映画・テレビ

ストレンジワールドとすずめの戸締まり

11月26日(土)

この週は、4歳の娘と二人で、映画館で2本の映画を観た。23日の祝日にディズニー映画「ストレンジワールド」、26日の土曜日に新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」である。娘とまる一日、二人で過ごすという日は、映画館に行って映画を観ると、時間が持つのである。

ひとつはディズニー映画だし、もう一つは日本のアニメ映画だし、どちらのジャンルもテレビ放送から録画して繰り返し観ている経験をしているから、全然問題ないだろうと思って観に行ったのだが、これがなかなかたいへんだった。

どちらの映画も、映画のはじめのほうから、「パパ、恐い…」と言い出したのである。

あまり書くとネタバレと言われそうだから書かないが、どちらの映画も、序盤の段階から、「ニョロッとしてもの」が出てくるのである。どうもそれが恐いらしい。いままでそんなことはあまりなかったのだが、この2つの映画に関しては、映画を観ている途中で、

「パパ、おしっこ」

と言い出した。

「映画を観る前におしっこしたでしょ!」

「でも、おしっこ」

といって聞かない。

恐くておしっこが漏れそうになったのか、あるいは恐い場面を観たくないという防衛本能がトイレに行かせようとするのか、だと思うのだが、いずれにしても、映画の途中で席を立ってトイレに連れて行く羽目になった。おかげで、なぜあの人が、あんな感じになっちゃったのか、という肝心な部分を、見逃すことになる。

今後は、恐い場面が訪れると尿意をもよおすという娘の悪いクセをなんとかしなければならない。

それはともかく、「ストレンジワールド」は、大人の僕が観ても、1回ではその世界観を完全に理解することは難しかったし、「すずめの戸締まり」も、その世界観に圧倒されはしたが、これを一度観ただけでその内容を受け止めるのは至難の業である。ま、ストーリーが追えなくても、何かしらの場面は娘の心の中に残っただろう。

2つの映画は、対比するようなものでは全然ないが、「ストレンジワールド」は父と息子の絆を確認する物語で、「すずめの戸締まり」は母と娘の「喪失」の物語で、対照的である。とりわけ後者は、主人公の「すずめ」が4歳だった頃に母親への喪失感を抱くという場面がくり返し登場し、ちょうど4歳の娘を持つ親にとっては、涙なしには観ることができない。うちの娘は、何かを感じとっただろうか。

後者については、つい最近観た「天間荘の三姉妹」もそうだったが、11年前のあの出来事が映画の主題となる、しかもかなりリアルにあの時の出来事を思い起こさせる仕掛けになっているのは、そろそろ、そういうことを映画としてとりあげてもよいだろう、という時期になったということなのだろうか。しかし、あの出来事に巻き込まれた当事者たちにとっては、まだちゃんと向き合うことができないのではないかと、なかなか複雑な気持ちになる。

おっと、あやうくネタバレしそうになった。関係ない話を書こう。

全然知らないある人のツイートで、「2人がフェリーに乗り込むところは『転校生』のオマージュ、愛媛の道路で大量のみかんが転がってくるところは『天国にいちばん近い島』のオマージュだろう。やっぱり新海誠監督は大林映画が大好き」とあるのを見つけ、なるほどそうだ、と思った。

そういえば、『天国にいちばん近い島』にそんな場面があったな、と思い出して見返してみると、ミカンではなく、大量の椰子の実がトラックから転がってくる場面があって、なるほどそっくりだと思った。

そのことがきっかけになり、『天国にいちばん近い島』全編を見直してみたのだが、同じ原田知世主演作品でも、ぼくはあの名作『時をかける少女』よりも『天国にいちばん近い島』のほうが好きかも知れない。映画全体が、劇伴を含めて古きよきハリウッド映画へのオマージュになっていて、たぶんこれは大林監督の完全な趣味だろう。脇を固める赤座美代子、泉谷しげる、乙羽信子、小林稔侍、松尾嘉代、峰岸徹、室田日出男といった俳優陣の演技もすばらしい。

剣持亘の脚本もすばらしい。剣持亘は尾道三部作の脚本などを手がけているが、どうも寡作の人だったようで、大林映画の脚本をもっと書いてもらいたかったと思う。

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エンドロール

11月24日(木)

イベントの準備がのっぴきならない状況になり、気持ちが殺伐としてきている。こういうときこそ、心に余裕を持たなければならない。

昨日の祝日は、4歳の娘と二人で終日いっしょに過ごしたのだが、そういうときは、映画館に映画を観に行けば有意義に過ごすことができる。

いまだったら、さしずめ新海誠監督の『すずめの戸締まり』なのだろうが、バカみたいに混んでいる。猫も杓子も、というやつである。

こうなったら観てやるもんか!と思っていたところ、ちょうどこの日、ディズニーアニメの『ストレンジワールド』の封切り日だったので、そちらを観に行くことにした。

映画の感想は措くとして、僕が注目したのは、最後のエンドロールの部分である。

どんだけの人数で作ってるんだよ!と言いたくなるくらい、長いエンドロールである。

これが日本映画だったら、この半分くらいの人数じゃなかろうか。誰か、エンドロールに出てくる映画にかかわった人の人数の日米比較をやってくれないかなあ。

いや、映画だけではなく、ドラマならどうだろう?

日米比較だけではない。日本の中でも、たとえば30年前のドラマにかかわった人の数と、いまのドラマにかかわっている人の数も、だいぶ違うんじゃなかろうか。予算が減らされている現在は、当然、限られた人数でドラマを制作しているはずである。

こんなことばかり最近気になっているのは、いま準備しているイベントで、実際に手を動かして準備しているイベントのスタッフは、わずか数名だからである。僕を含めて2,3名である、といってよい。もちろん、多くの人の協力はあるのだが、それをとりまとめる作業の負担が、思いのほか大きい。

そもそも世界的なマーケットを持ち、最高級のクオリティーで作られるディズニー映画と、こちらのひっそりしたイベントとは、くらべる方が間違っているのだが、せめてあと一人でも二人でも、下支えしてくれるスタッフがいれば、仕事はそれだけでもかなりの余裕ができるのにと、最近は映画のエンドロールを見るたびに、そんなことを思うのである。

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天間荘の三姉妹

11月3日(木)

文化の日。

午後、4歳になる娘とふたりで過ごさなければならない。そんなときは、困ったときの映画館である。

娘と観る映画は、最初はディズニーのアニメとか、そういったものだったが、最近は「さかなのこ」「耳をすませば(実写版)」と、だんだん難易度が上がっている。今回選んだのは、さらにその上をいく難易度である。

北村龍平監督の『天間荘の三姉妹』である。上映時間は2時間30分。さかなのこの2時間19分をさらに上回る上映時間なので、娘の集中力が途切れないか心配である。実際、2時間ほど経った頃に「パパ、おしっこ!」と言ってきたが、エンドクレジットまで我慢してもらった。

それでも、この映画を選んだのは、「さかなのこ」に主演していたのんさんが出演しているということ、人間関係の設定が、娘が好きな是枝裕和監督の「海街diary」と同じような感じに思えたという2点からである。娘の入り込みやすい映画ではないかとふんだのである。しかし実際は、さすがに4歳の娘には難しい映画のようであった(最後まで飽きずに観てはいたが)。

なんの予備知識も入れずに見始めると、なるほど、そういうことかと、だんだん状況が飲み込めてくる。大人がそう思うくらいだから、ましてや4歳の娘には難解に思えたはずである。観た後で、どんな内容の映画だった?と聞くと、その内容を説明できなかった。そりゃそうだわな。

僕の個人的感想を言うと、最初の導入こそ、是枝裕和監督の「海街diary」の設定を思わせるが、内容的には、大林宣彦監督の「あした」「異人たちとの夏」と、構造がほぼ同じである。とくに「あした」を思い起こさずにはいられなかった。

もうひとつ、最後に、家族写真を撮るというシーンがあるのだが、そこでみんながカメラに向かって見せる指サインは、ピースサインではなく、晩年の大林監督が好んだ「I Love You」の指サインだった。

ここまでくると、この映画は、大林宣彦監督作品へのオマージュなのではないか、と妄想を膨らませたくなる。もちろん、製作者側はたぶんぜんぜんそんなことを意識していないと思うけれど。

ある種の人々にとっては、辛い思い出を喚起する映画だとも思うので、鑑賞には少し注意が必要かもしれない。

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20世紀劇としての「耳をすませば」

10月2日(日)

いま公開中の映画、『耳をすませば』(実写版)を、4歳7か月の娘と二人で観てきた。

4歳の娘には難しい内容かな、と思ったのだが、つい最近、ジブリアニメ版の『耳をすませば』が放送され、その録画を娘が何度かくり返し観ていたので、娘も抵抗なく観てくれるだろうと思ったのである。僕はジブリ映画全般にそれほどの思い入れがないから、一人だったらまず観に行かなかっただろうと思う。

同名の原作漫画が発表されたのが1989年で(ちなみに僕は原作漫画は未読である)、ジブリアニメ版は1995年に公開されている。今回の実写版は、その10年後の物語ということで1998年という時代設定なので、ジブリアニメ版は、原作が書かれた1989年頃の時代設定だったということか。

今回の実写版では、10年前の回想シーンが幾度となくあらわれ、ジブリアニメ版を観ていると、それがどういう場面だったかを思い出すことができる。つまり、ジブリアニメ版を観てから実写版を観た方が、より楽しめるということである。

驚いたのは、隣で観ていた4歳の娘である。ある回想場面で、娘は僕に耳打ちした。

「このあと、指切りげんまんをやるよね」

僕はジブリアニメ版の細かい場面描写をあまり覚えていなかったので、本当にそうかなあと思って観ていると、その言葉通りほんとうにその回想場面の最後で指切りげんまんをしていた。ジブリアニメ版を何度かくり返し観ていた娘は、実写版の回想場面がアニメ版のどの場面にあたるかを、しっかりと覚えていたらしい。まったく、娘の記憶力のよさにはいつも驚かされる。

僕は、この原作やアニメ版の熱烈なファンというわけではないので、今回の実写版と、原作やアニメ版との細部の違いにひとつひとついきり立つようなこともなく観ることができた。印象としては、キャスティングがどれも見事にハマっていて、脇を固める人に至るまで行き届いているキャスティングだと感じた。

ただ、この映画を観る上で、注意が必要だと思う点が一つあった。それは、時代設定が1998年ということである。「10年後の物語」とはいっても、設定は決して現在ではなく、四半世紀近く前なのである。当然、映画の観客はそれを前提として観ていると思われるので、いまさら指摘するまでもない。

映画の中では、携帯電話もパソコンも出てこない。実際、1998年は携帯電話やパソコンがそれほど普及していなかったことは事実である。そればかりではなく、たとえば会社の事務室でたばこは吸い放題だし、「パワハラ」という言葉もなかった。

いまだったら、そういったことの一つ一つに強烈な違和感を抱くだろう。本来ならば、

「編集長、いまのその言葉、パワハラですよ」

という台詞が出てきてもおかしくない場面で、部下は上司に罵倒されっぱなしである。鍋料理を囲んでいるとき、女性が男性に対してあたりまえのように小鉢に取り分ける場面も、いまならば違和感を抱くしぐさである。しかし映画では、女性がそれをあたりまえのようにして、男性がそれをあたりまえのように受け入れている。

実際のところ、1990年代頃はそんな時代だったのだ。その頃を知らない人が見たら、演出に違和感を抱くかもしれないが、時代のリアリティーを重視するならば、その演出は正解なのである。

僕がいちばん違和感を抱いたのは、いちばん最後、つまりラストシーンである。感動的なハッピーエンドでこの映画が終わるのだが、いま、この「アップデートされた時代」にどうにかついて行っている僕からすると、

「そんな終わらせ方でいいの?」

という疑問がどうしても残ってしまった。しかしそれも冷静に考えれば、1998年だったらこの結末が最高のハッピーエンドとして受け入れられたのだろう、ということはよくわかる。演出側はあえてその当時の価値観をリアリティーをもって示したかったのだろう。

つまり何が言いたいかというと、この映画は「20世紀劇」として観る映画であり、演出側の意図も徹頭徹尾その点にあったのではないか、ということなのである。

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さかなのこ

10月9日(日)

4歳6か月の娘と二人で、沖田修一監督の『さかなのこ』を観に行く。

あとで気づいたんだが、『南極料理人』と同じ監督だったのね。

あらかじめ得た情報だと、上映時間が2時間19分もあるということで、4歳の娘は集中力が持つだろうかと心配だったが、『南極料理人』と同じ監督だから、きっと気に入るに違いない、という方に賭けた。

この映画は、さかなクンの自伝をもとにした映画である。僕は常々さかなクンを尊敬しているし、それをのんさんが演じるというだけで、もう観るしかない映画である。

映画の中では、のんさん演じる魚好きの主人公は「ミー坊」と呼ばれている。そしてさかなクン本人も映画の中に「ギョギョおじさん」として登場し、ミー坊に「おさかな愛」を伝授する。こうして虚実皮膜のうちに、物語が進んでいくのだが、ひとつ、さかなクンの登場場面で僕にとっては衝撃的なシーンが一瞬あらわれるのだが、そこが衝撃的であるがゆえに、その場面はとくにグッときた。

進学した高校には、いわゆる不良生徒たちがいて、「総長」だの「赤鬼」だの「青鬼」だの「カミソリ」だの「狂犬」だのと、やたら威勢のいい集団が出てくるのだが、根はみんないいヤツである。さかなクンは、僕よりも下の世代だが、まだ「不良」とか「ツッパリ」が学校に跋扈していた時代だったのだろう。僕の中学時代にも、やれ総番だの裏番だのといったツッパリ連中が学校で幅をきかせていたが、根っからの悪ではなく、総じて気のいい連中だった。僕は生徒会長をやりながらも、なぜか彼らに気に入られていたので、さかなクンと不良連中との交流のシーンは、懐かしい思いで観ることができた。

劇中に「普通って何?ミー坊、よくわからない」というセリフがあり、これがこの映画のキモである。それをのんさんを通したセリフで聞くと、ほんとうにハッとさせられる。

音楽は僕の大好きなパスカルズだった。大林宣彦監督の映画『野のなななのか』の主題曲を担当したことがきっかけになってその存在を知り、それ以来、ファンになっている。

映画の途中、娘は小声で、「おもしろい」と言ってくれたが、僕に気を遣って言ってくれたのかもしれない。それでも2時間19分、娘の集中力はほとんど途切れることはなかった。

次は、「ギョギョおじさん」こと、さかなクン本人の出演番組を娘に見せてやろう。

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最強のスピンオフ映画

7月10日(日)

朝、投票に行ったあと、4歳3か月の娘を連れて映画を観に行く。

観に行った映画は、ディズニー・ピクサー映画の「バズ・ライトイヤー」である。

バス・ライトイヤーは、「トイ・ストーリー」シリーズに出てくる架空のおもちゃのひとつだが、映画の中ではメイン・キャラクターであるカウボーイの「ウッディ」の脇を固める。

つまりこのたびの「バズ・ライトイヤー」は、いわばスピン・オフ映画ということになるのだが、スピンオフ映画というと、なんとなく「面白くない」というイメージがあった。とくに日本の刑事ドラマの「劇場版」なんかでは、主役ではなく、脇役が主演をするスピンオフ映画がけっこう作られてきたと思うが、あまりおもしろいと思った印象がない。

なので、僕自身はあまり期待していなかったのだが、なにしろ娘は「トイ・ストーリー」のファンなので、娘が喜ぶだろうと思い、内緒で、「バズ・ライトイヤー」を観に行くことを計画したのである。

ところが娘は、

「大泉さんの映画泥棒の映画がみた~い」

という。何のことかわからなかったのだが、数日前に、ある民放のバラエティー番組の中で、映画の直前にスクリーンに流れる「NO MORE 映画泥棒」の映像が怖くて、映画館で映画を観ることができない、という若いタレントの悩みに、大泉洋さんが、実際に「映画泥棒」のキャラクターを連れてきて、その若いタレントと仲良くさせることで、「映画泥棒」へのアレルギーを解消させる、といった内容が放送されていて、それを観た娘が、「映画泥棒の映画を観たい」と思ったようである。

なんともわかりにくい説明ですみません。

「じゃあ、映画泥棒の映画を観に行こうか」

「やった~!」

と、娘を誘って、「バズ・ライトイヤー」を観に行くことにしたのである。

で、肝心の「映画泥棒」は、映画の直前に、数十秒流れただけで終わり。娘は、これが映画の本編だと思ったらしく、

「え?これだけ?」

と狐につままれたような表情をした。

すると、おもむろに、「バズ・ライトイヤー」が始まった。ここからが本番である。

…ということで、前置きが長くなった。

期待せずに見始めたのだが、これがすげーおもしろかった!

スターウォーズのような世界観の映画である。

「トイ・ストーリー2」の中で、バズ・ライトイヤーは敵である「ザーグ」とちょっとした対決をするのだが、そこでザーグがバズの父親であることがわかり、バズがショックを受けるというシーンがある。この設定は、明らかに「スターウォーズ」へのオマージュである。

つまり「トイ・ストーリー2」からわかる設定は、

「バズの敵はザーグであり、そのザーグはバズの父親である」

ということのみなのであるが、この映画では、その設定を見事に回収している。回収するばかりか、そこからひとひねり、物語を転がしていくのである。

無敵のバズを支える、頼りない仲間たちもすばらしい。

会社でたとえたら、「こんなヤツ、使えねえよ」という連中ばかりで、バズにとっては足手まといになるばかりなのだが、行動を共にするにつれ、次第にこの仲間たちがかけがえのない存在になっていく。この世の中に、必要でない人など、だれひとりいないのだ、という気にさせてくれる。

それと、LBGTQ+についてごく自然に描いているのもこの映画の特徴である。

というわけで、あっという間の2時間弱であった。

終わったあと、娘に感想を聞いたら、

「おもしろかったけど、ちょっと怖かった」

と言っていた。たしかに、大人でも怖いと思う場面はいくつかあったし、劇場では泣いている子どももいた。しかし一方で、コメディー的要素も強い映画である。

敵が迫ってくるというのに、ポンコツロボットが、どうでもいい説明を延々と喋ってバズたちが足止めを食らう場面では、後ろにいた子どもが、

「おまえは喋るな!」

と、ツッコミを入れていて、それがたまらなく可笑しかった。

娘にどんなところがおもしろかった?と質問すると、どうでもいい場面をよく覚えていて、それを細かく説明していた。

大人はついストーリーを追ってしまいがちだが、子どもはそれよりも、自分にとって印象的な場面こそがその映画のポイントなのかもしれない。

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ベイビー・ブローカー

7月1日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

今週は異常な暑さに加え、投薬期間が重なったせいか、思いのほか副作用が強くてしんどかった。こういうときに限って、金曜日の夕方に「肉体労働」が入っていて、異常な量の汗をかきながら作業をした。一緒に作業していた人たちは、かなり引いていたことだろう。

今週のある日、ちょっと仕事から逃避したいと思い、映画を観に行った。是枝裕和監督の「ベイビーブローカー」である。じつは「アシタノカレッジ金曜日」のゲストが是枝監督と聞いて、予習をするつもりで観に行ったのである。もちろん、僕が10年以上前からの大ファンであるソン・ガンホを見たいというのも、大きな理由の一つである。

感想を書くとネタバレになりそうなので書きにくいが、この映画の中で、「正義」が逆転する瞬間があり、それがとてもよかった。あたりまえのことだが、自分にとって「正義」だと思っていることが、いつの間にか自分の思う「正義」とはかけ離れてしまうことがある。そこに気づかない人がほとんどなのかも知れないが、この映画では、そこに気づく瞬間があるのだ。武田砂鉄氏は「あの場面は見事でした」と言っていたが、僕もその通りだと思った。

「善意」と「悪意」が入り交じったソン・ガンホの演技はやはりすばらしい。ラジオで是枝監督は、あの役はソン・ガンホの当て書きだと言っていたが、たしかにソン・ガンホのよさが存分に発揮された役だった。というか、この映画は、主要な俳優をキャスティングしたあとの当て書きではないか、と思えてならない。

ソン・ガンホのセリフは、役の設定の関係からか、やや慶尚道訛りが入っているように思えたが、それでも、彼の韓国語はほんとうに聞きやすい。それは、僕がソン・ガンホ「推し」だからかも知れないが、もともと彼の韓国語は、荒っぽい口調でセリフを言っているときでも、不快にならない聞きやすさなのだ。そのあたりは、ソン・ガンホと渥美清はよく似ていると僕が感じる理由の一つである。

トークの後半では、映画界改革の話だった。パワハラのない撮影現場、労働環境の改善など、海外で作られているガイドラインを読み込み、この国の映画界の旧態依然とした意識をどのように変えていくかを思案していた。もちろんそれは自分の撮影現場にもふりかかってくる。海外のガイドラインと照らし合わせると、自分の現場にもまだ不十分なところが多すぎる。だからこの国でも早急にガイドラインを作らなければならない、と。

印象的だったのは、自分の過去の作品をふり返り、あれは間違ってました、と率直に認めていたこと。「そして父になる」における、父性や母性を所与のものとしていた偏見への反省が、今回の作品のテーマに向かわせた動機の一つであるとも語っていた。

是枝監督は、以前の取材で、「日本の映画界にはいつも絶望していますよ」と答えていたが、それでも希望を持つことをやめないことは、僕の残りの人生への羅針盤である。とりあえず、「怒鳴らない生き方」は貫き通そうと思う。

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ニコマコス倫理学

5月30日(月)

午前中にふたつのオンライン会議、それが終わってすぐに都内に移動して、3時間近くの打合せをした。予定が立て込んだせいか、帰宅後は動けなくなる。以前ならなんともなかったのだろうけれど、やはり無理がきかなくなってきている。

たまたま見た「100分で名著」で、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終回が放送されていた。朗読は小林聡美。

テーマは「友愛」で、アリストテレスによれば、「友愛」には3つの形があるという。

一つめは、「人柄の善さに基づいた友愛」、二つめは「有用性に基づいた友愛」、三つめは「快楽に基づいた友愛」。

二つめの「有用性に基づいた友愛」とは、たとえば、学生時代、授業のノートを貸してくれたり、試験勉強を教えてくれたりする友だち。三つめの「快楽に基づいた友愛」とは、一緒にいて心地よい友だち。カラオケに行ってバカ騒ぎしたりする友だち。あるいは飲み友だち、等。

二つめについては、有用性がなくなると、関係は疎遠になるし、三つめについては、大人になったり、趣味が変わったりする過程で、やはり関係が疎遠になる。一つめの「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、有用な友だちでも、快い友だちでもないのだが、お互いの人柄を尊重し、長続きできる友だち。しかし一つめの友だちを獲得するためには、お互いの人柄を理解しなければならない時間が必要である。

聞き手の伊集院光氏は、得意の漫才コンビとか野球チームなどにたとえて、この分類を理解していたが、おもしろかったのは落語のたとえである。いわく、

落語に登場する「与太郎」は、みんなで一緒に行動しても、まったく役には立たないし、よくポカもする。ではみんなにとって必要のない存在なのかというと、そうではない。与太郎がいると、空気が和み、まわりが安心し、何か困ったことがあったときも、与太郎の人柄でなんとかなる場合もある。「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、与太郎のような存在なのではないか。しかし、いまの世の中で、組織の中でリストラが行われるとしたら、まっ先にその対象となるのが与太郎のような存在なのではないだろうか。そうなるとその組織はギスギスする。

…と、こんな内容だったと思う。

以前もこんなこと、たしかブログに書いたよなあと思って過去をたどってみたら、

マネージャーのキクチさん

というタイトルで書いていた。

だから、アリストテレスの友愛論は、僕にとってしっくりきたのだ。

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ネタバレ注意

やるべきことが多すぎて、途方に暮れる毎日である。したがって、ただひたすら雑用に追われ、何も書くことがない。

映画「シン・ウルトラマン」のパンフレットを買ったら、パンフレットに帯がかかっていて、「ネタバレ注意」と赤字で大書されていた。

これは、どう解釈すればいいのだろう?

昨今、テレビやラジオでは、映画評論家が「ネタバレ」しないように、注意深く映画の紹介をする風潮がある。そういう風潮からすると、「ネタバレ」は歓迎されないこととしてとらえられているように思える。実際、僕の妻も、「ネタバレ」をひどく嫌う。

しかし一方で、こんな見方もできる。

世の風潮として、ネタバレを嫌うのが主流だったとしたら、わざわざパンフレットを帯で封印して「ネタバレ注意」とは書かないのではないか?映画よりも先に。パンフレットを見ちゃう人が多いから、「あらかじめパンフレットを見ちゃったら、映画の面白さが半減しますよ」と、ともすればネタバレを歓迎する人たちへの、映画を提供する側からのメッセージととらえることができる。

どっちなのだろう?

今週の月曜日、荻上チキさんの代打として武田砂鉄さんがパーソナリティーをつとめたTBSラジオ「Session」の「メインセッション」のコーナーは、「映画を早送りで見ますか? サブスク時代のコンテンツ消費がもたらす現状と課題」という特集で、ライターの稲田豊史さんがゲストだった。聴いていてなかなか面白かった。

最近は、わかりにくさを好まない。映画の中で、結局だれが善人で、だれが悪人なのか、といった正解を求めようとする。結論がわからなければ、安心して映画を観られない。本来ならば、映画に対する感想は千差万別であるはずなのに、それが許されない風潮、「共感」することをよしとする風潮がある、等々。

そういう昨今の風潮からすると、結論が見えないことほど不安なことはなく、ネタバレには抵抗がなくなっているのではないか?「ネタバレ注意」を求めているのは、観る側ではなく、提供する側なのではないか?

パンフレットに巻かれた帯に書かれた「ネタバレ注意」の赤字を見て、そんなことを感じたのである。

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あるある映画

5月18日(水)

どうしても見なければならない映画があった。

それは、いま話題になっている、あるドキュメンタリー映画である。観るとしたら今日しかない、と思い、近所の映画館に赴く。地味な映画ながら、サービスデーだったこともあって、ほぼ満席だった。

もともと2017年にテレビ局のドキュメンタリー番組として放送されたものを、その後の経過を追加撮影、再編集して劇場用映画にしたものである。

テレビ放送された2017年当時よりも、この国の状況はさらに悪化していることがうかがえた。

なぜ、この映画をどうしても見なければならないと思ったかというと、僕自身が、このテーマに関わる、当事者の1人であったからである。

ここ数年、とくに昨年、僕が実際に体験し、目の当たりにしたことが、映画の中で手に取るよう立ち現れてくる。僕にとっては、あるあるネタ満載の映画だったのである。

こんな損な仕事は、今後、誰も引き受けなくなるのではないだろうか、とさえ思われたが、だからといって、こっちが身を引いてしまうと、やりたがる人間の天下になってしまう。それだけは、阻止しなければならない。結果的に、引き受けてよかった。

この映画の監督は、ここ最近、ラジオ番組や動画配信サイト番組での対談に引っ張りだこである。終始、明るい声で、なにより、めげない性格がすばらしい。本人はそうとうたいへんだったと思うが、それでも心が折れなかったのは、精神的にタフであるとしかいいようがない。

映画の登場人物の中で、この人を俳優の柄本明に演じさせたら最高だろう、と思いたくなる人が出ていた。僕とまったく縁のない人というわけではないのだが、その人の発言が、滑稽で、悲しく、そして恐ろしく、僕は複雑な気持ちになった。以前に見た映画『主戦場』でも同じことを感じたが、ああいうことをカメラの前で無邪気に語ることができる心理構造というのは、どうなっているのだろうと不思議でならない。想田和弘監督の映画『選挙』しかり、「あの種の人たち」は、なぜか無邪気に語りたがる。

こんなことが書けるのも、僕が数年かけて体験したことどもが、万事解決して、情報解禁されたからである。でもその仕事の代表者は、「無事に、というよりも、満身創痍で解決した」と言っていた。僕は末席に連なっただけだが、前線に立った人たちには計り知れない苦労があったのだろう。映画を観ながら、前線に立った人たちの苦労を重ね合わせた。

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