書籍・雑誌

小田嶋さんのいないTwitter

コラムニストの小田嶋隆さんについて書いた、フランス文学者の内田樹さんの、2022年6月24日(金)のツイートより。

「小田嶋さんと最後にお会いしたのは6月13日でした。その少し前にお電話を頂いて、「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」ということでした。次の週に平川(克美)君と二人で赤羽のお宅にお見舞いに行きました。」

「ベッドに横になっていて、話をするのも苦しそうでしたが、半身起き上がって「どうでもいいようなバカ話がしたいんですよ」というので、ご希望にお応えして、三人で思い切り「バカ話」をするつもりでいたのですが、話しているうちにどんどん元気になってきて、言語と文学の話を熱く語ってくれました。」

「最初の小説『東京四次元紀行』が出たばかりでしたから、その話が中心でした。1時間以上話して、別れ際に「じゃあ、元気で。またね」と手を握ると暖かくて柔らかい手で握り返してくれました。長い付き合いの最後の贈り物が笑顔と暖かい手の感触でした。素晴らしい友人でした。ご冥福を祈ります。」

「小田嶋さんが電話をくれたのは、彼の親友だった岡康道さんが急逝された時に「最後の挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」のでそういう思いを自分の友人にはさせたくないからという理由からでした。小田嶋さん、ほんとうに気遣いの行き届いた人でした。」

「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」という言葉を、みずから発しなければならないほど、すでに何日も前にお別れを覚悟していたというのが、泣けてしまう。

ライターの武田砂鉄さんも、ラジオで「6月15日に小田嶋さんのご自宅にうかがって、お話をした」と語っていたから、おそらく小田嶋さんは、これが最後の機会だと悟って、会ってお話をしておきたい人たちに声をかけていたのだろう。

内田さんのツイートの中に出てくる、岡康道さんとの友情については、以前にこのブログでも書いたことがあるが、小田嶋さんと岡康道さんとの関係については、こんな話を聞いたことがある。

小田嶋さんと岡さんとは、10年間くらい絶交していた時期がある。そのきっかけは、当時電通に勤めていた岡さんが、親友の小田嶋さんをメジャーデビューさせようと思って、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いだったあるコピーライターとの対談を企画したことにはじまる。

対談といっても、実際には二人が直接会って対談するわけではない。会わずに、それっぽい言葉の応酬を原稿化して、対談したことにする、というものである。つまり「フェイク対談」である(余談だが、実は私も一度、フェイク対談をしたことがある)。

小田嶋さんは、この企画を「冗談じゃない!」といって突っぱねた。だいたいそのコピーライターは自分にとってはいけ好かない人物であるし、そんな人間に頼ってまでメジャーになりたくない、と。

で、そのことを、『噂の真相』という雑誌に書いちゃった。つまり、そのコピーライターとのフェイク対談が企画されていたけれど、俺は断った、というその一部始終を、暴露してしまったのである。

サア怒ったのは岡さんである。せっかく親友の小田嶋にメジャーになってもらいたいと思い、よかれと思って企画したのに、それを断った上に、雑誌に内幕をばらすとは、何事か、と。

どうやら絶交のきっかけはそういうことだったらしいのだが、その後はまたもとの親友同士に戻ったという。

で、その岡康道さんが、2年ほど前に亡くなったのだが、「最後に挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」と言ったのは、そのときの別れがそうとうにショックだったことを示しているのだろう。

僕が友人論のバイブルとしている、小田嶋さんの『友だちリクエストの返事が来ない午後』は、身も蓋もないような友人論が書かれている、という読後感を持ったのだが、それを書いた小田嶋さんをしても、あるいはそうだからこそ、なのか、友情への揺るぎない信頼をもっていたのかもしれない。

映画評論家の町山智浩さんが、同じく6月24日のツイートで、

「小田嶋隆さんとは30年親交がありました。遺作となった処女小説『東京四次元紀行』を読んで、あの皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念に満ちた小田嶋エッセイの本質がわかりました。酔いどれ探偵の一人称ハードボイルド小説だったんです。 新境地を開いたところに残念でなりません。」

と書いている。「皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念」こそが、小田嶋さんの文章の本質である。してみると、友情への諦念に満ちた『友だちリクエストの返事が来ない午後』も当然、小田嶋さんの文章の本質を示していることになるのだが、しかし小田嶋さんの文章はそれだけで終わるわけではない。諦念の先には、ほんとうの希望や信頼が生まれるのだということを、真剣に考えていたのではないだろうか。

さて、僕が小田嶋さんの立場だったら、どうするだろう。小田嶋さんのように、自分の最後を自覚して、意識がはっきりしているうちに、これまでお世話になった友人に、お別れの挨拶ができるだろうか。

どうもできそうにない。

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小田嶋さんのいないAM954

6月24日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

コラムニスト・小田嶋隆さんの訃報は、ここ最近で、いちばんの喪失感かもしれない。

TBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の月曜日「週間ニッポンの空気」を、通勤途中の車の中で毎週聴いていた。もちろん、リアルタイムでは聴けないので、ラジオクラウドで聴くのである。

ここ最近は、小田嶋さんが病気療養中ということで、別の人が代打で出演していたが、それは聴く気にはならなかった。もうすぐ小田嶋さんは戻ってくるだろうと待ち望んでいたところだったから、よけいに喪失感を抱いたのかもしれない。

よく辛口のコラムニストだと言われる。たしかにそうなのだが、「赤江珠緒 たまむすび」では、それでもまだかなりソフトな語り口である。これがたとえば、平川克美さんとの対談コンテンツなどを聴くと、小田嶋さんの辛口批評が遺憾なく発揮されている。「ひねくれ」「屁理屈」「豊穣な語彙」をもって政治や世間の理不尽を追い詰めていく手法は、話芸でいえば上岡龍太郎さんに通じる。つまり言葉のプロとして「見事」なのである。だから僕は、小田嶋さんの書いた文章を読むのが好きだった。

昼休み、仕事部屋で昼食を取りながらインターネットのニュースサイトを開いたときに、訃報を知った。しばらく呆然とした、という表現がふさわしい。

気になったのは、夜10時から始まるTBSラジオの生放送「アシタノカレッジ金曜日」の冒頭で、武田砂鉄さんが何を語るか、である。武田砂鉄さんは、ライターとして小田嶋隆さんの影響をかなり強く受けた人の一人であり、小田嶋さんのTwitterでの名文をまとめた『災間の唄』(サイゾー、2020年)の編集を担当している。師弟関係といってもよいほどである。

番組の冒頭では、上島さんの時のように、随想的に語るのだろうか。出版社勤務時代の思い出話を語っていたら、いつの間にか上島さんとの思い出話になっていたように。

しかしそうではなかった。

冒頭の12分間、最初から最後までずっと、小田嶋さんの思い出話をストレートに語っていた。亡くなって半日くらいしか経っていないので、気持ちがまだ整理されていない様子がうかがえた。

12分の独白のあとにかかった曲は、小田嶋さんが愛してやまなかった、サイモン&ガーファンクルの「Sound Of Silence」だった。ああ、小田嶋さんは、ほんとうにいなくなってしまったのだな。

これまで僕が書いた小田嶋隆さんに関する記事を再掲する。合掌。

現代版徒然草

懐かしむためにある場所

ザ・コラム

友達リクエストの返事が来ない午後

原稿ため込み党の夏

上を向いてアルコール

コラムとエッセイ

アレなマスクが届きました

金曜日までたどり着きませんでした

つじつまの合う物語

 

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名画座の思い出だけを抱いて死ぬのだ

6月18日(土)

ある作家の、最初に読む作品をどれにするかというのは、けっこう重要なことかもしれない。

僕の場合、桐野夏生は『OUT』だった。これは、フジテレビで放映されたドラマの影響である。

小川洋子は『博士の愛した数式』。これも映画の影響。

伊坂幸太郎は、『オーデュボンの祈り』。これは、数年前にある人に薦められて。

東野圭吾は、たぶん『白夜行』だったと思う。ただしこれは、後から映画やドラマを観た。「原作のイメージと違う!」と怒りまくった記憶がある。

さて、僕が最近直面したのは、原田マハである。

読みたいとは思いつつも、何を最初に読んだらいいのか、わからなかったので、なかなか踏み出せなかった。

ただ、少し前に、山田洋次監督が『キネマの神様』という映画を製作して、その原作が原田マハであることを知り、とりあえず、その映画の公開に合わせて、原作の文庫本を入手しておいた。映画を観てから読もうかとも思ったが、結局、映画は観ていない。

この日の夜、ふと、この本のことが気になり、読み始めたところ、止まらなくなってしまい、最後まで読み切ってしまった。

ストーリーが、ご都合主義的な展開という感じがしなくもないのだが、まあそこはそれ。そのストーリーテラーぶりに心地よく身を任せることができさえすれば、それで十分なのである。

何より、小説の中に登場する実在の映画の多くが、僕のこれまで観てきた映画と重なっていたことが、共感しつつ読むことができた理由である。

この小説では、『ニュー・シネマ・パラダイス』がかなり重要な作品として登場する。この映画を持ち出すのは反則だろ!とも思うのだが、「映画館への愛」を主たるテーマとするこの小説では、この映画を取り上げないわけにはいかない。

もう一つ、『フィールド・オブ・ドリームス』も、重要な作品として登場する。『ニュー・シネマ・パラダイス』とならんで、1989年に日本で公開された映画で、僕も大学生の時に劇場で観た。扱われている作品が、僕が若い頃に観たど真ん中の映画ばかりなのである。

それでいて、古い映画についての言及も数多くされている。いわゆるシネコンとは対照的な名画座も、この小説の重要な位置を占める。学生時代、僕は名画座にもよく行った。

つまりこの小説は、僕が学生の頃に体験した、劇場でロードショー公開された作品と、名画座などで観た古い作品のオンパレードで、20代の頃の僕の映画に対する、ある感慨みたいなことを、ファンタジーとして描いてくれているのである。ちょっと大げさな言い方かもしれない。

さて、問題は、この小説を映画化した山田洋次監督作品を、観るべきかどうか、である。

インターネットの情報などによると、原作をかなり改変しているらしい。たしかに原作をそのまま映像化するのは、いささか地味な感じはするのだが、最近テレビで放映された『ダウンタウンヒーローズ』を観て懲りてしまった気持ちをまだ引きずっているので、しばらくは観ないほうがよさそうである。

名画座、で思い出した。

僕が名画座で観た映画として、いまでも印象に残っているのが、高峰秀子主演の『浮雲』と、佐野周二主演の『驟雨』の二本立てである。どちらも監督が成瀬巳喜男なので、おそらく「成瀬巳喜男特集」として上映されたものだろう。どういう経緯で観に行くことになったのかは覚えていないのだが、観に行った状況についてはよく覚えていて、その状況を含めて、自分にとって印象深い体験となったのである。いまでもそのときの古びた映画館の様子や、古びた映画館特有の「におい」、そのときのお客さんの様子、などを、思い出すことができる。

しかしその映画館の場所がどこだったのか、具体的になんという映画館だったのか、といったことは、覚えていない。映画を見終わってから新宿の居酒屋に入った記憶はあるから、新宿の近くの名画座だったのだろうか。

もう覚えているのは、この世で僕だけかもしれない。その名画座は、現在でも残っているのだろうか。名画座の「思い出だけを抱いて死ぬのだ」(by大竹まこと)。

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裏取りできず

まことに卑俗な喩えだが、井伏鱒二『荻窪風土記』は、さながら「トキワ荘」の小説家版といった趣である。井伏鱒二の周囲をとりまくさまざまな作家のエピソードが喜怒哀楽をとりまぜてちりばめられる。

僕はいつも、本筋とは関係のないところが気になるのだが、『荻窪風土記』にこんな記述を見つけた。

「私のうちのネコは昭和三十二年の六月、お産がうまく行かなくて犬猫病院で帝王切開の手術を受けた。私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日に入院して、私が旅行から帰ったときには退院した後であった」

ここに出てくる「樽平の美術館」は、僕も何度か行ったことがある。「樽平」というのは、この地方の有名な地酒で、その名の通り、ほのかに樽の香りがするのが特徴である。酒造業を営んでいる家が美術品を集めるというのはよくあることだが、それにしてもここの美術品の質と量には圧倒された記憶がある。

井伏鱒二が昭和三十二年六月にこの美術館に訪れたとすると、この片田舎(といっては失礼だが)の美術館にとっても、大切な歴史の一齣である。

この事実を確かめようと調べてみると、井伏鱒二の「還暦の鯉」という随筆に、この地を訪れた記述があった。それによると、東北を旅行し、白石川での釣りをしたが、なかなかうまくいかずに諦めた。その翌日に県境を越えたという記述がある。

「県境の向うへ出て最上川の上流に行った。ここでも釣りは諦めて、川西町小松という物淋しい町の井上さんという旧家を訪ね、美術館の古陶器を見せてもらった。個人蒐集のものである。町は淋しいが、ちゃんとした美術館で然るべき品が五百点以上もそろっていた。

この町は、丁字路の両側に家が並んでいるだけで、裏手は田圃である。話によると、ここでは田圃に豆を順序ただしく蒔くと山鳩が来てみんな食べるので、わざと不規則に蒔くのだという。海の魚も、腐りかけて臭くなくては魚らしくないとされているところだという。一年のうち何箇月かは、見渡すかぎりの雪野原だという。こんな町に立派な美術館がある」

と書かれている。『荻窪風土記』は、このときのことを記述したものであろうか。

ところが、この随筆は昭和31年7月に『暮しの手帖』に発表されたもののようで、『荻窪風土記』に書かれている「昭和32年6月」とは齟齬が生じる。これはいったいどういうことなのか。

昭和32年6月は、この随筆を収めた随筆集『還暦の鯉』が新潮社から刊行された時期にあたるので、あるいは『荻窪風土記』ではそれに引っ張られて記憶を勘違いしたのだろうか。

それとも、昭和31年7月以前(おそらく雪解け水が川に流れる春頃)に一度訪れ、昭和32年6月にもう一度訪れたのだろうか。

「還暦の鯉」では、白石川での釣りをあきらめ、さらに最上川での釣りもあきらめ、本来の目的ではない美術館訪問をしたところ、その美術館が思いのほかよかったという感想を抱いている。

一方で『荻窪風土記』のほうは、「私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日」と書いており、当初からこの美術館を訪れるつもりだったようにも読める。両者はややニュアンスが異なるのである。

そうするとやはり、井伏鱒二はこの美術館を2回訪れたのだろうか。当の美術館に、記録が残っていればいいのだが。

インターネットを探ってみると、むかしは、東京の神楽坂に蔵元直営の樽平の店があり、井伏鱒二はそこに太宰治を伴ってしばしば顔を出していた、と、あるサイトに書いてあったが、いまのところ裏がとれていない。だがもしそうだとすると、井伏鱒二はずいぶんと前から、つまり太宰治が生きている頃から、樽平の味が気に入っていたということになる。だとすると、大好きな樽平の蔵元をわざわざ訪ねた理由もうなずける。

とっくに解明されていることなのかも知れないが、気になったことなので書きとめておく。

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リユニオン活動

僕が愛聴しているTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」と文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の両方にゲストとして出演した人が、エッセイストの酒井順子さんである。巷では「サカジュン」と呼ぶらしい。

僕は酒井順子さんの名前になじみがなかったのだが、むかし、『負け犬の遠吠え』という本が話題になって、その作者が酒井順子さんだと知った。『負け犬の遠吠え』は読んだことがないが、タイトルだけは知っていると言うくらいだから、当時、そうとう話題になったということだろう。

ふたつのラジオ番組で告知していたのは、酒井さんの『うまれることば、しぬことば』という本で、言葉を生業にしている人にとっては、じつに興味深そうな本である。

ところで、いま言葉を生業にしている人間が、最も気になる言葉とは、何だろう?と考えると、

「させていただく」

という言葉ではないだろうか。

もっともこれは、酒井さんの著作ではなく、『させていただくの語用論』(ひつじ書房)を書いた椎名美智さんが専門とする。武田砂鉄氏も、この「させていただく」に注目している。

「それでは、会議を始めさせていただきます」

というのは、いまや職場で日常茶飯事の言葉となるのだが、僕はこの「させていただく」がどうにも苦手である。

僕もつい、使ってしまうことがあるが、なるべく使わないようにしようと努力している。他人様が2回に1回、この言葉を使うとすれば、僕はせいぜい5回に1回くらいにとどめようと思いながら、「させていただく」という言い方を控えている。

ところが最近、この4月から始まった朝のラジオ番組を聴いていたら、メインパーソナリティーが、

「それでは、番組を始めさせていただきます」

と言っていて、たちまち聴く気が失せた。メインパーソナリティーだけでなく、パートナーも同じような頻度でこの言葉を使っていて、言葉を生業にするのだったら、もう少し表現を意識してほしいなあとつい文句が出るのは、僕自身が年をとった証拠である。

いや、今回書きたいのは「させていただく」についてではない。「サカジュン」さんの本についてである。

何気なく使っている言葉を突き詰めてみると、いろいろな問題が見えてくる。「J」時代の終焉、「○活」の功罪、「卒業」からの卒業、「自分らしく生きること」が格差社会を後押しする、「気づいた」から「気づきをもらった」へ、なぜコロナと「戦う」のか、スポーツ選手のインタビューにおける話法、など、いわば言葉の「あるあるネタ」である。この本で取り上げている表現は、「させていただく」と同様、なるべくなら使いたくないと思う言葉のオンパレードだ。

で、サカジュンさんの本に興味を持ち、『ガラスの50代』も読んでみたのだが、これは、アラフィフの必読書である。

わかるー、と思ったのが、次のくだり。

「SNSが流行り始めた頃、私は四十代前半。今一つわけがわかっていなかったけれどフェイスブックというものに登録してみたのは、四十五歳の頃でした。それはちょうど、人の「懐かしみたい欲求」が急激に上昇して行くお年頃です。(中略)

そんな中年達にとってSNSは、渡りに船的な道具となりました。昔の仲間達と次々につながり、

『久しぶりに集まりました!』

と、楽しげな画像をアップするという現象がそこここで。(中略)

もちろん私も、例外ではありません。SNS上で、昔の知り合いと次々につながっていくと、青春再来的なわくわく感を覚えたもの。リユニオン的な集まりも、頻繁に開かれるようになりました。(中略)

しかし最初の感動は、次第に薄れていきます。(中略)久しぶりの再会時には懐かしくていろいろな話が弾んだものの、二回目には話すネタも尽き、「ま、こんなものだよね」という感じに。長年会わずにいたのにはそれなりの理由があったのだ、ということがわかるのでした。

私がこのように感じるということは、向こうも同じことを感じていたということでしょう。フェイスブックが広まった頃は盛んに行われたリユニオン活動も、かくして次第に沈静化していったのです」

この文章を読んで、僕のまわりで起こっていたいくつもの不思議な現象が、腑に落ちたのである。

若い子たち(「若い子」の定義は人それぞれだが)は、フェイスブックをあまりやらず、むしろ熱心なのは、アラフィフ以上のほうだったりするのが、前から不思議だった。何でそんな熱心なんだ?と疑問に思っていたが、あれは、中年達にとって、昔の仲間とつながることができる、格好の遊び道具だったからなんだな。

数年前、フェイスブック上で高校時代の同級生たちに声をかけられて、グループLINEに参加させられたのだが、僕以外のメンバーはお互いに親しかった連中ばかりで、当然、久しぶりに再会して飲みに行こうと、えらく盛り上がった。

僕はまったく行かなかったのだが、数ヶ月に一度ていど、仲のいい人たちが集まり、それこそ『久しぶりに集まりました!』と、楽しげな画像をアップしたり、次の集まりの日程調整のLINEが来たりと、最初のうちは盛り上がっていた。ところがいまは、パタッと音沙汰がなくなった。もちろん、新型コロナウイルスのまん延の影響が当然あるだろうし、僕がそのグループLINEから知らない間にはずされている可能性もある。それにしても、みんながみんな、ふだんの近況報告ひとつよこさなくなったというのは、あまりに極端ではないか。

なるほど、サカジュンさんの言う「リユニオン活動が沈静化する」というのは、こういうことを言うのだなと、溜飲が下がる思いがしたのである。

こういうことを冷静に分析できて、わかりやすく書ける人になりたい、という意味でも、この本はアラフィフにとって読むべき本なのである。

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ダウンタウンヒーローズ

4月20日(水)

3週連続で、関西出張である。そのうち、先週と今週は日帰り出張なので、かなり身体にこたえる。

新幹線の往復の時間を利用して、早坂暁『ダウンタウンヒーローズ』(新潮文庫)を読む。

この本を読もうと思ったのは、先日、BS松竹東急で放送された山田洋次監督の映画『ダウンタウンヒーローズ』(1988年公開)を観たからである。公開当時は観ておらず、今回が初見である。

僕はてっきり、早坂暁が脚本を書いたものとばかり思っていたが、早坂暁は原作者で、脚本を書いたのは山田洋次と朝間義隆、いわゆる「寅さんコンビ」であることを、今回映画を観てはじめて知った。

そうなると話が違う。映画全体は、山田洋次テイストがかなり強いのではないだろうか。早坂暁ワールドと言うより、山田洋次ワールドといった方がいいのではないか、という仮説を立て、原作を読んでみることにしたのである。

で、原作を読んでみると、映画の内容とは似て非なるもの、というより、まるで違うことがわかった。原作の設定を借りただけで、中身はオリジナル作品といってもよいくらいだ。

原作は、早坂暁の「自伝的長編小説」と言われているが、旧制松山高校時代、遊郭の娼婦と恋仲になり、娼婦とともに背中に刺青を彫り、さらにはヤクザに追われるなど、怒濤の展開が繰り広げられる。主人公は娼婦を深く愛していたが、最終的には娼婦が主人公のためを想って身を引く、と言うところで、この物語が終わる。全体にわたっていわゆる「下ネタ」も多く、山田洋次監督の映画とは対極にあると言ってもよい。

対して映画のほうは、主人公が無垢な純情青年(中村橋之助)。それに、原作にはないマドンナ(薬師丸ひろ子)も登場し、その関係を軸に物語が展開する。構造的には、「寅さん」と同じといってもよい。

これだけ作風の異なる作品を、なぜ山田洋次監督は、原作の内容を大幅に変えてまで、映画にしようと思ったのだろう?

実は原作の中で、山田洋次監督が登場する。

早坂暁がいた旧制松山高校は、海を隔てた山口高校と毎年野球大会をしていた。当時応援団にいた早坂は、山口高校との試合を松山で行うとき、率先して相手校を出迎えて、わざと遠回りして松山高校まで案内し、相手校の選手を無駄に歩かせて疲れさせる作戦をとっていたという。

「寅さんの映画監督山田洋次さんは後年、松山の新聞社の記者にぼやいていたそうで、どうやら山田監督はそのときの山口高校の応援団の中にいたらしい。山田さん、どうもあの時はごめんなさい。」

つまり早坂暁が松山高校にいたころ、山田洋次は山口高校にいたのである。

映画版「ダウンタウンヒーローズ」の中にも、松山高校の学生と山口高校の学生が対決する場面がある。山田洋次監督なりのノスタルジーが、この原作により喚起され、映画版では山田洋次監督なりの「ダウンタウンヒーローズ」を描きたいという衝動に駆られたのではないだろうか。原作の早坂暁に対する「アンサー映画」のようなものだろうか。ちなみに小説は1986年に刊行され、そのわずか2年後の1988年に映画化されている。

早坂暁は上京して浅草で若き渥美清と知り合い、生涯の友となる。一方、山田洋次監督もまた若いころに渥美清と知り合い、生涯にわたって「寅さん」映画を撮り続ける。渥美清を介しても二人はつながっている。

なお、原作小説『ダウンタウンヒーローズ』にみえるエピソードのいくつかは、早坂暁脚本のドラマ「花へんろ」の中にも盛り込まれている。このドラマもまた、早坂暁の自伝的ドラマである。

また、早坂暁が脚本を書いた「渥美清のああ、青春日記」というドラマでは、渥美清が若いころにストリッパーと恋仲になるが、最終的にはストリッパーが渥美のことを考えて身を引き、行方知れずとなるという結末を迎える。これはまさに『ダウンタウンヒーローズ』の結末と同じテイストであり、このあたりが虚実皮膜の世界である。

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あなたのルーツを教えてください

4月1日(金)

今週も、無事にTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着いた。

年度末だった昨日(3月31日)は、本当にドタバタなうちに終わったが、今日はわりと心穏やかに過ごすことができた。

「アシタノカレッジ金曜日」の「ニュースエトセトラ」のコーナーは、澤田大樹記者がコロナの濃厚接触者になったため、急遽、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが代打で登場した。

番組のトークの中で、武田砂鉄氏が、安田菜津紀さんの最新刊『あなたのルーツを教えてください』(左右社)をたびたび紹介し、絶賛していた。僕もいま、時間を見つけて少しずつ読んでいたところだった。

この本については、奇妙な縁がある。

去年だったか、ある沿線の町の本屋さんに立ち寄った。ここ最近はまったく行ってないのだが、昨年、何回か立ち寄ったことがある。小さな本屋さんなのだが、品揃えにこだわりがあり、本を本屋さんで買わなくなったこのご時世でも、お客さんが途絶えることのない、不思議な本屋さんだった。

その本屋さんは、著者や出版社に焦点をあてた「フェア」を定期的にやっている。「フェア」といっても、書棚のワンコーナーのスペースだけを使う、小さなイベントである。

だが、たんに関連本を並べているだけではない。著者に焦点をあてたフェアだったら、その著者自身が、出版社に焦点をあてたフェアだったら、その出版社の社員が、フェア期間中にたまにそこにあらわれて、フェアに関心ありそうな人に声をかけ、客とコミュニケーションをとるのである。

で、僕はある日、その本屋に立ち寄ると、左右社という出版社のフェアをやっていた。面白そうだったので、書棚の前に立って並んでいる本を眺めていると、声をかけてくる人がいた。聞くと、左右社の社員の方だった。

どんな本にご興味がありますか、的な話から始まったと思うが、僕はその書棚の中の、ある本を指さした。

「この本、持ってます。面白い本ですよね」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「僕が最近編集した雑誌で、紹介しました」

「同業者の方ですか?」

「いえ、違います」

名刺交換をした。

受け取った名刺を見たら、相手の苗字が僕と同じで、ビックリした。

「雑誌というのは…」

「うちの職場で出しているささやかな雑誌です」

「そうでしたか」

「袖すり合うも多生の縁です。せっかくですから、おすすめのものを買いましょう」

「どんなことに興味がおありですか?」

「○○について勉強したいんですけど、ありますか?」

「それですと、この著者の本ですね」

と薦められ、そのうちの1冊を購入した。

帰ってから、これも何かの縁だと思い、僕がその出版社の本を紹介した雑誌を、名刺に書かれた出版社の住所に送ることにした。

誤解のないように言っておくが、僕が編集した雑誌の中でその本を紹介したからといって、それが本の宣伝になったとは思っていない。なぜなら、僕が紹介する前にその本はかなり売れていたから。宣伝してあげましたよ、というつもりで送ったのではなく、その本のおかげで、こういう特集を組むことができましたよ、ということを伝えたかったのである。

送ったものの、とくに返事が来るようなことはなかった。それは日常茶飯事のことだし、僕も不義理を重ねてばかりいるから、まあそういうものだろうとさして気にもとめなかった。

そんなことを忘れかけた頃、つい最近、その出版社からレターパックが送られてきた。中を開けてみると、本が2冊入っていた。同封されていた手紙には、次のようにあった。

「お送りいただいた雑誌を楽しく拝見しました。お好きそうな本が出たらお送りしようと思ううちに、時間が経ってしまいました。間が開いてしまい、たいへん申し訳ありません。

○○の本を手にとってくださった鬼瓦様に、『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』と、最新の話題書『あなたのルーツを教えてください』をお送りします。ご高覧下さい」

…ということで、奇妙な縁を感じたわけである……って、あいかわらず説明がクドいよ!!

安田菜津紀さんは、もちろん面識は全くないが、TBSラジオリスナーとしてはおなじみの人だったので、よくぞ送ってくれました、と感謝しながら読み進めていたところだった。

しかもいつも聴いているラジオ番組で、安田さん本人が登場するばかりでなく、武田砂鉄氏がその最新刊を絶賛するというのは、シンクロニシティというべきか。

ただ、この本はいま読むべき本です、と、読者が5人くらいしかいないこのブログでいくら宣伝しても、まったく効果がないのが哀しいところである。

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なじめなかったエッセイ

3月14日(月)

新幹線と在来線を乗り継いで2時間半ほどかかる町に出張である。前日のうちに、新幹線の止まる駅に宿泊し、翌朝、つまり今朝、在来線で目的の町に到着した。

たった1日の作業だったが、重い荷物を持って移動し、慣れない機器を使った作業を1人でやらなければならず、たいした仕事はしていないのだが、ひどく神経がすり減った。夕方に用務先を出て、夜に帰宅した。

それとはまったく関係ない話だが、月1回発行のフリーペーパーに長らく連載していたエッセイが、今月をもって最終回を迎えると書いてあった。

カリスマ的な人気を誇る作家で、たぶん、かなり多くの人が影響を受けたのではないかと思う。僕のまわりにも、その人の文体の影響を受けたとおぼしき文章を書いている人を、たまに目にする。

僕は、その作家のよき読者ではない。たまたま、目にふれたエッセイを読む程度である。

連載最終回のエッセイを読んで、「結局、最後までなじめなかったな…」というのが、僕の感想だった。

こんなことを書くと、そのエッセイのファンだった人からふざけんなとお叱りを受けるだろうな。実際、SNSなどを見ると、そのエッセイが最終回を迎えてショックだ、毎回楽しみにしていたのに、という人が、かなりの数いたことがわかる。それは当然で、それくらい、影響力や発信力の強い作家なのだ。でも僕は、結局最後までその人の文体になじめなかった。それが僕の心の狭さに起因するものであろうことは、重々承知している。

なぜなじめなかったのだろう。なかなか言語化することは難しいが、「エッセイのためのエッセイをむりやり書いている印象」「もったいぶった文体」「感傷的な表現」などの言葉が浮かぶ。おまえ、他人様のことが言えるのか!とお叱りを受けそうだが、くどい文章ばかり書いている僕でさえ、「僕だったら、この内容を半分の量で書ける」と思ってしまうこともある。

名作といわれる過去の作品を読んだら、印象が変わるかもしれない、と思うこともあるのだが、若いときならいざ知らず、年齢を重ねてしまっているいまとなっては、それを読んで感激できるかどうか、かなり怪しい。

旅をめぐる味わい深いエッセイといえば、僕にとっては宮脇俊三さんである。宮脇俊三さんについては書きたい思い出があるのだが、それはまたあらためて書く。

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近くて遠い

3月13日(日)

僕がほんの数ページだけ書いた、黄色い表紙の新書が、順調に版を重ねている。

そのたびに担当編集者から「喜びの一斉メール」が来るのだが、僕にとっては、それで印税が入るわけでもないので、めでたくもあり、めでたくもなし、といったところか。

…と思っていたら、昨日、ある新聞に、コラムニストの辛酸なめ子さんが、その本の書評を書いていることを知り、辛酸なめ子ファンの僕は、ちょっとテンションが上がった!

ということは、辛酸なめ子さんが、僕の文章を読んでくれたということか???

…でも書評では、僕の文章について一切ふれられていない。というかもともと、僕が書いたほんの数ページの文章は、新書のテーマとは何ら関係のない、言ってみれば場違いな埋め草的な文章なのである。ははぁ~ン。さては、僕の文章は、関係ないと思って読み飛ばしているな。

まことに惜しい。辛酸なめ子さんが、僕の書いた文章を面白がってくれたら、今後一緒にお仕事ができるかと期待していたのに…。

そして今度は、今日のTBSラジオ「安住紳一郎 日曜天国」のゲストコーナーで、この新書に中心的に関わったとおぼしき方が出演されるというではないか!当然、この新書が売れていることをふまえた人選だろう。

案の定、番組の中でこの新書のことが紹介されたが、やはり僕の文章についての言及は一切なかった。安住アナも当然、この新書を読んだうえでゲストとのトークにのぞんでいるはずだと思うが、多分、安住アナも僕の文章は読み飛ばしたのだろう。新書のテーマとはまったく関係ないしね!

すわ、次は俺がゲストに呼ばれるか?と一瞬、期待しないでもなかったが、世の中、そんなには甘くない。やはりTBSラジオは、近くて遠い存在である。

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便利なひな壇芸人

3月5日(土)

朝、寝間着のまんま寝っ転がっていたら、電話がかかってきた。

「もしもし、鬼瓦先生ですか?」

「はい、鬼瓦です」

「私、○○出版社の××と申しますけれど…いま、オンライン会議を行っているんですが…」

「あっ!!すみません!!」

すっかり忘れていた。今日は午前10時から某出版社の「企画もの」に関する執筆者会議だった!手帳には書いておいたのだが、書いたこと自体を忘れていた。

「す、すぐ参加します!」

時計を見ると10時半。慌てて着替えて、ノートパソコンを立ち上げて、ZoomのミーティングIDとパスコードを入力して、会議に合流できたのは10時45分過ぎだった。

会議次第を見ると、執筆者の顔合わせという意味もあり、僕もひと言喋らないといけないようなのだが、どうやらそれには間に合ったらしい。

僕は何事もなかったかのように、挨拶をした。

他の人は、力のこもった挨拶だったのだが、僕は、どうもあまり乗り気ではなかった。「また企画ものかよ!」とウンザリしていたのである。

僕は、自分とは縁遠い企画だと思って、どうしようかと思っていたが、依頼をした人に恩義があるので、観念して引き受けることにしました、と、まことにやる気のない挨拶をしてしまった。いまから思うと、たいへん失礼な挨拶だったと思い、反省した。しかし実際、やる気がないのだから仕方がない。

その後、もう1回、コメントを言う機会があったので、先ほどの挨拶を反省し、さも準備してきたかのように執筆の具体的な構想を語った。何も考えていないのに、さも考えてきたように喋るヘンな術ばかりが身についている。

通常、こうした企画ものは、いきなり企画書が送られてきて、はがきかメールで諾否を表明し、締め切りまでに原稿を出す、という流れが多い。つまり、担当の編集者とは一度も顔を合わせずに原稿を執筆する、という慣習が常態化している。

だが、むかしからある大手の出版社は、依頼にあたって、担当編集者と直接に顔を合わせることがある。今回の出版社とは、以前に一度、やはり企画もので仕事をしたことがあるが、そのときは、執筆者が大人数だったので、どこかの会場を借りて、執筆者打合せと称して立食パーティーをした記憶がある。いまは出版界の低迷と新型コロナウイルスの影響で、さすがに立食パーティーはできないが、それでも、執筆者が顔合わせをするという伝統は、変わりないようだ。

どっちがいいのかは、わからない。いきなり企画書だけ送られてきて、担当編集者と一回も会わずに原稿を出すというのも癪に障るが、わざわざ各巻の執筆者が顔合わせをするというのも、なかなか面倒くさい。僕はこんなふうに、これから先も、企画ものに職業的文章を書く「便利なひな壇芸人」として、この仕事を続けていくのだろうか。

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