映画・テレビ

KOC雑感2023

KOC雑感

10月21日(土)

テレビをつけたら、「キングオブコント」をやっていた。

最初の1,2組あたりは見逃してしまった。どうやらこの最初の方の組が相当なインパクトがあったらしいのだが、僕の知らないグループだった。

この番組を家族で観ていると、いつも審査員の話題になる。

「(ロバート)秋山が審査員になるくらいだったら、女性の審査員を入れればいいのに」

「そうだね。たとえば?」

「大久保(佳代子)さんとか」

「なるほど、友近もいいよね。ヒコロヒーは?」

「ヒコロヒーはあまり好きじゃない」

「阿佐ヶ谷姉妹なんかもいいんじゃないか?」

「そうだねえ。優しい語り口で毒を吐きそうだね。『ちょっとよくある設定かしらねえ』『そうねえ』とか」

「(笑)」

「『右のかたがもっとはじけた方がよかったんじゃないかしら』『そうねえ』」

この場合、「そうねえ」と言っているのは、おそらくミホさんのほうなのだろう。

「いとうあさこなんてのはどう?」

「うん。でもいちばん最強なのは…」

「……」

「野沢直子がアメリカからオンラインで審査に参加することだよ」

僕は思わず膝を叩いた。そうだ、野沢直子がいた。でもそれだったら、清水ミチコもYOUもいるぞ。

ま、それもこれも、こちらの勝手な希望に過ぎないのだが、女性審査員を入れるべきだという主張は撤回しない。

ファイナリスト10組のうち、男女のペア、というのは蛙亭しかいない。あとは全員男性グループである。

僕は蛙亭のコントが結構面白いと思ったのだが、審査員は、僕が思っていたほど高い点数をつけたわけではなかった。女性が入ると、男性審査員の目が厳しくなるのか?と邪推をしてしまう。

そもそも、男性が優遇されるようにこの国の社会が設計されていることに問題があるのだと、お笑いの番組を前にして、ついそんなことも考える。

ファイナリストの10組目はラブレターズだった。決勝(最後の3組)に残ることを期待していたが、残念ながら敗退してしまったので、決勝戦を観る前にテレビから離れた。

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福田村事件

10月12日(木)

朝8時、5歳の娘を保育園に登園させたあと、その足で映画『福田村事件』(監督:森達也)を観に行く。

きっかけは、前日に高校時代のすぐ下の後輩が、SNSでこの映画を観に行ったことを発信していたことによる。そういえば、この映画を観に行きたいと思いつつ、全然時間がなくて観るのを諦めていた。しかし観に行くようにと、高校の後輩が背中を押してくれた。

観るとしたら今日の午前中しかない、と思い、急遽上映館を探したところ、うちの近所の映画館で朝一番で上映があり、娘を保育園に送り届けたあとのタイミングでバスに乗れば、十分に間に合うことがわかった。やるべき仕事は多かったが、それを措いて観に行くことにしたのである。

映画『A』の頃から、森達也監督のドキュメンタリー映画や著作をそれなりに見守ってきた僕にとっては、ぜひ観るべき映画であった。しかし、ドキュメンタリー映画を撮り続けてきた森監督が、劇映画に進出することに、若干の躊躇があったこともまた本心である。

森達也監督については、以前に少しだけ書いたことがある

実際に『福田村事件』を観てみると、まことに失礼な言い方だが、ちゃんと「劇映画」していた。脚本の熱量と、出演俳優陣の熱演によるところが大きいが、それを劇映画としてまとめ上げた森監督の手腕は、いくら評価しても評価しすぎることはない。

映画じたいは辛い内容で、一見救いのないのない結末のように思えたが、最後の最後は、かすかな希望をいだかせるカットで終わった。やはり森達也さんは、この世界に絶望していないのだ。『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』という森さんの著書タイトルを思い起こさせる。

思い起こさせる、といえば、森監督がメジャーになるきっかけとなったドキュメンタリー映画『A』との関係である。「空気が支配する世の中」「集団の狂気姓」といった問題意識から見たら、『A』と『福田村事件』は地続きである。

映画を観てから、各種メディアで森監督が発言していることを確認してみたら、ドキュメンタリー映画と劇映画との垣根はそれほど感じなかった、といったようなことを言っていて、そのとおりだなと思った。

映画作家の大林宣彦監督は、

「映画は、虚構で仕掛けてドキュメンタリーで撮る」

「映画は、風化しないジャーナリズム」

という言葉を残している。

この映画は、まさにその言葉のとおりの映画ではないか。これは、僕の独りよがりの感想である。

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風穴を開ける

9月16日(日)

午後は、5歳の娘と二人で映画館で『プリキュアオールスターズF』を見に行った。映画館の客席がずいぶん混んでるなあと思ったら、昨日公開したばかりだったのね。僕が何も考えずに「プリキュアの映画、観に行く?」とうっかり提案したら、狂喜乱舞していたので、連れていくことにしたのである。

といっても僕はプリキュアがどんな内容のアニメなのかは知らない。ぼんやりと女の子たちが主人公のヒーローものなのかな?というくらいの知識しかないのだ。でもプリキュアのテレビ放送が始まってから20年経っているそうで、そんなに長寿番組だったっけ?と驚くばかりだった。

で、このたび初めて映画を観て、プリキュアのなんたるかを学んだのだが、僕のファーストインプレッションは、

(これは、ウルトラマンシリーズみたいなものなのか?)

という仮説が思い浮かんだ。テレビでは、この20年間にいろいろなプリキュアのチームが交代で活躍し、今回、歴代のメンバーが勢揃いして「オールスター」というタイトルがつけられたみたいだ。

たとえていえば、ウルトラマンとかウルトラセブンとか、テレビシリーズで活躍した歴代のウルトラ兄弟が勢揃いしたというのが、この映画なのか???

少なくとも僕はそんなつもりで観たのだが、上映時間もほどほどの長さだったし、娘は飽きるどころか大興奮して、家に帰ってからも、映画館で手に入れた小型のライトみたいなものやキーホルダー状の小さなお人形を使って、ウルトラマンごっこならぬプリキュアごっこをしていた。

さて、僕は帰宅後に、大仕事が待っていた。

これ、話せば長くなるし、どこまで書いてよいものか非常に悩ましいところなのだが…。

話の発端は、保育園のママ友たちが、有志で卒園記念のアルバムを作ろうという話で盛り上がったことに始まる。

保育園からは卒園時にアルバムのようなものが配られるのだが、どうもそれはあまりにも簡易なもので、しかも白黒ということで、保育園の保護者たちは、いたく不満なのだという。もっと思い出に残るような、カラー版の素敵な卒園アルバムを作りたい、と誰かが言い出したのだ。誰が言い出したのかは、いまとなってはわからない。

しかしそれは簡単なことではないので、必ずしも必要ないんじゃないか?あったとしても、できるだけ簡易に作れるものにした方がよいのではないか?という意見の人たちも、一定数いる。実はわが家もその立場である。

それで、ママ友のグループLINEでアルバムを作るか否かで決を採ることにしたところ、作るという意見が過半数を超え、結局作ることになった。一方で、作らなくてもいいんじゃないか、という意見も一定数いたことは、ここではっきり書いておかなくてはならない。

そこから数か月にわたって有志で集まって、どういうアルバムを作ろうかという話し合いの場を設けているようなのだが、いっこうに話が進んでいないようだった。

で、この日、また打合せをしたいというLINEがママ友たちの所に来て、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、ということになったのである。

うちの家族がかねて不思議に思っていたのは、なぜそのアルバムに関する意志決定には、ママ友だけが参加して、パパは排除されているのか、ということであった。そもそも、グループLINEがそういう構造になっているので、パパは蚊帳の外なのである。案の定、パパがその打合せに参加すると表明する家は一つもない。

それっておかしいんじゃないの?といううちの家族の総意で、パパである僕が参加することにしたのである。ママ友の会にパパが参加するのは明らかに「場違い」と言われそうだし、「空気を読めよ」「忖度しろよ」と思われるに決まっているのだが、うちの家族はそういうことが嫌いなので、ここは、パパが参加することで風穴を開けようということになった。僕にとっては、ママ友に混じって一人参加することに逡巡する気持ちはなくもなかったが、だれかがやらないとこの悪弊は永遠に続いてしまうし、僕は周りにどう思われてもバカなふりをすればいいや、と思うことにして、思い切って参加することにしたのである。

グループLINEによると、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、とあったので、はは~ん、これは単にママ友たちだけで呑みたいのだな、こりゃあ、アルバムについての打合せなどまとまらないぞ、というか、今まで数か月にわたって何にも決まっていないのは、そのせいなのか、と納得がいったのである。

で、近くのスーパーでウーロン茶と300円くらいのお菓子を買い、集合時間を10分ほど遅れて公会堂に到着すると、すでに大声で打合せが始まっていた。僕が打合せの部屋に入ると、一瞬、空気が張り詰めた。

「すみません。場違いな者がおじゃましてしまって」

「いえいえ、そんなことないですよ」

と言うのだが、明らかに僕の扱いに困るという表情だった。

最終的に集まったのは、僕を含めて9人。つまりママ友は8人ということになる。

ところでクラスの園児は全部で26人。ということは、大半の人が参加していないということなのだ。連休の中日なので、予定が入っているのだろうと思った。

最初はアルバムの打合せをするのだが、それぞれが勝手な希望を言い出し、たちまち収拾がつかなくなる。僕はだんだんイライラしてきた。

だれかが、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れましょう、と言いだしたので、僕はつい我慢できず、

「保育園のアルバムで、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れるって、それ関係なくないっすか?」

と言ったら、

「でもみんなの0歳のときの顔って見たいじゃないですか。親のエゴと言われればそれまでですけど」

と反論され、ほんとうに他人の子どもの0歳の顔って見たいと思うか?0歳なんて全員同じ顔してるぜ、と心の中で思ったが、おくびにも出さなかった。

あと、卒園式のときの写真も載せましょうと言い出すヤツがいた(もう「ヤツ」って言っちゃってるよ)。これもたまらず発言した。

「卒園式の写真をアルバムに入れることにしたら、卒園式で配れないじゃないっすか。たとえば小学校の卒業アルバムで、卒業式の写真なんてなかったじゃないっすか」

卒園式のときの写真をアルバムに収めることにしたら、卒園して小学校に入学したあとにアルバムが手元に来ることになる。それもまた面倒なこことになりはしないか?と僕は思ったのである。しかしこの意見も、

「でも卒園式で子どもたちが着飾った姿をアルバムに収めたいじゃないですか。親のエゴかも知れませんけれど」

と一蹴された。

僕が自分の子どもに対する愛情が薄いということなのか?と、この時点でかなり自分を責めたのだが、同時に僕ごときが何を言っても無駄なのだ、ということに気づいたのである。そこからはひたすらピクニックフェイスを心がけた。

僕はお酒を飲まなかったが、8人のママ友たちはアルコールが入り大声になり、時間が経つにつれてアルバムのことなんかどうでもよくなり、全然違う話題に脱線しまくっていた。酒が進むと、アルバムに乗り気でないほかの保護者へのやんわりとした批判や、保育士の方に対する愚痴とか悪口、はてはお連れあいに対する悪口雑言なども飛び出し、とても聞くに堪えない状況になっていった。

「決してクレーマーというわけではないんですよ。みなさんのためを思って…」

と弁解がましく言っていた人もいるのだが、いやいや、あなた、立派なモンスターペアレントですよ。

どおりで保育士さんが保護者を警戒するわけだ。

そこでようやく僕は理解した。

クラスの園児26人の保護者のうち、この日に欠席した17人保護者たちは、全部とは言わないが、初めからこうなることがわかっていたんじゃなかろうか?で、防衛本能がはたらいたのだ、と。いずれにしてもこれは、明らかに「サイレント・マジョリティー」という言葉がふさわしい。

もっとも、ママ友だとかパパ友が一人もいない僕の目から見た光景なので、「あの場に参加していたママ友はヤベーヤツばかり」というのはあくまでも僕の目線から一方的に見た偏見にしか過ぎませんよ!

僕は1時間を過ぎたあたりから気分がひどく悪くなり、2時間が経った8時過ぎにもう耐えられなくなり、

「そろそろ失礼します」

と、公会堂をあとにした。僕が出てから欠席裁判が行われているだろうなあと気分も悪くなったが、なんとか気持ちを落ち着かせようと、そのあとTBSのドラマ「VIVANT」の最終回をリアタイして、なんとか気持ちが復調した。

…ちょっと大げさに書いてしまったところもあるが、ママ友の飲み会を取材したと考えることにし、いつかこれをコントにしてみたいと思っている。

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再び「荒野に希望の灯をともす」

8月28日(月)

やらなければいけない仕事は山ほどあるのだが、先日観たドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」が、都内の老舗の映画館が1週間ほどのリバイバル上映を行うことを知り、時間が空いているのは今日しかないな、と、仕事を脇に置いて多少の後ろめたさを感じながら観に行くことにした。

たまたま今日は、上映後に監督と、僕が以前からファンの探検作家の二人によるトークショーがあるということも、僕を2度目の映画鑑賞に駆り立てた。

上映後のトークショーの中で監督は、この映画の主人公である中村哲さんと、僕が愛読する探検作家さんとは共通項が多いというお話をされていたが、それは僕も最初に映画を観たときに感じていたことであった。そのあたりのことをトークショーの中でお二人が解き明かしていて、30分という短い時間だったが、とても興味深いお話だった。

「上映後、映画パンフレットにお二人のサインを書いていただく時間を設けますので、ご希望の方はどうぞ」

というアナウンスを聞いてしまったら、サイン本マニアの僕としてはサインしてもらわないわけにはいかない。

さっそく地下の映画館を出て映画パンフレットを握りしめて階段をのぼると、お二人がすでにスタンバイしていた。

お二人にサインをもらったあと、僕はまず監督に思い切って声をかけた。

星空の映画祭の時に観て感激して、今回2回目です。中村哲さんがこんなにすごい人なんだということを、この映画で初めて知りました」

「それはそれは、どうもありがとうございます」

次に探検作家さんにも思い切って声をかけた。

「あのー、実は以前、○○市の××という書店のトークイベントに参加して本にサインをもらった者です」

「あ~、そうでしたか。どおりで見たことのある顔だなぁと思っていました」

同じ秘境を探検した者です」と、僕は前回まったく同じ内容のエピソードを伝えて、

「どうもありがとうございました」

と映画館をあとにした。

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荒野に希望の灯をともす

8月12日(土)

毎年、この時期に行われる「星空の映画祭」に、久しぶりに足を運んだ。

コロナ禍のときは開催していたのかどうか、記憶にないが、いまも続いていることがうれしい。

8月の初めから後半にかけて、文字通り星空の下で映画を野外上映する。上映される映画は、少し前に話題となった作品や、ファミリー向けを意識した作品など、複数の作品を、会期中にローテーションしながら上映するのである。

この日の上映作品は、劇場版「荒野に希望の灯をともす」(2022年、監督:谷津賢二)というドキュメンタリー映画である。

この映画の主人公は、アフガニスタンやパキスタンで医師として活動してきた中村哲さん。2019年にアフガニスタンで何者かによる凶弾に倒れ、帰らぬ人となった。そのことはニュースで大きく取りあげられた。

まことに恥ずかしいことに、僕はそのニュースを見るまで、いや、ニュースで取りあげられたときも、中村哲さんが、具体的にどのような活動をされてきたのかをほとんど知らなかった。もちろん、以前からお名前は知っていたし、アフガニスタンで活動をされていたということくらいは知っていたが、それ以上について知らなかったし、ひょっとしたら知ろうとしてもいなかったのかもしれない。

しかし昨年、中村哲さんに関するドキュメンタリー映画が都内の老舗のミニシアターで上映されるという情報を聴き、機会があれば観に行ってみたいと思っていたのだが、最近、よっぽどのことがないと劇場で映画を見る機会がないので、結局そのチャンスも逃してしまった。

で、たまたま今日、「星空の映画祭」で上映されると知り、昨年来なんとなく心に引っかかっていたドキュメンタリー映画がここで観られる!と思い、家族の許しを得て、ひとりで観に行くことにしたのである。

「当日券は午後7時に販売します」とあったので、7時少し前に会場に行くと、すでに列ができていた。家族連れや友人同士が多く、夕食を意識した屋台もいくつか並んでいる。たしかに夜7時は夕食どきである。どうもこの屋台も含めて「星空の映画祭」の名物となっているらしい。

家族には事前に「野外上映なので、直に座るとお尻が痛くなるから、ビニールシートとか座布団を持っていった方がいいよ」とアドバイスされ、そのアドバイス通りにビニールシートと座布団を持参したのだが、結論としては持っていって正解だった。上映中、直に座っていたら、お尻の痛みに耐えかねただろう。

夜7時、当日券の販売と同時に開場である。チケットを買って、導線通りに歩いて行くと、大きなスクリーンが張ってある野外劇場に着いた。スクリーンの前の座席は…、座席といっても、階段状に段差があって、その段差の先端にある切石のような部分に腰掛けて鑑賞するのである。つまり石の上に座らされるわけで、ビニールシートや座布団がないとかなり痛い目に遭う。

階段状の段差、といっても、各段は階段のような幅の狭いスペースではなく、ビニールシートが敷けて数名が車座になって宴会ができる程度の広さがある。

僕自身もビニールシートや座布団を置いて、自分の座る席を確保した。すると次々と人が集まってくる。こんな言い方は失礼だが、地味なドキュメンタリー映画なのに、どうしてこんなに人が集まるのだろう、と不思議でならない。

その多くが家族連れや友人同士である。家族連れはビニールシートを敷いて車座になり、食事をとりはじめていた。隣に座った友人同士とおぼしき二人も、屋台で買った弁当を食べ始めた。

映画の上映開始時間は午後8時。つまり開場から開演まで、1時間もあるのだ。この1時間の間中、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。ほんとに映画を観る気があるのか?と疑いたくなるような光景である。

上映5分前に、ボランティアと名乗る司会の人がマイクで諸々の注意事項を説明し始めた。一通り説明が終わったあと、

「今日の映画は、私たちのイチオシの映画です」

と言った。話題作が並ぶ中で、この映画がイチオシなのか。あるいは映画を上映するたびに言っているのか。たぶん前者だろう。

「このあと、映画の上映が始まる直前、すべての照明が消えて、会場が一瞬真っ暗になります。その時に、どうか空を見上げてください」

司会者の説明が終わり、スクリーンに短いCMが流れたあと、ほんとうにすべての照明が消えて真っ暗になった。空を見上げると、いくつもの星が瞬いている。少し雲がかかっていたのが残念だったが。

一瞬の暗黒のあと、映画が始まった。

中村哲さん自身の言葉(朗読・石橋蓮司)とともに、中村哲さんの活動の様子が、多くの映像や写真を交えながら時系列的に語られていく。

医師としてパキスタンやアフガニスタンに自ら志願して赴き、無医の地域に少しずつ診療所を作っていく。少しずつ活動の幅を広げて、多くの人たちの信頼を得ていくようになる。

しかし、医学的な治療には限界があった。そもそも、病気に苦しむ人を少なくすることこそが大事なのではないかと。病気の根本原因は「飢え」である。多くの人たちが食べるに困らないような環境を作らなければならない。

干ばつにより大地が枯れていく姿を目の当たりにした中村さんは、「大地を潤すための用水路を作る」という、突拍子もない計画を思いつく。ここからがこの映画の後半であり、ハイライトである。土木工学を一から勉強し、自然の脅威に悩まされながら、枯れた大地に水をたたえた長い用水路をひく。あたり一面砂漠だった土地が、数年経って森に変わる姿は圧巻である。緑だけではない。その土地で諦めかけていた農作物の豊かな稔りも可能になったのである。

中村哲さん自身による、心を揺さぶる言葉とともに、映像はその言葉を裏付けるように「苦難」と「達成」の繰り返しを描き出す。中村さんの活動は、言葉にならないほど圧倒的である。朴訥とした印象、というのはあくまでも僕が映像を通して感じた印象だが、その朴訥とした印象を持つ中村さんのどこに、あのようなエネルギーが蓄えられていたのだろう。

さて、僕が感動したのは、映像の中だけではない。上映前に、車座になってお弁当を食べたり、ときにはお酒を飲んだりして、思い思いの時間を過ごしていた家族連れや友人同士の観客たちが、映画が始まると水を打ったように静まりかえり、映画を食い入るように見入っていたことである。

そして90分ほどの上映が終わったが、エンドロールが終わるまでだれひとり立ち上がって帰り支度する者はいない。それどころか、エンドロールが終わると、大きな拍手が巻き起こったのである。

星空の映画祭では、映画が終わるたびに拍手をする習慣があるのかどうか、よくわからないが、それにしても、すべてが終わり、会場の明かりがついたときにもう一度大きな拍手が起こったので、やはりこの映画に対する心からの拍手だったのだろう。

最高の映画祭だった。

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いまさらマリオ

5月21日(日)

トラック野郎行脚は、5月18日(木)に無事終了し、夜に帰宅した。翌日、翌々日は、無理をした反動で、何もやる気が起きず、ぐったりしていた。

旅先で一人で連泊していると、翌朝、身体が動かなくなってしまうんじゃないか、という不安に駆られてしまう。最終日もその不安に苛まれ、早朝に目が覚めてしまい、「こりゃあいよいよダメかな」と思いながら時間をやり過ごしているうちに、なんとか体調が戻り、無事に時間通りに集合場所にたどり着き、最終日の仕事もひととおりこなした。トラック野郎行脚はあと1回あり、それが終わるまでは気が抜けない。

今朝、5歳の娘が「映画が観たい」と言ってきた。先日、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』を観たばかりだったので、いま公開中の映画の中で、5歳の娘にとって適当な映画があるかどうか…。

もちろん、『ザ・スーパー・マリオブラザーズ・ムービー』が上映中であることは知っていたが、僕自身がなかなか気が進まない。というのも、僕は「コナン弱者」以上に、「マリオ弱者」だからである。

生まれてこの方、テレビゲームをほとんどしたことのない僕にとって、「スーパーマリオ」というのは、まったくわからない存在なのである。

もちろん、口ひげを生やして赤い服とオーバーオールを着た小男が「マリオ」だ、というくらいは知っているが、それ以上のことは、なんにも知らないのだ。

しかも、2016年のリオ五輪のときだったか、次の2020年の五輪は東京です!ということをアピールするために、当時のこの国の首相がマリオの格好をして登場したのを見てサムくなり、マリオに対する評価が著しく低下してしまったのである。それ以来、すっかりマリオアレルギーになってしまった。

そんなことで、この映画が楽しめるのだろうか?

しかし、上映時間を調べてみると、90分ほどの短い映画だったし、ほかに選択肢もなかったので、ものは試しに見て見ようかと思い直し、娘を連れて観に行くことにした。

劇場に行くと、封切りからけっこう経っていると思われるのに、座席はそこそこ埋まっている。もちろん、そのほとんどが親子連れである。

結論から言うと、マリオのマの字も知らない僕にとっても、十分に楽しめた映画だった。娘ももちろん大満足だった。

僕はこの映画を見つつ、現在の世界情勢について思いをめぐらせた。野望を持つ巨大な悪の王国が、周辺の国々を次々と武力で侵略する。その中でも、平和に暮らしていたある国がその悪の王国による侵略の脅威にさらされ、その侵略に対抗すべく、別の国の軍隊に応援を頼んで、支援を受けた武器で悪の王国の侵略に必死で抵抗する、というストーリーだと僕は理解したのだが、これって、何かのメタファーなんじゃなかろうかというのは、考えすぎだろうか。

というか「スーパーマリオ」って、もともとそういうゲームなのか?だとしたら、考えすぎだな。

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「四月の魚」再考

1月27日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

最近は、ほんとうに1週間単位で、生きていることへの安堵を感じる。

高橋幸宏『LOVE TOGETHER YUkIHIRO TAKAHASHI 50th ANNIVERSARY』(KADOKAWA、2022年9月)という本が出ていることを、つい最近知った。ユキヒロさんが亡くなる前に刊行されたものである。

実に多くの人たちがユキヒロさんの思い出話を語ったり、あるいは過去にユキヒロさんがいろいろな人と対談した記録がまとめられている。とにかくユキヒロさんと関わりの深い人たちが、この本の中で一堂に会しているのである。

この中で僕が読み耽ってしまったのが、三宅裕司さんへのインタビューと、2015年4月6日に行われた大林宣彦監督とユキヒロさんとの対談である。

三宅裕司さんがまだぜんぜん売れていない頃、ユキヒロさんが劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に注目し、「高橋幸宏のオールナイトニッポン」で三宅さんを抜擢し、「SET劇場」というコーナーを作った。それが三宅さんが頭角を現すきっかけになったのである。その後、YMOの最後のアルバム「SERVICE」に、曲間にSETのコントが入っていることはよく知られている。

そのインタビューによれば、三宅さんが所属するアミューズの副社長・出口孝臣さんが、ユキヒロさんにお世話になったお礼に何かしなきゃというので、映画を1本作ろうということになった。それが『四月の魚』だというのである。『四月の魚』の企画は、アミューズの出口さんと大林監督によって立ち上げられたのだ。なるほど、そういうことだったのか。

三宅さんのインタビューに続いて、大林監督とユキヒロさんの対談が収録されている。2015年の対談なので、まだ『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の企画が立ち上がる前である。

この対談も、僕にとっては興味深い。ユキヒロさんが「この映画(『四月の魚』)、ちょっと早すぎたかも知れないねと、監督がおっしゃってましたね」というと、大林監督が答える。

大林「そう。こういうおしゃれなラブコメディは、当時、まだ日本になかったから。まだまだシリアスなものがほとんどで」

司会「監督のフィルモグラフィの中でも珍しいタイプの作品ですか?」

大林「珍しいですよね、これは。たまたまジェームス三木が書いた原作が面白かったから、『よし、これでビリー・ワイルダーやジャック・レモンのような、おしゃれな映画を作ってやろう』と。でも、いい役者がいませんよ。いや待て、高橋幸宏という人がいるじゃないか、と」

たしかに。大林宣彦監督には珍しいウェルメードなおしゃれなラブコメディ。僕の見立ては間違っていない。

『四月の魚』の撮影のあとは、原田知世主演の『天国にいちばん近い島』に、原田知世の父親役でゲスト出演する。もっとも、映画の中で二人が絡む場面はなく、原田知世がユキヒロさんの遺影を持っているという場面のみである。このことについて、大林監督は次のように語っている。

大林「しかも今、実際に知世ちゃんと一緒に(pupaを)やっているんでしょ?僕はね、『辻褄が合う夢』って言っているんだけど、そのときは勝手な夢を見てやっているだけのつもりが、時間が過ぎて後から振り返ると、すべて物事の辻褄が合っているんです。今、幸宏ちゃんが知世ちゃんと一緒にやっているということは、もうここで既に決まっていたという」

高橋「僕も運命論者なので、それは何となくわかる気がしますね。偶然は必然だっていう」

大林「人間の偶然は神様の必然でね。僕たちは、上の人(神様)の必然に従って生きているだけでね。ただ、それがわかる能力がないから「偶然だ、偶然だ」と思っているだけで、ちゃんと繋がっているんですよ」

このあたりの大林監督の言葉は、監督の哲学がよくあらわれているところである。とくに「辻褄が合う夢」は、僕自身がこれまで生きてきて実感していることでもある。

そして対談の最後。

大林「必然的に出会ってから随分と親しく、こうやっていろんな映画に出てもらって、僕にとって、友達です」

高橋「監督に、そう言ってもらえるのが一番嬉しくて。あるとき監督が、『僕は友達が多そうにみえるかも知れないけれど、友達ってそんなにいないんだよね』とおっしゃっていて。そんな中の大切な一人だからと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった」

大林「皆さんはどうかな?『友達』っていうと、年中会ってね、無駄話をしたり、お酒を飲んだりしてると思うでしょうが、幸宏ちゃんと会うのは久しぶりだよね?ほんとうに大切な友達っていうのはね、みだりに会っちゃいけないんです。どうかしたら一生会っちゃいけないかもしれない。人は会うと下品になるから、会わないでいるほうが上品になれる。今日はこういう形で、仕事として会いながら、とても大切な友情の場になっているんだけど、『幸宏ちゃん、ちょっとお酒飲まない?』といういう風にはいかない。離れていると、お互いに詩的な素晴らしい関係でいられるけど、会うとすぐに駄洒落が出たりするしね(笑)」

高橋「確かに(笑)」

大林「そんなわけで、幸宏ちゃんは、みだりに会っちゃいけない大切な人。その代わり、いつも心の中にいます」

この「友達論」も、大林監督がよく語る哲学で、僕もこの生き方を真似している(つもりである)。「またこんど、飲みに行きましょう」ではなく、「またこんど、一緒に仕事しましょう」というのが、再会を約束する言葉である。

この対談の3年後の2018年、大林監督は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の撮影を開始し、ユキヒロさんはとても重要な役にキャスティングされる。大林監督は、ユキヒロさんとの大切な友情の証として、人生の最後に、一緒に仕事をするという約束を果たしたのである。

なんという「辻褄の合う夢」だろうか。

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いまになってわかること

12月31日(土)

朝、ボンヤリとNHKを観ていたら、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」が再放送されていた。

観たいと思っていた番組だ。

今年の6月に、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークで、大竹まことさんが訥々と、この番組について語っていた。

以下、そのときのトークの様子を、文化放送の公式HPから引用する。

「6月14日(火曜日)大竹まことゴールデンラジオ(文化放送)で、パーソナリティの大竹まことが2019年に撮影されたウクライナ・キーウの平和な街歩き映像をテレビで鑑賞し、現在のキーウの映像との違いに打ちのめされたことを語った。

大竹が観たのはNHKの「世界ふれあい街歩き」という番組で、3年前のキーウの静かで平和な映像が映され、その後、現在の同じ場所にあるロシア軍戦車の残骸が映されたそう。2019年の映像で子供たちと一緒にピザを作り、食べさせていた現地の帰還兵らが、今は戦場に赴き、一人は亡くなっていると明かされたり、また、2019年の映像でウクライナ伝統の楽器を演奏し歌っていた街の人も、現在は戦場に向かっていると説明されたりしたという。大竹は「ウクライナは過去に色んな戦いからやっと落ち着いて、平和に暮らせていた時に、今回のことが起きた。歌っていたあの人は楽器を捨てて銃を持っているのだよね」。と短い期間に起きたあまりの変化に信じられない様子。

フリーライターの武田砂鉄も「バンドのクイーンが以前ウクライナでライブを行った映像を無料公開したのを見たが、その会場で熱狂して音楽を楽しんでいた人々が、今は文化やエンターテイメントを奪われてしまっている。そういうところへの想像を常に持っておかないといけないと感じる」。と現地に人々の現状に思いを馳せた。大竹は「判断はともかく、こういうことになっているといいたかった」。とリスナーへ力を込めて語った。」

少し補足をしておくと、このときに大竹まことさんが観た「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ」は、今日再放送された「特別版」と同内容で、2019年に放送されたバージョンに、戦争が始まったその後の状況について、ナレーターのイッセー尾形さんが補足している、というものである。ちなみに、大竹さんとイッセー尾形さんは、古くから親交のある芝居仲間である。

僕はこのときのオープニングトークがずっと印象に残っており、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」をいつか観たいと思っていたのが、大晦日になって、やっと実現した。

2019年放送の時点では、キエフは実に穏やかな街であった。2014年のウクライナ危機から帰還した兵士が、社会復帰のために子どもたちとピザを作る、という、その帰還兵の顔は、穏やかで楽しそうな顔をしていた。しかしこの時点で、ふたたび戦地に赴くことになるとは知らない。

長崎に原爆が落とされる前日の、長崎の人々の日常を描いた、井上光晴の『明日』という小説を思い出した。黒木和雄監督によって『TOMORROW 明日』というタイトルで映画化されており、僕は映画を観たクチである。

翌日に原爆が落とされることがわかっている後世の人間にとっては、その前日は特別な日常に映るのだが、そのときに生きていた人々は、いつもと変わらない平凡な日常である。

2019年時点でのキエフは実に穏やかな日常にみえるが、いま、この時点で見ると、かけがえのない日常に見えてしまうのは、おそらくそういうことなのだろう。

その番組の中で、チェルノブイリ原発事故を伝える博物館の前を通りかかる場面がある。その博物館の前にいたふつうの若者が「歴史に学ばない者に未来はない」と何気なく語っていたのが印象的だった。

そしてこの日の夕方に、NHKのBSプレミアムで映画「ひまわり」が放送された。映画「ひまわり」については、すでに述べたことがあるので省略する。

あらためて映画「ひまわり」を見直してみると、細部についてはほとんど忘れていた。

ストーリーとは関係ないのだが、戦争で行方不明になった夫を妻がいまのウクライナで探す場面で、ほんの一瞬だが、鼓胴のような形をした巨大な建物がいくつか並んでいるのが映っている。どこか見覚えのある建物だと記憶をたどると、チェルノブイリ原発とよく似た建物である。チェルノブイリ原発そのものではないようだが、ウクライナに置かれた原発であることは間違いないようである。驚くことに、原発に隣接してふつうの人々が暮らしているのだ。映画を観ていたつもりであっても、見えていなかったことが多すぎる。いまになってわかることも多い。関心のないものは目に映らないということなのだろう。

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蒲殿の活躍

12月30日(金)

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第21話くらいまで見てそのままになっていたのだが、「今年の大河は今年のうちに」ということで、一昨日、録りだめておいた22話から48話までイッキ見した。もっとも、録画に失敗した回もあったので、途中、何話か抜けているのだが、それでも、ゆうに20話以上をイッキ見したことになる。

昨日は、これも途中で観る時間がなくて撮りだめておいた関西テレビ制作のドラマ「エルピス」の、後半数回分を観た。

そして今日、「エルピス」の最終回と、昨晩NHKで放送されていた「未解決事件」シリーズの「帝銀事件」のドラマを観た。

帝銀事件のドラマ、観る前は、再現ドラマのようなものだから、たいしたことはないだろうと思っていたら、さにあらず、がっつりホンイキで作られていた。そんじょそこらのドラマでは太刀打ちできないくらいの作り込みである。とくに、松本清張役を大沢たかおが演じるというので、想像がつかなかったが、このキャスティングが見事にハマっていた。大沢だけではなく、他のキャストも見事に役にはまっていたのだ。これ、編集長役の要潤と二人でバディもののドラマシリーズとして成立するんじゃないだろうか?いや、『日本の黒い霧』を松本清張扮する大沢たかお主演で大河ドラマになるんじゃなかろうか。

…という妄想を抱きつつ観ていると、帝銀事件の犯人が平沢貞道ではなく、別に真犯人がいるのではないか、と最初に疑った新聞記者役の俳優が、どこかで観たことがある。つい最近何かのドラマで観たぞ。

その新聞記者は、帝銀事件の犯人が平沢貞道であるという矛盾点をついた記事を書いているのだが、どうもあまり歯切れがよくない。その記事を読んだ松本清張は、その記者の慧眼に敬意を表しつつも、その点に不満が残った。そのことが、松本清張を帝銀事件の真相究明に駆り立てていく原動力になる。

実際にその新聞記者に会ってみると、実に気弱そうな新聞記者である。大きな権力を恐れて、事件の核心に踏み込むことができない。そのことを、松本清張に詫びたのであった。

うーむ。どこかで見た俳優さんだ、と思って、思い出した!「エルピス」に出ていた、「大門副総理」の娘婿だ!

大門副総理が数々の事件を政治の力でもみ消してきた事実を知り、秘書である娘婿が良心の呵責に耐えられなくなり、マスコミに告発しようとしたのだが、事前にそのことを察知され、大門副総理の手のものに殺される、という悲劇的な役柄を演じていた。

いや待てよ、この俳優さん、ほかにもドラマに出ていたぞ。

わかった、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝の弟・源範頼(蒲殿)を演じていた人だ!

調べてみると、迫田孝也という俳優さんだった。かなり注目されている俳優さんだということもわかった。

この、源範頼という人物も、正義感にあふれ、「いい人」であるにもかかわらず、最後は謀反の疑いをかけられて流罪の憂き目に遭う、悲劇の人物である。

つまり、いずれのドラマでも、「割を食う」人物を演じているのである。「いい人なのに割を食う役の顔」選手権があったとしたら、優勝である。

ところで、「エルピス」と、「帝銀事件」のドラマは、えん罪を扱っているという点で、期せずして共通点がある。

無実の人間をえん罪に仕立て上げた真相を暴こうとすると、大きな権力から圧力がかかる。この点もまた、共通している。

もし、その真相が明るみに出たら、この国は、たいへんなことになる、政治体制は崩壊する、国際的にも信用を失う、この国のためを思ったら、えん罪事件の真相を掘り返すべきではない、などと、権力者の側は、そう説得しようとする。

これに対して大沢たかお演じる松本清張は、

「大義の話にすり替えてはいけない」

と反論する。この言葉が、胸に刺さる。

まるでいまのこの国の政治ではないか。

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ストレンジワールドとすずめの戸締まり

11月26日(土)

この週は、4歳の娘と二人で、映画館で2本の映画を観た。23日の祝日にディズニー映画「ストレンジワールド」、26日の土曜日に新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」である。娘とまる一日、二人で過ごすという日は、映画館に行って映画を観ると、時間が持つのである。

ひとつはディズニー映画だし、もう一つは日本のアニメ映画だし、どちらのジャンルもテレビ放送から録画して繰り返し観ている経験をしているから、全然問題ないだろうと思って観に行ったのだが、これがなかなかたいへんだった。

どちらの映画も、映画のはじめのほうから、「パパ、恐い…」と言い出したのである。

あまり書くとネタバレと言われそうだから書かないが、どちらの映画も、序盤の段階から、「ニョロッとしてもの」が出てくるのである。どうもそれが恐いらしい。いままでそんなことはあまりなかったのだが、この2つの映画に関しては、映画を観ている途中で、

「パパ、おしっこ」

と言い出した。

「映画を観る前におしっこしたでしょ!」

「でも、おしっこ」

といって聞かない。

恐くておしっこが漏れそうになったのか、あるいは恐い場面を観たくないという防衛本能がトイレに行かせようとするのか、だと思うのだが、いずれにしても、映画の途中で席を立ってトイレに連れて行く羽目になった。おかげで、なぜあの人が、あんな感じになっちゃったのか、という肝心な部分を、見逃すことになる。

今後は、恐い場面が訪れると尿意をもよおすという娘の悪いクセをなんとかしなければならない。

それはともかく、「ストレンジワールド」は、大人の僕が観ても、1回ではその世界観を完全に理解することは難しかったし、「すずめの戸締まり」も、その世界観に圧倒されはしたが、これを一度観ただけでその内容を受け止めるのは至難の業である。ま、ストーリーが追えなくても、何かしらの場面は娘の心の中に残っただろう。

2つの映画は、対比するようなものでは全然ないが、「ストレンジワールド」は父と息子の絆を確認する物語で、「すずめの戸締まり」は母と娘の「喪失」の物語で、対照的である。とりわけ後者は、主人公の「すずめ」が4歳だった頃に母親への喪失感を抱くという場面がくり返し登場し、ちょうど4歳の娘を持つ親にとっては、涙なしには観ることができない。うちの娘は、何かを感じとっただろうか。

後者については、つい最近観た「天間荘の三姉妹」もそうだったが、11年前のあの出来事が映画の主題となる、しかもかなりリアルにあの時の出来事を思い起こさせる仕掛けになっているのは、そろそろ、そういうことを映画としてとりあげてもよいだろう、という時期になったということなのだろうか。しかし、あの出来事に巻き込まれた当事者たちにとっては、まだちゃんと向き合うことができないのではないかと、なかなか複雑な気持ちになる。

おっと、あやうくネタバレしそうになった。関係ない話を書こう。

全然知らないある人のツイートで、「2人がフェリーに乗り込むところは『転校生』のオマージュ、愛媛の道路で大量のみかんが転がってくるところは『天国にいちばん近い島』のオマージュだろう。やっぱり新海誠監督は大林映画が大好き」とあるのを見つけ、なるほどそうだ、と思った。

そういえば、『天国にいちばん近い島』にそんな場面があったな、と思い出して見返してみると、ミカンではなく、大量の椰子の実がトラックから転がってくる場面があって、なるほどそっくりだと思った。

そのことがきっかけになり、『天国にいちばん近い島』全編を見直してみたのだが、同じ原田知世主演作品でも、ぼくはあの名作『時をかける少女』よりも『天国にいちばん近い島』のほうが好きかも知れない。映画全体が、劇伴を含めて古きよきハリウッド映画へのオマージュになっていて、たぶんこれは大林監督の完全な趣味だろう。脇を固める赤座美代子、泉谷しげる、乙羽信子、小林稔侍、松尾嘉代、峰岸徹、室田日出男といった俳優陣の演技もすばらしい。

剣持亘の脚本もすばらしい。剣持亘は尾道三部作の脚本などを手がけているが、どうも寡作の人だったようで、大林映画の脚本をもっと書いてもらいたかったと思う。

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