映画・テレビ

名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)

4月14日(日)

4月12日(金)から、名探偵コナン劇場版最新作『100万ドルの五稜星(みちしるべ)』という映画が公開された。小1の娘はコナンが大好きで、当然レギュラー放送も欠かさず見ている。劇場版も、前作の『黒鉄の魚影(サブマリン)』から映画館で観ている。

今回も当然見に連れていかなければならない。日曜日に時間があったので、近所の映画館を検索すると、どの映画館も満席に近い状況である。

(こりゃあたいへんだ)

急いで劇場と上映時間を決めて予約した。

なにも封切りの2日後に見に行かずとも、少し間をおいたほうが余裕を持ってみられるんじゃねえの?と思うかもしれないが、思い立ったが吉日、という言葉もある。いつ見に行けるかの保証もないので、混んでいることを覚悟で映画館に行くことにした。

そしたらあーた、予想したとおり、というか予想以上の混雑ぶりである。あんなに映画館が激混みしているのを見るのは初めてである。

ポップコーン売り場は長蛇の列。わりとギリギリに到着したので、買う暇がない。せめて飲み物だけでも思ったが、並ばなければ買えないことには変わらず、これならばあらかじめ飲み物を買っておくべきだったと後悔した。

そのシネコンでは、コナンが複数のスクリーンで上映されていて、ほぼ30分おきに見ることができるようにプログラムを組んでいる。それにもかかわらず、というか、そのようにしたことでなおさら人が集まって来ちゃった、とこういうわけだ。

僕と娘が観た回も、満席だった。

さて内容だが、とても面白いということだけはわかった。娘も「とても面白かった」と言っていた。しかし、ストーリーが複雑で、展開もめまぐるしく、圧倒的な情報量の前に、1回で内容を完全に理解することができなかった。

テーマや設定が僕のものすごく好きなものだったが、その知識をもってしても、理解が追いつかない。

というのも、僕がコナンを見始めたのがここ1,2年なので、まずキャラクターが覚えられない。キャラクターに対する反射神経が鍛えられていないのである。

えっと…この人は、…あ、そうか、毛利小五郎さんの娘さんか!などと考えているうちに、画面はすでに次の展開に移っている。

もちろん、伏線とそれに対する回収もよくわかってカタルシスを十分に感じることができた。

あの高度な内容を小学生が面白がって観ていることは、未来にちょっと希望が持てる気がする。

映画を見終わった跡は、近くの公園に行った。その公園には大きなタコを形どった滑り台があるので、「タコ公園」と呼んでいる。

娘がタコの滑り台で遊んでいると、娘よりちょっと学年が上だと思われる女の子が、娘のことが気になったらしく、娘が滑り台を逆からよじ登る姿を見ながら、「頑張れ」と言った。その女の子も、滑り台を逆からのぼる遊びをしていたのである。

そのうちに、二人は心を通わすことになった。言葉はほとんど交わしていないのに、二人の間に友情が芽生えたのである。

ひとしきり遊びが終わると、その女の子が娘に言った。

「あのさあ、友だちになってくれない?」

「いいよ」

「わたしはねえ、○○小学校。あなたは?」

「となりの市の○○小学校」

友だちになるといっても、実際には距離が離れていて会うことなどできない。

「来週もこの公園に来るから、3時頃に。来てくれる?」

「いいよ」

なんと!娘は来週再会することを約束してしまった。おいおい、自宅からこの公園に来るのはけっこう遠いんだぜ!

お別れしてから、娘は僕に、

「来週もこの公園にぜったい来るからね」

と言ってきたが、困った。妻は出張で不在だし、僕は夕方にオンライン会議がある。どないする?

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泣きの演技

ドラマ「おっさんずラブ」(全9回)もいよいよ終盤である。

第8回の最後は感動的な場面だった。主人公の3人がそれぞれ泣く場面である。

3人いずれも、もらい泣きするレベルの迫真の演技で、感動したのだが、ちょっと気になることがあった。

田中圭さんと林遣都さんは、いずれも目から涙をこぼし、鼻水まで垂らして泣いている。

一方で、吉田剛太郎さんも声を上げて号泣する。感情が爆発する迫真の演技なのだが、涙が出ていない。といって、不自然な泣き方というわけではなく、観ている者の感情を揺さぶる泣き方なのである。

些細といえば些細な違いなのだが、この泣きの演技の違いはどういうことなのだろう?

思い浮かんだのは、演劇的な泣き方か、映像的な泣き方家の違いではないか、という仮説である。

吉田剛太郎さんは演劇の舞台出身の俳優で、ほかの2人はおもにテレビや映画などで活躍している。

吉田剛太郎さんは「舞台映え」する泣き方をし、一方ほかの二人は「映像映え」する泣き方をしたのではないだろうか。

「おっさんずラブ」じたい、舞台演劇のようなテイストのドラマなので、どちらの泣き方もまったく違和感がない。

ほんとうに些細なことで、だからどうなの?と言われれば返す言葉もない。

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おっさんずラブ

「おっさんずラブ リターンズ」を観たけれども、こんなに面白いドラマとは思わなかった。

いちおう「おっさん同士の恋愛ドラマ」というふれこみになっている。まあそういうことなのかもしれないが、恋愛とまではいかなくとも、かなり薄めた形ではあるがおっさん同士であのような場面に出くわすことがしばしばあるのではないかと思う。だから観ていて違和感を覚えないのだ。

Facebookで、ある「おっさん」と友だちになっている(ここでは「おっさん」という名称で統一する)。そのおっさんとは、数年前にある地方都市で仕事をした時に、アテンドしていただいた方である。車で少しばかり町を案内していただいたり、駅までの送り迎えなどをしていただき、その道中でさまざまなお話をしたのだった。その一度しか、お会いしていない。

その「おっさん」のFacebookで、その地方都市でイベントがおこなわれるという案内があり、僕の仕事とも関係するイベントだったので、何の気なしに「○○日にうかがいます」とコメントした。ちなみにその「おっさん」はそのイベントに直接関係していないのだが、さっそくダイレクトメールが来て、「○○日の自分の予定を確認しました。午前中は用事があり、午後も別の対応があり、十分なお相手ができませんが、いらっしゃる時間など当日のご予定を教えて下さい。一目お会いしたく存じます」とあった。何の気なしに書いたコメントだったが、わざわざ時間を作って会いたいと言ってくださるのはじつに恐縮する。あんまりご迷惑もかけられないと思い、「とくにこの日はほかに約束や予定はありませんので、お時間は如何様にも対応できます」と返信すると、「それでは会場に○時×分に待ち合わせてお食事ご一緒しましょう。粗餐ですがご用意します」と返信をいただき、なんと、お昼ご飯までごちそうしてくださるというではないか。僕はすっかり恐縮してしまったが、「承知いたしました。どうもありがとうございます。では○時×分に会場にいるようにします。よろしくお願い申し上げます」と返信すると、「ありがとうございます(ニッコリの顔文字)。楽しみです」と書いてくださった。

もちろん僕とそのおっさんとの間には恋愛感情などないし、もとより一度しかお目にかかったことがない。それでも、わざわざ時間を作って食事までごちそうしていただくことになり、双方がその再会を楽しみにしているというのは、かなり薄めた形での「おっさんずラブ」なのである。

このおっさんに限らず、ほかの場所にも、再会するとなるとうきうきしてしまうようなおっさんが何人もいるのではないかという気がしてきた。「おっさんずラブ」はデフォルメされたドラマだが、なんとなく思いあたるフシがあるように感じるのは、そういうことなのかもしれない。

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窓ぎわのトットちゃん

12月24日(日)

久しぶりに5歳の娘と2人で映画を観に行こうと思ったが、年末年始は子どものためのアニメ映画が多くて、どれを観たらよいか迷ってしまう。しかし、僕は最初から決めていた。『窓ぎわのトットちゃん』である。

しかし、たぶん娘は、『パウ・パトロール ザ・マイティ・ムービー』を観たいと絶対言うに決まっている。なぜならいまテレビで放送中の『パウ・パトロール』を毎回食い入るように見ているからだ。ほかにもディズニー映画の『ウィッシュ』を観たいとも言うだろう。強豪揃いだ。

それでも僕は、何日も前から何度も「『窓ぎわのトットちゃん』を観に行くんだよ」と説き伏せて、「もしほかに観たい映画があったらその次に絶対に連れていくから」と条件までつけたら、「わかった」と納得してくれた。

なぜ、それほどまでに『窓ぎわのトットちゃん』にこだわるのか?僕はこの本の熱心な読者ではなかった。発売された当時は僕は小学6年生か中学1年生だったが、この本が空前のベストセラーになったと聞き、それにつられて読んだ程度である。

それにもかかわらず最優先に観たい映画として選んだのは、この映画に、私がかつてお世話になった恩師が協力しているというお話を、恩師ご本人から聞いたからである。その経緯について書くと長くなるので省略する。とにかく僕は、エンドクレジットに恩師の名前が出てきたことを確認したのである。

映画の中で印象に残った場面はいくつもあるが、ここで深刻な場面をあげても仕方がないので笑った場面を紹介する。映画の冒頭、学校の教室で、窓ぎわに座っていたトットちゃんは、先生の言うことを聞かず、何か面白いことはないかなあと、そのことばかり考えていた。そこへチンドン屋さんがやってきた。それを見つけたトットちゃんは教室の窓からのり出して、「チンドン屋さ~ん」と、トットちゃんの方へ呼び寄せる。そこでトットちゃんが言ったセリフ。

「チンドン屋さん、何かやって!」

おいおい、これって、「徹子の部屋」で芸人さんがゲストの時に「何か面白いネタをやってください」とむちゃぶりする、例のヤツではないか。すでに幼い頃から「徹子の部屋」の片鱗が出ていたのだなと、笑いが止まらなかった。

しかしこの映画はもちろんお笑いの映画ではない。最後は嗚咽するので、古い言い方だが、ハンカチのご用意を。

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KOC雑感2023

KOC雑感

10月21日(土)

テレビをつけたら、「キングオブコント」をやっていた。

最初の1,2組あたりは見逃してしまった。どうやらこの最初の方の組が相当なインパクトがあったらしいのだが、僕の知らないグループだった。

この番組を家族で観ていると、いつも審査員の話題になる。

「(ロバート)秋山が審査員になるくらいだったら、女性の審査員を入れればいいのに」

「そうだね。たとえば?」

「大久保(佳代子)さんとか」

「なるほど、友近もいいよね。ヒコロヒーは?」

「ヒコロヒーはあまり好きじゃない」

「阿佐ヶ谷姉妹なんかもいいんじゃないか?」

「そうだねえ。優しい語り口で毒を吐きそうだね。『ちょっとよくある設定かしらねえ』『そうねえ』とか」

「(笑)」

「『右のかたがもっとはじけた方がよかったんじゃないかしら』『そうねえ』」

この場合、「そうねえ」と言っているのは、おそらくミホさんのほうなのだろう。

「いとうあさこなんてのはどう?」

「うん。でもいちばん最強なのは…」

「……」

「野沢直子がアメリカからオンラインで審査に参加することだよ」

僕は思わず膝を叩いた。そうだ、野沢直子がいた。でもそれだったら、清水ミチコもYOUもいるぞ。

ま、それもこれも、こちらの勝手な希望に過ぎないのだが、女性審査員を入れるべきだという主張は撤回しない。

ファイナリスト10組のうち、男女のペア、というのは蛙亭しかいない。あとは全員男性グループである。

僕は蛙亭のコントが結構面白いと思ったのだが、審査員は、僕が思っていたほど高い点数をつけたわけではなかった。女性が入ると、男性審査員の目が厳しくなるのか?と邪推をしてしまう。

そもそも、男性が優遇されるようにこの国の社会が設計されていることに問題があるのだと、お笑いの番組を前にして、ついそんなことも考える。

ファイナリストの10組目はラブレターズだった。決勝(最後の3組)に残ることを期待していたが、残念ながら敗退してしまったので、決勝戦を観る前にテレビから離れた。

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福田村事件

10月12日(木)

朝8時、5歳の娘を保育園に登園させたあと、その足で映画『福田村事件』(監督:森達也)を観に行く。

きっかけは、前日に高校時代のすぐ下の後輩が、SNSでこの映画を観に行ったことを発信していたことによる。そういえば、この映画を観に行きたいと思いつつ、全然時間がなくて観るのを諦めていた。しかし観に行くようにと、高校の後輩が背中を押してくれた。

観るとしたら今日の午前中しかない、と思い、急遽上映館を探したところ、うちの近所の映画館で朝一番で上映があり、娘を保育園に送り届けたあとのタイミングでバスに乗れば、十分に間に合うことがわかった。やるべき仕事は多かったが、それを措いて観に行くことにしたのである。

映画『A』の頃から、森達也監督のドキュメンタリー映画や著作をそれなりに見守ってきた僕にとっては、ぜひ観るべき映画であった。しかし、ドキュメンタリー映画を撮り続けてきた森監督が、劇映画に進出することに、若干の躊躇があったこともまた本心である。

森達也監督については、以前に少しだけ書いたことがある

実際に『福田村事件』を観てみると、まことに失礼な言い方だが、ちゃんと「劇映画」していた。脚本の熱量と、出演俳優陣の熱演によるところが大きいが、それを劇映画としてまとめ上げた森監督の手腕は、いくら評価しても評価しすぎることはない。

映画じたいは辛い内容で、一見救いのないのない結末のように思えたが、最後の最後は、かすかな希望をいだかせるカットで終わった。やはり森達也さんは、この世界に絶望していないのだ。『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』という森さんの著書タイトルを思い起こさせる。

思い起こさせる、といえば、森監督がメジャーになるきっかけとなったドキュメンタリー映画『A』との関係である。「空気が支配する世の中」「集団の狂気姓」といった問題意識から見たら、『A』と『福田村事件』は地続きである。

映画を観てから、各種メディアで森監督が発言していることを確認してみたら、ドキュメンタリー映画と劇映画との垣根はそれほど感じなかった、といったようなことを言っていて、そのとおりだなと思った。

映画作家の大林宣彦監督は、

「映画は、虚構で仕掛けてドキュメンタリーで撮る」

「映画は、風化しないジャーナリズム」

という言葉を残している。

この映画は、まさにその言葉のとおりの映画ではないか。これは、僕の独りよがりの感想である。

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風穴を開ける

9月16日(日)

午後は、5歳の娘と二人で映画館で『プリキュアオールスターズF』を見に行った。映画館の客席がずいぶん混んでるなあと思ったら、昨日公開したばかりだったのね。僕が何も考えずに「プリキュアの映画、観に行く?」とうっかり提案したら、狂喜乱舞していたので、連れていくことにしたのである。

といっても僕はプリキュアがどんな内容のアニメなのかは知らない。ぼんやりと女の子たちが主人公のヒーローものなのかな?というくらいの知識しかないのだ。でもプリキュアのテレビ放送が始まってから20年経っているそうで、そんなに長寿番組だったっけ?と驚くばかりだった。

で、このたび初めて映画を観て、プリキュアのなんたるかを学んだのだが、僕のファーストインプレッションは、

(これは、ウルトラマンシリーズみたいなものなのか?)

という仮説が思い浮かんだ。テレビでは、この20年間にいろいろなプリキュアのチームが交代で活躍し、今回、歴代のメンバーが勢揃いして「オールスター」というタイトルがつけられたみたいだ。

たとえていえば、ウルトラマンとかウルトラセブンとか、テレビシリーズで活躍した歴代のウルトラ兄弟が勢揃いしたというのが、この映画なのか???

少なくとも僕はそんなつもりで観たのだが、上映時間もほどほどの長さだったし、娘は飽きるどころか大興奮して、家に帰ってからも、映画館で手に入れた小型のライトみたいなものやキーホルダー状の小さなお人形を使って、ウルトラマンごっこならぬプリキュアごっこをしていた。

さて、僕は帰宅後に、大仕事が待っていた。

これ、話せば長くなるし、どこまで書いてよいものか非常に悩ましいところなのだが…。

話の発端は、保育園のママ友たちが、有志で卒園記念のアルバムを作ろうという話で盛り上がったことに始まる。

保育園からは卒園時にアルバムのようなものが配られるのだが、どうもそれはあまりにも簡易なもので、しかも白黒ということで、保育園の保護者たちは、いたく不満なのだという。もっと思い出に残るような、カラー版の素敵な卒園アルバムを作りたい、と誰かが言い出したのだ。誰が言い出したのかは、いまとなってはわからない。

しかしそれは簡単なことではないので、必ずしも必要ないんじゃないか?あったとしても、できるだけ簡易に作れるものにした方がよいのではないか?という意見の人たちも、一定数いる。実はわが家もその立場である。

それで、ママ友のグループLINEでアルバムを作るか否かで決を採ることにしたところ、作るという意見が過半数を超え、結局作ることになった。一方で、作らなくてもいいんじゃないか、という意見も一定数いたことは、ここではっきり書いておかなくてはならない。

そこから数か月にわたって有志で集まって、どういうアルバムを作ろうかという話し合いの場を設けているようなのだが、いっこうに話が進んでいないようだった。

で、この日、また打合せをしたいというLINEがママ友たちの所に来て、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、ということになったのである。

うちの家族がかねて不思議に思っていたのは、なぜそのアルバムに関する意志決定には、ママ友だけが参加して、パパは排除されているのか、ということであった。そもそも、グループLINEがそういう構造になっているので、パパは蚊帳の外なのである。案の定、パパがその打合せに参加すると表明する家は一つもない。

それっておかしいんじゃないの?といううちの家族の総意で、パパである僕が参加することにしたのである。ママ友の会にパパが参加するのは明らかに「場違い」と言われそうだし、「空気を読めよ」「忖度しろよ」と思われるに決まっているのだが、うちの家族はそういうことが嫌いなので、ここは、パパが参加することで風穴を開けようということになった。僕にとっては、ママ友に混じって一人参加することに逡巡する気持ちはなくもなかったが、だれかがやらないとこの悪弊は永遠に続いてしまうし、僕は周りにどう思われてもバカなふりをすればいいや、と思うことにして、思い切って参加することにしたのである。

グループLINEによると、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、とあったので、はは~ん、これは単にママ友たちだけで呑みたいのだな、こりゃあ、アルバムについての打合せなどまとまらないぞ、というか、今まで数か月にわたって何にも決まっていないのは、そのせいなのか、と納得がいったのである。

で、近くのスーパーでウーロン茶と300円くらいのお菓子を買い、集合時間を10分ほど遅れて公会堂に到着すると、すでに大声で打合せが始まっていた。僕が打合せの部屋に入ると、一瞬、空気が張り詰めた。

「すみません。場違いな者がおじゃましてしまって」

「いえいえ、そんなことないですよ」

と言うのだが、明らかに僕の扱いに困るという表情だった。

最終的に集まったのは、僕を含めて9人。つまりママ友は8人ということになる。

ところでクラスの園児は全部で26人。ということは、大半の人が参加していないということなのだ。連休の中日なので、予定が入っているのだろうと思った。

最初はアルバムの打合せをするのだが、それぞれが勝手な希望を言い出し、たちまち収拾がつかなくなる。僕はだんだんイライラしてきた。

だれかが、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れましょう、と言いだしたので、僕はつい我慢できず、

「保育園のアルバムで、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れるって、それ関係なくないっすか?」

と言ったら、

「でもみんなの0歳のときの顔って見たいじゃないですか。親のエゴと言われればそれまでですけど」

と反論され、ほんとうに他人の子どもの0歳の顔って見たいと思うか?0歳なんて全員同じ顔してるぜ、と心の中で思ったが、おくびにも出さなかった。

あと、卒園式のときの写真も載せましょうと言い出すヤツがいた(もう「ヤツ」って言っちゃってるよ)。これもたまらず発言した。

「卒園式の写真をアルバムに入れることにしたら、卒園式で配れないじゃないっすか。たとえば小学校の卒業アルバムで、卒業式の写真なんてなかったじゃないっすか」

卒園式のときの写真をアルバムに収めることにしたら、卒園して小学校に入学したあとにアルバムが手元に来ることになる。それもまた面倒なこことになりはしないか?と僕は思ったのである。しかしこの意見も、

「でも卒園式で子どもたちが着飾った姿をアルバムに収めたいじゃないですか。親のエゴかも知れませんけれど」

と一蹴された。

僕が自分の子どもに対する愛情が薄いということなのか?と、この時点でかなり自分を責めたのだが、同時に僕ごときが何を言っても無駄なのだ、ということに気づいたのである。そこからはひたすらピクニックフェイスを心がけた。

僕はお酒を飲まなかったが、8人のママ友たちはアルコールが入り大声になり、時間が経つにつれてアルバムのことなんかどうでもよくなり、全然違う話題に脱線しまくっていた。酒が進むと、アルバムに乗り気でないほかの保護者へのやんわりとした批判や、保育士の方に対する愚痴とか悪口、はてはお連れあいに対する悪口雑言なども飛び出し、とても聞くに堪えない状況になっていった。

「決してクレーマーというわけではないんですよ。みなさんのためを思って…」

と弁解がましく言っていた人もいるのだが、いやいや、あなた、立派なモンスターペアレントですよ。

どおりで保育士さんが保護者を警戒するわけだ。

そこでようやく僕は理解した。

クラスの園児26人の保護者のうち、この日に欠席した17人保護者たちは、全部とは言わないが、初めからこうなることがわかっていたんじゃなかろうか?で、防衛本能がはたらいたのだ、と。いずれにしてもこれは、明らかに「サイレント・マジョリティー」という言葉がふさわしい。

もっとも、ママ友だとかパパ友が一人もいない僕の目から見た光景なので、「あの場に参加していたママ友はヤベーヤツばかり」というのはあくまでも僕の目線から一方的に見た偏見にしか過ぎませんよ!

僕は1時間を過ぎたあたりから気分がひどく悪くなり、2時間が経った8時過ぎにもう耐えられなくなり、

「そろそろ失礼します」

と、公会堂をあとにした。僕が出てから欠席裁判が行われているだろうなあと気分も悪くなったが、なんとか気持ちを落ち着かせようと、そのあとTBSのドラマ「VIVANT」の最終回をリアタイして、なんとか気持ちが復調した。

…ちょっと大げさに書いてしまったところもあるが、ママ友の飲み会を取材したと考えることにし、いつかこれをコントにしてみたいと思っている。

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再び「荒野に希望の灯をともす」

8月28日(月)

やらなければいけない仕事は山ほどあるのだが、先日観たドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」が、都内の老舗の映画館が1週間ほどのリバイバル上映を行うことを知り、時間が空いているのは今日しかないな、と、仕事を脇に置いて多少の後ろめたさを感じながら観に行くことにした。

たまたま今日は、上映後に監督と、僕が以前からファンの探検作家の二人によるトークショーがあるということも、僕を2度目の映画鑑賞に駆り立てた。

上映後のトークショーの中で監督は、この映画の主人公である中村哲さんと、僕が愛読する探検作家さんとは共通項が多いというお話をされていたが、それは僕も最初に映画を観たときに感じていたことであった。そのあたりのことをトークショーの中でお二人が解き明かしていて、30分という短い時間だったが、とても興味深いお話だった。

「上映後、映画パンフレットにお二人のサインを書いていただく時間を設けますので、ご希望の方はどうぞ」

というアナウンスを聞いてしまったら、サイン本マニアの僕としてはサインしてもらわないわけにはいかない。

さっそく地下の映画館を出て映画パンフレットを握りしめて階段をのぼると、お二人がすでにスタンバイしていた。

お二人にサインをもらったあと、僕はまず監督に思い切って声をかけた。

星空の映画祭の時に観て感激して、今回2回目です。中村哲さんがこんなにすごい人なんだということを、この映画で初めて知りました」

「それはそれは、どうもありがとうございます」

次に探検作家さんにも思い切って声をかけた。

「あのー、実は以前、○○市の××という書店のトークイベントに参加して本にサインをもらった者です」

「あ~、そうでしたか。どおりで見たことのある顔だなぁと思っていました」

同じ秘境を探検した者です」と、僕は前回まったく同じ内容のエピソードを伝えて、

「どうもありがとうございました」

と映画館をあとにした。

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荒野に希望の灯をともす

8月12日(土)

毎年、この時期に行われる「星空の映画祭」に、久しぶりに足を運んだ。

コロナ禍のときは開催していたのかどうか、記憶にないが、いまも続いていることがうれしい。

8月の初めから後半にかけて、文字通り星空の下で映画を野外上映する。上映される映画は、少し前に話題となった作品や、ファミリー向けを意識した作品など、複数の作品を、会期中にローテーションしながら上映するのである。

この日の上映作品は、劇場版「荒野に希望の灯をともす」(2022年、監督:谷津賢二)というドキュメンタリー映画である。

この映画の主人公は、アフガニスタンやパキスタンで医師として活動してきた中村哲さん。2019年にアフガニスタンで何者かによる凶弾に倒れ、帰らぬ人となった。そのことはニュースで大きく取りあげられた。

まことに恥ずかしいことに、僕はそのニュースを見るまで、いや、ニュースで取りあげられたときも、中村哲さんが、具体的にどのような活動をされてきたのかをほとんど知らなかった。もちろん、以前からお名前は知っていたし、アフガニスタンで活動をされていたということくらいは知っていたが、それ以上について知らなかったし、ひょっとしたら知ろうとしてもいなかったのかもしれない。

しかし昨年、中村哲さんに関するドキュメンタリー映画が都内の老舗のミニシアターで上映されるという情報を聴き、機会があれば観に行ってみたいと思っていたのだが、最近、よっぽどのことがないと劇場で映画を見る機会がないので、結局そのチャンスも逃してしまった。

で、たまたま今日、「星空の映画祭」で上映されると知り、昨年来なんとなく心に引っかかっていたドキュメンタリー映画がここで観られる!と思い、家族の許しを得て、ひとりで観に行くことにしたのである。

「当日券は午後7時に販売します」とあったので、7時少し前に会場に行くと、すでに列ができていた。家族連れや友人同士が多く、夕食を意識した屋台もいくつか並んでいる。たしかに夜7時は夕食どきである。どうもこの屋台も含めて「星空の映画祭」の名物となっているらしい。

家族には事前に「野外上映なので、直に座るとお尻が痛くなるから、ビニールシートとか座布団を持っていった方がいいよ」とアドバイスされ、そのアドバイス通りにビニールシートと座布団を持参したのだが、結論としては持っていって正解だった。上映中、直に座っていたら、お尻の痛みに耐えかねただろう。

夜7時、当日券の販売と同時に開場である。チケットを買って、導線通りに歩いて行くと、大きなスクリーンが張ってある野外劇場に着いた。スクリーンの前の座席は…、座席といっても、階段状に段差があって、その段差の先端にある切石のような部分に腰掛けて鑑賞するのである。つまり石の上に座らされるわけで、ビニールシートや座布団がないとかなり痛い目に遭う。

階段状の段差、といっても、各段は階段のような幅の狭いスペースではなく、ビニールシートが敷けて数名が車座になって宴会ができる程度の広さがある。

僕自身もビニールシートや座布団を置いて、自分の座る席を確保した。すると次々と人が集まってくる。こんな言い方は失礼だが、地味なドキュメンタリー映画なのに、どうしてこんなに人が集まるのだろう、と不思議でならない。

その多くが家族連れや友人同士である。家族連れはビニールシートを敷いて車座になり、食事をとりはじめていた。隣に座った友人同士とおぼしき二人も、屋台で買った弁当を食べ始めた。

映画の上映開始時間は午後8時。つまり開場から開演まで、1時間もあるのだ。この1時間の間中、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。ほんとに映画を観る気があるのか?と疑いたくなるような光景である。

上映5分前に、ボランティアと名乗る司会の人がマイクで諸々の注意事項を説明し始めた。一通り説明が終わったあと、

「今日の映画は、私たちのイチオシの映画です」

と言った。話題作が並ぶ中で、この映画がイチオシなのか。あるいは映画を上映するたびに言っているのか。たぶん前者だろう。

「このあと、映画の上映が始まる直前、すべての照明が消えて、会場が一瞬真っ暗になります。その時に、どうか空を見上げてください」

司会者の説明が終わり、スクリーンに短いCMが流れたあと、ほんとうにすべての照明が消えて真っ暗になった。空を見上げると、いくつもの星が瞬いている。少し雲がかかっていたのが残念だったが。

一瞬の暗黒のあと、映画が始まった。

中村哲さん自身の言葉(朗読・石橋蓮司)とともに、中村哲さんの活動の様子が、多くの映像や写真を交えながら時系列的に語られていく。

医師としてパキスタンやアフガニスタンに自ら志願して赴き、無医の地域に少しずつ診療所を作っていく。少しずつ活動の幅を広げて、多くの人たちの信頼を得ていくようになる。

しかし、医学的な治療には限界があった。そもそも、病気に苦しむ人を少なくすることこそが大事なのではないかと。病気の根本原因は「飢え」である。多くの人たちが食べるに困らないような環境を作らなければならない。

干ばつにより大地が枯れていく姿を目の当たりにした中村さんは、「大地を潤すための用水路を作る」という、突拍子もない計画を思いつく。ここからがこの映画の後半であり、ハイライトである。土木工学を一から勉強し、自然の脅威に悩まされながら、枯れた大地に水をたたえた長い用水路をひく。あたり一面砂漠だった土地が、数年経って森に変わる姿は圧巻である。緑だけではない。その土地で諦めかけていた農作物の豊かな稔りも可能になったのである。

中村哲さん自身による、心を揺さぶる言葉とともに、映像はその言葉を裏付けるように「苦難」と「達成」の繰り返しを描き出す。中村さんの活動は、言葉にならないほど圧倒的である。朴訥とした印象、というのはあくまでも僕が映像を通して感じた印象だが、その朴訥とした印象を持つ中村さんのどこに、あのようなエネルギーが蓄えられていたのだろう。

さて、僕が感動したのは、映像の中だけではない。上映前に、車座になってお弁当を食べたり、ときにはお酒を飲んだりして、思い思いの時間を過ごしていた家族連れや友人同士の観客たちが、映画が始まると水を打ったように静まりかえり、映画を食い入るように見入っていたことである。

そして90分ほどの上映が終わったが、エンドロールが終わるまでだれひとり立ち上がって帰り支度する者はいない。それどころか、エンドロールが終わると、大きな拍手が巻き起こったのである。

星空の映画祭では、映画が終わるたびに拍手をする習慣があるのかどうか、よくわからないが、それにしても、すべてが終わり、会場の明かりがついたときにもう一度大きな拍手が起こったので、やはりこの映画に対する心からの拍手だったのだろう。

最高の映画祭だった。

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いまさらマリオ

5月21日(日)

トラック野郎行脚は、5月18日(木)に無事終了し、夜に帰宅した。翌日、翌々日は、無理をした反動で、何もやる気が起きず、ぐったりしていた。

旅先で一人で連泊していると、翌朝、身体が動かなくなってしまうんじゃないか、という不安に駆られてしまう。最終日もその不安に苛まれ、早朝に目が覚めてしまい、「こりゃあいよいよダメかな」と思いながら時間をやり過ごしているうちに、なんとか体調が戻り、無事に時間通りに集合場所にたどり着き、最終日の仕事もひととおりこなした。トラック野郎行脚はあと1回あり、それが終わるまでは気が抜けない。

今朝、5歳の娘が「映画が観たい」と言ってきた。先日、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』を観たばかりだったので、いま公開中の映画の中で、5歳の娘にとって適当な映画があるかどうか…。

もちろん、『ザ・スーパー・マリオブラザーズ・ムービー』が上映中であることは知っていたが、僕自身がなかなか気が進まない。というのも、僕は「コナン弱者」以上に、「マリオ弱者」だからである。

生まれてこの方、テレビゲームをほとんどしたことのない僕にとって、「スーパーマリオ」というのは、まったくわからない存在なのである。

もちろん、口ひげを生やして赤い服とオーバーオールを着た小男が「マリオ」だ、というくらいは知っているが、それ以上のことは、なんにも知らないのだ。

しかも、2016年のリオ五輪のときだったか、次の2020年の五輪は東京です!ということをアピールするために、当時のこの国の首相がマリオの格好をして登場したのを見てサムくなり、マリオに対する評価が著しく低下してしまったのである。それ以来、すっかりマリオアレルギーになってしまった。

そんなことで、この映画が楽しめるのだろうか?

しかし、上映時間を調べてみると、90分ほどの短い映画だったし、ほかに選択肢もなかったので、ものは試しに見て見ようかと思い直し、娘を連れて観に行くことにした。

劇場に行くと、封切りからけっこう経っていると思われるのに、座席はそこそこ埋まっている。もちろん、そのほとんどが親子連れである。

結論から言うと、マリオのマの字も知らない僕にとっても、十分に楽しめた映画だった。娘ももちろん大満足だった。

僕はこの映画を見つつ、現在の世界情勢について思いをめぐらせた。野望を持つ巨大な悪の王国が、周辺の国々を次々と武力で侵略する。その中でも、平和に暮らしていたある国がその悪の王国による侵略の脅威にさらされ、その侵略に対抗すべく、別の国の軍隊に応援を頼んで、支援を受けた武器で悪の王国の侵略に必死で抵抗する、というストーリーだと僕は理解したのだが、これって、何かのメタファーなんじゃなかろうかというのは、考えすぎだろうか。

というか「スーパーマリオ」って、もともとそういうゲームなのか?だとしたら、考えすぎだな。

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