書籍・雑誌

三たびの海峡

1月20日(木)

ひとり合宿、2日目。

今回はいつになく長丁場で、なかなかツラいものがあったが、なんとか無事に終えた。

3時間にわたる長丁場の終了後、メールをチェックすると、本来ならばもっと早く提出しなければならなかったレポートについての進捗状況をたずねるメールが来ていて、これはたいへん申し訳ないことをしたと、急いでレポートを仕上げて送った(昨日書いていた職業的文章とは異なる)。期待にそったものになったかどうかはわからない。

このほかにも、週末の会議の資料を作らなければならないのだが、まったく手をつけていない。明日までにはなんとか作成して、事前に会議のメンバーに送らなければならないのだが、明日はそんな余裕があるかどうか、わからない。

現実逃避して、持ってきた本を読むことにした。

帚木蓬生の『三たびの海峡』(新潮文庫)という小説である。最近関わった仕事をきっかけに、読むことにしたのである。帚木蓬生の小説を読むのは初めてである、というか、この本を手に取るまで、恥ずかしながら名前を知らなかった。

たしか、映画にもなったことがあり、タイトルだけは以前から聞いたことがあった。その映画は見ていない。

わりと長編の小説なので、入手してからも読むのを躊躇していたのだが、わかりやすい文体のせいもあって、一気に読んでしまった。いやあ、すごい小説だ。これを映画にしたくなる気持ちもわかる。

しかし、いまのこの時代に、この国でこれを映画化することは、かなり難しいだろうな。

以前に映画化されたときは、出演者はほとんど日本の俳優だったと思うのだが、原作の趣旨からすると、少し違和感がある。もっとも、実際に映画を見てみたら、また印象が異なるのだろうけれど。

これはぜひ、韓国で映画化をしてほしい。その方が、原作の趣旨をストレートに表現できるのではないかと思うのだが、

まずは、映画版では日本の俳優がどのように演じているのか、見てみたいものだ。

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羊羹はなぜ到来物が美味しいのか?

小川洋子さんのエッセイ「到来―はるか遠くの美味しさ」(『遠慮深いうたた寝』河出書房新社、2021年)の出だしは、こんな文章で始まる。

「野坂昭如さんのエッセイを読んでいたら、”到来の羊羹”の一行に出会い、その羊羹が素晴らしく美味しそうに思えてならなかった。頂き物、贈り物、お土産。似たような言葉はいろいろあるが、到来、がかもし出す雰囲気は一種独特だ」

なるほど、たしかに「羊羹」と言えば、「到来物」である。「頂き物の羊羹」「贈り物の羊羹」「お土産の羊羹」とは言わない。羊羹は「到来物」でなければならないのだ。

立川談志の落語、たしか「雑俳」だったかと思うが、最初のご隠居とはっつぁんの会話のなかに、

「羊羹でも切るかな。

ええ羊羹けっこう!

そうかい?何でもいくんだな。到来物の羊羹だがね。

弔いもんですか?

「弔いもん」じゃねえ、「到来物」だよ。よそから頂いた…。

そうだろうねえ。買うわきゃねえからね。

口が悪いねどうも。」

というやりとりがあって、ここでもやはり羊羹は「到来物」である。してみると、到来物の羊羹という言い方は、落語がルーツなのか?

「やはり羊羹は、気位の高い伯母さんからの到来に限る」

とも書いていて、これもまた、落語の「サンマは目黒に限る」を思い起こさせる。

野坂昭如のエッセイに書かれていた「到来の羊羹」に反応して小川洋子さんがエッセイを書き、さらにそこから連想して僕がとりとめのない文章を書く、という、エッセイの連鎖が、なんとなく好きなのだが、あまり人には理解されない趣味だろうな。

ついでに書くと、「”推し”のいる幸福」というエッセイもよかった。

「ミュージカルに目覚めた途端、スケジュールの管理がたいへんになった。それまでは、スケジュール、というほどの大げさなものとは無縁だった。手帳にぽつぽつと記される原稿の締切、ただそれだけを意識していればよかった」

で始まるエッセイは、アラフィフになってミュージカルに「落ちた」ことにより、人生が一変した幸福感を、短い文章のなかで余すところなく伝える。チケットの予約や代金の支払いやチケットの入手方法、読んでいるだけで目が回る感じがするのだが、それをいとわずに実行し、そしてそれをいとわずにエッセイに書くエネルギーがすごい。「ぼんやりしている暇はない」のだ。

「未来の一点に、自分の足跡を刻むように、公演名を大きな字で書き込む。その一行が、人生を先回りし、光を放ちながら私を待ってくれているような、小さな幸福を感じる」

味わい深い名文である。

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正義と正気

寺尾紗穂さんのエッセイ集の最新作『天使日記』(2021年12月、スタンド・ブックス)を読んだ。

あらためて思うが、音楽活動と並行して、これだけ印象深い表現を駆使した文筆活動を続けていく、その筆力には、驚嘆を禁じ得ない。

以前にも書いたが、かつて一度だけ、ある本の中でお仕事をご一緒したことがある。そのときの寺尾さんの文章がとてもよくて、一緒に並んでいる自分の文章の稚拙さに恥じ入るばかりであった。そしてそれは、僕がいままでいかに狭小な業界で仕事をしてきたかを思い知らされることでもあった。

本を読むたびにいつも思うのだが、寺尾さんご本人は、自分から決して売り込もうとしない人のように見受けられるにもかかわらず、音楽活動や文筆活動を通じたさまざまな出会いや仕事が途切れなく続き、次々と新しい「縁」を作り出していく。それは表面的には決して派手に見えるものではないが、実はけっこうすごいことだったりする。

さてこの本は、段組が少し変わっていて、前半が1段組で、後半が2段組である。前半は各媒体に書かれたエッセイで、後半は『高知新聞』に連載しているエッセイを集めている。つまりは『高知新聞』連載のエッセイの部分が、2段組なのである。これは、前作『彗星の孤独』(2018年、スタンド・ブックス)でも同様である。

僕は、後半の『高知新聞』連載のエッセイを、一つ一つ噛みしめるように読んでいる。各エッセイは、コンサートなどで各地に赴いた先で出会った人や話、あるいはそこから想起する想いについて書かれていて、さながら旅日記である。

僕が印象に残ったエッセイの一つに「福岡 降り止まぬ雨」というのがある。ある大学の集中講義で出会った人。「自分が人をさばくような物言いを、知らずにしていないか」と自問する、という彼女の言葉があまりに印象的で、寺尾さんはその人からくわしくお話を聞くことになる。

彼女は大学時代に教授からセクハラを受けていたが、当時、味方となる教員は誰もいなかった。その後しばらくして、別の教授から、その教授のハラスメントについて証言してくれないかと依頼が来る。聞くと、男女問わず、多くの学生がその教授のハラスメントに苦しめられていたという。彼女は一人ひとりの声をとりまとめる仕事を引き受けたのだが、結局教員たちは当てにならず、自分達で弁護士に依頼し、手弁当による戦いを始めた。しかし運動を繰り返すうちに、あたかも自分たちこそが正義で、相手が不正義であると断定するかのような自分の言葉に、疑問を持つようになる。「自分が人をさばくような物言いを、知らずにしていないか」という彼女の発言は、そのことをふまえてのものだった。

寺尾さんの次の言葉は、たいへん印象的である。

「市井の人びとが声を上げる手段として、訴訟が重要なことはもちろんだし、なくては困る。けれど、それでもなお、訴訟により失うものがあるとすれば、それは、『自分が正しい』という、極めてはっきりとした『迷いのない主張』を声高に伝えなければならない、という義務を抱えることではないだろうか」

10年前の僕だったら、自分こそ正義、という信念でいろいろなものと戦ったり、いろいろなことに抗ったりしたかもしれない。しかしいまは、この「自分が人をさばくような物言いを、知らずにしていないか」という言葉が、よくわかる。

実際、自分より10歳も20歳も若い仕事仲間を見ていると、かつての僕のように、自分たちは正義であり、不正義をはたらいた人間は断罪すべきだ、という意見に出会うことがある。もちろんそれは、本人の真面目さに起因するものであり、尊重すべき意見ではある。しかしそこに違和感を持ち始めた僕は、歳をとって、ものわかりがよくなったということなのだろうか?

以前僕はこのブログで、2017年6月11日に東京で開催された「SHORTS SHORTS FILM FESTIVAL& ASIA 2017アワードセレモニー」における大林宣彦監督のスピーチを紹介したことがある。

「たとえば今私たちが正義を信じていますね。「私の正義が正しい。敵の正義は間違っている」。一体正義ってなんでしょう。私たち戦争中の子供はそれをしっかりと味わいました。私たちも大日本帝国の正義のために戦って死のうと覚悟した人間でした。しかし負けてみると、鬼畜米英と言われた側の正義が正しくて、私たちの正義は間違っていた。なんだ正義とは、勝った国の正義が正しいかと。それが戦争というものか。じゃあ自分の正義を守るためには年中戦争してなくてはいけないかと」

「戦争という犯罪に立ち向かうには、戦争という凶器に立ち向かうには、正義なんかでは追いつきません。人間の正気です。正しい気持ち。人間が本来自由に平和で健やかで、愛するものとともに自分の人生を歩みたいということがちゃんと守れることが正気の世界です」

「正義」が「不正義」を断罪することで、平和がおとずれるのだろうか?自分や他人の中にある「正義感」とどう折り合いをつけるべきかが、いまの僕が直面している課題である。だからこそこのエッセイがいま、僕にとってとりわけ印象深いのだろう。

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阿佐ヶ谷つながり

阿佐ヶ谷を舞台にした小説を探していたら、野呂邦暢の『愛についてのデッサン』(ちくま文庫、2021年)に出会った。

野呂邦暢は、1980年に42歳で亡くなった、長崎県出身の芥川賞作家である。諫早を拠点に作家活動を続けていた。

実は20代前半の頃、野呂邦暢という作家に興味を持ち、芥川賞受賞作『草のつるぎ』をはじめとする小説を読んでみようと手に取ったのだが、短編小説であるにもかかわらず、どういうわけか、途中で挫折してしまった。

2002年に『草のつるぎ』が文庫化されたのを機に、いまいちど、野呂邦暢の小説に挑戦しようとしたのだが、やはりなぜか挫折してしまった。

自衛隊に入隊した経験をもとに書かれた小説というイメージがあり、自分とは無縁の世界と感じていたからかもしれない。

阿佐ヶ谷姉妹をきっかけに、僕が若い頃に読もうとして挫折した野呂邦暢の存在が、ふたたび僕の前にあらわれてきたのは、まことに不思議な縁である。

『愛についてのデッサン』は、阿佐ヶ谷の古書店を舞台にした連作小説である。文庫のカバーに書かれている説明書きによれば、「古本屋稼業に静かな情熱を燃やす若き店主、佐古啓介が謎めいた恋や絡み合う人間模様を、古書を通して事情を解き明かす異色の青春小説として根強い人気を誇る傑作」とある。殺人事件とか、難しい謎解きとか、推理小説というわけではないのだが、ミステリー要素の強い小説である。

阿佐ヶ谷駅北口の「佐古書店」という古本屋が舞台である。もちろん実在の古本屋ではない。しかし小説の中では、佐古書店の住所を、「杉並区阿佐谷北 一の六の五」としている。いま、この住所で検索をしてみると、阿佐ヶ谷駅北口のスーパー「西友」の裏手あたりだろうか。

それにしても、野呂邦暢は、なぜ舞台を阿佐ヶ谷に選んだのか。野呂邦暢が上京するたびに、神保町、早稲田界隈、そして中央線沿線の古本屋をめぐることを楽しみにしており、古本屋を写真にまで収めていたことは『野呂邦暢 古本屋写真集』(ちくま文庫、2021年)からもわかる。しかしなぜ、神保町でも早稲田界隈でもなく、阿佐ヶ谷なのか。『愛についてのデッサン』巻末の、岡崎武志氏の解説によると、「一九七七年阿佐ヶ谷に十一軒あった店舗のうち、営業を続けているのは「千草堂書店」のみ。消沈の激しい数十年だった。その後にできた「銀星舎」「コンコ堂」とともに中央線沿線の古本屋文化をかろうじて守っている」とある。神保町や早稲田界隈の「古本屋街」よりも、古本屋が点在する阿佐ヶ谷のほうに郷愁を感じていたのかもしれない。

『愛についてのデッサン』は、副題に「佐古啓介の旅」とあるように、若き古書店主の佐古啓介を主役にした、6篇からなる連作小説だが、これがじつにおもしろかった。連続ドラマにしたらおもしろいのではないかと思うほど、読んでいると映像が浮かんでくるのである。

巻末の解説で岡崎武志氏は、「『愛についてのデッサン』は、「火曜サスペンス劇場」のような二時間ドラマの原作になりうる」と書いているが、僕の読後感で言うと、「火曜サスペンス劇場」ほどの事件的な展開はなく、むしろNHKでむかし放送していた「ドラマ人間模様」にふさわしい原作である。

僕が好きなエピソードは、「若い砂漠」。佐古啓介は、ふとしたきっかけから、大学時代の友人だった鳴海健一郎のことを思い出す。彼は大学時代に、大学新聞に書いた懸賞小説が入賞し、批評家に賞賛される。だが鳴海は、俺の小説の価値があんな批評家たちにわかってたまるか、あんな批評家に認められるくらいなら、小説を書くのをやめる、と虚勢を張り、大学を卒業した後は放送局や芸能事務所に勤めることになる。

古書店主となった佐古はあるとき、鳴海が神戸の同人雑誌に書いた小説が批評家の目にとまっていることを知り、鳴海に会いに神戸を訪れる。鳴海は、同人雑誌に書いた小説が、今度の「A賞」(芥川賞を想定していると思われる)の候補作になるに違いないこと、そして、「A賞」の審査員の「票読み」をして、自分の小説が「A賞」を受賞することは間違いないことを、嬉々として佐古に語るのである。鳴海の虚栄心の強さを目の当たりにした佐古は、「鳴海と会うのはこれでこれで終りになりそうな気がし」て、鳴海と別れることになる。

僕も大学時代に、鳴海と似たような友人がいた。そういえばあいつ、いまはどうしているのだろう?

それはともかく、この小説を書いている時点で、実際に芥川賞を受賞している野呂邦暢は、どういう気持ちでこのエピソードを書いたのだろう。自分への戒めなのか、それとも、実際にそういう友人がいたのだろうか。いろいろな想像が広がる。

ということで僕はようやく、野呂邦暢の小説を、挫折することなく読むことができたのである。これも、阿佐ヶ谷が結んだ不思議な縁である。

これからも阿佐ヶ谷駅北口の「西友」の前を通るたびに、野呂邦暢のこと、そして「佐古書店」のことを、くり返し思い出すことになるだろう。

『愛についてのデッサン』の文庫本には、「佐古啓介の旅」シリーズのほかに、いくつかの短編小説も併載されている。その中で、「世界の終わり」という短編小説は、ビキニ環礁での核実験で第五福竜丸が被爆の被害にあった事件から発想したディストピア小説である。

野呂邦暢は少年時代、長崎に原爆が落とされた日に、諫早から長崎を遠望している。長崎市の国民学校に通っていたときの同級生のほとんどはそのときに死亡したという。あるいはそのときの体験の記憶が、この小説に影響しているのかも知れない。

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ここにもアラフィフ讃歌

年末年始は、締切が過ぎている職業的文章をいくつも書かなければならないのだが、その気力がまったくない。

表紙のデザインの美しさに惹かれて、俳優の小林聡美さんのエッセイ集『聡乃学習(サトスナワチワザヲナラウ)』(幻冬舎、2019年)を手に取った。

映画「転校生」以来の小林聡美ファンである僕は、エッセイ第1作の『ほげらばり』(1997年)が出たばかりの頃に読んだのだが、その後は、エッセイ集が何冊も出ているにもかかわらず、手に取って読んだことはない。小林聡美さんは、エッセイよりもむしろ対談や鼎談のほうがおもしろいのではないかと、一時期思っていた。

今回久しぶりにエッセイ集を手に取ったのは、最初に述べたように、表紙のデザインが美しかったのと、どうやらアラフィフの生き方について気負いなく書かれているらしい、ということが、表紙の「帯」から感じとったためである。

一読して、『ほげらばり』の頃とくらべると、エッセイの名手、とまではいかないが、ずいぶんと肩の力の抜けた心地よい文章だなと感じた。ということは、『ほげらばり』の頃は、肩に力が入っていたと、読んだ当時の僕は感じていたのだろう。

アラフィフの僕はいま、それ以前とはかなり異なる人生観を持ちつつあるのだが、であるからこそ、アラフィフの人の書いた文章がいま、最も気になっている。といっても、時間がないのであまり読む機会はないのだが。

アラフィフ讃歌とも言うべき、アラフィフの人が書いたエッセイは、当然ながら書き手によって持ち味が異なる。少ない読書体験から言うと、たとえばジェーン・スーさんは肉食派、小林聡美さんは草食派、阿佐ヶ谷姉妹は白湯(さゆ)派、である。あくまでもざっくりとした僕の分類である。

小林聡美さんのエッセイで印象に残った部分をいくつか。

「かくいう私も十分に初老だと威張っていい年齢だが、やはり、どうしても『フネ』というより『サザエさん』な気分が抜けないのが恥ずかしい。『フネ』は原作では四十八歳、アニメでは五十二歳だそうだ。まさにアラフィフ、私世代である。気分は『サザエさん』なのに、体は『フネ』。完全に統合不一致である。頭ではわかっているのに、なかなか実感がともなわない」(「初老の伸び悩み」より)

…ちょっとこれについて、最近僕が体験したことを書く。先日、韓国の国際会議にオンライン参加して、短いコメントを求められた。日本語でコメントしてよいとのことだったが、12年ほど前に1年間韓国留学をしていた身である。せめて冒頭の挨拶、文章にして2~3行分くらいは、韓国語で話そうと思い、ちょっとした挨拶文を考え、イメージトレーニングをして、「よし、大丈夫だ、これでいこう!」と、本番を迎えて、いざしゃべる段になると、まったく口が追いつかない。フガフガして、聞いている方は、何をしゃべっているかわからなかったに違いない。つまり、イメトレの自分と実際の自分が、まったく乖離していたのである。まさに「気分はサザエさん、体はフネさん」状態である。

「なににおいても若くて元気なときは多少自分を無理に矯正して、盛ったり張ったりできるけれど、シニアになったら、やっぱり自分の心地よさが一番大事。見栄えも性格も必要以上に盛らない。疲れているときは疲れていると、親切にできないときはできないと。こんな私ですけどよろしくお願いできますか、といって自分がむきだしていられる場所を見つけたら、大事にしていきたいと思うのである。そしてそんな場所が少しずつ増やせたらいいなあと思う」(「むきだしのステージへ」より)

…これも、いまの僕にはとてもよくわかる。

「そんなひとりものたちの間では、『だから老後はみんなで住もうよ』という話になることが間々ある。働きっぷりのいい人にはみんなで『お願いだから土地を買っておいてくれ』とせがみ、料理上手の人は『料理はまかせろ』なんて盛り上がったりする。そんなことができれば楽しいかも、という反面、じゃあ本当にみんな揃って田舎に引っ越せるのか、と考えると、やっぱり都会がいいとか、そっち方面の田舎は嫌だとかなかなか意見がまとまらないのではないか、という結論に達するのだ。そうなると、やっぱりひとりで田舎暮らしが一番現実的なことなのか。悲しいかな私もすっかり一人暮らしの快適さを満喫しているツワモノバブル世代だ。『みんなで住もうよ』と盛り上がっている友人たちも、きっと本当は私のようにひとり暮らしが気に入っていて、誰にも気を使わずに自分の時間を過ごすことを大事にしているに違いないのだ。とはいえ、年をかさねひとりでできることには限りがある。そんなことを実感していけばいくほど、ひとりの快適さと心細さの折り合いをどうつけるのか、いよいよ考えることになるのだろう」(「ひとりで暮らすこと」より)

…この部分、実はかなりよく練られた文章だと思う。たしか阿佐ヶ谷姉妹も、将来的にはいま住んでいるアパートを買い取って、そこに気心の知れた人たちと住む、という夢を持っていると語っていた。アラフィフになると、同時多発的にこのような生活スタイルを夢見るようになるというのが、そこはかとなくおもしろい。

若い頃のように無理に面白がらせようとしない、肩肘の張らない文章。どうってことのない日常を淡々と綴る筆致。アラフィフになってこれが獲得できたのだとしたら、アラフィフになることも悪くない、と思う。

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人生の予告編

水道橋博士は、人との縁をたぐり寄せる達人である。

水道橋博士の『藝人春秋Diary』(スモール出版、2021年)を読むと、人生のあらゆるところで起こっている出来事が、まるで一つにつながっているような錯覚を受ける。一見関わりのない人との出会いも、旅先で見たふとした偶然も、すべてあらかじめ仕組まれていたのではないかという気になってしまう。

「50歳を過ぎてから、人生の前半生は物語の「伏線」。読書で例えれば「付箋」だらけだと気づいた。その回収に向かい、物語のページをめくるのが後半生だ。」(504頁)

これは僕も常日頃から感じていることである。若い頃に、一瞬出会った人とか、かつて一緒に仕事をしたことがある人と、人生の後半生になって、再会してまた一緒に仕事をする、という経験を、ここ最近何度もしてきたのである。ま、考えてみれば、長く生きていれば、必然的にそうなるのであろうけれども。

「倉敷人・前野朋哉とMEGUMI」というエピソードが好きだ。

母親の四十九日のために実家のある倉敷に帰る、その折にたまたま岡山制作のローカル番組を見た。『レシピ 私を作ったごはん』という番組である。その中で、同郷の俳優、前野朋哉とMEGUMIが、青春時代に通いつめた映画館として「千秋座」の名をあげたのをふと耳にして、たちまち10代の頃の思い出がよみがえる。

千秋座は、岡山県倉敷市に古くからあった劇場で、明治14年(1881)年に芝居小屋として開座した。そこで若き小野正芳少年は、人生初のアルバイトをすることになる。最年少だった少年は、古参の従業員たちに可愛がられ、映写室でフィルムの掛け替え作業を教わることもあった。「それは、まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のような毎日だった」と述懐する。なんとノスタルジーにあふれた文章だろう。

しかし10代の頃に見た映画は、実は本編ではなく「人生の予告編」だった。その後、自分が味わうことになるさまざまな苦楽こそが、人生の本編だったのだ。

このエピソードは、こうまとめられている。

「母親の四十九日に同郷の前野朋哉から千秋座の思い出を聞くという偶然は、55年前に倉敷でボクを作った母の「レシピ」が「一日千秋」の想いで引き寄せ、この『藝人春秋』に書かせるという必然だった」

偶然と必然の狭間で、人は生きている。いや、偶然は、必然なのかもしれない。

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心はどこへ消えた?

11月25日(木)

新幹線で片道4時間かかる北の町へ、日帰り出張である。

片道4時間、往復8時間も新幹線に乗っているのだから、新幹線の中で仕事ができればこれほど効率のよいことはない、と、すっかりワーカーホリック的な感覚が身についてしまったのだが、いかんせん、乗り物酔いがひどいため、新幹線の中で書類を読んだりパソコンの画面と格闘したりすると、とたんに具合が悪くなる。あまり脳に負担にならない軽めの本を読むのがせいぜいである。

東畑開人さんの『心はどこへ消えた?』(文藝春秋、2021年)を読んでみた。

全体は軽妙なエッセイで、さらりと読める文章なのだが、序文に書いてあることが、けっこう衝撃的だった。

「心理学には本当にたくさんの論文や本があって、理論や知識はあふれている。それなのに、どのテーマも現代の読者たちに響くようには到底思えなかった。この時代に切実な心の話とはなんなのか。まるでわからなかったのだ。

ヒントが欲しくて,新聞を読んだり、テレビを見たり、SNSを巡回したりもした。だけど、そこにあったのは、政治とか経済とかのとてつもなく大きな話ばかりで、心を描くための小さなエッセイで扱えるようなことではなかった。

おかしい。心が見つからない。心はどこへ消えた?」

少し読み進めると、こんなことも書いている。

「わからないことがあったときは、まず事典を引いて、定義を確認する。昔そう習ったし、学生にもそう教えているから、私も図書館に行って、心理学の専門的な事典を調べてみることにした。

すると、驚くべきことがわかった。心理学の事典にはそもそも『心』という項目が存在していなかったのだ。図書館に置いてあった事典をすべて見てみる。やっぱりどこにも『心』がない。おかしい。心はどこへ消えた?」

心理学の事典に『心』って項目がないというのは、かなり衝撃的ではないか、と、僕はそう感じたのである。

著者が臨床心理学を志した年が、1999年。「かつて、つまり1999年以前には、心はキラキラと輝いていた」という。

「なにより臨床心理学は大人気だった。心の深層を語る本は一般書の棚でもよく売れていたし、事件が起こればメディアに臨床心理学者が呼ばれて、「心の闇が」云々と語っていた。大学の心理学科は高倍率で、「臨床心理士」という資格もできた。心の仕事が少しずつ社会に広がって行った時代だった。」

たしかにそうだ。僕が大学生だった1980年代末から90年代にかけて、心理学は超人気の学科だった。告白すると、僕は小学生の頃、多胡輝先生のゴマブックスの心理学の本を読みあさっていた。宮城音弥先生の『性格』(岩波新書)は、僕の人格形成に大きな影響を与えた。心理学はブームだったのだ。

その後の時代の流れを著者はこう書いている。

「(略)かつてキラキラしていた心は、今ではほとんど人々の関心を集めることがなくなっていたのだ。

実際、心理学の本は専門書の棚にしか置かれなくなったし、事件が起きたときに語られるのは『心の闇』ではなく、『社会の歪み』だ。心理学科の人気は落ちて、定員割れの大学院もたくさん出てきた。『本当の自分』を見つけたとしても、『それで食っていけるの?』と身も蓋もないことを言われてしまう」

なるほど、これもなんとなくわかる。前の職場に勤めていた2000年代、やはり心理学コースは大人気だった。あまりに進学希望者が多くて、選抜みたいなことをしていたんじゃなかったかな。いまはどうなのだろう?著者が言うように、いま心理学科の人気が落ちているのだとすれば、その原因はなんだろう?僕はなんとなく、2011年の東日本大震災が、その分かれ目になったのではないか、という気がするが、よくわからない。でもその頃から、時代は「心の季節」から「社会の季節」へ移っていったのではないだろうか。

僕は昔から心理学の本を読むのが好きだったので、大学で心理学科が人気である現象もなんとなく理解できたが、心理学科に進む人たちに対しては、どちらかといえば冷めた目で見ていた節がある。

多胡輝先生の『心理トリック』を読んでいた僕が、心理学を学ぼうと思い、心理学科に進んだとしたら、おそらく失望したのではないか、という思いが、漠然とあった。心理学はそんな生やさしいものではない、心理学を学んだからといって、自分の心が癒やされるとか、他人の心がわかるといった、単純なものではないことも、心得ていたつもりである。

しかし一方で、この著者が述べるように、現代の読者の人の心に響かない心理学の研究があるというのも、事実のように思える。

いや、これは心理学に限らない。およそほとんどすべての学問は、現代に生きる人間の心を揺さぶるものでなくてはならないはずなのに、その「心」はどこへ行ったのだろう?

役に立つとか、立たないとかではない。問題を解決するとか、解決しないとかではない。心を揺さぶるか、揺さぶらないか、である。

心はどこへ消えた?という問いを、心理学の中だけにとどめてしまってはいけない。

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「戦艦大和」日記

11月21日(日)

この週末は、土日に別々のオンラインの会合があり、すっかり疲れはててしまった。

休日には、わが子と遊びたい、とか、本を読みたい、とか、映画を見たい、という思いにとらわれるのだが、オンライン会合はその自由を奪う存在で、つまりは自宅に居ながらにして身柄を拘束される,軟禁状態に等しい。しかも両会合とも、自分がまったく気の進まない内容ときているのだから、目も当てられない。

という愚痴はこれくらいにして…。

先日、Dream Libraryを訪れた、といったが、そこで一緒に調査をしていた知り合いの編集者が、ふとした雑談で、

「早坂暁先生の『「戦艦大和」日記』という長編小説がめちゃくちゃおもしろいですよ。僕が編集を担当したんですけど」

という。「日記」という体裁を借りて、史実と虚構を織り交ぜた物語らしい。

脚本家の早坂暁さんをめぐるお話については、このブログでも以前に何度か書いたことがある。

僕は恥ずかしながら,早坂さんの『「戦艦大和」日記』の存在を知らなかったが、気になって古書店サイトからそれを取り寄せて、読んでみることにした。

いま1巻を読みはじめたところなのだが、これがとてもおもしろい。さすが脚本家、というべきか、読んでいると、自然と映像が浮かんでくるのである。たとえば、第1巻のこんなところ。

「昭和九年九月二十七日 曇

東京玉の井遊郭から二十三歳の娼婦が、東武鉄道の線路づたいに脱走を試みていた。草履もとばして裸足である。走る力もなく、這うようにして浅草の方向に向かっている。雲が月を隠してくれたのが幸いしてか、無事玉の井の街をぬけて、南喜一の家に駆け込んだ。

 南喜一は元は職工五十人ばかり使ってエボナイトや石鹸をつくる工場を経営していたが、労働運動をしていた弟の変死から、神鏡を一変させ工場を売り払い、無産運動に身を投じた人物である。総同盟の争議部長となって争議を指導する一方で、玉の井遊郭にビラをまいて娼婦の待遇改善を呼びかけていた。

『助けて下さい』

娼婦は南のばらまいたビラを拾って、決死の脱走を図ったのだ。

女の名は川村ミツ。山形県米沢盆地の村の出身である」

まるでドラマの冒頭シーンのようで、この後の展開を期待させる筆致である。

まだ第1巻の途中までしか読んでいない人間が言うのもおかしな話で、しかもこういう言い方が適切かどうかわからないのだが、これが大河ドラマになったら、傑作になったのではないかと、想像する。

そして同時に、以前から漠然と抱いていたある仮説が僕の頭に浮かび、僕はその仮説をその知り合いの編集者に言ってみた。

それは、早坂暁さんのドラマは、「日記」というのが重要なキーワードになっているのではないか、という仮説である。

代表作の『夢千代日記』はもちろんだが、もう一つの代表作である『花へんろ』も、「風の昭和日記」という副題がついていた。

少し前に、BSフジで再放送していた、渥美清の若い頃を描いたフジテレビのドラマのタイトルも『渥美清のああ、青春日記』だった。そういえば、毎日放送のドラマ『人間の証明』は、岸本加世子さんの日記風のナレーションが全編にわたって流れるし、先日、NHK-BSPで再放送されていた高倉健さん主演の『刑事』では、日記が事件を解く重要な手がかりになっていた。

僕がそう思う根拠はこれだけにとどまらない。小学生の時に観たTBSテレビ放送のドラマ『関ヶ原』で、鮮烈な印象を残したのは、じつに些細なところなのだが、第二回の放送のいちばん最後、石田三成が徳川家康に幽閉される場面で「この日、イギリスの都・ロンドンでは、シェークスピアの『真夏の夜の夢』が上演されている」という石坂浩二さんのナレーションであった。のちに司馬遼太郞の原作を読んだときに、たぶんこの記述はなかったと思うので、早坂さんのオリジナルなのだろうと思う。このナレーションがとても印象深く、このナレーションは後々まで私の記憶に残り続けたのである。いま思うと、このナレーションも、その日に起こった出来事を語るという意味で、日記的な叙述だなあとあらためて思うのだ。

と、ここまで言ったところ、その編集者は、「早坂先生ご本人は日記をつけておられなかったそうです」とのことで、これもまたじつに不思議だなあと感じた。

妙な話だが、僕はここ最近、他人の日記を読むことに関心があり、「日記」と名のついた作品にひどく興味を持っているのである。

そこで、じつに久しぶりなのだが、以前に一度だけお手紙をやりとりしたことがある早坂さんの奥様に、近況報告の代わりに自分が関わった本をお送りがてら、以上のような仮説を手紙に認めてお送りした。なんともはや、僕は厚かましい人間である。

すると数日後、じつにご丁寧なお返事をいただいた。

『「戦艦大和」日記』については、この作品を書くにあたって司馬遼太郞が関わっているということや、ドラマの関係者からも映像化への期待が大きかったのだが、残念ながら小説自体が未完となってしまったこと、などが書かれていた。

そして、僕の仮説については、「たしかに,早坂の作品には『○○日記』とつく作品が多くあります」とした上で、僕が未見だった『○○日記』の作品名をいくつもあげていただいた。

更に、早坂さん自身が日記をつけていなかった、ということについては、たしかに日記はつけていなかったけれど、スケジュール帳はしっかりと付けていたので、それを見れば記憶をたどることができた、という。

そして奥様自身も、日々の記録をつけておられたが、早坂さんが亡くなられた後は止まってしまったという。その代わりに、知り合いの編集者が開設してくれたTwitterで、早坂暁さんの言葉を毎日更新しているのだという。

「早坂の書いた文章はたくさんのこっていますので、夕方18時前後には必ず更新して、早坂の遺した言葉を投稿しています」と書かれていた。

奥様は、早坂さんの言葉を毎日Twitterに更新することで、早坂さんのことを毎日のように思い出しているのだろう。

僕も、なるべく多くの言葉を遺そう。

そして、『「戦艦大和」日記』は、未完に終わらせずに読破しよう。

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蟹がこわい

10月12日(火)

ひとり合宿2日目

ふだんまったくといっていいほど新聞を読まないのだが、ひとり合宿では、朝刊と夕刊のサービスがある。といっても、新聞社を選ぶことはできない。朝刊は、ガチな保守層が愛読する新聞で、夕刊は、『日本経済新聞』(日経)である。どちらも政権寄りの新聞であることには変わりないのだが。

つまりふだん僕がまったく手に取ろうと思わない新聞ばかりなので、こういう新聞を読む機会というのは、ひとり合宿の時しかないわけである。逆に貴重だと思うので、読むことにしている。

日経の夕刊の1面の下には、「あすへの話題」というコラムがある。新聞社の編集委員が書くのではなく、日替わりで識者が書くもののようだ。昨日の夕刊のコラムには、ある大企業の社長が、俺はノーベル賞を取った学者さんと知り合いで、シャンパンを片手に話が弾んだことがある、といういけ好かねえ自慢話を書いていて、さすが日経と思ったのであった。

今日の夕刊は、一転して作家の山田詠美さんが「玉子と卵」というコラムを書いていた。これがなかなか作家らしくておもしろかった。曰く、

「卵」という字が嫌いで、「玉子」という字を書くと、校閲担当に「玉子」でいいんですか?と聞かれる。「玉子」は食用を意味するが、「卵」は鳥や魚や虫が産む生き物が出てくる前のあれを想像してしまい、「卵料理」なんて表記を見るとぞっとして食欲を失う。だが、「魚卵」という表記にはあまり抵抗がない。美味しいキャビアを連想すると舌鼓を打つことができるのだから、現金なものである。よく「○○の卵」というが、これもまた「玉子」の表記がいい。若いときに「小説家の玉子」と自称すると、編集者から「なんとか玉子さん」という名前みたいだと笑われた。

…という、じつに他愛のない話でおもしろかったんだが、僕がそれよりも興味を持ったのが、最後の段落である。

「三島由紀夫はカニが大大大嫌いで、「蟹」という漢字すら見ないようにしていたらしい。河野多恵子さんの芥川受賞作は「蟹」。大庭みな子さんの受賞作は「三匹の蟹」。三島さん、どっちも読めなかったでしょうね」

三島由紀夫が大の蟹嫌いだった、というエピソードのおもしろさももちろんだが、僕はこれを読んで思い出したことがあった。

僕の友人が大のカエル嫌いだ、ということを、あるとき聞いたことがある。もちろん、世の中には、あのヌメヌメしたカエルが大嫌いだ、という人は多いのかもしれない。しかしその友人は、本物のカエルがきらいなだけでなく、カエルのキャラクターとか、カエルのイラストも嫌いで、カエルの話題を出されること自体、嫌いだというのである。

「たとえば、ものすごいかわいいカエルのイラストでもダメなんですか?」

「ダメです」

「カエルの話題も?」

「ええ。カエルの話題を出す人がいたら、その人とは縁を切ります」

「それは、いつからなんです?」

「子どもの頃からです。理由はよくわかりません」

たとえばその友人に、カエルの絵をあしらったTシャツなり手ぬぐいなり、小物だったり、何でもいいや、たとえそれがかわいらしくっても、知らずにうっかりプレゼントしようものなら、友だちとしての縁を切られてしまうのである。

僕はそれを聞いたとき、自分にはまったく感じなくても、他人には絶対に生理的に受けつけないものがあるのだということを知ったのだった。

三島由紀夫にとっては、それが蟹だったのだろう。「饅頭こわい」のノリで三島由紀夫に蟹を贈ったら、本気で絶縁されるはずである。

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『大奥』からの『川島芳子自伝』

10月12日(火)

ひとり合宿2日目。

2日目は、午前中に「不動時間」がある。それが20分で終わる場合もあれば、2時間近くかかることもあるのだが、今回は、どうやら30分以内で終わるらしい。

毎回、「不動時間」には、せめてもの慰みで、お気に入りのCDをかけていいことになっている。だいたい、渡辺貞夫さんのCDを選ぶことが通例なのだが、今回は少し趣向を変えて、寺尾紗穂さんのCD『Thousands Birdies`LegsⅡ』を選んだ。寺尾さんは、以前にある本の中で文章をご一緒したことがあり、さらにそのご縁で、エッセイ集『流星の孤独』にサインをもらったことがある。面識はないのだが、その文章や音楽のファンなのである。

今回の「不動時間」は、CDを全部聴き終える前に、思いのほか早く終わってしまった。

部屋に戻り、やや落ち着いたところで、気分転換の読書を再開する。『大奥』1巻~6巻は読み終わってしまったので、それ以外に持ってきた本の中から、文庫になったばかりの川島芳子『動乱の陰に 川島芳子自伝』(中公文庫、2021年)を読むことにした。文庫版の解説が寺尾紗穂さんなので、つまりは寺尾さんつながりで持ってきたわけである。

それだけではなく、「男装の麗人」と称された川島芳子という人物は、前日に読んだ漫画『大奥』ともどことなくリンクする感じがする。内容はまったく関係ないのだが。

この時代のことは、映画『ラストエンペラー』とか、愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』にふれたくらいで、じつに乏しい知識しかないのだが、10代の頃に『ラストエンペラー』を観て衝撃を受けた僕は、清朝末期から満州国建国に至る過程というのは、言葉が適切ではないかもしれないが、なんとなく祝祭感を抱かせる時代なのである。それも、頽廃的な祝祭感。

この本には、『ラストエンペラー』や『わが半生』などでもなじみのある名前が登場しているので、異なる視点からこの時代を知ることのできる貴重な本である。

自伝、というので、川島芳子自身が書いたものかと思ったら、伊賀上茂という人物が祐筆として書いたという。昭和15年(1940)刊行とは思えないほどわかりやすく臨場感あふれる文体なのは、伊賀上茂の筆力によるものなのだろう。自伝というより、まるで一編の小説を読んでいるような筆致である。

巻末の年表によると、昭和8年(1933)に村松梢風による『男装の麗人』が刊行されている。寺尾さんの解説によれば、こちらの方はかなりフィクション性が強く、それにくらべれば本書は大分抑えられているということなのだろう。

さらに巻末の年表を見てみると、昭和4年(1929)、川島芳子22歳の時に、すでに『講談社倶楽部』という雑誌で「男装の王女」という文章が掲載されていた、という。ほかに、昭和9年(1934)には『男装の麗人』という舞台が上演されているというから、同時代の人たちにとって、川島芳子がいかにセンセーショナルな女性であったかがわかるというものである。好むと好まざるとに関わらず、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称されるのも宜なるかな、である。

読んでいて驚くのは、ここに登場する人たちが、いくつもの言語を操っていることである。川島芳子はもともと清国の王女だが、中国語のみならず、日本語、英語を駆使してコミュニケーションをとる。他の登場人物もそうである。もちろん、エリートだからなのだろうが、それにしても、いまの時代よりもある意味、グローバルである。

もう一つ、さまざまな名前を持っている。川島芳子の本名は、愛新覚羅顕し(王+子)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、ほかに、芳麿、良輔と名乗っていた時期もあるという(Wikipediaより)。もちろんいまでも、芸名とかペンネームとか雅号とかを持っている人もいるが、それ以上に、その人物が生きてきた歴史を名前が負っている。いまはどうだろう。結婚しても別姓を選択する自由すらないのである。

もちろんこれらは、その時代の制約によるもので、生き残るための術だったのかもしれない。だから一概に同列に論じることはできないにしても、いまの硬直化した時代もまた、生きにくい時代であることには変わりないのである。

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