる」における、父性や母性を所与のものとしていた偏見への反省が、今回の作品のテーマに向かわせた動機の一つであるとも語っていた。

是枝監督は、以前の取材で、「日本の映画界にはいつも絶望していますよ」と答えていたが、それでも希望を持つことをやめないことは、僕の残りの人生への羅針盤である。とりあえず、「怒鳴らない生き方」は貫き通そうと思う。

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ニコマコス倫理学

5月30日(月)

午前中にふたつのオンライン会議、それが終わってすぐに都内に移動して、3時間近くの打合せをした。予定が立て込んだせいか、帰宅後は動けなくなる。以前ならなんともなかったのだろうけれど、やはり無理がきかなくなってきている。

たまたま見た「100分で名著」で、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終回が放送されていた。朗読は小林聡美。

テーマは「友愛」で、アリストテレスによれば、「友愛」には3つの形があるという。

一つめは、「人柄の善さに基づいた友愛」、二つめは「有用性に基づいた友愛」、三つめは「快楽に基づいた友愛」。

二つめの「有用性に基づいた友愛」とは、たとえば、学生時代、授業のノートを貸してくれたり、試験勉強を教えてくれたりする友だち。三つめの「快楽に基づいた友愛」とは、一緒にいて心地よい友だち。カラオケに行ってバカ騒ぎしたりする友だち。あるいは飲み友だち、等。

二つめについては、有用性がなくなると、関係は疎遠になるし、三つめについては、大人になったり、趣味が変わったりする過程で、やはり関係が疎遠になる。一つめの「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、有用な友だちでも、快い友だちでもないのだが、お互いの人柄を尊重し、長続きできる友だち。しかし一つめの友だちを獲得するためには、お互いの人柄を理解しなければならない時間が必要である。

聞き手の伊集院光氏は、得意の漫才コンビとか野球チームなどにたとえて、この分類を理解していたが、おもしろかったのは落語のたとえである。いわく、

落語に登場する「与太郎」は、みんなで一緒に行動しても、まったく役には立たないし、よくポカもする。ではみんなにとって必要のない存在なのかというと、そうではない。与太郎がいると、空気が和み、まわりが安心し、何か困ったことがあったときも、与太郎の人柄でなんとかなる場合もある。「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、与太郎のような存在なのではないか。しかし、いまの世の中で、組織の中でリストラが行われるとしたら、まっ先にその対象となるのが与太郎のような存在なのではないだろうか。そうなるとその組織はギスギスする。

…と、こんな内容だったと思う。

以前もこんなこと、たしかブログに書いたよなあと思って過去をたどってみたら、

マネージャーのキクチさん

というタイトルで書いていた。

だから、アリストテレスの友愛論は、僕にとってしっくりきたのだ。

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ネタバレ注意

やるべきことが多すぎて、途方に暮れる毎日である。したがって、ただひたすら雑用に追われ、何も書くことがない。

映画「シン・ウルトラマン」のパンフレットを買ったら、パンフレットに帯がかかっていて、「ネタバレ注意」と赤字で大書されていた。

これは、どう解釈すればいいのだろう?

昨今、テレビやラジオでは、映画評論家が「ネタバレ」しないように、注意深く映画の紹介をする風潮がある。そういう風潮からすると、「ネタバレ」は歓迎されないこととしてとらえられているように思える。実際、僕の妻も、「ネタバレ」をひどく嫌う。

しかし一方で、こんな見方もできる。

世の風潮として、ネタバレを嫌うのが主流だったとしたら、わざわざパンフレットを帯で封印して「ネタバレ注意」とは書かないのではないか?映画よりも先に。パンフレットを見ちゃう人が多いから、「あらかじめパンフレットを見ちゃったら、映画の面白さが半減しますよ」と、ともすればネタバレを歓迎する人たちへの、映画を提供する側からのメッセージととらえることができる。

どっちなのだろう?

今週の月曜日、荻上チキさんの代打として武田砂鉄さんがパーソナリティーをつとめたTBSラジオ「Session」の「メインセッション」のコーナーは、「映画を早送りで見ますか? サブスク時代のコンテンツ消費がもたらす現状と課題」という特集で、ライターの稲田豊史さんがゲストだった。聴いていてなかなか面白かった。

最近は、わかりにくさを好まない。映画の中で、結局だれが善人で、だれが悪人なのか、といった正解を求めようとする。結論がわからなければ、安心して映画を観られない。本来ならば、映画に対する感想は千差万別であるはずなのに、それが許されない風潮、「共感」することをよしとする風潮がある、等々。

そういう昨今の風潮からすると、結論が見えないことほど不安なことはなく、ネタバレには抵抗がなくなっているのではないか?「ネタバレ注意」を求めているのは、観る側ではなく、提供する側なのではないか?

パンフレットに巻かれた帯に書かれた「ネタバレ注意」の赤字を見て、そんなことを感じたのである。

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あるある映画

5月18日(水)

どうしても見なければならない映画があった。

それは、いま話題になっている、あるドキュメンタリー映画である。観るとしたら今日しかない、と思い、近所の映画館に赴く。地味な映画ながら、サービスデーだったこともあって、ほぼ満席だった。

もともと2017年にテレビ局のドキュメンタリー番組として放送されたものを、その後の経過を追加撮影、再編集して劇場用映画にしたものである。

テレビ放送された2017年当時よりも、この国の状況はさらに悪化していることがうかがえた。

なぜ、この映画をどうしても見なければならないと思ったかというと、僕自身が、このテーマに関わる、当事者の1人であったからである。

ここ数年、とくに昨年、僕が実際に体験し、目の当たりにしたことが、映画の中で手に取るよう立ち現れてくる。僕にとっては、あるあるネタ満載の映画だったのである。

こんな損な仕事は、今後、誰も引き受けなくなるのではないだろうか、とさえ思われたが、だからといって、こっちが身を引いてしまうと、やりたがる人間の天下になってしまう。それだけは、阻止しなければならない。結果的に、引き受けてよかった。

この映画の監督は、ここ最近、ラジオ番組や動画配信サイト番組での対談に引っ張りだこである。終始、明るい声で、なにより、めげない性格がすばらしい。本人はそうとうたいへんだったと思うが、それでも心が折れなかったのは、精神的にタフであるとしかいいようがない。

映画の登場人物の中で、この人を俳優の柄本明に演じさせたら最高だろう、と思いたくなる人が出ていた。僕とまったく縁のない人というわけではないのだが、その人の発言が、滑稽で、悲しく、そして恐ろしく、僕は複雑な気持ちになった。以前に見た映画『主戦場』でも同じことを感じたが、ああいうことをカメラの前で無邪気に語ることができる心理構造というのは、どうなっているのだろうと不思議でならない。想田和弘監督の映画『選挙』しかり、「あの種の人たち」は、なぜか無邪気に語りたがる。

こんなことが書けるのも、僕が数年かけて体験したことどもが、万事解決して、情報解禁されたからである。でもその仕事の代表者は、「無事に、というよりも、満身創痍で解決した」と言っていた。僕は末席に連なっただけだが、前線に立った人たちには計り知れない苦労があったのだろう。映画を観ながら、前線に立った人たちの苦労を重ね合わせた。

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シン・ウルトマラン

5月15日(日)

今日は4歳の娘と二人で過ごす日である。こういうときは、映画館に連れていって映画を観ることにしている。

前回は「シング ネクストステージ」だったが、今回は、封切りしたばかりの映画「シン・ウルトラマン」一択である。

「『シン・ウルトラマン』をみせても、理解できないんじゃないの?」

と、家族には言われたが、僕が観たいんだから仕方がない。

少し前に、NHKのBSPで放送されていた『ウルトラセブン 4Kリマスター版』を毎週観ていて、そのときに娘も一緒になって観ていたので、いちおう、ウルトラセブンが怪獣と戦うというコンセプトについては、下地はあるのである。

あと、以前「光の国との姉妹都市」に仕事に行ったときに、お土産にウルトラマンの表紙デザインのノートだったかを買ってきたので、いちおうウルトラセブンだけでなく、ウルトラマンに対する認識もある。ただし、「ウルトラマン」とは言えずに、「ウルトマラン」と言ってしまう。また、ウルトラセブンとウルトラマンの区別がついているかどうかは、よくわからない。

しかし、現在上映中の映画から選ぶとすれば、どう考えても『シン・ウルトラマン』しか考えられないのである。

子どもの頃、父に映画館に連れられて、映画を見に行った。当時、「東映まんがまつり」という子ども向けのプログラムが上映されていた。ただ僕は、どちらかというと、東宝系の「東宝チャンピオンまつり」のほうが好きで、そこでよくゴジラの映画をスクリーンで観たのだった。

父は、ことさら映画が好きというわけではなかったので、おそらく僕が観たいと希望して、連れていってもらったのだと思う。僕は父に連れられて映画館で映画を観るというのが楽しみだったから、せめて僕も、娘に同じ思いを味わわせてあげたいと思っている。それに、「映画の学校の良い生徒になる」というのは、大林宣彦監督が僕の娘に託した「遺言」でもあるので、その「遺言」も、守らなければならない。

さて、『シン・ウルトラマン』は、冒頭のタイトルのところから、東宝映画や、テレビのウルトラマンシリーズへのオマージュにあふれていた。この点は、『シン・ゴジラ』を初めて観たときの印象と同じである。

今回観てすごいなと思ったことのひとつは、前回の『シン・ゴジラ』に出演した主要キャストと、今回の主要キャストが、ほとんど重なっていないということである。総入れ替えと言ってもいい。今回主演をつとめる斎藤工は、『シン・ゴジラ』のときに自衛隊の第1戦車中隊長役で、一瞬だけ出演している。劇場で観たときに、「あれ、いまの斎藤工じゃね?」と気づいたていどの「チョイ役」であった。

あと、竹野内豊も『シン・ゴジラ』に続いての出演である。役柄は、『シン・ゴジラ』のときと同じようにも思えたが、定かではない。気がついたのは、それくらいである。

ものすごく大雑把に言えば、長谷川博己(シン・ゴジラ)が西島秀俊(シン・ウルトラマン)にあたり、石原さとみ(シン・ゴジラ)が、長澤まさみ(シン・ウルトラマン)にあたり、市川実日子(シン・ゴジラ)が早島あかり(シン・ウルトラマン)にあたり、高橋一生(シン・ゴジラ)が有岡大貴(シン・ウルトラマン)にあたる、といった感じかなぁ。

あと、「禍特対」の班長(西島秀俊)の上司の室長役が田中哲司なのだが、この俳優は、映画やドラマでやたらといろんな「室長」役をやっているような気がする。きっと「室長顔」なのだろう。

総理大臣を始めとする各大臣役も、『シン・ゴジラ』と重なるところがひとつもない。

『シン・ゴジラ』に引き続き、『シン・ウルトラマン』は、庵野脚本の特徴としてあいかわらず情報量が多い。もちろんそれ自体は好きなのだが、人類とゴジラという二項対立的な構造だった『シン・ゴジラ』は、メタファーとしては比較的わかりやすかったと思う一方、『シン・ウルトラマン』の場合は、怪獣のほかに、ウルトラマンや他の「外星人」など、かなり複雑な構造をもっているので、およそ4歳児には理解できないものだっただろう。僕でも、何度か見直してみないとわからないところがある。

しかしそれでもいいのだ。映画を見終わったあとに娘に聞くと、斎藤工の顔写真を指して、「この人が新しいウルトラマン」と言ってみたり、山本耕史の顔写真を指して、「この人が指を鳴らすと、思い通りのことが起こる」とか、断片的には正確な理解をしていた。それだけで十分である。

テレビシリーズのウルトラマンのいくつかのエピソードが下敷きになっていて、それを庵野流に新解釈した、といった内容で、テレビシリーズを観ていた世代にも楽しめる。しかもそのエピソードはいずれも、金城哲夫の脚本のものばかりなのは、たんなる偶然だろうか。

エンドクレジットのところで、「ウルトラマンCG原型モデル」と「モーションアクションアクター」として「古谷敏」の名前があったのは感慨深かった。

ひとつだけ欲を言えば、マムシさんに出演してもらいたかった。

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君は映写室派?

4月29日(金)

「すべての人間は、3種類に分けられる。観客席派と、キャメラ派と、映写室派だ!」

これ、僕のオリジナルの名言ね。というのは嘘で、前に書いたように、もともとは大林監督が、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のパンフレットに寄せたエッセイに出てくる言葉であり、それを僕が「スウィングガールズ」ふうに言い直しただけである。

このエッセイがあまりにも自分の文体に影響を与えたので、そのことを、以前大林宣彦監督にインタビューしたときに、このパンフレットをお見せして、「僕はこのエッセイに影響を受けたんです」と直接お伝えしたところ、

「そんなの書いたっけ?ちょっとコピーさせて」

と言われた、というエピソードも、以前書いた

祝日である今日の午前中は、4歳の娘と二人で過ごさなければならない。以前、映画『おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出』を映画館に観に行ったことを思い出し、映画に連れて行こうと思い立つ。

上映中の数ある映画のうち、迷わず『シング ネクストステージ』を観に行くことにした。前作の『シング』は僕も好きな映画だし、最近娘も、テレビで放送された『シング』を、くり返し観ている。

『シング』は、エンターテインメントを愛するすべての人たちに対する、応援歌であり、賛歌である。コロナ禍の中で、不要不急と蔑まれ続けたエンターテインメントこそが生きる糧なのだと、何度でも教えてくれる。

『シング ネクストステージ』は、おもしろかった前作をさらに越える内容で、久しぶりに大画面のスクリーンを前に、心が揺さぶられるというのはこういうことなのだと実感した。

娘も、スクリーンの「ジョニー」の歌う歌に合わせて、声を出して歌っていた。たぶん初めて聴いた歌なのだと思うが、それを即興で歌えることに驚くとともに、歌う衝動を抑えきれなくなるという映画の力に、あらためて感嘆したのである。

映画館の前から3列目に座ったのだが、娘はしきりに、後ろを向く。

「どうしたの?」

「たくさんお客さんがいるね」

「そうだね」

娘は、お客さんがどんな様子で映画を観ているのかを、確かめたかったらしい。

映画が終わり、エンドクレジットが流れると、娘はまた後ろの客席を振り返った。そして、映画館のいちばん後ろにある、光源に気がついた。

「あそこ、光ってるね。あの光が映画を映しているの?」

「そうだよ。あの光のおかげで、スクリーンに映画が映っているんだよ。不思議でしょう?」

「不思議だね…あ、光が消えた!」

「前を見てごらん。映画も消えたでしょう?」

「ほんとだ。消えた」

娘は、映画の内容を十分に楽しんだだけでなく、自分の後ろにいる観客の反応がどうなのか、そして、映画の光源にも、関心を持たずにはいられなかったようである。

僕は、大林監督が『ニュー・シネマ・パラダイス』のパンフレットに書いたエッセイの一節を思い出した。

「もちろんこの少年(注…この映画の主人公「トト」)も人並みに観客席に坐り、ムービー・キャメラを手にしたりもする。しかし観客席ではすぐに後ろをふり向いて映写窓の光源に映画の生命を見ようとする。映写装置こそが実存であり、スクリーンの上の映像は所詮、影なのだ。フィルムが途切れたりしたら、すぐに消滅してしまう。(中略)いわばリアリストとしての痛みを知っている。(後略)」

ひょっとして君は、映写室派なのか?

僕は4年前、大林監督にインタビューしたときに、生まれたばかりの娘にサインを下さいとお願いした。大林監督は、

映画(えいが)の学校(がっこう)の良(よ)い生徒で、賢(かしこ)く優(やさ)しく育(そだ)ちましょう」

と、淀川長治さんの「映画の学校」という言葉になぞらえて、書いてくださった。

今日は、その言葉を噛みしめた。

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ソロモンさん

いま、僕がイチ押しのYouTube配信チャンネルといえば、

そう、「とっち~ちゃんねる」である!!!

…あれ?ご存じない。

「とっちー」と言えば、俳優で劇用刺青師でおなじみの栩野幸知(とちのゆきとも)さんですよ!!

…まだピンとこない?2022年4月24日現在、チャンネル登録者数は218人である。

以前僕は、栩野幸知さんについて、このブログで書いたことがある。

この世界の片隅に

まさか、栩野幸知さんが、YouTube配信番組をもっているとは思わなかった!しかも、編集もかなりちゃんとしている。

番組では、映画で使用する小道具の作成過程を見せてくれたりするのだが、時折、ご自身が出演された映画の撮影秘話を話してくれて、これがめちゃくちゃおもしろい!!!

最初にこの番組を観たのは、大林宣彦監督の思い出を語った回だった。以前にも書いたように、栩野さんは、大林監督の映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988)に、劇用刺青師としてだけではなく、役者としても出演している。というか、もともと、いろいろな映画に出演されているのだ。大林映画だけでも、「おかしなふたり」のほかに、「異人たちとの夏」「野ゆき山ゆき海べゆき」「この空の花 長岡花火物語」などにも出演している。黒澤明監督の「影武者」とか、伊丹十三監督の「ミンボーの女」、片渕須直監督の「この世界の片隅に」などにも出演しているんだぞ!Wikipediaにはその辺の情報、ほとんど載っていないけどね。

この番組でおもしろいのは、黒澤明監督の映画「七人の侍」(1954年公開)について語った回だ。

七人の侍には、主役級の俳優のほか、いわゆる東宝の大部屋俳優も数多く出演している。もちろん僕は、画面にほんのわずかしか登場しない俳優のことは、むかしの映画だし、まったくわからないのだけれど、栩野さんは、まるで「生き字引」のように、抜群の記憶力で、東宝の大部屋俳優の一人ひとりのエピソードを紹介していく。まさに、野上照代さんに次ぐ「生き字引」である。

ひとり、栩野さんがどうしても好きな俳優がいた。いまでいう「推し」である。

その俳優は、名もなき野武士の役で、出演時間は一瞬なのだが、ヘンな芝居をする人で、他の人とは「半間はずれた」芝居をするので、強い印象を残したのだという。それを見て以来、その俳優のことが気になって気になって仕方がない。おそらく黒澤明監督も、撮影当時、その人の演技に、「う~む」と考えたあげく、「よし、オッケー」と、仕方なくオッケーカットにしたのではないかと、栩野さんは想像した。

後年、栩野さんが映画「影武者」のオーデションを受けたとき、黒澤監督に、

「どんな役をやりたいか?」

と聞かれて、

「『七人の侍』の…」

「七人のうち、誰だ?」

「いえ、主役の七人に憧れているのではありません。僕が憧れているのは、野武士役の人で、他の人より「半間はずれた」、ちょっとヘンな芝居をする人で、おそらく監督が困ったあげくオッケーを出したんだろうな、と想像される俳優です」

「野武士?…誰だろう?」

すると横にいた野上照代さん(黒澤映画の伝説的な記録係)が大笑いして、

「ソロモンさんですよ!」

と言うと、黒澤明監督は、

「ああ!ソロモンか!」

とそこで思い出した。

「ソロモンって、外人さんだったのですか?」

と栩野さんが聞くと、

「いや、広瀬正一だよ。ソロモン海戦の生き残りだから『ソロモン』と呼ばれていたんだ。そうかぁ、ソロモンに憧れていたと聞いたら、ソロモンのヤツ、喜ぶぞ」

と黒澤明監督は上機嫌になり、栩野さんはオーディションに合格したという。

広瀬正一は、本多猪四郎監督の映画「キングコング対ゴジラ」で、キングコングのスーツアクターをしていたという。

ところで、本多猪四郎監督の「ゴジラ」第一作は、1954年11月に公開されている。ちなみに「七人の侍」の公開は、1954年4月。栩野さんの話によれば、1954年3月の第五福竜丸のビキニ環礁での被ばく事件のあと、1954年の5月に「ゴジラ」の企画が持ち上がり、8月に撮影を開始して、11月に公開したという。

さて、そのゴジラのスーツアクターは、中島春雄である。この中島春雄も、映画「七人の侍」に斥候役で出演している。つまり、ゴジラになる前の中島春雄を見ることができるのだ。そして「七人の侍」では、「キングコング対ゴジラ」のスーツアクター同士が、すでに共演しているのである。

さて、Wikipediaの「広瀬正一」の項目によれば、「キングコング対ゴジラ」のラストシーンで、「キングコングとゴジラが共に海に見立てた大プールに落ちるシーンがあるのだが、「落下の勢いで中島春雄がゴジラに入ったまま溺死しかけたのを、キングコングに入っていた広瀬がとっさにすくい上げて九死に一生を得た」というエピソードがあるという。これもまたすごいエピソードだ。

さて、その「ソロモン」こと広瀬正一は、1971年に東宝の大部屋が廃止になったあとも、東宝の撮影所の用務員として撮影所に残り続け、ほそぼそと俳優を続けていたという。

で、栩野さんの話で僕が驚いたのは、このあとである。

広瀬正一さんの遺作は、大林宣彦監督の映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988)だという。地元のヤクザの親分の「浜の勝造」を演じたのが、広瀬正一さんだというのだ!!

えええぇぇぇっ!!!あの「浜の勝造」は、ソロモンさんだったのか!!!

…て、驚いているのは、俺だけ???というか、そもそも「おかしなふたり」じたいが超マイナーな映画で、たぶん誰も観たことがないだろう。

しかしこれはやはり驚きなのである。あの映画で、鮮烈な印象を残した「浜の勝造」は、ソロモンさんだったのか…(あまりに驚いたので2度言う)

この当時は撮影所の用務員さんだったが、たまたま声をかけられて出演したのだという。そもそもソロモンさんは電話をもたなかったので、実際に撮影所に行ってソロモンさんを見つけることでしか連絡を取ることができなかったのだそうだ。

その後、1990年代半ば頃に体調を崩し、老人ホームに入所するが、ほどなくして死去し、その正確な没年は不明だという。

…なんか、すごくない?ソロモン海戦から始まって、東宝の大部屋俳優、スーツアクター、撮影所の用務員を経て、最後、老人ホームで息絶えるまで、なんとも波乱の人生ではないか!この人が主人公の映画を作ってもいいくらいだ。こういう人たちが、黄金期の日本映画を支えていたんだね。

そしてその映画の歴史に対する敬意から、大林宣彦監督は、ソロモンさんを起用したのではないだろうか。

…て、当然この話わかってるよね、てな感じで書いているけれども、例によって誰にも通じないのだろうな。

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阿佐ヶ谷発

4月19日(火)

ちゃんと追っかけているわけではないが、最近は阿佐ヶ谷姉妹を観ない(聴かない)日はない、というほどの勢いである。

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」は、今週はスペシャルウィークということで、「大竹メインディッシュ」のゲストも豪華である。

阿佐ヶ谷姉妹がパートナーだった昨日(月曜日)のゲストは、作家の五木寛之だった。今日の通勤の車中で聴いた。

たまたま縁がなかったのか、五木寛之の小説は、いままで1冊も読んだことがない。映画「青春の門」を、2作品ほど観た程度である。しかし、本を読んだことがなくても、五木寛之の名前を知らない人はいないだろう。それはすごいことである。

で、恥ずかしながら、初めて五木寛之の語りをちゃんと聴いたのだが、語り口がとてもよい。まことにエラそうな言い方だが、表現の隅々に至るまで、配慮が行き届いていると感じたのである。

総じて、文筆家は喋りが上手である。よい文章を書く人は、よい語りをする。これは以前、NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が、何かの文章で書いていたと記憶する。

もっとも、「大竹メインディッシュ」にゲストに出てくる文筆家の中には、ちょっと下世話な物言いをしたり、ちょっと横柄な物言いをしたりしている人もいる。五木寛之の語りがそれとはまったく違う次元にあるのは、長い間ラジオに携わってきたからだろうな。それに、戦中戦後の過酷な体験もまた、その語りを裏打ちしているのだろう。

よいものを聴いたなあ。

夜遅くに帰って、今度は、昨日に録画したNHKの「阿佐ヶ谷アパートメント」の3回目を観た。

番組の後半の「初めての2人旅」というコーナーがおもしろい。今回は、ボディービル以外の世界を知らないという10代の若者・坂本さんが、視覚障害者の片岡さんと、1泊2日のキャンプ生活をする、という。

片岡さんが、めちゃめちゃおもしろかった。坂本さんが天然ボケをかますと、片岡さんがすかさずツッコミを入れる。

テントを組み立てるときに、わからない部品があると、坂本さんは片岡さんに、

「これ、何すかね?」

と聞くのだが、

「俺に聞くなよ!」

とツッコむ。このタイミングと言い方がすばらしい。片岡さんは芸人ではないけれど、ちょっと志村けんを連想するほどである。

そういう芸人がもっと現れてもいいんじゃないだろうか、と思ったりした。志村けん並みにおもしろい人が現れたら、全力で応援して、全力で笑おう。

よいものを観たなあ。

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オマージュ

忙しくて、あまり書くことがない。

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜の脚本による大河ドラマは、「新選組!」「真田丸」に続く3作目だが、3作目になると、さすがに洗練されてきて、過去2作より、どんどんおもしろくなっている、ような気がする。

第14回の「都の義仲」エンディングは、長澤まさみのナレーション、

「その夜、鎌倉は二つに割れた」

で締めくくられるが、僕はそのナレーションを聞いて、ニヤリとした。

ははぁん、これは、脚本家の早坂暁さんへのオマージュだな、と。

僕が小学生の頃、TBSテレビで放送された司馬遼太郞原作・早坂暁脚本のドラマ「関ヶ原」は、1981年の正月2日~4日の3日間にわたって放送された大型時代劇で、このブログでもたびたび書いているように、僕がいままで観た時代劇の中で、最高傑作である。

なにしろ、配役がすごい。これほど豪華な配役を迎えてのテレビの時代劇は、空前絶後であろう。

さてそのドラマの第二部、つまり二日目のエンディングは、燃えさかる炎をバックに、石坂浩二のナレーション、

「この日、日本は二つに割れた」

で締めくくられる。

第14回「都の義仲」のエンディングのナレーションは、「関ヶ原」を強く意識している、というか、そのままであることは疑いの余地はない。

三谷幸喜は、むかしから早坂暁の脚本に敬意を表していたので、おそらく、いつか自分もそのような場面を描くときに、オマージュとして同様のナレーションを使用したいと思っていたのではないだろうか。

前作「真田丸」で、関ヶ原の合戦シーンをあえて描かなかったのは、どうがんばっても早坂暁の「関ヶ原」を越える脚本にはならないと思っていたからではないか、と、いうのはうがち過ぎだろうか。

ちなみに「関ヶ原」第一部のエンディングは、

「この日、イギリスの都ロンドンでは、シェークスピアの『真夏の夜の夢』が上演されている」

というナレーションで締めくくられ、これがまた痺れるほど素晴らしい。

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コレナンデ商会

4月8日(金)

いろいろあったが、今週も無事、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着いた。

とくに書くことが思い浮かばない。

この4月は例年よりも、自分が気に入っていた番組(テレビ・ラジオ)が次々と終わってしまうとか、番組を「卒業」する人がいる、といったことが、とりわけ多いような気がしている。

NHKのEテレ「コレナンデ商会」が終了してしまったのも、その一つである。

毎日欠かさず観ていた、というわけではないけれど、非常にウェルメイドな番組だあと思って、楽しみに観ていたのに、どうして終わってしまったのだろう。

なんと言っても、放送作家の下山啓さんの構成と、塩谷哲さんの音楽がよかった。

塩谷哲さんは、僕の高校の2つ上の先輩で、同じ部活だったが、当時から伝説的な人だったので、まったくお話ししたことはない。ただ、僕が高1のときの定期演奏会で、当時高3だった塩谷哲さんが、ドラムを叩いていて、つまり一度だけ、僕は塩谷さんと同じ舞台に立ったことがあるのだが、僕のアルトサックスのソロがあまりにお粗末な出来だったので、苦笑されたことは覚えている。

塩谷さんは、たまに音楽室に来ると、ピアノを即興で演奏していた。「たんたんたぬきの♪」で始まる曲が、いつの間にかリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」のメロディーに変わっていたり、とかいった、ギャグ演奏みたいなことをして、後輩たちを驚かせていた。

「コレナンデ商会」の音楽も、いかにも塩谷さんらしい音楽だなあと思って、楽しみに聴いていた。

下山啓さんのほうは、実はよく知らなかったのだが、ある友人から「『カリキュラマシーン』の放送作家だった人ですよ」と聞いて驚いた。僕が子どものころに観ていた「カリキュラマシーン」の作家が、いまも現役で子ども向けの番組の構成作家をしていたのである。

調べてみたら、TBSテレビで放送されていた、ドリフターズが声優をつとめる人形劇「飛べ!孫悟空」の構成もしていたんだね。そう言われてみたら、「コレナンデ商会」に登場する人形たちのルーツは、「飛べ!孫悟空」にあるような気がする。それに主題歌の作詞もしていたんだね。

だから番組の中で流れる「下山啓作詞・塩谷哲作曲」の歌は、僕にとって最強の組み合わせなのだ。

川平慈英のエンターテイナーぶりも、とてもおしゃれだった。

こんな良質な子ども番組が、なぜ終わってしまったのか、腑に落ちない。

後継の新番組を、ちゃんと観ていないのだが、関西を拠点とする大手お笑い事務所の芸人が司会をする番組になってしまった。

番組を観ていないので、おもしろいのかどうかはわからないが、こうやってどんどん、子ども番組にもこのお笑い事務所の芸人が入り込んでいくのかと思うと、正直言って、ゲンナリしてしまう。

むかしはそうでもなかったのに、この事務所の芸人がなぜ苦手になったのだろう。

「アシタノカレッジ金曜日」で、武田砂鉄氏がたしかこんなことを言っていた。

「テレビで芸人さんたちが、同じ事務所の芸人同士の内輪話みたいなものを喋っているのを観ると、なんで俺がそんなことを知らなくっちゃならないんだ?という気になる」

ナンシー関のコラムをまとめた文庫の解説にも、「最近のテレビは業界内事情をちらつかせることが多い」といったことを書いていた。

僕がその大手事務所の芸人に対して抱いていた違和感は、それなのだなと得心がいったのである。

そういえば、ある配信番組で、ラランドという芸人(僕は実はネタを見たことがないのだけれど)が、

「関西を拠点とする大手お笑い事務所の芸人さんたちは、初対面のときに、しきりに『誰と同期?』と聞いてくるんですよ。ほかの事務所の芸人さんにはあまり聞かれないんですけどね」

というようなことを言っていた。つまり、上下関係とか派閥を意識し、同時にそれを視聴者や聴取者にも共有させようとする構造の中に置かれているのである。個々には好感が持てる芸人が数多くいても、その構造の中に彼らがいるということに気づかされたときに、僕はある幻滅を感じてしまうことを、告白しなければならない。

…て、俺はいったい何の話をしているのだ?つまり言いたいのは、「コレナンデ商会」は、そういったものとは対極にある番組だった、ということである。

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