書籍・雑誌

小説談義

12月17日(水)

今日こそは疲れて何も書く気が起こらない。

今日の「手のリハビリ」の担当の一人は、例のいぶし銀のスタッフである。スタッフが誰のリハビリを担当するかは毎朝無作為に選ばれるのだが、最近、巡り合わせがよいのか、担当してくれる機会が多い。

いぶし銀のスタッフも、僕と話をするのを心なしか楽しみにしているようである。ただし僕の方から話題を出すことはなく、もっぱらいぶし銀のスタッフが話題を出す。

「先日文庫本を買ったんですよ。そしたらいま文庫本って値段が高いんですね。891円もしました」

「いまは文庫本1冊で1000円を越えるものだってありますよ」

「そうですか。昔は500円以内で買えたと思うんですが」

「そうですね。むかし新潮文庫のキャッチコヒーに『想像力と数百円』というのがありましたしね」

そこから小説談義が始まる。

どうやらそのいぶし銀のスタッフは、女性作家の小説を読むのが好きらしい。その文庫本も、辻村深月さんの『傲慢と善良』という小説だった。

僕も女性作家の小説は読むには読むのだが、辻村深月さんの小説はこれまで読んだことはなかった。話題を広げられなくて申し訳なく思った。

ほかにもいぶし銀のスタッフは次々と女性作家の名前をあげていくのだが、ひっかかる名前がない。唯一ひっかかったのは桜木紫乃さんであった。『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』(2021年2月 KADOKAWA)をすごく面白く読んだのだが、いぶし銀のスタッフは読んだことはないようだった。なぜこれを読んだかというと、大竹まことさんをモデルにした小説だからであった。しかし全体的にはことごとくちぐはぐな会話になってしまった。

いぶし銀のスタッフは少しだけ話題を変えた。

「古今東西の作家の中で、鬼瓦さんの好きな作家は誰ですか?」

ストレートな質問である。ストレートな質問にはストレートに答えた方がよい。

「福永武彦です」

「福永武彦!」いぶし銀のスタッフは驚きの声をあげた。

「僕は福永武彦を題材にして卒論を書いて、高校の教師になろうと思った時期があったんです!」

本当かよ。俄には信じられなかった。

「福永武彦が好きだという人にお会いしたのは生まれて初めてです」

そらそうだろうよ。

よくよく聞いてみると、いぶし銀のスタッフは福永武彦の『草の花』という小説が大好きらしい。それ以外はあまり読んでいないようだった。

『草の花』はたしかに福永武彦の代表作だが、どちらかといえば恋愛をこじらせた思春期の少年に刺さる小説である。実際、10代の頃、『草の花』を読んでいた学生は多かったと記憶する。

「福永武彦のどういうところが好きなのでしょう?」と聞かれたが、なかなか一言では説明できなかったので、しどろもどろに答えてしまった。

こういうことにちゃんと答えられれば文芸評論家になれただろうに、まだまだ修行が足りないことを実感した。

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令和人文主義

今日もリハビリで疲れはて、何も書くことがない。

「令和人文主義」という言葉を初めて知った。

僕らが大学生の頃はね。まだ「教養主義」という言葉がうっすらと残っていた時代で、学生の誰もが古今東西の古典を読み漁っていたものだ。そうでしょう?同世代の仲間たち。

しかし今は「教養主義」がすっかり死語になり、「令和人文主義」にとって代わっているという。

まだいまひとつ「令和人文主義」のことをよく理解していないのだが、僕の理解する範囲でいうと、第一に、対象となるターゲットは学生ではなく「会社員」であるという。今の学生は本を読まないからそこに訴えかけるのは意味がない。そこで、むしろ読書を渇望する「会社員」をターゲットにしているらしい。会社員だったら、学生時代に本を読まなかったことへの悔恨もあるだろうし、何より本を買う小金(こがね)を持っている。出版社がそこに注目するのも無理はない。

第二に、新自由主義の台頭である。文芸評論家は出版社と結託して本を薦める場合がある。

第三に、文芸評論家が本の「オタク語り」(まくし立てるような喋り方)をすることによって購買意欲をそそることである。そうすると、自分もその本を読んでみようかという気になる。

しかし会社員には本を読みたくても時間が取れないことが多い。そこで文芸評論家は、コスパ、タイパのよい読み方を動画サイトを使って伝授するのである。

かくして、文芸評論家のYouTubeのフォロワーや再生回数も増えるし、出版社は本が売れるし、読者はお薦めの本を読むことができるし、評論家、出版社、読者がWin-Winの関係になるのである。

以上が僕が理解する「令和人文主義」である。誤解しているところもあるかも知れないのでもう少し理解を深めていきたいが、僕が、「令和人文主義」の旗手であるあの評論家の薦める本を読む気がしない違和感の理由がなんとなくわかる気がした。

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ホモソな世界

すっかり疲れはて、書くこともないのでどうでもいい話をひとつ。

『陰謀論と排外主義』という新書が売れている。僕もその話を聞きつけてAmazonで先行予約して手に入れた。

7人の執筆者による共著で、各執筆者の論考は、長年にわたる取材にもとづき、深い洞察に支えられた、いずれも読みごたえのあるものばかりであった。

ただ僕には、どうしても引っかかることが1つあった。

それは、7人の執筆者の中に女性が一人も含まれていないことである。

このテーマを論じられる女性論客がいなかったのだろうか?あるいは、見つからないだけで、埋もれてしまっているのだろうか?適任者がいなかったと言われればそれまでだが、それでもやはり、僕はそこに薄ら寒さを感じてしまったのである。

7人の執筆者のすべてを従前から知っていたわけではないが、僕の知る執筆者はいずれもふだんの言動から察するに女性差別をしたり男尊女卑を唱えるような人たちでは決してない。それは断言できる。

にもかかわらず、この本が醸し出すホモソーシャルな雰囲気は一体何なのだろう?とそのことばかりが気になってしまった。

こんな批判めいたことを書くと、7人の執筆者はいずれも狂犬のような強者たちなので、「お前は何もわかっていない!」と噛みつかれる恐れがあるので、ここでひっそり書くことにした。

僕はこの本に女性執筆者が参入できないのは構造的な問題で、その点にこそ問題があると思っているのだが、うまく言語化できないのでこの辺でやめておく。

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この世はすべてが背理

「この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんが青ざめた顔をしておれを睨むのが目に見えるようだ。だが、この世が背理であると気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。」(辻邦生『嵯峨野明月記』(中公文庫版、414頁)。

さあ、みんなで高らかに笑おうぜ!

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司馬遼太郎派、ではない

10月21日(火)

「大人になって愛読書が司馬遼太郎だという人は信用できない人物だと思ってよい」と、ある著述家が言っていた。司馬遼太郎をおもしろいと思うのは中学生くらいまでで、大人になれば司馬遼太郎は卒業するはずだというのがこの発言の真意のようだ。

僕が言ってるんじゃありませんよ。ある著述家が言っているんだ。

しかしその著述家の言葉には幾ばくかの真実があるような気がしてならない。司馬遼太郎のファンの人、ごめんなさい。

僕は一応高校生の頃、司馬遼太郎の本を読んでみた。『項羽と劉邦』が最初だったろうか。なかなかおもしろいと思った。

『関ヶ原』も読んでみた。司馬遼太郎の小説を原作にして早坂暁さんが脚本を書いたTBSテレビの大型時代劇『関ヶ原』を小学生の頃に見て、とてもおもしろかったからである。

しかし結果として、早坂暁さん脚本のドラマの方がはるかに面白かった。

『新選組血風録』も読んでみた。最初のきっかけは大島渚監督の映画『御法度』(1999年)を映画館で観たときだったと思う。

その後、三谷幸喜脚本のNHK大河ドラマ『新選組!』を観たのが2004年。それを観たのをきっかけに、むかしのドラマがあることを知り、結束信二が脚本を書いた連続ドラマ『新選組血風録』(NET、1965年)をDVDボックスで全編観てみたら、これがメチャクチャおもしろかった。原作にない、結束信二オリジナルのエピソードもあって、それがなによりおもしろかった。あんまりおもしろいので、結束信二の脚本集を買ったほどである。

いちばん最近買ったのは、『峠』である。10年近く前に仕事で河井継之助記念館を訪れたときに、河井継之助という人物に興味を持ち、『峠』を読んでみようと分厚い文庫本3巻を買ってみたが、なんとなく読む気が起こらず、いまに至っている。『峠』も2022年に小泉堯史監督によって脚本が書かれ、映画化されているようだが、私は未見である。

総じて、司馬遼太郎をおもしろいと感ずるかどうかは脚本家の腕次第ということになる。

なぜこんなことを思い出したかというと、本日誕生した新しい総理の愛読書の5冊のうちの一つに、『坂の上の雲』があげられていたからである(日本経済新聞の記事による)。僕はそれを見て、「ふ~ん」と思った。感想は「ふ~ん」だけである。いまでも愛読書なんだ、と。司馬遼太郎の小説をあげておけば万人受けするかも知れないという計算がはたらいたのではないか、という邪推まで生まれた。

ほかの4冊もパッとしない本ばかりで、やはり感想は「ふ~ん」であった。

僕は「大人になって愛読書が司馬遼太郎だという人は信用できない人物だと思ってよい」という言葉を、ふたたび噛みしめたのである。

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推しが強い

10月4日(土)

毎日リハビリでヘトヘトになり、もはや何も書くことがない。

YouTubeを見ていたら、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍をしている文芸評論家のチャンネルがあったので、試しに見てみることにした。

その文芸評論家は、ベストセラーとなった新書を書いていたりするが、僕は読んだことがない。

文芸評論家の肩書きのとおり、とにかく本や読書が好きで、まだ若いと思われるのに、古今東西の小説やエッセイや評論に通じ、オタクといってもいいくらいの読書量を誇っている。

次々と繰り出されるお奨めの本に圧倒され、それはそれですごいなあと、チャンネルをみて感心するところ頻りなのだが、なぜか、僕が読みたいと思う本が見つからない。

もちろん、その文芸評論家のプレゼン能力は素晴らしいし、「面白いから絶対読んでみてください」という「推しの強さ」も、本や読書に対する愛情に溢れている。実際、コメント欄をみると、「さっそくお奨めの本を買います」「○○さんのおかげで本を読むことが好きになりました」と好意的なコメントが多い。それはそうなのだろう。

しかし僕はどうもお奨めの本を読もうという気になれないのである。なぜなのだろう。

僕と世代が違うからだろうか?でもその文芸評論家のファンは世代を超えているはずだから、そういうわけでもだいだろう。

私の中で、ものすごい圧で本を奨められること自体に抵抗感があるのだろうか。それも一理あるが、一概には言えない。

これを映画評論に置き換えて考えてみた。

たとえばラジオで、映画評論家の町山智浩さんとか、ライムスター宇多丸さんが「面白い」と評した映画評を聴くと、その映画を観たくなってしまう。

それは、長年をかけてその映画評に触れてきて、(おこがましいが)この人は信頼できる!となってはじめて、その映画が自分の中に入ってくるのである。

本でいえば小田嶋隆さんや武田砂鉄さんがそうだ。著書の中でさりげなく引用している本が、無性に読みたくなったりする。

友人から奨められた本を読もうと思う気になるのも同様である。長年の信頼の蓄積があるからこそである。

しかし、どんなに有名で売れている文芸評論家であっても、そこに信頼がないと、奨められた本を読む気にはならないのではないだろうか。

もっとも、僕みたいな偏屈な人間に向けたチャンネルではないことは前提としてあるのだろう。

もう一つ、ぼんやりと考えているのは、品揃えが豊富な大型書店でありながら、なぜか買う気が起こらない書店があるのだが、その感覚にも近いのかもしれない。

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質問攻め

10月3日(金)

3種類のリハビリのうち、言語聴覚療法は、脳トレみたいなチェックテストが毎回行われる。僕は意識レベルでは問題がないので、成績は健常者と変わらないのだが、それでも「試験」のようなものを課されるたびにいまだに緊張する。「クイズタイムショック」に出演している気分である。

僕はともかく、物忘れが激しい高齢者には、もっと基本的な質問がくり返される。「おいくつですか」とか「今の季節はわかりますか」など。

伊藤亜紗・村瀨孝生『ぼけと利他』(ミシマ社、2022年)に面白い事例が載っていた。

介護保険の要介護認定の際に、調査員が本人に簡単な質問をする。それ自体、答えられるか答えられないかをあげつらう質問として不愉快な質問なのだろうが、それに対する(物忘れの激しい)高齢者の答えが奮っている。

93歳のおばあさんに調査員が「おいくつですか」と質問する。

それに対するおばあさんの答えは、

「忘れることにしています」

「忘れました」ではなく「忘れることにしています」というのが面白い。

そのほかにも、こんな例を紹介している。

「今の季節はわかりますか?」「そりゃもう、最高の季節です」

「お生まれはどちらですか?」「あなたこそ、どちらのお生まれですか?」

「お母さん、私、誰かわかる?」「知っとくるさ、あんたはあんたよ」

こうしたやりとりに対し、介護の専門家・村瀨孝生さんは、

「『できる/できない』という質問を普通の会話に変える。質問に対して質問で返す。『できない』ことがバレないように取り繕うお年寄りの、飾り気のない機智が小気味よいのです。深いぼけのあるお年寄りは、『人を試す』かのような質問でも誠実に答えてくれます。答えに『ずれ』を携えて。でもその『ずれ』は『わたしたち』が知の領域としているストライクゾーンが、いかに狭いかに気付かせてくれる。ぼけの『知』には、てらいのない寛容な構えがあります」(20頁)

たしかに「できるかできないか」という基準で他人に試されるのは、僕だって不愉快だし、緊張する。いままでそうしたことを仕事にしてきたのに身勝手な話だが、そうなのだから仕方がない。

それをうまくかわしながらコミュニケーションを成立させようとするぼけの「知」には、長く生きてきた知恵が凝縮されているとも思う。

それはさておき。

以下は、本書の核心とはまったく関係のない話だが、村瀨さんは94歳女性のKさん、85歳男性のMさん、92歳女性のSさんという3人の会話を紹介している。

「Kさん『わたしゃ、ずいぶんと前から気になっとったんですがねぇ。頭の、その穴はなんですか』

Mさん『ああ、これですか。まず綿を詰めます。そして種を埋めます』

Kさん『そうですか』

Mさん『そして水をやります』

Sさん『わたしゃ、前々からあの緑がよかと思いよった』

Sさん『やっぱり、緑はよか』

Kさん『ああ、そうですか』

Kさんが気にしているのは、Mさんの頭にある穴のようなものでした。それは硬膜下血腫の手術痕です。陥没しており穴に見えます。Mさんの髪型は磯野波平と同じですから、よく目立つのです。

Kさんは突然その「穴」は何かと尋ねます。(略)

Mさんは「ああ、これですか……」と「穴」について語り出します。手術痕である穴に綿を詰め種を埋めるというものでした。おそらくMさんは『別の穴』の使用法を説明しているのです。(略)

さらにMさんは水をやって種を育てると言います。(略)頭に花を咲かせたMさんを想像してしまい笑いを抑えきれませんでした」(95頁)

すでに読者(ダマラー)にはお気づきだと思うが、これはまるで落語の「頭山(あたまやま)」である。ひょっとして落語の「頭山」は、こんなふうな会話から生まれたのか?

それとも、この3人は落語の「頭山」を知っていてこのような会話を繰り広げたのか?だとしたらすごい。

真相はどうであれ、3人の意図せぬ会話は、落語のような世界観に通じる機智に富んだやりとりであるということである。

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本が増えていく病室

9月27日(土)

妻が、ノートパソコンと、3冊の本を持ってきてくれた。自宅に届いた本である。

1冊目は、僕がAmazonで注文しておいた本。注文と支払いは病院ででもできる。

2冊目は、職場の仕事仲間が送ってくれた本。驚いたことに、僕宛てに著者のサインが入っていた。どのようにしてサインをもらってくれたのだろう。

3冊目は、以前の職場の元同僚が送ってくれた本。最近、久しぶりに連絡をもらい、近況を報告したところ、さっそく本を送ってくれた。

いずれも読んでみたいと思う本ばかりである。

僕にとって本をプレゼントされることが一番嬉しい、ということを僕の周りの人たちがみんな知っている。もちろん、打合せをしたわけでもない。一人ひとりが選書して、手間ひまをかけて送ってくれる。その時間こそが嬉しくもあり、手にとった本は何よりの薬である。

そして、この記事は、試みに、妻が持ってきてくれたノートパソコンを使って書いている。右手にはまだ麻痺が残るが、ブラインドタッチがなんとかできるようになってきたことをご報告したい。

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○○ファースト

武田砂鉄『「いきり」の構造』(朝日新聞出版、2025年)を読んでいくと、拾いたくなる文章がたくさんある。

なかでも本書の最終章に語られている言葉は、とくにいまの僕の思いを代弁してくれている。ある政党による「日本人ファースト」というキャッチフレーズについて述べたくだりである。

「ファーストを作るためには、セカンドに追いやる存在が必要になる。外国人だけではない。性的少数者や終末期医療の患者たちを苛む言説を撒き散らしている。その言動に多くの人が熱狂している。(略)

明日から、誰だって、彼らの設定するファーストではなく、セカンドに転げ落ちるかも知れない。2年ほど前、私のよく知る70代後半の女性が、商業施設の階段で転び、大腿骨を骨折してしまった。それまでとても健康的な人だったが、入院生活を余儀なくされ、厳しいリハビリの末、退院した。ところがしばらくして、レストランの入り口で同じように転んでしまい、入院、リハビリ、退院の流れを繰り返した。あちこち出歩くのに不自由はありつつも、なんとか日常生活を取り戻しているようだ。人間は誰もが、明日どうなるかもわからない存在であり、どうかなってしまった時に、日常を取り戻すのに相当な労力を必要とする。自分にもいずれそういう瞬間がやってくる。『日本人ファースト』と叫んでいる人にも、それに熱狂する人にも、ファースト扱いされない場面がやってくる。やがて、ではなく、熱狂した帰り道かもしれない。物議をかもす発言で人を操ろうという人は、そちら側にはいかない確信があるようだが、そんなはずがない」(250頁)

ここで紹介されている、入院、リハビリ、退院を繰り返す高齢女性の話は、いまの僕にそのままあてはまる。僕だってこんなことになるとは思わなかった。自分がいつ社会の中の弱者として排斥される存在になるかはわからない。その可能性は誰にでもあるのだ。

私は少し前にこのブログに寄せられた江戸川君のコメントに、同意する意味で次のようなコメントを書いた。

「社会保障の予算を減らして軍事費にまわせとか棄民政策を声高に主張する政党は本当に許しがたいです。いずれ自分も当事者になる可能性があるのに」

勇ましい発言をする人は、差別や病気に苦しむ人のことを顧みない。想像もできない。想像もできないから自分もそうなる可能性があることに思いが至らない。したがって政策も思いつかない。

だから僕は「○○ファースト」を標榜する政治家は、例外なく「うさんくさい人物」と断定することにしている。よく恥ずかしげもなく「○○ファースト」という言葉が使えるなぁと呆れるばかりである。

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女性週刊誌

「駆け出しの入院患者」である僕は毎食、病室から食堂に強制的に連れて行かれるのだが、食事の時間より30分くらい前に連れてこられ、そこにスタンバイさせられることが多い。うっかり丸腰で行ってしまうと食事の時間まで時間を潰すのに苦労する。

最近になってようやく「スマホと本」を小さな手提げかばんに入れて持っていく知恵をつけたが、最初は備えつけの新聞や雑誌を読んでいた。しかしすでにほかの人の手に渡っていることがあり、なかなか読みたい新聞や雑誌にありつけることは少ない。それでなくても雑誌の種類は限られているのである。

それでも「活字中毒」であり「情報スケベ」である僕は、とりあえず何でもいいから雑誌を手に取る。手にした雑誌は女性週刊誌だった。

久しぶりに読む女性週刊誌、といってもこれまで熟読したことはない。

芸能ゴシップと皇室ネタで埋め尽くされているのは、たぶんむかしと変わっていないのだろう。ひとつひとつの芸能ゴシップは、見開き2ページで簡潔に完結している。

「水谷豊、鬼父宣言!」

という見出しが気になったので読んでみると、俳優の水谷豊さんを父、伊藤蘭さんを母に持つ俳優の趣里さんがミュージシャンと妊娠婚したらしい。その相手がまあチャラ男のようで、数々の女性と浮き名を流していた。当然両親は二人の結婚に難色を示していたようなのだが、生まれてくる子どもには罪はないので最終的には同意した。父の水谷豊さんは、「たとえ相手に浮気されても助けない!」という宣言をしたというのである。なるほどそれで「鬼父宣言」か…。

女性週刊誌といえば「馬鹿っ母」である。そのことについては前に書いた。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-38c0.html

「鬼父」は、「馬鹿っ母」を引き継いでいる表現として、女性週刊誌の伝統を守り続けていた。

ほかには、歌手·長渕剛の不倫に関する記事や歌舞伎役者の松本白鴎の記事もあった。いずれの記事も、ショックだったのは内容もさることながら、志穂美悦子と松本白鴎の現在の写真である。長渕剛の妻·志穂美悦子は若い頃の面影がなく、松本白鴎は歩くのもままならず車椅子生活を続けながら、現役の役者を続けている。年を取ると誰でもそうなることとは言え、若い頃を知っている身としては、深く考え込んでしまう。やがてその矛先は自分に向かう。いまの俺も同じように、まわりからはそう見えているのではないか、と。

結局安心して読めたのは、武田砂鉄さんが連載している「テレビ磁石」だけだった。

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