映画・テレビ

ウディ・アレンの映画

10月19日(日)

アメリカの俳優、ダイアン・キートンが亡くなったというニュースを聞いて、あるYouTubeでウディ・アレンの『アニー・ホール』が奨められていたので観ることにした。

僕はこれまでウディ・アレンの映画をちゃんと観たことがない。なんとなく自分には合わない映画だという思いがあったからである。だからウディ・アレンの映画を観るのをこれまで避けていた。

ま、それでもダイアン・キートンを目当てに観てみようと思い立ち、ウディ・アレンの映画をこの際ちゃんと観てみようと思った。

タイトルの『アニー・ホール』は、ダイアン・キートンの役名である。この映画はウディ・アレンの最高傑作ともいわれ、アカデミー賞4部門(作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞)を獲得している。

ダイアン・キートンが演じる女性像はたしかに素晴らしい。映像の演出や編集、脚本も斬新だと思う。

しかし僕はどうしてもなじめなかった。ウディ・アレンに、である。

ウディ・アレンとダイアン・キートンは一時期ほんとうに交際をしていたという。後に別れたらしいが。

ダイアン・キートンは生涯結婚をしなかった。自分らしく生きるために、結婚という形態に縛られたくはなかったのだろう。映画の中でも、アニー・ホールは結婚を選択しない人物として描かれている。ウディ・アレンもそのあたりのことをよく知っていたのだろう。最終的にはふたりは結ばれることなく別れてしまう。

…というかこの映画は、ウディ・アレンの経験談をそのまま映画にしたんじゃねえか、と思えてしまう。

この当時、2人が交際していたのかどうかわからないが、ただ、交際していたという事実を知ったときに、えらく生々しい話だと思ってしまい、公私混同なんじゃねえかと、ちょっとゲンナリしてしまった。

映画の中では、自虐的で悲観的なウディ・アレンだが、自分の人生の一部を曝け出すことに躊躇しないという側面があるというのは、どういう心理なのだろう。

やっぱり、ウディ・アレンにはちょっとついていけないという思いを新たにしたのである。

ウディ・アレンのファンってどのくらいいるのだろう。もちろんファンが多いからこそ一定の地位を占めたことは間違いない。ウディ・アレンの映画のファンからすれば、「ふざけんな、何も知らないくせに」と批判されるのは覚悟の上である。たぶん僕の頭が固いと思うので、蒙を啓いてもらいたいと思う。

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演出家はなぜリメイクを作ろうとするのか

10月16日(木)

今日も書くことがまったくないなあと思って、インターネットのニュースサイトをスクロールしてみるが、ゴシップ的な政局報道や、それに対する程度の低いコメンテーターの浅いコメントばかりが載っていて、ゲンナリしてしまった。

それでも下の方に画面をスクロールしていくと、黒澤明監督の『酔いどれ天使』を舞台作品としてリメイクする、というニュースが出ていた。

『酔いどれ天使』は黒澤明監督の初期の名作である。反骨漢で酒好きの貧乏医師、志村喬と、闇市を取り仕切るヤクザの三船敏郎が、ぶつかり合いながらもその絆を深めていくヒューマンドラマである。戦後の世相も描かれていて、そこに注目するのもまた、この映画を観る楽しみである。黒澤映画にはじめて三船敏郎が登場する記念碑的な作品でもある。

それをいまのこの時代に、舞台作品とはいえ、リメイクするということに、僕は若干の戸惑いを覚えた。

舞台を演出するのは、映画監督の深作欣二のご子息、深作健太さんである。

ニュースの中で出演者の一人が、

「深作さんがパンクにロックに令和版新解釈という形にしてくださった」

といっていて、僕はますます不安になってしまった。僕の不安というのは、出演者もスタッフも、本気で原作を超えようとする気持ちがあるのかということである。もちろん、誰でもその気概を持って作品をリメイクしようとがんばっているのは当然なのだと思うが、結果として、「やっぱり元の作品を超えていないんじゃね?」と思った経験が何度もあったからである。

映画やドラマのリメイクには2つのパターンがあるように思える。

ひとつは、元の作品の脚本を一字一句変えずにリメイクを作るというスタイルである。

黒澤明監督の『椿三十郎』を森田芳光監督が2007年にリメイクした。たしか脚本はそのままに演出をしたというふれこみだったと記憶するが、僕はあまりに黒澤作品が基準となりすぎていて、リメイクの演出やキャストが功を奏しているのかどうか不安で、観ていない。

向田邦子脚本、和田勉演出のNHKドラマ『阿修羅のごとく』(1979~80年)も、最近リメイクされたらしい。これも、向田邦子の脚本そのままだと聞いた。今の時代にあてはめても違和感がなかった、というのは観た人の感想だが、それだけこの国の社会が40年以上も変わっていないことを示しているのだろう。これはぜひ観てみたい気がする。

もうひとつのパターンは、元の作品を現代風にアレンジしたり、視点を変えてアレンジしたりするパターンである。こちらもまた微妙である。

そういう作品をある程度観てきたが、一つとして元の作品を超えるものはなかった(ただし映画のテレビドラマ版の中には脚本家の腕でおもしろくなっているものがあった)。

演出家となった以上、過去の名作を自分の手でリメイクしたくなる気持ちはよくわかる。しかしほんとうに元の作品を超えられると思っているのだろうか、それが演出家の自負というものだろうか。

僕にはよくわからない。

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仕事の極意

10月11日(土)

今日の午後は、年に1度の全館停電の日。正確には、午後1時~3時半までの2時間半なのだが、電気を使うすべての機能が停止する。電灯はもちろん、空調もエレベーターもトイレも給茶機も使えない。しかしそれでもリハビリだけは予定通り実施する。

リハビリに使う廊下はかなり暗かった。あたりまえだ、電気がついていないのだから。

そのため、廊下の辻々に、ランタンみたいな明かりを持った看護師さんが座っていた。考えてみれば、看護師さんの使う電子カルテみたいなものも停電のために使えないのである。つまり停電の間は仕事にならないわけで、それでランタンを持つ係をしているのかと気がついた。

停電というのは、どことなくテンションが上がるのだろうか。ランタンを持つ看護師さんはどこか嬉しそうである。

その灯りに助けられながら、僕は杖をついて廊下を歩く。もちろん横には、理学療法士さんがついてくれている。

「焦らないで。でも(歩みを)遅くしないようにしてください」

というアドバイスを横で言ってくれたのだが、その言葉である映画のセリフを思い出した。

「『宇宙戦艦ヤマト』って、知ってますか?」

「え、…ああ、パチンコ台のことですね」

ショック!若い理学療法士さんには、『宇宙戦艦ヤマト』がアニメ映画だということを知らなかったのだ!(もちろん、最初は30分番組のテレビシリーズから始まったのだが、ここではその話は措いといて)

「いえ、むかし、そういうアニメ映画があったんですよ」

「そうなんですか?パチンコでしか知りませんでした」

「で、その中に有名なセリフがあるんです」

「どんなセリフです?」

「『慌てず急いで正確に』というセリフです」

「『慌てず急いで正確に』…。なるほど、いまのリハビリの心構えにもピッタリの言葉ですね」

理学療法士さんはひとまず納得してくれたが、このセリフ、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を観た人なら誰でも覚えている名台詞だよね!というか国民全員が当然知っている名台詞だと思ったのだが。空間騎兵隊隊長の斎藤始が真田技師長に向かって言うセリフですよ!読者(ダマラー)のみなさんはよくご存じでしょう?

もう一つ、『宇宙戦艦ヤマト』の名台詞と言えば、第1作の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』での沖田艦長のセリフ、

「地球か…何もかもみな懐かしい」

だよね。小学生の時にこの場面を観て、滂沱の涙を流した。いまも書いていてウルッときたもん。

そんなことはともかく。

これこそがリハビリの極意ではないかと悟ったのだった。いや、リハビリに限らず、すべての仕事において、この言葉は有用なのではないかと今更ながら思ったのだが、気がつくのが遅かったか。

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傾聴の極意

10月8日(水)

同じフロアの患者さんに、かくしゃくとしたおじいさんがいる。

病棟を杖1本で一人で歩き回り、意識もしっかりとしている。

うらやましい反面、ちょっとイヤだなあと思うこともある。

それは、リハビリの間中、若い療法士さんに向かってずっと喋っていることである。

それは、蘊蓄を喋ったり、自分自身のいまの状況をクドいくらいに細かく喋ったり、むかしの武勇伝を喋ったり、とにかくおしゃべり好きなのである。

それを辛抱強く聞いた若い療法士さんたちは、「なるほど」「そうですか」と相づちを打ったりしているのだが、本当の気持ちはどうなのだろう?

僕だったら、

「あんたになんかそれほど興味はないよ!」

と思ってしまい、イライラが募るばかりだろう。療法士さんは、言ってみれば客商売だから、そんなことを微塵も表情に出せないのだろう。

こういうのを「マンスプレイ二ング」というのか?

かくいう僕も、自分がそうならないように気をつけている。ともすると蘊蓄を喋ろうとするきらいがあるので、こちらから喋ることはせず、何かを聞かれたときに最小限の答えをするように心がけている。しかしそれが守られているかどうかは心許ない。

それで思い出した。

むかし、芸人の上岡龍太郎さんが、「自分はラジオでフリートークをするのが苦手である。なぜならリスナーに求められていない話をしているかもしれないから。しかしリスナーからのはがきで「○○についてどう思いますか?」と聞かれたら、少なくともそのリスナーは聞きたいと思うわけで、そのときはなんぼでも喋るよ、と。

上岡龍太郎さんほどの話芸の達人ならばどんなフリートークも面白いはずだ、と思うのだが、そう言われてみると、上岡龍太郎さんは「受け」の達人である。

むかし「鶴瓶・上岡パペポTV」というテレビの二人のトーク番組があり、笑福亭鶴瓶師匠が「先日、こんなことがありましてん」と話を切り出すと、それを承けて上岡さんがその話を膨らませ、それに関連した話題を繰り出す、というのが二人のやりとりのパターンだった。

この番組では、上岡さんから口火を切ることはなく、鶴瓶師匠がもっぱら口火を切っていた。上岡さんはあくまでも受けの姿勢だったのである。

それでいて、二人の話芸は最高だった。そもそも、漫才のボケとツッコミというのはそういうものなのだろう。

聞かれたことにだけ答え、かつ、その答えが話芸として成立していること。相手が出した話題に対して、その話題を理解してパラフレーズしてしかも盛り上げること。

それが傾聴の極意かもしれない、と思い始めている。僕にはとても真似のできないことだけど。

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人事の人見·その2

もうとっくに終わってしまったドラマだが、以前にフジテレビ系のドラマ『人事の人見』についてこのブログに書いた。僕にはただただ不愉快な内容に思えた。なぜなのだろうと、ずっと考えてきて、ようやくその理由がわかった気がした。

まず、『人事の人見』がどのような内容のドラマだったかというのを、Wikipediaから引用する。

「文房具メーカー「日の出鉛筆」は、体育会系で営業部などという現場の声が最優先という、古い体質が残る会社だった。そんな日の出鉛筆の人事部に、ある日海外企業から超エリートが入ってくるという噂が。

期待をする人事部一同だったが、入ってきたのは人見廉という、噂とは全く違うおバカでピュアな男だった。会社勤めをしたことのない人見が、持ち前の性格で様々な会社の問題を解決する痛快オフィスエンターテイメント」

この人見廉という「おバカでピュアな男」「会社勤めをしたことのない人間」が、「様々な会社の問題を解決する」という。実際にドラマを見ても、そのようなストーリーになっている。

僕が引っかかっていた点は、まさにこの点だった。まったく会社勤めの経験のない人間が、思いつきだけで会社の問題を解決できるのだろうか?まったく経験や蓄積のない人間が、戦力になりうるのか?

もちろんこれはファンタジーでありエンターテインメントだからそんなに目くじらを立てることはないという反論が来るのは当然かもしれない。

僕が問題にしているのは、何の経験も蓄積もなく、勢いだけで会社を改革できる人間にカタルシスを感じている、ドラマの制作陣と視聴者がいるという事実である。

このドラマのクール中は、参議院選挙の期間中と重なっていた。今回の選挙の最大の特徴は、多党化が進み、新興政党が勢力を伸ばしてきたことにある。具体的に言おう。参政党とか日本保守党とか、新党みらいとかである。

これらは街頭演説やSNSなどを通じて勢力を伸ばしていったが、はっきり言って政治のド素人集団であり、街頭演説の様子をSNSなどで見ると、聞くに耐えないような政策を訴えている。

しかも「既成政党の古い考え方」を打破して、新しい(と思われる)政策や極端な改革案(らしきもの)を述べて、一部の人の熱狂的支持を得たりしている。その結果、参政党は躍進して議席を大幅に伸ばした。候補者のほとんどが政治の素人で構成されている集団にもかかわらず、である。

「何にも知らない素人だったら、古い因習にとらわれている既成政党の政治を改革して、政治がよくなるんじゃね?」というのは、会社勤めの経験がなく、おバカでピュアなキャラクターの人見廉が、会社の古い体制を改革してくれることにカタルシスを感じることと、同じメンタリティなのではないだろうか。

しかし現実の社会では、そんなことがうまくいくはずはない。なぜなら、それは幻想にすぎないから。人見廉が会社の仕組みをまったく勉強する気がなかったように、ド素人の政治集団が本気で政治について勉強することはないであろう。それで成功するのは、ドラマの中だけである。

その幻想に安易に寄りかかってしまう有権者を育ててしまったのは、既成政党か新興政党かにかかわらず、政治家の責任である。

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ホームドラマ

自宅に誰もいない時間に、ようやくリビングの椅子に座ってテレビを長時間見る気になったので、今まで録りためておいた映画やドラマを2時間程度、椅子に座って集中して見ることができた。

今までは、椅子に座っていられないという事情でテレビ番組を見る気が起こらなかっただけに、僕にとっては相当な進歩である。

録りためたもののひとつに、山田太一脚本の連続ドラマがある。山田太一さんが亡くなられたあと、BS-TBSが追悼特集として山田太一脚本の連続ドラマを再放送した。その中のひとつに「沿線地図」(1979年)がある。

「沿線地図」というタイトルは、昔から知っていたが、実際のドラマは観たことがなかった。そこで観てみることにしたのである。

1回1時間、全部で15回あるのでとても一日で見ることはできない。僕も椅子に座っていられる限界が3時間程度なので、無理をせずに少しずつ観ることにした。

傑作であることは間違いないが、内容は、いかにも山田太一さんのホームドラマという感じだった。だからといって我々が懐かしむだけの過去のドラマとして観てはいけない。現代社会を考える上でも非常に大きな課題を投げかけているドラマなのである。というか、山田太一さんのドラマはどれも現代社会に通ずる葛藤を描いたものばかりで、そういうつもりで観ないといけない。

「沿線地図」の「沿線」とは東急電鉄の大井町線か田園都市線かと思われる。あまり鉄道に詳しくないのでわからないが、とにかく東急電鉄(東京急行)であることには違いない。

時折電車が陸橋を走っている映像が差し込まれるが、あの川は多摩川である。

山田太一さんのドラマには多摩川がよく出てくる。「岸辺のアルバム」(1977年)も多摩川の決壊により家が流される東京都狛江市が舞台である。これは山田太一さんが多摩川沿いの(対岸の)川崎市に住んでいたためで、山田太一さんにとっての生活圏を舞台にしていたということなのだろう。

山田太一さんのホームドラマは、高度経済期の典型的な家族像を描いているが、ドラマを見ながらひとつの妄想が浮かんできた。

ホームドラマならば、一見平凡そうにみえる今までの我が家族が、あることをきっかけにいろいろな事態に巻き込まれる、という意味で山田太一さん並みのホームドラマの脚本、あるいは原作小説が書けるかも知れないぞ。今の我が家族は「事実は小説より奇なり」で、次から次へといろいろなことが起こる。そのディテールをホームドラマにしたらどうだろう?と考えたのである。

しかし、それはこのブログにも書けないような、個人情報のオンパレードとなるので諦めた。

映画作家の大林宣彦さんは、「映画はウソから出たマコトを描くものだ」というのが口癖だった。確かにそうだが、それに倣えば「ウソのようなマコト」を描いても面白いのではないか、という気がしている。でも僕自身はそれを書くつもりはない。

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人事の人見

小2になる娘がフジテレビ系で放送されている「人事の人見」という連続ドラマが好きで、食い入るように観ている。今はチャンネル権(死語)が娘にあるので、僕も夕食をとりながら横目でちらちらと見る程度なのだが、僕にはとってはたまらなく苦痛である。今どき夢も希望もない会社ならとっくに潰れているはずだ。僕も組織に属する人間の端くれとして、現実にひき戻された気がするし、どうして長期療養中にこんな漫画みたいなドラマを見なければならないのだろう?と、次第に腹が立ってきた。

漫画と割り切って見るべきなのか?とも思ったが、小2の娘も学校や学童でいろいろあるのだろうと思って仕方なく付き合っている。

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KOC雑感2024

今年は忙しすぎてキングオブコントを見逃した。

TVerで見逃し配信をやているというので、優勝したラブレターズのコントだけを観た。

昨年は、というか、昨年も惜しくも敗退してしまったので、その時点で番組を見るのをやめてしまった。今年はついに優勝したので、コントを2回観ることができた。

ラブレターズとは、シティボーイズと同じASH&Dというお笑い事務所所属のコント芸人である。ASH&Dはシティボーイズのために作った事務所で、当時の社長さんが「灰とダイヤモンド」という映画が好きなことから、事務所の名前をASH&Dにしたというのは、誰でも知ってる話だよね。

このASH&Dは、少数精鋭の事務所で、今メジャーな芸人としては、阿佐ヶ谷姉妹、ギース、ラブレターズの3組しかいない。このほか、若手お笑い芸人が2組いるくらいである。

このうち、阿佐ヶ谷姉妹は女性芸人のグランプリである「W」で優勝しているし、ラブレターズは今回のキングオブコントで、苦節17年の末、第17代王者の栄冠に輝いた。効率のいい事務所である。というより「見る目がある」のだ。シティボーイズ、とりわけきたろうさんが見巧者なのだろう。

ラブレターズは塚本と溜口の二人の男性からなるお笑いコンビで、ネタ作りは塚本が担当し、そのネタを自由に演じるのが溜口の役割である。

溜口は、「粗暴であるが優しい性格」という役を演じたときに最も輝く。溜口が感情のままにセリフを叫ぶとき、最もカタルシスを感じる。実際僕は、くだらないコントなのに、溜口の芝居に感情を持ってかれてつい泣き笑いしてしまう。

1回目のコントが終わった後の、東京03の飯塚さんのコメントに、「哀愁のあるコント」という評価が語られていたが、その言葉を聞いて、そうだ、僕もそこにラブレターズの面白さを見出していたのだと気づかされた。

10月15日(火)の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークでは、大竹さんがかなりの時間をとって、事務所の後輩であるラブレターズが優勝したことへの感慨を語っていた。優しさ溢れるコメントだった。

そんなに追っかけて観ているわけではないが、ラブレターズが活躍しているのを見たり聞いたりすると、「おっ!」と思ってひそかに応援している。

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ドリーム

10月1日(火)

そういえば昨日、新聞記者と取材とも雑談ともつかぬことを話していたときに、ある映画のことを思い出したので、その映画のことを記者に紹介しようと思ったのだが、タイトルが出てこない。

「えーっと、アメリカで、NASAみたいな宇宙の研究所が舞台で、そこに3人の黒人女性が勤めているという映画があるんですよ。実話なんですがね。ところがまだアメリカは黒人差別が激しい時代で、トイレなんかも白人と黒人が別なんです。黒人女性がトイレに行こうとすると、うんと離れた場所にあるトイレに行かなくてはならず、仕事にならないんです。ほかの白人たちには、黒人女性が席を立ったままなかなか帰ってこないのを見て、サボっているのではないかと疑いの目を向けるんですが、いや、そもそも白人が決めたルールに従って遠いところにある黒人用トイレに行かなくてはならないから時間がかかるんだと。

3人の黒人女性はとても能力が高い女性で、そのことが上司の目にとまり、そこでようやく黒人女性たちに対する理不尽な差別に気づく。上司はその3人を重用して、それでアメリカの宇宙計画に多大な貢献をするわけです。日本ではこういう映画、作られないでしょう」

とここまで言って、映画のタイトルが思い出せない。

「ええっと、タイトルは…」

仕方がないので、出演者を手がかりに思い出すしかない。上司役の人は有名な俳優だった。

「上司役を有名な俳優さんがやっているんですよ」

今度はその俳優の名前が出てこない。

「えーっと、名前、何だったっけなあ」

顔とほかの出演映画名はははっきりと思い浮かぶのだが、どうしても名前が出てこないのである。

「『フィールド・オブ・ドリームス』に出ていた俳優ですよ」

「『フィールド・オブ・ドリームス』?」

どうやら先方は『フィールド・オブ・ドリームス』を知らない様子。

先方がスマホで検索して、

「ケビン・コスナー…ですか?」

「そうです!ケビン・コスナー!その人が出ている映画ですよ」

さらに検索を続けていく。

「…『ドリーム』?」

「そうです!『ドリーム』です!」

ようやく映画の名前が出てきた。

最近こういうことが多くて困る。

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わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!

9月22日(日)

小1の娘と2人で1年ぶりにプリキュアの映画版を観に行った。現在公開中の『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!』である。もう2回目なので、何のためらいもない。

劇場はほぼ満席で、親子連れが多いのはあたりまえだが、おそらく子どもは幼稚園児または保育園児くらいの年齢が多いと思われ、小1の娘がいまだに面白がって観ているのはよいことなのか、ちょっと不安になった。娘はいつまでプリキュアを見続けるつもりだろう。

それに、ポップコーン率も高い。小さな子どもが食べているのかと思ったら、もちろんそれもあるが、どちらかといえば親の方が熱心にポップコーンを食べている。なかには父親と母親が別々のポップコーンを食べていて、どんだけ食べるんだ?とツッコみたくなる。そんな中、うちは、映画のあとに昼食を食べることになっていたので、ポップコーンを食べるのを禁止した。以前は毎回のようにポップコーンを食べるのを楽しみにしていたが、ここ最近は食べるのを我慢しており、この傾向が続いてほしいものである。

映画が始まって早々に僕はついうとうととして目を閉じてしまったりしたので、最初のあたりの設定についてはよくわからなかったのだが、気がつくと、わんだふるプリキュアのメンバーは、有名なゲームクリエーターの作ったゲームの中に入ってしまい、つまりは仮想空間の中で敵と戦うような事態になっていた。これはあれか?キアヌ・リーブス主演の映画『マトリックス』みたいなものか?と、あやふやな記憶を頼りに推測したのだが、よくわからない。

前回も書いたが、今回もやはり、劇場版のウルトラマン映画みたいだという印象は変わらなかった。窮地に追い込まれた現役のウルトラマン某が、歴代のウルトラマンシリーズで活躍したウルトラ兄弟の助けを借りて敵を倒す、という構造と類似しており、過去の歴代のプリキュアが応援のために登場している。おそらく長くプリキュアを見続けているファンにはたまらない内容なのだろう。

しかしウルトラマンシリーズと決定的に異なるのは、ウルトラマンのほうは出てくる怪獣がたんなる「悪者」として描かれる、つまりは善悪二元論で描かれることが多いのに対して、プリキュアのほうは、「どんな悪い敵でもそうなってしまう事情があり、その事情がわかれば敵に対しても慈しみを感じる」というスタンスが貫かれていることである。もっとも誤解のないようにいうと、ウルトラマンシリーズの中にも、とくにウルトラセブンなどでは、宇宙人を単純な悪者とみることに対して疑問を呈する回もあって、そういう回の方がむしろ僕の中では今でも強く印象に残っている。

それと、プリキュアシリーズは、過剰なまでに仲間の絆を強調しており、そのことを強調するセリフがくり返しくり返し、てらうことなく語られる。そうやって常に言葉に出すことで、お互いの絆の確認をしているとも読み取れる。そういうことを率直に言い合えるのは、今の時代であればこそである。小さい子どもには、そうやってはっきりと言葉に出すことで、絆の大切さを理解してもらおうということなのだろう。

娘にとってのプリキュアシリーズが、僕にとってのウルトラマンシリーズ(ただし1980年までに限る)であると見立てれば、今後も娘はプリキュアシリーズを見続けるのだろう。

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