書籍・雑誌

2020年のマイベストブック

自分が今年読んだ本のベストブックは何だろうとつらつらと考えてみたが、どれ1冊、最後までちゃんと読んでいない気がする。

石牟礼道子の『苦海浄土』も、この歳になってちゃんと読もうと思ったが、途中で終わったままになっているし。

今年のマイベストブックは、佐伯一麦『石の肺 僕のアスベスト履歴書』(岩波現代文庫、2020年、初出2007年)かなあ、と思うのだが、これとて、まだ最後まで読み終わっているわけではない。

著者自身のアスベスト被害について書かれた本なのだが、今年のコロナ禍の状況と、じつに重なる部分がある。

僕が、アスベストが人体に有害だということを初めて知ったのは、1988年、大学1年の頃だったと思う。当時入り浸っていた、サークルの部室がある「学生会館」という建物に、アスベストが使われているとのことで、学生運動の残党たちが「アスベスト撤去!」のアジ看板をあちこちに設置していて、それで「アスベスト」という言葉を覚えたのであった。

この本によれば、「一九八七年には、全国の小中学校で吹き付けアスベストが見つかり、社会問題となりました」とあるから、ちょうど同じ頃、大学でもアスベストが問題になっていたのだろう。

この本を読むと、アスベストが人体にいかに有害であるか、またそれを、政府がいかに放置してきたかがよくわかる。それは、2011年の東日本大震災がきっかけに起こった原発事故による放射能被害や、いまのコロナ禍における政府の対応ともつながる問題である。このあたりについては、武田砂鉄さんの巻末解説に詳しい

この本は、そうした意味でも興味深いのだが、僕がもう一つ関心を持ったのが、この佐伯一麦さんという作家の人生についてである。

佐伯一麦さんは、小説家である。海燕新人賞とか、三島由紀夫賞とか、数々の文学賞を取っておられるのだが、長い間、小説を書くだけでは生計を立てることができず、電気工をしながら小説を書いていたというのである。そしてその電気工事の際にアスベストの被害に遭い、体調を崩すことになってしまったのである。

小説を書くだけでは食べていけず、肉体労働の電気工を続けていくのは大変だろうなあ、と僕などは思ってしまうのだが、もともと佐伯さんは、電気工の仕事があまり苦ではなかったらしい。もちろん肉体的には大変だったのだろうけれど。

また、そうした体験が、小説を書くことにもつながっていたようなので、小説を書くために電気工として生計を立てる、という、一見まわり道に見える人生の選択も、決して無駄なことではないことがわかるのである。もちろん、ご本人にとっては辛いことも多かったろうし、書いてある内容も深刻なのだが、この本からは、その体験とは裏腹に、絶望とか悲嘆とかといった様子があまり感じられない文体になっている。読んでいても暗くなることはないのである。

僕もたまに、宮仕えみたいないまの仕事が嫌になって、いっそ職場を辞めてフリーランスになりたい、と思うことがあるのだが、自分にはとてもその度胸がない。いや、考え方を変えれば、宮仕えみたいな仕事の合間に、自分の好きなことをやっていると考えることもできるのか?とか、この本を読んで、自分の人生についてもいろいろと考えてしまった。

佐伯一麦さんの小説をまだ読んだことがないので、今度読んでみることにしよう。その前に、読みかけの『苦海浄土』を読み終わらせよう。

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エズい世の中

ほんと、いまのご時世、Facebookで会食(飲み会)の写真をあげている人って、どういうつもりなんだろう。けっこういるんだな、これが。「人はなぜSNSの中では無防備になるのか」というタイトルの新書を書きたいくらいだ。

新書のタイトルで思い出したが、こんな新書のタイトルを考えてみた。

「不倫をした野党政治家はなぜネトウヨ化するのか」

「売れっ子放送作家のラジオ番組はなぜつまらないのか」

どうだろう。売れるだろうか。

そんなことはどうでもいい。

ずいぶん前に買った、大西巨人原作・荒井晴彦脚本『シナリオ 神聖喜劇』(太田出版、2004年)を、思い立って少しずつ読み始めている。

大西巨人の大長編小説『神聖喜劇』については、このブログでも以前に書いたことがある

この中に、村崎一等兵の台詞として、こんな台詞がある。

「はぁん、新聞記者か。……記者生活も簡単にゃ行くめえばってん、軍隊生活もエズウややこしいけんねぇ」

この「エズウ」に注釈がついていて、

「エズウ…「えずい」は、不快だ、こわい、薄情だ、ひどいの意。中世・近世語」

とある。これを読んで、また別のことを思い出した。「いずい」という方言についてである。

「前の勤務地」の隣県の方言なのだが、かつてその県出身の教え子のCさんと、こんな会話をした

「『いずい』って、わかりますか?」

「『いずい』?わからないなあ」

「ほら、よく洋服の襟の後ろについているタグが肌にあたってむずがゆくなったりするでしょう。あの感覚が『いずい』です」

「『むずがゆい』とは違うの?」

「違います。『いずい』は『いずい』としか言いようがありません」

「ほう」

…そうか!「いずい」という方言は、中世・近世語で「不快だ、こわい、薄情だ、ひどい」という意味の「えずい」から来ているのか。柳田国男の周圏論からすると、もとは京都の言葉だったものが、地方に同心円状に伝わり、方言として残ったのかもしれない。

村崎一等兵の台詞にもう一度注目してみると、「ばってん」という言葉を使っていることから、九州の福岡あたりの出身ではないかと思われる。だとすると、ますます柳田国男の周圏論が説得力を帯びてくる。「えずい」という言葉が同心円状に広がり、まったく別の地方に方言として残っていることをこれは示しているのではないだろうか?

しかしいま現在、福岡で「えずい」という言葉が使われているかどうかは、よくわからない。機会があったら、福岡出身の人に聞いてみることにしよう。

ところでこの『神聖喜劇』のシナリオ、澤井信一郎監督が映画化を考えていたらしい。あの名作『Wの悲劇』で知られる名監督である。

もちろん、澤井信一郎監督作品として見てみたいという一方で、これこそ、大林宣彦監督作品として見てみたかった気がする。

なにしろ情報過多、溢れるような長台詞の応酬である。これを、『青春デンデケデケデケ』のようなスタイルで撮影・編集したら、大傑作になったのではあるまいか。

いまはその映像を想像しながら、このシナリオを読み進めることにしよう。

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つじつまの合う物語

前回の記事で、高校時代の思い出を書いたので、もう少しノスタルジーに浸る。

コラムニストの小田嶋隆さんのTwitterを見ていたら、こんなツイートを見つけた。

母校、小石川高校の創立100周年記念誌『みんなの100年』が届いた。なんと7月に亡くなった岡康道の遺稿が掲載されている。それもオレが書くはずだった原稿(〆切を伸ばしたあげくに落とした)を代筆してくれたものだ。最後まで迷惑をかけた。最後まで楽しい男だった。ありがとうありがとう。」(2020年12月10日)

ツイートの中に登場する岡康道さんは、有名なCMプランナーで、小田嶋さんと高校時代からの無二の親友である。奇しくも、同じ早稲田大学に進み、しかも大まかにいえば同じ業界に進んだ同士となった。途中、絶縁したこともあったようだが、その後またもとの関係に戻った。

小田嶋さんと岡さんが対談している『人生の諸問題五十路越え』(小田嶋隆、岡康道、清野由美共著 、2019年)は、僕がちょうど50歳を超えたときに出た本である。その本を読んだばかりだったので、岡さんが亡くなったというニュースを聞いたときは、ビックリした。

「オレが書くはずだった原稿(〆切を伸ばしたあげくに落とした)を代筆してくれた」という部分を読むだけで、小田嶋さんの性格とか、岡さんとの関係といったことが、よくわかる。

同じ日の小田嶋さんのツイートに、写真付きで、こんなことも書かれていた。

「岡康道の原稿に付けられていた追記を以下に紹介しておきます。合掌。ありがとうありがとう。」

その写真には、100周年記念誌に岡さんが書いた文章の「追記」の部分だけが写っている。

「この原稿はコラムニストのI組小田嶋隆が書くことになっていた。提案したのは私だが、2ヶ月たっても一向に書かないので代筆している次第だ。そういえば小田嶋が期末試験に現れなかった日、私が左手で彼の答案を書き提出し、私が停学になったことがある。あの時小田嶋は「頼んでない」と言ったが、確かに頼まれていなかった。今回も同じようなことをしている。人はあまり変わらないものだ。TUGBOAT代表 岡康道(027I) クリエイティブディレクター CMプランナー」

さらにこの下に、編集部の追記があった。

「追記:このページを編集・寄稿してくれた岡康道君は2020年7月に逝去されました。日本を代表するクリエイティブ・ディレクターとして、多くのメディアで小石川高校時代の楽しさを紹介してくださったことに感謝します。(戸叶027C)」

これを読んで、小田嶋さんは泣いたのではないかと思う。僕だったら絶対泣く。

だって、親友が死んでから5か月後に、メッセージが届いたんだぜ。しかも、遅筆の小田嶋さんの代わりに岡さんが代筆していたことを、小田嶋さんは知らなかった。岡さんは、小田嶋さんの性格を知っていて、代筆の覚悟をしていたのだろう。でもそのことは言わなかった。

それはまるで、高校時代に頼んでもいないのに勝手に小田嶋さんの期末試験の答案を代筆した時の如くである。

岡さんは人生の最後に、小田嶋さんとの高校時代の関係性を再現してみせたのである。

これを粋なはからいといわずして、なんと言おう。泣いたあとは、きっと笑ったに違いない。「最後まで楽しい男だった」と。

高校時代の伏線が、人生の最後に回収される。人生とは、なんとつじつまの合う物語なのだろう。

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世間とのズレ

11月23日(月)

結局、この3連休は、まったくやる気が起きず、たまっていた仕事を何にも進めることができなかった。ま、いつものことである。

ここ最近、いわゆるお笑い芸人が、自分がうまく世間に適応できていないことや、世間に対する違和感を、対談やエッセイにまとめて、それがかなり話題になったりしている。

伊集院光・養老孟司『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所、2020年)

ふかわりょう『世の中と足並みがそろわない』(新潮社、2020年)

バービー『本音の置き場所』(講談社、2020年)

以下は、未読だが、

岩井勇気『僕の人生には事件が起きない』(新潮社)

あと、オードリーの若林正恭氏のエッセイも、おそらくそうしたものではないかと思う。

こういう本は、基本的には好きなのだが、冷静に考えてみると、多くの人に読まれているし、決してこれは「少数派」の本ではなく、むしろ、多くの人に受け入れられているのではないか、と思うことがある。

芸人としては「自分は世間とズレている」「ひねくれている」というところを持ち味にしているわけだが、それが結果的に、多くの人の支持を得ている。ということは、世間とは決してズレているわけではないのではないか?というか、ここでいう世間って、いったい何だろう?

そういえば「前の職場」に勤めていたときのことである。

年度末に、教養課程の1年生が、2年生からの専門課程を選ぶ際の、ガイダンスを行うことになっていて、1年生を集めて、それぞれのコースの教員が自分のコースの「プレゼン」をすることになっていた。各教員からしたら、自分のコースに一人でも多くの学生が来てほしいので、このコースに入ったら、こんなことが学べる、みたいな、コースの魅力やメリットをプレゼンすることになる。

ある年、コースの説明をするという役が僕にまわってきた。

僕は1年生に対して、たしかこんなことを言った。

「自分は世間的にマイナーだな、どうもメジャーなことについて行けないな、と思う人は、このコースに入ることをおすすめします」

まあ半ば自虐的にそんなことを言ったわけだが、そうしたら翌年度、史上最多?というくらいたくさんの学生がうちのコースに入って来ちゃった。別に全員が全員、僕のプレゼンに影響されたわけではなかったのだろうが、「自分は世間的にマイナーだ」と感じている学生が、実は多数派を占めているのではないかと、そのときに思ったのである。

で、話は、いまうちの職場でやっているイベントのことになるのだけれど。

いまやっているイベントのテーマは、おそらく「世間とのズレ」を感じている人に響くような内容だと思う。

ところが、これが思いのほかバズっていて、いままでうちの職場が経験したことのないような反響を呼んでいる。

まず、これまでと客層が違う。いままでは、ご高齢の方がどちらかといえば主要な客層だったのだが、今回のイベントは、若い人が中心で、いままでうちの職場のことをまったく知らなかった人たちが来てくれている。おそらく、カルチャー味のあるラジオ番組で紹介されたことも大きいのであろう。

「世間とのズレ」を感じている人がいかに多いかということを示しているのではないか、実はそう思っている人が多数派なのではないか、と思わずにいられないのである。

しかし、ここからがおもしろい現象なのだが。

このイベント、職場の中では、ほとんど反響がない。被害妄想かもしれないのだが、見に来てくれる人たちの反応と、職場の中の反応に、著しいギャップを感じるのである。

このイベントを企画した同僚は、そのことを少し心配している。このイベントが、「一時的な花火を打ち上げる」だけで終わってしまうのではないだろうか、と。そこで、同僚はその「反応のギャップ」を埋める必要があるのではないか、と考えているようなのであるが、どうなのだろう。僕は、そのギャップは、永遠に埋まることはないのではないか、と半ばあきらめかけている。ふかわりょうが、自分と世間の間には、埋めがたい大きな溝があり、自分はせいぜい、その溝に流れる川に笹舟を浮かべるくらいしかできないと喝破したように、である。

自分にとって「世間」とは何なのか?意外と身近なところにあるのではないか、という気がしてきた。

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アンチテーゼ

10月22日(木)

前回、「ドリフ軍隊論」を書いたが、昨晩はあまり眠れなかったこともあり、あれからまたいろいろ考えた。

寺尾紗穂さんが書くように、戦時中の「隣組」という歌が、戦後、「ドリフ大爆笑」のオープニング曲として替え歌にされ、歌い継がれていくことの「気持ち悪さ」というのを、たしかに僕も感じていた。

しかし、こうは考えられないだろうか。

戦時中の、あのいかにも窮屈な歌を、お笑いのバカバカしい歌に変えてしまうことは、むしろあのときの窮屈さを無力化することにはならないだろうか。

むかし喜納昌吉が「すべての武器を楽器に!」と言ったように。

むかし、アメリカのコメディアンのアビー・ホフマンが、アメリカの国防総省にデモを仕掛けた時、軍隊がそれを阻止しに来たら、その軍隊の持っているライフルの銃口の一つ一つにお花をさしていった「フラワージェネレーション」「フラワー革命」を実行したように(町山智浩さんによる「シカゴ7裁判」の解説より抜粋)。

「すべての銃を花束に!」

「すべての軍歌をコメディーソングに!」

は、平和を希求する思いにはつながらないだろうか、と。

寺尾さんが、ドリフの歌の元歌が、「隣組」という歌であるという事実を知って、ショックを受けたように、僕もまた、若い頃にその事実を知ってショックを受けた。そこに戦争の闇があることを知ったわけである。しかも、むしろ強烈に。

そこに気づかせることに、この歌の意味があるのではないだろうか。

ドリフのコントも、考えてみれば、いかりや長介というリーダーへの絶対服従を建前としながらも、最終的にはほかのメンバーたちがいかりや長介をひどい目に遭わせて終わる、というパターンが多い。「もしもシリーズ」の「ダメだこりゃ」はその典型である。これは見方によっては、軍隊という秩序に対するアンチテーゼであるようにも思える。

1931年生まれのいかりや長介の価値観を、1950年生まれの志村けんが新たな価値観に変えていこうとするせめぎ合いに、ドリフの可笑しさがあったのではないだろうか。

…などと、またまた、まったく根拠のない、いいかげんな話を書いてしまったが、正直なところ、自分でもナンダカヨクワカラナイ。

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ドリフ軍隊論

10月21日(水)

寺尾紗穂『南洋と私』(中公文庫)を読む。

相変わらず文章がすばらしく、つい引き込まれる。

この本の中で寺尾さんが、「ドリフ大爆笑」の主題歌、

「ド、ド、ドリフの大爆笑~♪」

が、戦時中に流行した「隣組」

「とんとん とんからりんと 隣組~♪」

の替え歌であることを知り、驚いたという記述がある。

「戦時の生活を象徴するメロディーが戦後、お笑い番組の中で採用され、私が思っていたように「ドリフのオープニング以外のなにものでもないはず!」と広く思われている戦後とはなんだろうか。単純に曲がいいから、いろいろ使われるんだろう、小難しいことじゃない、そう言われればその通りかもしれない。でも私はやっぱりひっかかるのだ。自分たちはだまされていた、軍部が全部悪い、自分たちは無力な被害者にすぎなかった、そう決め込んで、かつて提灯行列や相互監視や密告によって銃後を、戦争体制を支えていた人たちが、戦後、まんざらでもない、と「民主主義」社会に溶け込んでいく。相反するはずのものへといつの間にか移動しているその気持ち悪さ。否定しようのない連続。そういう気持ち悪さを、隣組とドリフの連続に感じるのは、考えすぎというものだろうか」(70頁)

これは決して考えすぎではない。「ドリフ大爆笑」のオープニングが、「隣組」の替え歌であるのは、ただたんに曲がいいから、という理由ではない。

「ド、ド、ドリフの大爆笑~♪」

よりも前に、もう一つ、「ドリフ大爆笑」のオープニング曲があったと記憶する。

「ド~リフのド~リフの大爆笑♪」

という歌なのだが、これは、やはり戦時中の、

「月月火水木金金♪」

の替え歌である。僕の記憶では、「隣組」の替え歌バージョンは、2代目のオープニング曲なのである。

つまり、一貫して戦時中の歌を替え歌にしていたのだ。

なぜあえて戦時中の歌を替え歌にしているのだろうかと、僕はずっと気になっていた。

で、僕は、「ドリフターズは軍隊である」という仮説に行き着いた。

ドリフターズのリーダー、いかりや長介と、ほかのメンバーの関係は、軍隊における上官と部下の関係になぞらえられるのではないだろうか。

「8時だよ!全員集合」のコントでよく、リーダーのいかりや長介がメンバーが横並びで整列させて、

「やすめ!きょーうつけい!」

と号令する場面を何度も見た記憶があるのだが、なんとなく軍隊の整列を連想させる。

それぞれのキャラクター設定も、部下に対して統率をとろうとする上官と、それになんとか反発してやろうという部下たち、という関係を思わせる。

というわけで、戦時中の文化が、1970年代くらいに、ドリフターズが好きな子どもたち(僕もそのひとりだが)の間で、知らず知らずのうちに継承されていったのではないかと感じるのである。

これが、ドリフターズの先輩格にあたるクレージーキャッツになると、ドリフほどの軍隊性は感じない。むしろ戦後を象徴するようなグループである。

植木等の「無責任シリーズ」は、高度経済成長期を象徴するような映画のように思えるし、クレージーキャッツは、ドリフターズほど、集団行動をとらず、むしろ個人主義的というイメージがある。まあこれも、僕の思い過ごしかもしれないのだが。

時代はやがて、クレージーキャッツからドリフターズへとバトンタッチしていくのだが、そこでなぜ復古的なドリフターズが受けたのだろうか?

このあたりのことは、もう誰かとっくに考察しているのかもしれない。

ちなみに「欽ちゃんファミリー」は、学校の先生と生徒の関係、「オレたちひょうきん族」はヤンキーの集まり、になぞらえているのだが、それはまた別の話。

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「車中のバナナ」と「ああ軍歌」

頭木弘樹『食べることと出すこと』(医学書院、2020年)について、もう少し書く。

この本の中には、数々の文学作品からのエピソードや言葉がちりばめられているのだが、その中に、脚本家・山田太一の「車中のバナナ」というエッセイを紹介しているくだりがある。「このエッセイが好きで仕方がない」と、頭木さんは述べている。

それは、こんなお話である。

山田太一が、旅先からの帰り、普通列車に乗っている。電車の四人がけの席には、中年男性と、老人と、若い女性、すべてその場に居合わせた他人が座っている。その中の一人、気のよさそうな中年男性がみんなに話しかけ、わきあいあいと会話が始まる。

その男性が、バナナをカバンから取り出す。

そこに座っていた老人と若い女性は、バナナを受け取ったが、山田太一は断った。中年男性は「遠慮することないじゃないか」といったが、山田太一は「遠慮じゃない。欲しくないから」と再び断った。

するとその中年男性は、

「まあ、ここへ置くから、お食べなさい」と窓際にバナナを置く。

「おいしいんだから、あんたも食べなさい」と、中年男性は山田太一にしつこく勧める。

老人も非難し始める。「いただきなさいよ。旅は道連れというじゃないの。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」と山田太一をたしなめるのである。

頭木さんは、このエッセイにひどく共感する。

せっかくバナナを通じてみんながなごやかになっているのに、どうしてバナナを受け取らないのか?雰囲気がぶち壊しではないか、ということを当然のことと考えることに対する恐怖に、頭木さんは共感したのである。

「もともとは、たんにバナナを出したというだけのことでも、このように、「たちまちなごやかにはなれない人間」に対して、圧力をかけ、非難するという展開になっていく」ことが、ここでは問題なのである。

この話を読んで、僕は山田太一脚本のあるドラマのことを思い出した。

それは、渥美清主演の「泣いてたまるか」というドラマシリーズの、「ああ軍歌」(1967年)という回である。

「泣いてたまるか」は、1話完結型のドラマで、渥美清が毎回さまざまな職業の人間に扮して、その悲哀を描くというものである。脚本家も毎回異なり、のちに一線で活躍する脚本家たちが、このドラマの脚本に関わっていた。山田太一も、その1人である。

山田太一脚本の「ああ軍歌」は、たしかこんな内容である。

主人公は、杉山という、ある会社の営業課長(渥美清)。戦争でつらい体験をした彼は、戦後になっても、その思いが消えない。いつまでも戦争の悲しみを引きずっている。

ある日、親会社から元軍人の重役(山形勲)がやってくる。この重役は、軍隊時代を誇りに思っている人間で、職場をまるで軍隊のように作り上げようとする。その職場方針に、営業課長の杉山の心は次第に塞いでゆく。

ひどく憂鬱なのは、宴会である。その重役が中心となる宴会では、みんなが手拍子を打ちながら軍歌を大きな声で歌う。部下たちも重役の機嫌を損ねないようにと、一緒になって軍歌を大声で歌うのである。

しかし営業課長の杉山はそれが耐えられない。自分ひとりだけ、軍歌を歌わずに下をうつむいて黙っている。

それに気づいた部下は、「今さら軍歌にこだわってどうするってんですか。もっと人間の幅を持たなきゃ! たかが歌じゃありませんか? もっと平気になってもらわなきゃ、この激しい生存競争をどうして乗り切れますか」と営業課長の杉山に説教するのだが、それでも杉山は軍歌を歌うことに納得がいかない。

そしてついに、本社からの客をもてなす宴会の席で、杉山は重役から軍歌を歌うことを強要される。重役も、杉山のこれまでの態度が気に入らなかったのであろう。ここで歌わないと、本社からの客に不愉快な思いをさせてしまうことになる。

杉山は立ち上がり、自分はなぜ軍歌を歌いたくないかについて、自らのつらい戦争体験を語り出す。

宴会の席が重苦しい雰囲気になり、重役の怒りは爆発する。「もう歌わんでいい!」

「いえ、歌います!こうなったらどうあっても歌います!」と、これまでの怒りをぶつけるように、杉山は軍歌をひとり大声で歌い始める。それは、懐かしい思い出などとはほど遠い、つらい戦争体験を喚起させる歌い方である。

重役は「あんなヤツはクビだ!」と、杉山の態度に怒り心頭になる。

…というストーリーなのだが、この話は「車中のバナナ」とまったく同じ構造ではないか。

電車の中でバナナを食べるように勧める人のよさそうな中年男性と、宴会で部下に軍歌を歌うことを強要する元軍人の重役と、どこがどう違うのだろう?

ひょっとして、「ああ軍歌」は、山田太一自身が体験した「車中のバナナ」がモチーフになっているのではないだろうか?

少なくとも言えることは、山田太一は、かなり早い段階から、この国の社会が持っている「同調圧力」を危惧していて、それをエッセイや脚本を通じて発信していた、ということである。「同調圧力」という言葉が生まれるはるか以前から、山田太一はそのことに気づいていたのである。

名脚本家は、予言者でもあるのだ。

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気は病から

10月7日(水)

「特急のすれ違う駅」の町へ日帰り出張の道中で、頭木弘樹さんの『食べることと出すこと』(医学書院、2020年)を、すがるような気持ちで読んだ。

大学生のころに潰瘍性大腸炎を発症し、今も闘病を続けている頭木さんの、闘病記、というよりも、闘病を通じた思索、というべき本である。

潰瘍性大腸炎の当事者だけでなく、まったく身に覚えのない形で発症し、いつ治るかもわからない病気を抱えている人にとっては、じつに共感できる本なのではないだろうか。というか、少なくとも僕は共感した。

本で書かれたことの一部は、先日紹介したTBSラジオの「荻上チキSession22」で語られているが、そこで語られなかった内容についても、共感することばかりである。

たとえばこんな話。

「病は気から」という言葉がある。病気をしている人たちが、いかにも病気になりそうな性格だ、と思えることがある。

「潰瘍性大腸炎の人たちは、みんな同じような性格をしている」といわれたことがある著者は、最初はピンとこなかったが、やがて闘病を続けているうちに、自分もだんだんそういう性格になっていったことに気づく。

「つまり、そういう性格だから、その病気になったのではなく、その病気だから、そういう性格になったのである。病気によって形成された性格であるため、その性格を見ると、その病気になりそうに見えるのだ。「病は気から」というが、「気は病から」でもあるのだ」(252頁)。

潰瘍性大腸炎を患った著者は、「病気になる前とは、別人のようになってしまった」と述懐している。

もちろん、病気になっても性格が変わらない人もいるんだけどね。でも、僕はこの頭木さんの気持ちはなんとなくわかる。

病気には休みがない(199頁)、というのもよくわかる。「「病気であることを忘れる」という瞬間がないということが、とても苦しい」と頭木さんは述べている。

頭木さんが、ある医師とプライベートで会って話をしたとき、

「自分だけがたいへんなようなつもりでいる。誰でもたいへんなことがあるのに、それがわかっていない」

そう言って、その医師はジョッキでビールを美味しそうに飲んだ、という。

たしかに誰でもたいへんなことがある。しかしたとえ医師のほうがはるかにたいへんだったとしても、勤務時間を終えれば、ビールを飲んでひと息つける。

しかし慢性痛の人の場合は、痛さから逃れてひと息つくことはできない。休みがないということは、どれほど人を消耗させ絶望させるかしれない、と頭木さんは述べている。

僕は慢性痛ではないのだが、病気には休みがない、という感覚は、よくわかる。

もともと、集まってお酒を飲んだりすることは好きではなかったが、病気になってからはよりその傾向が強くなった。お酒をやめてしまったこともあるが、気心の知れた仲間どうしの集まりであったとしても避けるようになった。そういう集まりに出ることが、耐えがたくなったのである。その理由はいわく言いがたい。病気のことが頭の片隅にあり、みんなと同じようにひと息つくことができない、という感覚があるからかもしれない。これはあくまで僕の心の問題であり、誰かのせいというわけではない。

一方で、こんなこともある。完治できない病を抱えているある人と、病気の種類はまったく異なるが、同志というつもりでいろいろとお話をしていたが、あるときからぱったりと音信不通になってしまった。あまり心当たりは見当たらなかったのだが、おそらく僕が何かしら無頓着なことを言ってしまったのかもしれない。

繰り返しこの本を読もう。この本のよさは、楽観的ではなく、思索的であるという点にある。

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1944年8月6日の第九

太田愛の小説『天上の葦』には、1944年8月6日に東京帝国大学で行われた「壮行大音楽会」のエピソードが出てくる。これは史実で、この日、東大生の学徒出陣にかかわり、音楽会が催された。この中で、ベートーベンの「第九」も演奏された。

「第九」といえば、僕の母の知り合いだったスズキさんが書いた『第九と日本人』という本の中でも、このときの「壮行大音楽会」の様子を、実際の資料から復元している。

小説は、どのあたりまで史実に基づいているのか、検証してみたくなり、小説の描写と、スズキさんが明らかにした1944年8月6日当日の様子とを、比較してみることにした。

まず、太田愛の小説『天上の葦』から、該当の記述を抜粋する。

「あれは、一九九四年八月六日だった。

(中略)

だが、あの日の音楽会は、美しい音楽を聴くのもこれが最後になるやもしれぬと、覚悟を決めた若者たちのためのものだった。それは、東京帝大法学部学生自治会・緑会の発案によって開催されることになった出陣学徒のための壮行音楽会だった。(中略)

緑会の学生は当初、演目にベートーベンの第九交響曲を考えていたが、これは大曲で平時でさえ体力を要する演目であるため、猛暑の中、栄養不良の体で演奏するのは困難であると日本交響楽団に断られたという。だが、彼らは戦地に赴くに当たってせめて最後に第九をと交渉を重ね、遂にいくつかの小品と共に第九の第三楽章と最終楽章の上演にこぎ着けたのだと聞いていた。

会場は安田講堂が歌舞音曲一切禁止のため、法文経一号館の二階にある二十五番教室。開演時間は灯火管制で夜が不可能であるため、日盛りの午後二時だった。(中略)

午後二時過ぎ、音楽会は『君が代』で幕を開けた。次いでベートーベンの歌劇エグモント序曲、ブラームスのハンガリー舞曲、南ドイツの歌があり、十五分の休憩の後、いよいよベートーベン第九交響曲の第三楽章と最終楽章の演奏が始まった。日本交響楽団と、合唱は東京高等音楽学院生徒百余名。

(中略)

音楽の力と喜びに全てを忘れて聴き入った。

そして天に駆け上るようなあの最後のフレーズが終わった後、辺りは静寂に包まれた。一瞬の後、頭上に割れんばかりの拍手が沸き起こった。私はただ放心して突っ立っていた。

だが、最後に演奏された『海ゆかば』が私を現実に引き戻した。それは、出征兵士を見送る曲であると同時に、ラジオの戦果発表で玉砕が報じられる際、必ず冒頭で流れるものでもあったからだ。(後略)」(角川文庫版、下巻44頁~46頁)

対して、スズキさんの『第九と日本人』に書かれている資料を紹介する。スズキさんは、「この演奏会についても公式な記録はないが、同年九月一日付の『東京大学学生新聞』がただひとつこの事実を伝えている」と述べ、このときの記事「今日よりは醜の御楯…”気魄を持ち最後のご奉公を”相継ぐ出陣学徒壮行会」の一部を引用している。

「征で行く学徒を音楽で壮行しようと云う和やかな企「出陣学徒壮行大音楽会」は東大法文経三学部会の主催の下に去月六日二時から東大法文経二十五番教室で催された。(中略)一同起立「君が代」合唱の後日本交響楽団(指揮尾高尚忠氏)のベート-ヴェンの歌劇「エグモント」序曲、ブラームスのハンガリー舞曲(第五番、第六番)、尾高尚忠氏編曲、南ドイツの歌(独唱三宅春恵女史、合唱東京高等音楽院生徒)があり、十五分の休憩の後待望のベート-ヴェン第九交響楽(終楽章)独唱矢田部勁吉氏、竹岡鶴代女史、合唱東京高等音楽院生徒百余名で行われ、出陣学徒も暫恍惚とする。かくて一同”海ゆかば”を合唱し壮行音楽会の幕を閉じた」

またスズキさんは、これに続いて、この当時東京帝国大学法学部一年に在籍していた栗坂義郎(朝日新聞元アメリカ総局長)が、1978年の『文藝春秋』8月号に書いた「出陣学徒と第九交響楽」という一文を紹介してる。

「そんな十九年初夏のある日、法学部緑会委員の間で壮行会の催しの話が出て、それなら日響を呼んでみんなで”第九”を聴き、その思い出を胸に、悔いなく戦場に行こうと私が提案した。(中略)

ところが日響の有馬大五郎理事長に”第九”の演奏は楽団員にとっていちばん骨が折れるし、暑い最中に栄養も不足で体力が続かない、と断られてしまった。われわれにとって戦争は死に結びつく、しかし生きたいー祖国防衛に起ち上がれとの歌い文句は勇ましい。だが死を賭して戦場に赴くには、祖国日本を象徴する身近な何か、恋人でも肉親でも愛する人の鮮烈な面影か、美しい人風土に囲まれて生きてきた無上の喜び、想い出を心に秘めて征きたいとの焦りにもにた願いが、我々にはうずいていた。(中略)

戦争に勝てそうもない、せめて最後に好きな音楽のうちでも至高の名曲”第九”を聴いて、また友だちにも聴かせてーと思い詰めた私は、なお有馬氏を説得しようとしたところ「第三の英雄か、第五の運命交響曲なら……」とまで軟化してくれた。だが、第三の二楽章には葬送行進曲があり、第五の「運命はかく扉をたたく」の序章は出陣学徒に不吉だというわけで、あくまで”第九”を懇望し、ついに有馬氏の承諾をとりつけた。(後略)」

その後、栗坂氏の文章は、演奏会の様子を克明に記す。前半の「小品」の演奏が終わり、十五分の休憩の後、第九の第三楽章、第四楽章が始まった。その最後の箇所。

「…ともかく空襲・警戒警報もなく、万雷の拍手のうちに無事に終った。野球など米英スポーツはすでに禁止、ジャズもない、娯楽といえばクラシック音楽ぐらいしかなく、その音楽にも飢えていた若人は戦争を忘れ、音楽に酔った。ついで”海ゆかば”になると再び戦争の現実に帰った。これが最後の第九か ー不安が再び頭を擡げ、出陣学徒は三々五々複雑な表情で散っていった。会場に残った私は、全身から力が抜けていったのをいまでも覚えている」

これらを読むと、太田愛の『天上の葦』の1944年8月6日の場面は、かなり史実に正確に描いていることがわかる。

・主催が緑会、会場が東京帝国大学法文経二十五番教室、開演が午後二時だったこと。

・実際に演奏された曲のプログラムと、演奏・合唱した人々。

事実関係だけでなく、そのときの出陣学徒の「想い」についても、当事者である栗坂氏の文章に書かれた「想い」に沿って書かれていることがわかる。

「緑会の学生は当初、演目にベートーベンの第九交響曲を考えていたが、これは大曲で平時でさえ体力を要する演目であるため、猛暑の中、栄養不良の体で演奏するのは困難であると日本交響楽団に断られたという。だが、彼らは戦地に赴くに当たってせめて最後に第九をと交渉を重ね、遂にいくつかの小品と共に第九の第三楽章と最終楽章の上演にこぎ着けたのだと聞いていた」(『天上の葦』)

「そんな十九年初夏のある日、法学部緑会委員の間で壮行会の催しの話が出て、それなら日響を呼んでみんなで”第九”を聴き、その思い出を胸に、悔いなく戦場に行こうと私が提案した。(中略)ところが日響の有馬大五郎理事長に”第九”の演奏は楽団員にとっていちばん骨が折れるし、暑い最中に栄養も不足で体力が続かない、と断られてしまった。(中略)戦争に勝てそうもない、せめて最後に好きな音楽のうちでも至高の名曲”第九”を聴いて、また友だちにも聴かせてーと思い詰めた私は、なお有馬氏を説得しようとしたところ「第三の英雄か、第五の運命交響曲なら……」とまで軟化してくれた。だが、第三の二楽章には葬送行進曲があり、第五の「運命はかく扉をたたく」の序章は出陣学徒に不吉だというわけで、あくまで”第九”を懇望し、ついに有馬氏の承諾をとりつけた。(後略)」

「音楽の力と喜びに全てを忘れて聴き入った。

そして天に駆け上るようなあの最後のフレーズが終わった後、辺りは静寂に包まれた。一瞬の後、頭上に割れんばかりの拍手が沸き起こった。私はただ放心して突っ立っていた。

だが、最後に演奏された『海ゆかば』が私を現実に引き戻した。それは、出征兵士を見送る曲であると同時に、ラジオの戦果発表で玉砕が報じられる際、必ず冒頭で流れるものでもあったからだ。(後略)」

「万雷の拍手のうちに無事に終った。(中略)娯楽といえばクラシック音楽ぐらいしかなく、その音楽にも飢えていた若人は戦争を忘れ、音楽に酔った。ついで”海ゆかば”になると再び戦争の現実に帰った。これが最後の第九か ー不安が再び頭を擡げ、出陣学徒は三々五々複雑な表情で散っていった。会場に残った私は、全身から力が抜けていったのをいまでも覚えている」

実際、小説の巻末には、参考文献の一つとして栗坂義郎氏のこの文章があげられており、当事者だった栗坂義郎氏の想いを尊重し、その想いに寄り添った形での描写であることは間違いない。

話題の小説の中で、1944年8月6日の第九のエピソードが紹介されていることを知ったら、スズキさん、喜んだだろうな、と思う。

心覚えのために、記録として書いておく。

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逆ピカレスク小説

むかし、浅田次郎のエッセイを読んでいたら、まとまった休みができたときは、スーツケースいっぱいに(他人様の)小説を詰めて、旅先でそれをひたすら読み耽る、みたいなことが書いてあって、そのときはあまりピンとこなかったのだが、いまはその行為をしてみたくなる気持ちがよくわかる。

ということで、本当は書かなければいけない原稿が山ほどあるのだが、この週はそこから逃避することにして、できるだけ仕事とは関係のない本を読みたいと思っているのだが、実際にはなかなか読書三昧、というわけにもいかない。

子どもの頃、テレビ朝日の「特捜最前線」という刑事ドラマが大好きだったのだが、物語が終わり、エンドクレジットのところで、脚本家の名前が出る。その名前を見るのが好きだった。

見ているうちに、脚本家の作風みたいなことがだんだんわかってきて、…といってもなんとなくわかるのは、二人ぐらいなのだが、あ、これはトリックが凝っているから長坂秀佳だな、とか、あ、これは人情話の要素が強いから塙五郎だな、とか。…ま、ある時期は、ほとんどこの二人が脚本を書いていたんだけどね。

そういう遊びが好きだったのだが、いまのドラマでそれをやるとしたら、テレビ朝日の「相棒」である。

…といってもこのドラマには脚本家が多いので、各脚本家の作風を当てることはなかなか難しいのだが、

(うーむ、今回の話はすごいなあ)

と思った回の脚本は、だいたいが太田愛だったりすることに気づいた。ま、あくまでも自分の好みなのだろうけれど。

で、以前に太田愛の小説『天上の葦』(角川文庫)を手に入れたのだが、ちょっと分量が多かったので、なかなか取りかかることができずにいた。この夏休みを逃したら、読む機会がなくなってしまうかもしれない、と思い、ようやく取りかかることにしたのである。

巻末の解説に町山智浩さんが書いているように、太田愛の脚本家としての出発点は、円谷プロの(平成)ウルトラマンシリーズである。

この点については、町山さんの解説を読む前に、TBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」で、太田愛がゲストに来た際に(それこそ、この『天上の葦』が刊行された時期に合わせてのゲストだったと思う)、太田愛の脚本家デビューがウルトラマンシリーズであることを聴いて知っていた。

その後、円谷プロのYouTube公式チャンネルで、『ウルトラマンダイナ』の「少年宇宙人」という作品が配信されたときにたまたま観てみたら、とてもメッセージ性の強い内容ですごいなあと思っていたら、脚本が太田愛だった。町山さんは解説のなかで、太田愛という脚本家に初めて注目したのは、このエピソードを見たときからだったと解説のなかで述懐している。

前置きが長くなったが、『天上の葦』を読んでみた。

予想に違わぬ面白い内容であった。報道をとりまくいまの状況が、ヘタをすると戦時中のメディア統制と同じ道をたどってしまうのではないかという危機感がよく伝わってくる。「相棒」の脚本でこれまで小出しにしてきたメッセージを、この小説に込めたのだなということがよくわかる。

そのへんの背景は町山さんの解説をはじめいろいろと語られているからそちらに譲るとして、それ以上に、僕の読後感は、エンターテインメントとして十二分に楽しめた、ということであった。

なんと言えばいいのか、「逆ピカレスク小説」という言葉が頭に浮かんだ。

「ピカレスク小説」は、悪党をテーマにした「悪漢小説」とか「悪党小説」といったジャンルだが、僕のなかでは、悪党たちがいろいろな悪知恵を駆使して悪事を成し遂げていくという娯楽小説というイメージがある。

この小説も、主人公たちがさまざまな知恵を駆使して、ひとつのことを成し遂げていくというスリリングな娯楽小説と言えるのだが、主人公たちは悪党ではなく、むしろ彼らを追い詰めていく連中が公安警察という悪党たちなのである。

いや、公安警察の立場からすれば、自分たちこそ善で、あいつらが悪党なのだ、という理屈が成り立つのかもしれない。しかし、これを「ピカレスク小説」としてしまうと、公安警察を善と認めてしまうことになるので、「逆ピカレスク小説」と命名してみた。

まったく的外れな感想かもしれない。

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