書籍・雑誌

そんなこともあるさ

以前、ある書店で行われたトークイベントを聞きにいった。トークイベントのゲストは僕が初めて知るエッセイストだったのだが、なかなかにお話が面白いとそのとき感じて、その方の本を買ってサインをもらった。本の帯には僕が好きな著名なエッセイストが最大限の讃辞を贈っていて、否が応でも期待値が高まった。

トークイベントには、その方の信奉者らしき人もいて、というか、そういう人がほとんどだったのだが、「自分も○○さんのようなエッセイを書きたいと思って、思い切って自分の日記やエッセイをインターネットで公開しました」、という人もいた。僕はそれほどまでに信奉者の方がいるとは知らず、その界隈の人々にとっては後を追いかけるべき存在の人なのだなとひたすら感心するばかりだった。

ところが家に帰ってきて本を開き、読み始めたのだが、これがなかなか進まない。どうがんばっても、その先を読む気がしないのである。

おかしいな。僕が好きなエッセイストは本の帯であんなに絶賛していたのに、僕には全然頭に入ってこないのである。僕の感覚がおかしいのかな?

その方が男性の小説家と2人でやっているPodcast番組があることを知り、聴いてみたのだが、やはりどうがんばっても聴き続けることができない。これを聴くんだったら、他にもっと面白い番組があるのだからそれを聴こうと、聴くのをやめてしまった。

僕は自分の感性のなさに絶望し、自分は何か時代に置いていかれているのではないかと思い悩んだのだが、こんなことに思い悩んでいるのは自分だけだろうかと思ってSNSなどをつい調べてみると、大絶賛の嵐の中、ひとりだけ僕と同じような印象を抱いている人がいるのを見つけた。

その人は僕と同じで、有名なエッセイストが推薦されているので手に取って読み始めたけれども、どうにもしっくりこないと書いてあった。とても素敵なエッセイで、自分もそのことを重々承知しているのだが、文章のタッチが自分にはどうもしっくりこないと。

その感想を書いている人がどんな人なのかはわからないが、おそらく僕がそのエッセイストの本に対して抱いたのと同じ印象を持ったのだな、ということが、その短い文章から容易に想像できたのである。

そして、この方の素晴らしいのは、その文章の最後のところである。正確な引用ではないが、云わく、

「作品との相性というのか、こういうことが自分にはたまに起こるので、きっといまは受け付けない時期なのだろう、少し時間をおいて、気持ちを新たに読めるときがきたら手に取ろうと思う」

とあり、これは自分のいまのコンディションの問題であり、やがて時間が解決してくれるだろうとまとめている。おそらく時間が解決する問題ではないと思うのだが、それでも多くの人たちが絶賛している素敵なエッセイを理解したいという前向きな姿勢に、僕はすっかり脱帽してしまった。

そして僕がここに書いている駄文も同じことで、どうも相性が悪いと思って離れてしまった人も多いのだろうということにあらためて気づかせてくれたのである。

まことに些細な話なのだが、心覚えに書いておく。

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郊外型巨大書店の憂鬱

9月15日(日)

小1の娘が絵日記をつけたいと言いだした。じゃあ絵日記帳を買いに行こうということになったのだが、どうせ行くのなら、駅前の文房具屋さんとかそういうところではなく、車でドライブがてら、川を渡って郊外の丘陵地にある巨大文房具店&書店に行ってみようということになった。

その巨大文房具店&書店は、以前にいちどだけ立ち寄ったことがある。すぐ近くで行われていた子ども向けのイベントに参加し、そのときに少しだけ立ち寄ったのである。噂には聞いていたが、広い店内に本や文房具が並んでいて、夢のような空間だなと思った。こんどはイベントとかは関係なしに、このお店で買い物することを目的に来ようと心の中で誓ったのである。そしてそのチャンスが今日、訪れた。

自宅からその場所までは、カーナビによると30分程度で到着するようなのだが、今日は日曜日ということもあり、道路は渋滞していた。しかも川を渡る橋は、ただでさえ渋滞しがちなのに、今日はさらに混み合っていて、途中昼食休憩をはさんだこともあり、11時に自宅を出て14時にようやく目的のお店に到着した。

店舗は広くて明るく、文房具や本がたくさん並んでいる。まさに夢の空間である。妻と僕は、なんとなく交替交替で娘の面倒を見て、一人ずつが書店に並んでいる本棚を見ることにした。

しかし、こんなに本がたくさん並んでいる巨大書店であるにもかかわらず、なぜかまったく心がときめかない。ふだんの僕だったら、本屋に入ったら最後、何かを買って帰らないと気が済まないのだが、この書店の本棚を見回しても、なぜか本を手に取る気が起きなかったのである。

それでも、せっかく来たのだから1冊くらいは、と思い、「へえ、こんな本が出ているのか~」と興味をそそった本数冊を手に取って中身をパラパラと見たものの、「うーん。この本をここで買う意味があるのだろうか?」という思いが強くなり、結局本棚に戻したのである。

理由はいくつか考えられる。自宅からこの店に来るまでずっと運転していたこともあり、ちょっと疲れてしまい、本を買う気力が削がれてしまったというのが一つ。

それと、最近は、新しい本に手を出すより、自宅の積ん読本を読むことに気持ちが傾いており、本を買うことにブレーキをかけてしまっているというのがもう一つ。

しかしそれ以上に思ったのは、(これはまことに身勝手な話だが)、本の選書とか並べ方が、なんとなく僕の好みに合わなかったのである。郊外型の巨大書店ということもあり、ターゲットは子ども連れの家族を想定しているからかもしれない。本当に本が好きな人が、わざわざここに足を運ぶだろうか、と考えた場合に、それに見合った選書がされているか、はなはだ心許ないと感じてしまったのである。くり返すが、これは僕の身勝手な感想である。

加えて(まだあるのかよ!)、広いお店であるにもかかわらず、店内には座る場所がまったくない。僕のような足腰に不安がある人間にはなかなか厳しい。子どもにはキッズスペースがあり、そこに子ども用の椅子がわずかにか用意されているのだが、そこでつきっきりで面倒を見る保護者の椅子はなく、それが僕には辛かった。とくに娘は、このキッズスペースが唯一気に入った場所のようで、ここから離れようとしないので、立ったままずっと見守ってなければならない。情けない話だが、途中から腰が痛くなってきた。

お店にはチェーン店のコーヒーショップが併設されていて、妻と子守を交替してからはそこで休もうと思ってお店に行くと、比較的広い空間であるにもかかわらずお客さんでごった返していて、ほとんど空席がない。そこまでしてここでコーヒーを飲むほどではないなあと思い直し、座って休むことを諦めた。

ようやく娘がキッズスペースに飽きたところで、帰ることになり、再び渋滞の中を自宅まで戻ったのであった。

結局、このお店で買ったのは、絵日記帳とぬりえ帳のみ。600円くらいの買い物で終わった。でもまあ、娘が楽しんでいたからいいか。この先、本を買う目的でわざわざこのお店に訪れることは、おそらくないだろう。期待値が高すぎたのかもしれないな。

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献本

8月20日(火)

ええ、相変わらず薬の副作用に苦しんでますよ。それが何か?

先週は1週間休暇を取り、昨日の月曜日は公休日だったので(オンライン会議はあったが)、今日はお盆休み明け最初の出勤日である。

午前中に、短い時間だったがオンライン打合せがあり、それがわりと組織の偉い人と1対1の打合せだったので、どのように交渉を進めるか、僕なりに気苦労した。相手に言質を取られてしまってはこっちの組織に不利益なことになるし、お互い腹の探り合いといった感じの打合せになった。時間じたいは短かったが、初めての相手だったこともあり思いのほか疲労した。

職場に本が届いていた。今年の1月に書いた短い原稿が載った本である。一般向けと銘打っているが、内容を読むと執筆者全員の原稿がやたらと難しい。いちおう「です」「ます」体になっているのだが、「です」「ます」の上に来る文章がそもそも難しいので、「です」「ます」と書いたところで平易な文章になるわけではない。

そんな中にあって僕の文章は、自分で言うのもヘンなハナシなのだが、わりとわかりやすく書いたつもりで、文章構成も工夫を凝らしたので、近年にない自信作に仕上がった(と思う)。刊行前からその自覚があったので、同業者以外でお世話になっている知り合いに献本することにした。

自分の単著についてはもちろん献本というのが欠かせないのだが、たんに短い文章を載せただけの本というのは、いままであまり献本したことがない。新書ならまだしも、1冊あたりの単価の高い単行本であればなおさらである。たった十数ページだけ書いた文章が載った、その他大勢の一人にすぎない僕が、まるまる1冊を知り合いに献本するなどというのは、どう考えてもコスパが悪い。しかしまあ、同業者以外の知り合いだったら俺の文章のことはわかってくれるに違いないと思い、送ることにしたのである。

吟味したつもりでも、献本先は10名ちょっとになった。もちろん住所のわかる人たちばかりである。

で、今日、職場に著者献呈本が届いた。同時に、出版社からの封書も届いた。

その封書には、請求書が入っていて、僕が献本した10冊ちょっとの八掛けの値段が書かれた郵便振替用紙が入っていた。

金額を見て、

「……」

後先考えずに献本リストをつくってしまったことを反省した。

この本は原稿料がないので、完全な赤字である。

まあでも、何がきっかけでどう転ぶかわからないから、投資と考えよう。

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書店は小宇宙だ!

以前の職場の同僚で、いまは同じ中央線沿線に住む友人のAさんに、おそらく7~8年前ぶりにお会いすることになった。待ち合わせ場所は、中央線沿線のM書店。僕にとっては高校時代の懐かしい書店で、Aさんにとっては日常通っている書店だ。

この書店は、僕が欲しいとつい思ってしまうような品揃えであることに加えて、思わず買ってしまいたくなるような本の並べ方をしていて、僕にとっては危険極まりない書店である。それは高校時代から変わっていない。

むかしから、本屋で待ち合わせる、ということに憧れていた。仮に相手が遅れたとしても、書棚に並ぶ本の背表紙を見ているだけで時間を忘れることができる。待ち合わせ場所としては最高の場所なのではないかと以前から思っていた。それは、デートだけではなく、今回のように50歳をすぎたおじさんの待ち合わせ場所としても最適である。なぜならふたりとも本が好きだからだ。

この書店を前回訪れたのは、仕事でこの町を訪れた今年の2月のことだった。そのときは、気の重い仕事が終わり、すっかり疲れてしまったのでほんの少し立ち寄ったというていどだった。

今回は、本好きのAさんが一緒なので、書棚をひとつひとつをまわり、気になった本についてフリートークをするというイベントにはからずもなった。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルの新書を見つけて、

「これ、いますごく流行っているみたいですよ。僕は読んでませんけど」

と僕が言うと、

「なぜ本が読めなくなるのか、という本を出すって、矛盾してないか?だって働いていると本が読めなくなるわけでしょう。だれに向けた本なんだ?」

と、Aさんがツッコミを入れたりしながら、書店中を歩き回る。

「この本の著者は、かくかくしかじかなんですよ」

と僕が蘊蓄をたれると、

「へぇー…。鬼瓦さんはストライクゾーンが広いねえ」

と感心されたのだが、

「いえ、僕はたんに、いろんな人に奨められるがままに本を読んでいるだけです」

と答えた。

これはまったくそのとおりで、自分が信頼する人から本を始めとするいわゆる「コンテンツ」を奨められたら、気になったものについてはとりあえず読んでみたり観てみたり聴いてみたりするのが、僕の癖(へき)なのだ。実際、Aさんからもいままでいろいろな本を薦められてきて、気になったものは実際に読んできた。個人的に信頼する人たちばかりではなく、ふだん聴いているラジオ番組とかでパーソナリティーが、「○○っていう本、おもしろいですよ」とポロッと言っただけで、読んでみたくなる。

頼むから俺に本を薦めないでくれ!

…と叫びたいところなのだが、奨めてもらわないと自分の知らない世界についてふれる機会がなくなってしまうので、奨めてくれないのも困る。そこが渡世人のツレえところよ!

しかし自分に主体性がないおかげで新しい世界を知ることもできるので、しばらくこの生き方は変えないつもりだ。

そんなこんなで、2時間近くもこの書店に滞在してしまった。銀河系の星を廻るがごとく、書棚をまわっては対話をくり返した。よい書店は、さながら小宇宙である!

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どうする原稿依頼

7月16日(火)

火曜日恒例の分刻みのスケジュールをかいくぐって、職場の暑気払いに参加したが、自分は大勢で立食パーティーに参加するというのが苦手だということを再確認するだけで終わった。ひたすらボーッとウーロン茶を飲んでいた。

「いまは立食パーティーには全然行かなくなりましたけど、素面で行くとあんなにくだらないものはありません。冷めたローストビーフだとか生ハムだとかみたいなどうやって食べてもマズいものを皿に取って、知っている人もいるけど別に親しいわけでもなくて、「どうですか」「太りましたね」「余計なお世話だ」みたいな話をするだけのことでしょ?そうやって一、二時間つぶして、ビンゴで当たるとか当たらないとかちょっとだけ騒いで帰ってくる。もうパーティーとか大っ嫌いになっちゃいましたね」(小田嶋隆『上を向いてアルコール』ミシマ社、2018年)

という小田嶋さんの言葉を思い出した。

家に帰ると、僕が会員になっている「手書きでガリ版刷りのミニコミ誌」の最新号が届いていた。このミニコミ誌には、高校の恩師がコラムの連載を持っていて、その内容が僕にとってあまりにも衝撃的なので、…正確にいうと高校時代には知らなかった恩師のさまざまな事情を知ったので、その感想をそのミニコミ誌の編集長にメールしたところ、

「この感想メール、次号に掲載してもいいですか?」

という返信が来た。僕が「いいですよ」と言ったら、最新号の「読者発」という欄に、大勢の読者の感想に交じって僕の感想も掲載してもらった。自分の短い文章が手書きのガリ版刷りで読めるというのはかなり嬉しい。封筒には500円のクオカードが同封されていて、これは原稿料か?でもあんな短い感想を書いただけでクオカードをいただくのは申し訳ないと思い、よっぽどカンパの意味で編集長にお返ししようと思ったが、かえって気を使うだろうと思い、ありがたくいただくことにした。

ミニコミ誌の封筒にはもう一つ、手紙が添えられていた。そこには、「ふと思ったのですが、鬼瓦さんの専門分野っておもしろい!みたいな原稿を書いていただけないかなー、私のようなまったく関心のない人間がふっと心を動かされるような、そんな世界がきっとあるのではないかと思いました」と書いてあり、これは原稿依頼なのか?と判断に迷った。

もともと僕の専門分野は、その分野が好きな人でないとなかなか理解してもらえないだろうし、まったく関心のないという人にその面白さを伝えるのはかなり難しい。もしお手紙の内容を原稿依頼だと勝手に解釈して調子に乗って原稿を書いて送ったら、やっぱり全然わかりませんでした、ということになりかねないのではないだろうか。「またメールでご連絡したいと思います」と書いてあったので、そのタイミングでもし依頼が来たら考えることにしようか。

一方で自分の書いたちょっと長めの文章を、味わい深い手書きのガリ版刷りで読んでみたい気もする。どうする原稿依頼!?

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最弱は最強なり

7月2日(火)

毎週火曜日は1週間のうちでいちばん忙しい。今日もヘトヘトになって夜遅くに帰ってくると、封書が届いていた。僕が会員になっている「前の勤務地」の手作りの会誌である。

それは僕が「前の勤務地」で大変お世話になった人生の大先輩たちが、2カ月に1度、ワープロソフト「一太郎」を駆使してB4の紙を二つ折りにして作る4ページほどの短い会誌なのだが、毎回地元に関する記事を3ネタくらい、欠かさず載せていた。

僕はあるとき、その会誌の存在を教えていただいたのだが、そのときは秘密結社や地下組織の会誌といった趣だった。なぜなら会則もとくに定めず、会員が10人ほどしかいないと言われたからである。その10人の間だけで、これほど情報量の多いミニコミ誌を作っているのかと感動し、僕はさっそくその「秘密結社」に入会し、これまで4度ほどそこに文章を寄せた。

あるとき、その「秘密結社」から分厚い本が送られてきた。会誌のバックナンバーを合本にした立派な装幀のものだった。なるほど、ちりも積もれば山となる、継続は力なり、とにかく毎号毎号はささやかなミニコミ誌でも、まとまるとこれほどのインパクトのある本になるのかと、さらに感動した。

そしたらその合本が、地元の出版文化賞を受賞した。今日送られてきた最新号にはその授賞式と受賞記念の講演会の様子が紹介されていた。会員10名の秘密結社的な団体の会誌が、正当に評価されて日の目を見たのである。

受賞記念の講演会では、代表者がこれまでのバックナンバーの中から18篇のエピソードを紹介したそうで、その18篇のエピソードのタイトルが会誌に紹介されていたが、その中に僕の書いた文章が2篇ほど含まれていて、ちょっと誇らしかった。

たった10人のための会誌が出版文化賞を取ったことを、快挙と言わずして何と言おう。

「最弱」という言葉が好きだ。

以前、前の勤務地でボランティア活動をしていた頃、自分たちのことを「最弱のボランティア団体」という紹介の仕方をしていた。自虐的な意味ではなく、本当に、確固たる基盤を持たない団体だった。だがそのときも、地道な活動が認められ、ある役所から表彰状をもらった。別にほめられたくてやったわけではないけれど、「最弱の」団体でも正当な評価を得られるのだという体験は、少なくとも僕にとってはその後の生き方の指針となった。

「弱国史」を作りたい、とは、僕の知り合いの編集者の口癖だった。

教科書にも登場しない、だれからも忘れ去られてしまった国、そういう国のことを本にしたい、というのが長年の夢だったようだ。それは編集者自身が立ち上げた「最弱の出版社」だからこそできる本であるという確固たる自信にもとづいていた。

しかし志半ばで彼はこの世を去った。彼の手でその本を作る機会は永遠に失われた。

そしてその遺志を受け継いだ人たちが、近々その本を出すという。そこもまた「最弱の出版社」の人たちだ。

「最弱」とは、自虐でも卑下でもない。誇りなのだ。

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スランプだから書けないのではない

6月18日(火)

10時半から打合せ、終わって5分でおにぎりを頬張り、お昼休みに打合せ、13時から始まった全体会議が16時近くに終わり、その後あちこち調整に駆け回っていたら、あっという間に18時を過ぎてしまい、ヘトヘトになった。これは絶対に糖分が足りないのだなと、たまたま持ち合わせていたアーモンドチョコを頬張ってしばらくしたら、ようやく落ち着いた。アーモンドチョコはお守りだな。

翌19日(水)は夜にこっちのメンタルをやられるようなまことに理不尽な内容のメールが来て、打つ手なし、万事休す、となったのだが、まあそれはおいおい考えるとして。

「職業的文章」といってもいろいろあるのだ、ということを前に書いたが、百科事典の項目、なんて仕事がある。

むかしは百科事典にあこがれたものだ。家にずらっと並んでいたらかっこいいもの。残念ながらうちには百科事典はなかった。

時は流れ、いまや百科事典は場所をとるばかりの邪魔者扱いをされている。紙媒体の百科事典をやめ、Web上でのデジタル百科事典に切り替えたところもある。たしかに便利なのだろうが、無料で読めるWikipediaとどう違うんだろう?…ということは、言っちゃいけないんだよね。

そのデジタル百科事典から、事典の項目を書いてくれという依頼が来たのは4月のことだった。断りたかったのだが、前にお世話になった出版社なので断るわけにもいかず仕方なく引き受けたのである。

つい最近、リマインドのメールが来て、「6月30日が締切なので、よろしくお願いします」という。いけね、すっかり忘れてた。何も書いていないぞ。というか、まったく書く気が起こらない!

依頼されたのは1項目だけで、前の情報が古くなったので、新しく書いてほしいという趣旨だった。たしかに紙の百科事典だったらおいそれと更新できないが、デジタルだったらスナック感覚で更新ができる。なるほど上手いやり方だ。800字から1200字程度ということなので、分量はそれほど多くはない。

しかし問題はそこではなかった。依頼された項目が、僕のまったく関心のないテーマだったことが、いちばんの問題だ。「適材適所」の正反対、「不適財不適所」にもほどがある!

ほかに適任者がたくさんいるのに、どうして僕が書かなきゃならないんだ?理由は一つ、「むかし恩を売ってやっただろ?」ということに決まっているのだ、といつものように被害妄想が広がる。

だがこの800字から1200字がまったく書けない。今日こそ書こうと、パソコンを開いたが、締切が同じ6月末の別の原稿のほうを書き始めてしまった。こっちの方は、だいたいの素材がそろっていたこともあり、それをいろいろ組み替えたりして12000字ほどの文章にまとめた。あとは細部を調整して、完パケまではもう少しである。

それにしても、その10分の1以下の分量の文章が書けないというのはどういうわけか?しかも12000字の文章はノーギャラなのに対して、最大1200字の文章はそこそこのギャラが出るのだ。

うーむ。「ギャラが出る」というニンジン、ならぬアーモンドチョコをぶら下げて書くしかないか。

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「時代の趨勢」ではかたづけられない

11月15日(水)

3日目の「高気圧酸素治療」も終わり、お昼前に「ひとり合宿」から解放された。

ふと思い立ち、途中下車して、あるE電の駅南口に隣接する本屋さんに立ち寄ることにする。僕はこの沿線に住んでいるので、この路線に乗るときに、時間ができれば途中下車をすることは何度かあったが、その本屋さんには、2,3回訪れた程度だった。その印象は、「品揃えは非常によく練られており、決して広くはない空間にメガ書店にまったく引けを取らない豊かさがあ」った(日野剛広『本屋なんか好きじゃなかった』十七時退勤社、2023年より表現をお借りしました)。なにより、地元が頼りにしている本屋さんだった。このE電の沿線には、そういう本屋さんが多い。

久しぶりに入口に立ってみて驚いた。立て看板が立っており、こんなことが書かれていた。

「お客様各位 大変残念ですが、当店は2024年1月8日をもって閉店致します。皆様のご利用によりこの地で40年以上書店として存在できた事は大変な喜びです。この地から退く事は大変な悲しみですが、時代の趨勢として受け入れざるを得ません。長い間本当にありがとうございました」

おいおい、閉店しちゃうのかよ!

店の中に入ると、それなりにお客さんがいる。本棚を眺めながら店内を歩いていると、お客さんが店員さんに向かって、口々にお店がなくなることの寂しさを語っていた。

「本当にやめちゃうの?」

「淋しくなるねえ」

「私はこれから、どこの本屋さんに行けばいいの?」

お客さんの声をそれとなく聞いていると、別の町からはるばるこの本屋に通っている人もけっこういるようだった。

しかし、40年も続いた本屋さんが、幕を閉じるとは。同じ町の南の方には、もう1軒、同じような規模で50年続いた、やはり品揃えがよく練られた本屋さんがあったそうだが、そのお店も2017年にすでに閉店している。

決してさびれた町ではないのに、しかも駅に隣接した一等地なのに、お客さんもそこそこいるのに、それにもかかわらず、閉店に追い込まれるというのはどういうわけだろう?

この先、本屋さんは「メガ書店」と「インディーズ書店」の二極化がますます進み、粛々と営んでいた「町の本屋さん」は、どんどん廃業していってしまうのだろうか。

いったい、だれを恨めばいいのか?

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文フリって何だ?

11月12日(日)

午前中、父親の七回忌法要を済ませたあと、午後に市内の小規模書店に向かう。ちょっとした知り合いがトークイベントをするというので、聴きに行くことにしたのだ。

前日は、東京の流通センターというところで、「文フリ」があった。

「文フリ」。今年になって初めて覚えた言葉である。「文学フリマ」のことだが、それをわざわざ「文フリ」と略すのはどうだろう?

「文学フリマ」とは、文学作品展示即売会のことで、公式ホームページによると、「小説・短歌・俳句・詩・評論・エッセイ・ZINEなど、さまざまなジャンルの文学が集まります。同人誌・商業誌、プロ・アマチュア、営利・非営利を問わず、個人・団体・会社等も問わず、文芸サークル、短歌会、句会、同人なども出店しています。参加者の年代は10代〜90代まで様々です。現在、九州〜北海道までの全国8箇所で、年合計9回開催しています」とある。行ったことないけど、「コミケ」みたいなものなのだろうか?

「文フリ」の話題は、「武田砂鉄 プレ金ナイト」でも、TBSラジオの澤田大樹記者が「ZINE」を出すという話をしていて、その存在自体は知っていた。というか「ZINE」という言葉も、最近知った言葉である。かつての「同人誌」みたいなものと勝手に理解している。

知り合いからぜひ来てみてください、と誘われたのだが、昨日はとても無理だったのでお断りした。

僕の究極の夢は、ミニコミ誌を発行することだと以前に書いたことがあるが、「文フリ」はそのためにおあつらえ向きの空間なのかも知れない。行ってみたいという衝動に駆られるが、そもそも混雑しているところに行くのは好きではなく、「文フリ界隈の人々」とコミュニケーションをとるのは苦手だし、とくにそこまで文フリに思い入れがあるわけでもないので、たぶん今後も行くことはないだろう。

たまたま文フリに出店した知り合いが、市内の書店でトークイベントをするというので、文フリに参加する代わりに、文フリ気分をちょっとでも味わえればと参加したわけである。

…なんか、「文フリ」と言いたいだけの人みたいだな。

トークイベントは、昨日の文フリに出店していた2人による対談という形式でおこなわれた。当然、昨日の文フリの振り返りみたいな話題も出たので、僕はそれだけで十分だった。おそらく文フリの現場に行ったら、見境なく同人誌を買ってしまうかも知れない。それが怖いので、行かなくて正解だった。昨日の娘のわがままをたしなめる資格はない。

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ほんとにオーディオブックになっちゃった!

以前僕が書いた本が、オーディオブックになった。

かつての担当編集者から、「先生の本をオーディオブックにしたいと考えております」とメールをもらったのは昨年(2022年)9月のことだった。その本は内容に自信があったものの、まったく売れなかったので、あまりよい思い出はないのだが、この期に及んでオーディオブックにするというのは、どういうつもりなのか、よくわからなかった。

それに、僕の書いた本の内容は、およそオーディオブック向きではない。音声だけでは伝わらないところが多いのではないかと不審に思ったのである。

気になって調べてみると、その出版社は「すべての人に本を」というキャッチフレーズで「音声Project」を始動し、なんと2年で1000作品をオーディオブックとして制作し、配信するという目標を立てたようなのである。

つまり、僕の本は少しでもその目標数に近づくための1冊に入れてもらったと、こういうわけである。その試み自体は大賛成なので、僕にはまったく異論がなかった。

直ちに承諾したが、それから半年ほど経った今年(2023年)の3月初頭に担当編集者からメールが来て、読み方のわからないところをチェックしてほしいと、エクセルに入力されたチェックリスト一覧が送られてきた。僕はちょうどそのとき、職場のイベントの準備が忙しく、まさに開幕数日前という状況だったので、とてもその件に関わっている時間はなかった。しかも締切は1週間後というではないか。しかし放っておく訳にはいかないし、誤った読み方のまま配信されてしまっては沽券に関わるので、チェックリストに載っている言葉の一つ一つについての対応策についてエクセルに記入し、返信した。これが判断に迷うところも意外に多くて、それなりに面倒な作業だった。

で、それから半年ほど経った9月末くらいに、どうやらオーディオブックとして配信されたらしい、ということを、たまたま何かのSNSで知った、というか、担当編集者は配信したことを教えてくれないのかよ!

著者である僕に、その音源をくれるなんてことはないのかな?と少し待ってみたが、そんな様子もない。つまり、自分の本のオーディオブックを聴きたい場合は、AmazonAudibleに登録しろということらしいのである。その代わり、登録している人はタダで読めるのだと。

で、待っていてもいっこうに音源が提供されないから、AmazonAudibleに登録することにした。実は愛聴している文化放送「SAYONARAシティボーイズ Part2」も、AmazonAudibleが提供している番組なので、登録すればついでにシティボーイズのラジオもAmazonAudibleで聴くことができる、というか、そっちの方が主たる目的である。

自分の書いた文章を音声で聴くというのは、ひどく恥ずかしい行為だが、意を決して、「どんな感じになっているんだろう?」と聴いてみることにした。

そしたらあーた、全部聴き終わるまで8時間もかかるというじゃあ~りませんか!そんなに内容の長い本を書いた覚えはないのに、あんな本でも8時間かかるんだな。

で、聴き始めると、これが自慢じゃないが、めっぽうわかりやすい!俺ってこんな文章書いていたっけ?と新鮮な気持ちで聴いてしまった。

ただ、あいかわらず僕の文章はクドい。わかりにくい内容を一つ一つ解きほぐすものだから、どうしてもクドくなってしまうのである。

それに、チェックリストに載っていなかった箇所で、漢字の読み間違いがけっこうあったりして、「全文にわたってチェックしたかったなあ」と悔やまれた。なかなかマニアックな言葉が多かったので仕方がないのだが。

エピソードの1つめを聴いただけで疲れてしまった。このあと、どんだけ続くんだろうと思うと先はまだ長いが、最後まで聴かなければならない。

しかし聴いていて思ったのは、俺の文章って、実はオーディオブック向きじゃね?ということだった。ま、これは完全に自慢なのだが、これからはどんな文章も、オーディオブックになることを意識して書くようにしよう。

なんてったって、「SAYONARAシティボーイズ Part2」と一緒に、AmazonAudibleで聴くことができるんだからね。それがいちばんの自慢だ。

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