書籍・雑誌

鉱脈

8月26日(金)

秘境から無事に戻ってまいりました。

小田嶋隆さんの最新刊であり遺稿集である『コラムの向こう側』(ミシマ社、2022年)を読んでいたら、涙が出てきてしまった。まだ喪失感は続いているらしい。

Web上で連載していたコラムのうち、亡くなる10カ月くらい前からのものをまとめたものだが、本のタイトルは、小田嶋さんが亡くなる4日前に、ご本人が決めたと、編集部が書いた「まえがきに代えて」に書いてあった。

ちなみにその「まえがきに代えて」には、

「五月末、小田嶋さんから電話があり、『医者は、夏を迎えられないかもしれない、とか言ってるんです』と軽やかにおっしゃいました」という一文があり、これが泣けて仕方がない。ちなみに小田嶋さんが亡くなったのは、6月24日である。

まだ途中までしか読んでいないが、文章はあいかわらず軽妙で諧謔に満ちており、僕にとっては名言の連続なのであるが、ところどころ、ご自身の最後を予感しているようなくだりがある。高校時代からの親友だった、CMプランナーでメディアクリエイターの岡康道さんに向けて書いた文章は、まさにそのような感じである。

小田嶋さんと岡さんの関係については、このブログでもたびたび紹介してきた。岡さんは、小田嶋さんよりも2年早く他界されたが、その岡さんについて書いた、こんな文章がある。

「あいつ(岡康道)の『夏の果て』(小学館文庫)を読んだのは、(中略)六十歳を過ぎた頃のことだ。

頭をなぐられた気がしたことを、いまでもおぼえている。

『おまえには、こんなことができたんだ』

私にとっては、まったくの不意打ちだった。

『どうしていままで隠していたんだ?』

という、いまでもその驚きの中にいる。

(中略)

この作品が、岡の最後の長編小説になってしまったことは、返す返すも残念な成り行きだ。この先にどれほどの鉱脈が隠されていたのか、誰にもわからなくなってしまった。それは、とてもとても悲しいことだ」

僕はこの小田嶋さんの文章を読んで、小田嶋さんの最初で最後の小説『東京四次元紀行』を読んだときの、僕の感想とまったく同じであることに気づいた。

岡さんの唯一の長篇小説を読んだときの小田嶋さんのこの感想は、そっくりそのまま、小田嶋さんの唯一の連作小説『東京四次元紀行』に対する感想として、お返ししたい。『東京四次元紀行』の読者の多くが、小田嶋さんの「隠された鉱脈」を見いだしていたと思う。

小田嶋さんが人生の最後に小説を書いたというのは、ひょっとして、親友の岡康道さんのことを強く意識していたからではないだろうか。岡さんの小説に突き動かされるように、ご自身も小説を書いたのではないか。そんな妄想を抱いてしまう。

さて、文章を生業とする人間、あるいは、文章を書くことを厭わない人間が、自分の最後をあるていど覚悟したときに書く文章には、二つのタイプがあると思う。

一つは、自分の最後に至る経過を、包み隠さず、克明に書こうとするタイプ。

もう一つは、最後の最後まで、その覚悟を悟られることなく、自分の文体を貫き通すタイプ。

小田嶋さんは、当然後者である。病気のことは一切ふれずに、最後のコラムは、「また来週」で終わっている。

僕もまたそうありたい、と思っているが、どうなるかはわからない。

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記憶狩り

最近読んだ本、ということで、もう少し書く。

小川洋子『密やかな結晶』(講談社文庫、1998年)は、ある島で、記憶が一つ一つ消滅していく物語である。その島の多くの人は、何が消滅しても、それに適応し、慣らされて淡々と生活を続けていくのだが、一部の人は記憶力を失わない。記憶力を失わない人に対して、「秘密警察」による「記憶狩り」が行われ、粛清されていく。

まるでいまのこの国の社会を予言したような寓話ではないか。この国の政治家たちは、都合の悪い事実を忘れさせようと、書類を改ざんしたり、隠蔽したり、Twitterのアカウントを削除したり、あの手この手で、なんとか証拠を残さないように、というか、最初からなかったかのようにふるまう。しかし、いかに「最初からなかった」ようにふるまったとしても、私たちは記憶している。「私たち」といっても、すべての人ではないかも知れないが、あの事件も、この不正も、忘れないように、しつこく記憶している人は多いはずである。もちろんこの小説では、そうした政治批評的な視点は微塵も見られないが、この小説のように、やがては記憶している私たちのほうに権力の刃が向くのではないか、という未来も、いま読んでみると、予感させるのである。

この小説の英語訳が、日本人作品として初めてブッカー国際賞の候補になったという。「日本人作品」という括り方は、あまり好きではないが、あえて言えば、ノーベル文学賞に一番近い日本人作家は、小川洋子なのではないか、と思ったりする。もちろんこれは、僕のきわめて乏しい読書体験からの想像にすぎないので、異論は認める。

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ラジオパーソナリティーと文筆活動

ラジオパーソナリティーと文筆活動の関係、ということで、もう少し書く。

僕の知り合いの知り合いに、いまは死語になってしまったが、いわゆるマルチタレントというべき方がいて、最近はテレビには出ず、ラジオパーソナリティーや文筆活動などを中心に活動している。僕は、1,2度、直接お目にかかったていどなのだが、ありがたいことに、いちおう僕のことを認識していただいているようである。

その方が、このたびエッセイ集を出された。袖すり合うも多生の縁、ということで、さっそく入手して読んでみたら、これが思いのほか面白かった。何気ない日常や、ちょっとした体験にニヤリとして、それでいて、いままでの自分の思考の枠組みについてちょっと考えさせられたりする。

僕はその方の声を知っているので、読むときにはその方の声が脳内で再生されるわけだが、読んでみると、そうか、これはラジオのフリートークなのか、と気づいた。

ラジオパーソナリティーの極意は、…なんて偉そうなことを僕が書いたら叱られるが、「ベテランのラジオリスナー」の意見として聞いてもらうと、ラジオパーソナリティーの極意は、初めてそのラジオを聴いた人にもわかるように、言葉を補って補助線を引きつつ、といってそれが邪魔にならないように、そのときの状況や心情を説明する技術に長けることだと思う。つまりこのエッセイは、その方が長年、ラジオのフリートークで培っていた技術が遺憾なく発揮されている、と感じたのである。

たぶん、いろいろな読者からいろいろな感想が、著者のもとに寄せられているのだろうな、と思いつつ、僕は知り合いを通じて、上のような感想をお伝えしたら、「ラジオパーソナリティーとからめての文体を考察いただいたのは初めてかも!です」という返信を間接的にいただいた。考察、といったものではなく、何でもかんでもラジオに結びつけて考えてしまうのが、僕の悪い癖である。

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ヨカナーンの首

8月9日(火)

今日から夏休みをとった。しばらく涼しいところに滞在するために車で移動したが、滞在先も暑くて閉口する。

1週間、仕事のことは考えないと誓い、仕事と関係のない本を大量に持ち込んで、読みたいものを読むことにしたが、たぶんそんなには読めないだろう。

書くことがないので、禁じ手の、他のSNSでの話を書く。

高校時代の部活の2年後輩のジロー君が、夜空に浮かぶ雲の写真をSNSにアップしていた。そこには、「餃子に見えなくもない雲」と、本人のコメントがついていた。

なるほど、言われれば餃子に見えなくもないが、他のものにも見えそうな気がする。

僕はそれを見て思い出した。

横溝正史の小説『真珠郎』の冒頭である。

物語の主人公、大学講師の椎名耕助は、いささか神経が疲労していたときに、ふと空を見上げた。すると、空に浮かぶ雲が、まるで人間の首に見えたのである。しかも、西日をうけて真っ赤に染まった雲は、まるで血のしたたり落ちる「ヨカナーンの首」のように見えて、急に恐ろしくなったというのである。

そこに通りかかったのが、同僚の乙骨(おつこつ)三四郎だった。椎名は、乙骨に雲の話をするのだが、乙骨にはそうは見えないという。実はこの乙骨との出会いがきっかけで、椎名はまがまがしい事件に巻き込まれていくことになる。

僕は「雲が餃子に見える」というジロー君のコメントから、この『真珠郎』の冒頭を思い出したのである。

そこで僕は、SNSの彼の記事にコメントを書いた。

「横溝正史の小説『真珠郎』では、神経衰弱の主人公が、空の雲を見て、血のしたたる『ヨカナーンの首』を連想したことから、まがまがしい事件に巻き込まれることになる。餃子を連想したということは、餃子にまつわる事件に巻き込まれるぞ」

じつにくだらないコメントである。

そしたら、さっそく僕のコメントに対してジロー君から返信が来た。

「先輩!早速事件が!昨日妻が行った中華料理屋店で餃子関係メニューがすべて売り切れだったそうです」

くだらない。くだらなすぎる。しかしちゃんと対話になっている。僕は思わず笑ってしまった。

『真珠郎』の読書体験が、こんなくだらないやりとりに使われてしまってよいのだろうか。

こういうのを「知識のムダ遣い」というのだろう。

しかし僕は、「知識のムダ遣い」が嫌いではない。役に立たない知識ほど、尊いものはないと考えるからである。

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秘密の花園

7月31日(日)

4歳4か月の娘を連れて、実家に行く。

先日、僕宛てに届いたという、ある宗教法人の教祖が書いたという本をパラパラと眺めてみた。

送られた本には、送った人の直筆の手紙が同封されていた。もちろん、送ってきた人は、同じ高校の同窓生ということが書かれているだけで、まったく知らない人である。残念ながら、同窓会名簿を持っていないので、この人がほんとうに同窓生なのかは、わからない。しかしその差出人の名前は、こんな名前の人、いるんだ、と感心してしまうほどの、いい名前なのである。ひょっとして、通称名なのだろうか?

手紙には、「宗教に対する偏見を取り払い、素直な心でぜひ一読していただけましたら幸いに存じます」と書いてあった。やはり、昨今の別の宗教団体をめぐるスキャンダルを意識して、いろいろな人に送っているのだろう。一冊一冊に、直筆の手紙を添えているのだろうから、ご苦労なことである。

この手の本をまったく読んだことがないので、何が書いてあるかには興味がある。だがあんまり熱心に読んでいる姿を見せると、入信するのではないかと母に心配をかけるので、あくまでも興味のないそぶりをしながら、パラパラと本をめくった。

「この前、この宗教法人の事務所の近くを通りかかったので、中をちょっとのぞいてみたのよ」

なかなかどうして、母もまた、この宗教法人に興味津々ではないか。

「どうだったの?」

「そしたら、この本が山積みになっていたわよ」

やはり、危機感を抱いた宗教法人が、本を各方面に送りまくっているのだろう。

…というより、僕の母も、なかなかのルポライターぶりである。僕の野次馬根性は、母から受け継がれたものである。

さて、パラパラとめくってみた感想だが、文章全体が、比較的わかりやすく、想像していたような狂信的な表現などはみられない。文章は正直に言うと、ずば抜けて上手であるとも思えない。罰当たりなことをいうと、これだったら、俺の方がもっとうまく書けるのにな、と思ったほどである。

しかしそれが、多くの信者を獲得する手法なのだろうか。僕の文章は、どんなに表現の技巧を尽くしても、ごく少数の人にしか響かない。いや、響いているかどうかもわからない。だがこの文章は、できるだけ多くの人が読んですぐにわかるような書き方をあえてしているのかもしれない。

さて内容については、「規則正しい生活をしましょう」とか、「適度な運動をしましょう」とか、そんなあたりまえなことが書いてある部分もあった。あと、「コロナを必要以上に恐れるな」とか。あまり特殊なことを言っている感じではなかった。

しかし、そこに、やれ「霊」だの「スピリチュアル」だのという「ふりかけ」をかなりまぶしているので、やはりそこはどうしても受け付けられない。まあ、何かトラブルがあってもそれは「霊のしわざだ」ということにしておけば、なんとかなるよ、という考え方を示しているようにも思えたが、はたしてそんなざっくりとしたまとめ方でよいのかは、ちゃんと読んでないのでよくわからない。

こういってしまうと身も蓋もないが、つまりはある種の自己啓発本なのではないか、というのが僕の感想である。

しかし、すべての本が、こんな自己啓発的なわかりやすい感じなのだろうか?僕にはひとつの仮説が頭をもたげてきた。

僕は無宗教だし無神論者だが、強いていえば「大林教」の信者である。映画作家の大林宣彦さんの映画はもちろん、その人となりも信奉している。誤解のないようにいうが、もちろんこれはあくまでたとえ話であり、実際には信仰というよりも「推し」というニュアンスの方が近い。

僕が大林監督「推し」だからといって、僕は自分以外の誰かに、大林監督の映画を熱心に薦めようとは思わない。これはあくまでも僕の人生にかかわる問題であり、それを第三者が理解するなんて、不可能だと思うからである。

それでも、大林映画のことをあまり知らない人に、「大林監督の映画を観てみたいのですが、おすすめの映画はなんですか?」と聞かれたとしよう。

まあ、「異人たちとの夏」とか「青春デンデケデケデケ」あたりを薦めるだろうな。そのあたりが、大林監督としては珍しく万人受けする「口当たりのいい映画」だと思うからである。

これを、「いつかみたドラキュラ」「麗猫伝説」「はるか、ノスタルジイ」「おかしなふたり」あたりを薦めたら、初めて見る人は戸惑うんじゃないだろうか。あまりにも大林監督のカルト的世界に満ちているからである。

何が言いたいかというと、僕に送られてきたその本は、初めて接する人の抵抗をなくすために、あえて口当たりのいい本を選んで送ってきたのではないのだろうか。その背後には、数多くのカルト的な本が存在しているはずである。そうでないと、強力な「推し」はついてこないと思うのだ。僕が大林監督のカルト的世界観の映画にとらわれたのと同様に、である。

おそらくほとんどの人は、この本がきっかけに入信するということはないだろう。やはりこれは、まったく関心のない人に対して、昨今の宗教に対する偏見を取り除き、この社会の中でその宗教法人が生き残るために送られてきた、というのが僕の仮説である。

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あやとりのように絡まり合う

7月29日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!というか、生還しました!

今回の「ひとり合宿」は、思いのほか過酷だったなぁ。

「ひとり合宿」の時には、仕事とは関係のない小説を読むことに決めている。

今回のお供は、1冊目が、小田嶋隆さんの小説『東京四次元紀行』(イースト・プレス、2022年)である。小田嶋さんの最初で最後の小説であり、遺作でもある。小田嶋さんのコラムの文体を彷彿とさせながら、同時に見事に小説の文体になっていた。

もう1冊が、チョン・セラン著、斎藤真理子訳の小説『フィフティ・ピープル』(亜紀書房、2018年)である。この本も、前々から読まなきゃと思いつつ、なかなか踏ん切りのつかなかった本である。

たまたま手にとったこの2冊、読んでみて、実はすごく共通していることに気づいた。両方とも、「連絡短編小説集」なのだが、その手法が、非常によく似ているのである。

『東京四次元紀行』のほうは、東京二十三区の一つ一つの区を舞台に、それぞれの登場人物による短編小説が繰り広げられていくが、そこに登場する人物は、一見バラバラのようでいて、実は微妙に絡み合っている。こちらの区で主人公だった人物が、別の視点で、別の区のところに登場したりする。だから「短編小説」でもあり「連作小説」でもあるのだ。

その構造は、『フィフティ・ピープル』でもまったく同じである。物語の軸となるのは、ある大学病院なのだが、物語のすべての舞台が大学病院の中なのではない。登場する50人の人生が、大学病院の中や周囲で、微妙に絡まりながらそれぞれの物語を形成していく。

この本の帯には、「50人のドラマが、あやとりのように絡まり合う」と書いてあるが、まさにその通りである。

そして『東京四次元紀行』もまた、23区それぞれに登場する人物が、あやとりのように絡まり合いながら、不思議な世界を作り上げていく。この区で主人公だった登場人物が、あちらの区では別の視点から語られる、という手法は、まさに『フィフティ・ピープル』と同様である。

読むほうとしては、その絡まり合ったあやとりをときほぐす、という楽しみもあるのだ。

チョン・セランさんは1984年生まれで、「韓国文学をリードする若手作家」(帯文)である。そのみずみずしさとエネルギーが、このような手法の小説を生んだ。

これに対して小田嶋隆さんは1956年生まれ。何が言いたいかというと、小田嶋さんは、まるで若手作家のように、じつにみずみずしい手法で初小説に挑戦したということである。

はたして、小田嶋さんは、『フィフティ・ピープル』を読んでいたのだろうか?あるいは意識していたのだろうか?それとも読んでいなかったのか?僕はいささかその点に興味があるのだが、どちらにしても、連作短編小説集という手法を選んだことは、最初から挑戦的な小説を書くことを意識していたことに、変わりないのだ。

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小田嶋さんのいないTwitter

コラムニストの小田嶋隆さんについて書いた、フランス文学者の内田樹さんの、2022年6月24日(金)のツイートより。

「小田嶋さんと最後にお会いしたのは6月13日でした。その少し前にお電話を頂いて、「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」ということでした。次の週に平川(克美)君と二人で赤羽のお宅にお見舞いに行きました。」

「ベッドに横になっていて、話をするのも苦しそうでしたが、半身起き上がって「どうでもいいようなバカ話がしたいんですよ」というので、ご希望にお応えして、三人で思い切り「バカ話」をするつもりでいたのですが、話しているうちにどんどん元気になってきて、言語と文学の話を熱く語ってくれました。」

「最初の小説『東京四次元紀行』が出たばかりでしたから、その話が中心でした。1時間以上話して、別れ際に「じゃあ、元気で。またね」と手を握ると暖かくて柔らかい手で握り返してくれました。長い付き合いの最後の贈り物が笑顔と暖かい手の感触でした。素晴らしい友人でした。ご冥福を祈ります。」

「小田嶋さんが電話をくれたのは、彼の親友だった岡康道さんが急逝された時に「最後の挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」のでそういう思いを自分の友人にはさせたくないからという理由からでした。小田嶋さん、ほんとうに気遣いの行き届いた人でした。」

「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」という言葉を、みずから発しなければならないほど、すでに何日も前にお別れを覚悟していたというのが、泣けてしまう。

ライターの武田砂鉄さんも、ラジオで「6月15日に小田嶋さんのご自宅にうかがって、お話をした」と語っていたから、おそらく小田嶋さんは、これが最後の機会だと悟って、会ってお話をしておきたい人たちに声をかけていたのだろう。

内田さんのツイートの中に出てくる、岡康道さんとの友情については、以前にこのブログでも書いたことがあるが、小田嶋さんと岡康道さんとの関係については、こんな話を聞いたことがある。

小田嶋さんと岡さんとは、10年間くらい絶交していた時期がある。そのきっかけは、当時電通に勤めていた岡さんが、親友の小田嶋さんをメジャーデビューさせようと思って、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いだったあるコピーライターとの対談を企画したことにはじまる。

対談といっても、実際には二人が直接会って対談するわけではない。会わずに、それっぽい言葉の応酬を原稿化して、対談したことにする、というものである。つまり「フェイク対談」である(余談だが、実は私も一度、フェイク対談をしたことがある)。

小田嶋さんは、この企画を「冗談じゃない!」といって突っぱねた。だいたいそのコピーライターは自分にとってはいけ好かない人物であるし、そんな人間に頼ってまでメジャーになりたくない、と。

で、そのことを、『噂の真相』という雑誌に書いちゃった。つまり、そのコピーライターとのフェイク対談が企画されていたけれど、俺は断った、というその一部始終を、暴露してしまったのである。

サア怒ったのは岡さんである。せっかく親友の小田嶋にメジャーになってもらいたいと思い、よかれと思って企画したのに、それを断った上に、雑誌に内幕をばらすとは、何事か、と。

どうやら絶交のきっかけはそういうことだったらしいのだが、その後はまたもとの親友同士に戻ったという。

で、その岡康道さんが、2年ほど前に亡くなったのだが、「最後に挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」と言ったのは、そのときの別れがそうとうにショックだったことを示しているのだろう。

僕が友人論のバイブルとしている、小田嶋さんの『友だちリクエストの返事が来ない午後』は、身も蓋もないような友人論が書かれている、という読後感を持ったのだが、それを書いた小田嶋さんをしても、あるいはそうだからこそ、なのか、友情への揺るぎない信頼をもっていたのかもしれない。

映画評論家の町山智浩さんが、同じく6月24日のツイートで、

「小田嶋隆さんとは30年親交がありました。遺作となった処女小説『東京四次元紀行』を読んで、あの皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念に満ちた小田嶋エッセイの本質がわかりました。酔いどれ探偵の一人称ハードボイルド小説だったんです。 新境地を開いたところに残念でなりません。」

と書いている。「皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念」こそが、小田嶋さんの文章の本質である。してみると、友情への諦念に満ちた『友だちリクエストの返事が来ない午後』も当然、小田嶋さんの文章の本質を示していることになるのだが、しかし小田嶋さんの文章はそれだけで終わるわけではない。諦念の先には、ほんとうの希望や信頼が生まれるのだということを、真剣に考えていたのではないだろうか。

さて、僕が小田嶋さんの立場だったら、どうするだろう。小田嶋さんのように、自分の最後を自覚して、意識がはっきりしているうちに、これまでお世話になった友人に、お別れの挨拶ができるだろうか。

どうもできそうにない。

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小田嶋さんのいないAM954

6月24日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

コラムニスト・小田嶋隆さんの訃報は、ここ最近で、いちばんの喪失感かもしれない。

TBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の月曜日「週刊ニッポンの空気」を、通勤途中の車の中で毎週聴いていた。もちろん、リアルタイムでは聴けないので、ラジオクラウドで聴くのである。

ここ最近は、小田嶋さんが病気療養中ということで、別の人が代打で出演していたが、それは聴く気にはならなかった。もうすぐ小田嶋さんは戻ってくるだろうと待ち望んでいたところだったから、よけいに喪失感を抱いたのかもしれない。

よく辛口のコラムニストだと言われる。たしかにそうなのだが、「赤江珠緒 たまむすび」では、それでもまだかなりソフトな語り口である。これがたとえば、平川克美さんとの対談コンテンツなどを聴くと、小田嶋さんの辛口批評が遺憾なく発揮されている。「ひねくれ」「屁理屈」「豊穣な語彙」をもって政治や世間の理不尽を追い詰めていく手法は、話芸でいえば上岡龍太郎さんに通じる。つまり言葉のプロとして「見事」なのである。だから僕は、小田嶋さんの書いた文章を読むのが好きだった。

昼休み、仕事部屋で昼食を取りながらインターネットのニュースサイトを開いたときに、訃報を知った。しばらく呆然とした、という表現がふさわしい。

気になったのは、夜10時から始まるTBSラジオの生放送「アシタノカレッジ金曜日」の冒頭で、武田砂鉄さんが何を語るか、である。武田砂鉄さんは、ライターとして小田嶋隆さんの影響をかなり強く受けた人の一人であり、小田嶋さんのTwitterでの名文をまとめた『災間の唄』(サイゾー、2020年)の編集を担当している。師弟関係といってもよいほどである。

番組の冒頭では、上島さんの時のように、随想的に語るのだろうか。出版社勤務時代の思い出話を語っていたら、いつの間にか上島さんとの思い出話になっていたように。

しかしそうではなかった。

冒頭の12分間、最初から最後までずっと、小田嶋さんの思い出話をストレートに語っていた。亡くなって半日くらいしか経っていないので、気持ちがまだ整理されていない様子がうかがえた。

12分の独白のあとにかかった曲は、小田嶋さんが愛してやまなかった、サイモン&ガーファンクルの「Sound Of Silence」だった。ああ、小田嶋さんは、ほんとうにいなくなってしまったのだな。

これまで僕が書いた小田嶋隆さんに関する記事を再掲する。合掌。

現代版徒然草

懐かしむためにある場所

ザ・コラム

友達リクエストの返事が来ない午後

原稿ため込み党の夏

上を向いてアルコール

コラムとエッセイ

アレなマスクが届きました

金曜日までたどり着きませんでした

つじつまの合う物語

 

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名画座の思い出だけを抱いて死ぬのだ

6月18日(土)

ある作家の、最初に読む作品をどれにするかというのは、けっこう重要なことかもしれない。

僕の場合、桐野夏生は『OUT』だった。これは、フジテレビで放映されたドラマの影響である。

小川洋子は『博士の愛した数式』。これも映画の影響。

伊坂幸太郎は、『オーデュボンの祈り』。これは、数年前にある人に薦められて。

東野圭吾は、たぶん『白夜行』だったと思う。ただしこれは、後から映画やドラマを観た。「原作のイメージと違う!」と怒りまくった記憶がある。

さて、僕が最近直面したのは、原田マハである。

読みたいとは思いつつも、何を最初に読んだらいいのか、わからなかったので、なかなか踏み出せなかった。

ただ、少し前に、山田洋次監督が『キネマの神様』という映画を製作して、その原作が原田マハであることを知り、とりあえず、その映画の公開に合わせて、原作の文庫本を入手しておいた。映画を観てから読もうかとも思ったが、結局、映画は観ていない。

この日の夜、ふと、この本のことが気になり、読み始めたところ、止まらなくなってしまい、最後まで読み切ってしまった。

ストーリーが、ご都合主義的な展開という感じがしなくもないのだが、まあそこはそれ。そのストーリーテラーぶりに心地よく身を任せることができさえすれば、それで十分なのである。

何より、小説の中に登場する実在の映画の多くが、僕のこれまで観てきた映画と重なっていたことが、共感しつつ読むことができた理由である。

この小説では、『ニュー・シネマ・パラダイス』がかなり重要な作品として登場する。この映画を持ち出すのは反則だろ!とも思うのだが、「映画館への愛」を主たるテーマとするこの小説では、この映画を取り上げないわけにはいかない。

もう一つ、『フィールド・オブ・ドリームス』も、重要な作品として登場する。『ニュー・シネマ・パラダイス』とならんで、1989年に日本で公開された映画で、僕も大学生の時に劇場で観た。扱われている作品が、僕が若い頃に観たど真ん中の映画ばかりなのである。

それでいて、古い映画についての言及も数多くされている。いわゆるシネコンとは対照的な名画座も、この小説の重要な位置を占める。学生時代、僕は名画座にもよく行った。

つまりこの小説は、僕が学生の頃に体験した、劇場でロードショー公開された作品と、名画座などで観た古い作品のオンパレードで、20代の頃の僕の映画に対する、ある感慨みたいなことを、ファンタジーとして描いてくれているのである。ちょっと大げさな言い方かもしれない。

さて、問題は、この小説を映画化した山田洋次監督作品を、観るべきかどうか、である。

インターネットの情報などによると、原作をかなり改変しているらしい。たしかに原作をそのまま映像化するのは、いささか地味な感じはするのだが、最近テレビで放映された『ダウンタウンヒーローズ』を観て懲りてしまった気持ちをまだ引きずっているので、しばらくは観ないほうがよさそうである。

名画座、で思い出した。

僕が名画座で観た映画として、いまでも印象に残っているのが、高峰秀子主演の『浮雲』と、佐野周二主演の『驟雨』の二本立てである。どちらも監督が成瀬巳喜男なので、おそらく「成瀬巳喜男特集」として上映されたものだろう。どういう経緯で観に行くことになったのかは覚えていないのだが、観に行った状況についてはよく覚えていて、その状況を含めて、自分にとって印象深い体験となったのである。いまでもそのときの古びた映画館の様子や、古びた映画館特有の「におい」、そのときのお客さんの様子、などを、思い出すことができる。

しかしその映画館の場所がどこだったのか、具体的になんという映画館だったのか、といったことは、覚えていない。映画を見終わってから新宿の居酒屋に入った記憶はあるから、新宿の近くの名画座だったのだろうか。

もう覚えているのは、この世で僕だけかもしれない。その名画座は、現在でも残っているのだろうか。名画座の「思い出だけを抱いて死ぬのだ」(by大竹まこと)。

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裏取りできず

まことに卑俗な喩えだが、井伏鱒二『荻窪風土記』は、さながら「トキワ荘」の小説家版といった趣である。井伏鱒二の周囲をとりまくさまざまな作家のエピソードが喜怒哀楽をとりまぜてちりばめられる。

僕はいつも、本筋とは関係のないところが気になるのだが、『荻窪風土記』にこんな記述を見つけた。

「私のうちのネコは昭和三十二年の六月、お産がうまく行かなくて犬猫病院で帝王切開の手術を受けた。私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日に入院して、私が旅行から帰ったときには退院した後であった」

ここに出てくる「樽平の美術館」は、僕も何度か行ったことがある。「樽平」というのは、この地方の有名な地酒で、その名の通り、ほのかに樽の香りがするのが特徴である。酒造業を営んでいる家が美術品を集めるというのはよくあることだが、それにしてもここの美術品の質と量には圧倒された記憶がある。

井伏鱒二が昭和三十二年六月にこの美術館に訪れたとすると、この片田舎(といっては失礼だが)の美術館にとっても、大切な歴史の一齣である。

この事実を確かめようと調べてみると、井伏鱒二の「還暦の鯉」という随筆に、この地を訪れた記述があった。それによると、東北を旅行し、白石川での釣りをしたが、なかなかうまくいかずに諦めた。その翌日に県境を越えたという記述がある。

「県境の向うへ出て最上川の上流に行った。ここでも釣りは諦めて、川西町小松という物淋しい町の井上さんという旧家を訪ね、美術館の古陶器を見せてもらった。個人蒐集のものである。町は淋しいが、ちゃんとした美術館で然るべき品が五百点以上もそろっていた。

この町は、丁字路の両側に家が並んでいるだけで、裏手は田圃である。話によると、ここでは田圃に豆を順序ただしく蒔くと山鳩が来てみんな食べるので、わざと不規則に蒔くのだという。海の魚も、腐りかけて臭くなくては魚らしくないとされているところだという。一年のうち何箇月かは、見渡すかぎりの雪野原だという。こんな町に立派な美術館がある」

と書かれている。『荻窪風土記』は、このときのことを記述したものであろうか。

ところが、この随筆は昭和31年7月に『暮しの手帖』に発表されたもののようで、『荻窪風土記』に書かれている「昭和32年6月」とは齟齬が生じる。これはいったいどういうことなのか。

昭和32年6月は、この随筆を収めた随筆集『還暦の鯉』が新潮社から刊行された時期にあたるので、あるいは『荻窪風土記』ではそれに引っ張られて記憶を勘違いしたのだろうか。

それとも、昭和31年7月以前(おそらく雪解け水が川に流れる春頃)に一度訪れ、昭和32年6月にもう一度訪れたのだろうか。

「還暦の鯉」では、白石川での釣りをあきらめ、さらに最上川での釣りもあきらめ、本来の目的ではない美術館訪問をしたところ、その美術館が思いのほかよかったという感想を抱いている。

一方で『荻窪風土記』のほうは、「私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日」と書いており、当初からこの美術館を訪れるつもりだったようにも読める。両者はややニュアンスが異なるのである。

そうするとやはり、井伏鱒二はこの美術館を2回訪れたのだろうか。当の美術館に、記録が残っていればいいのだが。

インターネットを探ってみると、むかしは、東京の神楽坂に蔵元直営の樽平の店があり、井伏鱒二はそこに太宰治を伴ってしばしば顔を出していた、と、あるサイトに書いてあったが、いまのところ裏がとれていない。だがもしそうだとすると、井伏鱒二はずいぶんと前から、つまり太宰治が生きている頃から、樽平の味が気に入っていたということになる。だとすると、大好きな樽平の蔵元をわざわざ訪ねた理由もうなずける。

とっくに解明されていることなのかも知れないが、気になったことなので書きとめておく。

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