書籍・雑誌

講演録

5月11日(日)

立派な本が送られてきた。

定年退職したばかりの先生からだ。研究者の性(さが)なのか、退職するとこれまでの研究を1冊の本にまとめられる場合が多く、その送られてきた立派な本もそういった理由からまとめられたのであろう。

その先生はある種の若手研究者たちにとっては憧れの存在なので、売れるだろうな。

一方私はといえば、入院前日に行った講演会の講演録の下原稿が送られてきたのだが、これがすばらしくいい出来で、このまま掲載しても申し分のない内容である。あのとっちらかった内容の講演録をまとめてくれたのが講演会を企画してくれたIさんで、単なる文字起こしではなくわかりやすいようにまとめてくださっている。手間のかかる作業をやってくださったIさんに感謝してもしきれない。

この講演録は地元の愛好家たちの手にしか渡らない。そこがまた僕らしい。究極のミニコミ誌に掲載される夢はすでに達成されたが、これもまた、多くの人に読まれないという点では同じだろう。本当に読みたい人が、見つけてまでしても読みたい、というのが僕の理想である。ま、そんな人はいないと思うが。

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読書のこと

1月18日(土)

土日に仕事のメールを送ってこられると、勘弁してほしいと思う。職場にはほとんどいないのだが、一緒に仕事をしている同業者の中にたまにいて、おいおいこっちは年中無休で仕事をしているわけではないぞと思ってしまう。ま、僕も仕事と関係ないとはいえ土日にメールを出すこともあるので他人様のことは言えないのだが。

そんな愚痴はさておきですよ。

今回は読書の話をしたいと思う。

僕と同世代の読書好きのおじさんが動画サイトで言っていたことなのだが、50を過ぎると本を読むのが辛くなる。とくに分量のある本が、である。

理由はいくつか考えられる。老眼で小さい文字を読むのが辛くなるという肉体的な事情や、集中力が続かなくなるという精神的な事情などがそれにあたるだろう。

そのおじさんは、「自分たちは若い頃に読んだ本の貯金を切り崩しながら生きている。だから若い頃に本をできるだけ読むことが大切だ」と続けていて、たしかにそういう面もあるのかもと思った。もちろん歳を取ってから本を読むことは若い頃と変わらず大事なことなのだが、若いときにどれだけ本を読んだかが、その後の人生の分岐点になることは間違いない。

もうひとつ、紙の本と電子書籍に関してである。こちらは読書好きの若者が動画サイトで語っていたのだが、両者はそれぞれ向き合い方が違うのだという。

電子書籍はたしかに便利だ。特定の言葉を探すのに検索をかけることができる。だが、端末を使って読んでいる以上、どうしても気が散ってしまう。ついSNSを見てしまったり動画サイトを見てしまったりと、誘惑が多いのである。

それに対して紙の本は、よけいな誘惑がない分、集中して読むことができる。だから紙の本も大事だ。大事な本は電子書籍と紙の本の両方を買うこともある、とその若者は言っていた。

振り返ってみると僕もやむにやまれず電子書籍を買うことがあるが、実のところ放っておかれている電子書籍がいくつもある。やはり紙の本のように、積ん読が可視化されていないと、読まなきゃという意識が芽生えないのではないかと思う。

一番いいのは、図書館で本を借りることだろうか。返却期限が決まっているので、本を読む集中力がより高まる。子供の頃は図書館に入り浸っていたが、いまはそんな時間もなくなってしまった。それもまた、年を取ると本を読む気力が失われてしまう一因かもしれない。

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キング·オブ·積ん読

11月27日(水)

入院している機会に、家にあった「積ん読」本を読んでみる、という試みをしていることは前に書いた。

いま読んでいるのは、僕が勝手に「キング·オブ·積ん読」と呼んでいる本である。

枕元に置きながら、空いた時間に読んでいるのだが、午前中に若い医師が回診に来た。来るなり、僕の枕元にある本に気づいた。

「お!いまその本を読んでいるんですか?」

「ええ、こういう機会でないと読めないと思ったもので」

「たしかに。なかなか難しい本でしょう」

「ええ、そうですね」

「登場人物も多いし」

「ええ、本の冒頭の家系図と対照させながら読まないとわからなくなりますね」

この若い医師はこの本を読んだことがあるらしい。

「実は僕も以前英語で読んでみたことがあるんですが、あまりに複雑な物語で途中で挫折してしまいました」

なんと!この若い医師は英語で読んでみたことがあるとは!原著はスペイン語で書かれているので、つまりは英訳版を読んだということになる。

マウントをとりたいためにそう言ったのか、でもそんな感じにはみえなかった。

そんなことよりも、同じ本について少しでも語ることができたことの方が嬉しかった。

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遅れて届いた本

11月22日(金)

3日ほど前の全国紙の全国版に、昨年若くして亡くなったひとり出版社の社長兼編集者のパートナーの方が、亡き夫について語っているという情報を知り、さっそく取り寄せてもらい読んだ。

驚いたのは、その9日前に僕の記事が掲載されたのとまったく同じ紙面だったことだ。その偶然に僕は驚いた。

その社長とは一度仕事をしたことがあるだけだが、その後も少なからぬ交流があり、お通夜にも参列した。不思議な魅力を持つ人だった。

実は今から数ヵ月前だったか、その出版社の本をどうしても入手したくなった。問題はその入手方法である。大手通販サイトから注文すれば簡単なのだが、その出版社の本は今はパートナーの方が在庫管理をしていて、しかも出版社のサイトから直接取り寄せることができるということだったので、出版社のサイトから直接取り寄せることにした。その方が出版社に入る利益率が高いと思ったからである。

で、そのようにしたのだが、本はなかなか送られてこなかった。そのうち本を注文したことも忘れかけていたが、しばらくたってようやく送られてきた。入院の少し前のことである。

入院して落ち着いてから読むことにし、体調がよくなってから本を家から持ってきてもらったが、そこに、在庫管理しているパートナーの方が書いた一筆箋が挟まっていたことに気づいた。

そこには、発送の遅れを詫びる文言に加えて、夫の死にいまでも向き合えず、そのことで発送作業が遅れてしまったと書いてあった。

僕は在庫管理をしているパートナーの方に直接注文してしまったことをいささか後悔した。思い出させてしまったようで申し訳ないと思った。

届いた本はあの社長らしく、実に丁寧な作りになっている本だった。

そして今日僕は、パートナーの方が夫について語っている記事を感慨深く読んだ。

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晴読雨読

11月21日(木)

入院中のipodは最強!何しろ自分が入れた1万曲あまりが聴き放題なのだから、と思っていたが、数日で飽きてしまった。1万曲といっても、1曲だけを聴きたいがためにアルバム1枚を買ってその全曲を入れたりしているので、聴きたい曲は1万曲すべてでもないのだ。結局、馴染み深い曲ばかりを繰り返し聴くことになる。

さてどうしたものかと思い、少し体調が安定してきたので、家から本を持ってきてもらうことにした。最初は読みやすい本から始めてみたのだが、これがすこぶるよい。ipodを聴くのをすっかりやめてしまってもっぱら読書をする時間が増えた。もちろん、仕事とはまったく関係のない本である。

待てよ、この機会に「積ん読」していた本を読んでみてはどうだろうかと思い至った。買ってはみたものの敷居が高かったり内容が難解だったりして読むのが億劫だった本に、この機会に挑戦してみようと考えたのである。

さっそく「積ん読」していた何冊かを家から持ってきてもらう。それぞれの本をパラパラめくると、うーむ、時間があるからといって「積ん読」本を読みきれるかどうか、急に不安になってきた。「積ん読」にはやはりそれなりの理由があったのである。

しかし寝付きがよくなるという効果があるかも知れず、とりあえず挑戦してみることにする。

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そんなこともあるさ

以前、ある書店で行われたトークイベントを聞きにいった。トークイベントのゲストは僕が初めて知るエッセイストだったのだが、なかなかにお話が面白いとそのとき感じて、その方の本を買ってサインをもらった。本の帯には僕が好きな著名なエッセイストが最大限の讃辞を贈っていて、否が応でも期待値が高まった。

トークイベントには、その方の信奉者らしき人もいて、というか、そういう人がほとんどだったのだが、「自分も○○さんのようなエッセイを書きたいと思って、思い切って自分の日記やエッセイをインターネットで公開しました」、という人もいた。僕はそれほどまでに信奉者の方がいるとは知らず、その界隈の人々にとっては後を追いかけるべき存在の人なのだなとひたすら感心するばかりだった。

ところが家に帰ってきて本を開き、読み始めたのだが、これがなかなか進まない。どうがんばっても、その先を読む気がしないのである。

おかしいな。僕が好きなエッセイストは本の帯であんなに絶賛していたのに、僕には全然頭に入ってこないのである。僕の感覚がおかしいのかな?

その方が男性の小説家と2人でやっているPodcast番組があることを知り、聴いてみたのだが、やはりどうがんばっても聴き続けることができない。これを聴くんだったら、他にもっと面白い番組があるのだからそれを聴こうと、聴くのをやめてしまった。

僕は自分の感性のなさに絶望し、自分は何か時代に置いていかれているのではないかと思い悩んだのだが、こんなことに思い悩んでいるのは自分だけだろうかと思ってSNSなどをつい調べてみると、大絶賛の嵐の中、ひとりだけ僕と同じような印象を抱いている人がいるのを見つけた。

その人は僕と同じで、有名なエッセイストが推薦されているので手に取って読み始めたけれども、どうにもしっくりこないと書いてあった。とても素敵なエッセイで、自分もそのことを重々承知しているのだが、文章のタッチが自分にはどうもしっくりこないと。

その感想を書いている人がどんな人なのかはわからないが、おそらく僕がそのエッセイストの本に対して抱いたのと同じ印象を持ったのだな、ということが、その短い文章から容易に想像できたのである。

そして、この方の素晴らしいのは、その文章の最後のところである。正確な引用ではないが、云わく、

「作品との相性というのか、こういうことが自分にはたまに起こるので、きっといまは受け付けない時期なのだろう、少し時間をおいて、気持ちを新たに読めるときがきたら手に取ろうと思う」

とあり、これは自分のいまのコンディションの問題であり、やがて時間が解決してくれるだろうとまとめている。おそらく時間が解決する問題ではないと思うのだが、それでも多くの人たちが絶賛している素敵なエッセイを理解したいという前向きな姿勢に、僕はすっかり脱帽してしまった。

そして僕がここに書いている駄文も同じことで、どうも相性が悪いと思って離れてしまった人も多いのだろうということにあらためて気づかせてくれたのである。

まことに些細な話なのだが、心覚えに書いておく。

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郊外型巨大書店の憂鬱

9月15日(日)

小1の娘が絵日記をつけたいと言いだした。じゃあ絵日記帳を買いに行こうということになったのだが、どうせ行くのなら、駅前の文房具屋さんとかそういうところではなく、車でドライブがてら、川を渡って郊外の丘陵地にある巨大文房具店&書店に行ってみようということになった。

その巨大文房具店&書店は、以前にいちどだけ立ち寄ったことがある。すぐ近くで行われていた子ども向けのイベントに参加し、そのときに少しだけ立ち寄ったのである。噂には聞いていたが、広い店内に本や文房具が並んでいて、夢のような空間だなと思った。こんどはイベントとかは関係なしに、このお店で買い物することを目的に来ようと心の中で誓ったのである。そしてそのチャンスが今日、訪れた。

自宅からその場所までは、カーナビによると30分程度で到着するようなのだが、今日は日曜日ということもあり、道路は渋滞していた。しかも川を渡る橋は、ただでさえ渋滞しがちなのに、今日はさらに混み合っていて、途中昼食休憩をはさんだこともあり、11時に自宅を出て14時にようやく目的のお店に到着した。

店舗は広くて明るく、文房具や本がたくさん並んでいる。まさに夢の空間である。妻と僕は、なんとなく交替交替で娘の面倒を見て、一人ずつが書店に並んでいる本棚を見ることにした。

しかし、こんなに本がたくさん並んでいる巨大書店であるにもかかわらず、なぜかまったく心がときめかない。ふだんの僕だったら、本屋に入ったら最後、何かを買って帰らないと気が済まないのだが、この書店の本棚を見回しても、なぜか本を手に取る気が起きなかったのである。

それでも、せっかく来たのだから1冊くらいは、と思い、「へえ、こんな本が出ているのか~」と興味をそそった本数冊を手に取って中身をパラパラと見たものの、「うーん。この本をここで買う意味があるのだろうか?」という思いが強くなり、結局本棚に戻したのである。

理由はいくつか考えられる。自宅からこの店に来るまでずっと運転していたこともあり、ちょっと疲れてしまい、本を買う気力が削がれてしまったというのが一つ。

それと、最近は、新しい本に手を出すより、自宅の積ん読本を読むことに気持ちが傾いており、本を買うことにブレーキをかけてしまっているというのがもう一つ。

しかしそれ以上に思ったのは、(これはまことに身勝手な話だが)、本の選書とか並べ方が、なんとなく僕の好みに合わなかったのである。郊外型の巨大書店ということもあり、ターゲットは子ども連れの家族を想定しているからかもしれない。本当に本が好きな人が、わざわざここに足を運ぶだろうか、と考えた場合に、それに見合った選書がされているか、はなはだ心許ないと感じてしまったのである。くり返すが、これは僕の身勝手な感想である。

加えて(まだあるのかよ!)、広いお店であるにもかかわらず、店内には座る場所がまったくない。僕のような足腰に不安がある人間にはなかなか厳しい。子どもにはキッズスペースがあり、そこに子ども用の椅子がわずかにか用意されているのだが、そこでつきっきりで面倒を見る保護者の椅子はなく、それが僕には辛かった。とくに娘は、このキッズスペースが唯一気に入った場所のようで、ここから離れようとしないので、立ったままずっと見守ってなければならない。情けない話だが、途中から腰が痛くなってきた。

お店にはチェーン店のコーヒーショップが併設されていて、妻と子守を交替してからはそこで休もうと思ってお店に行くと、比較的広い空間であるにもかかわらずお客さんでごった返していて、ほとんど空席がない。そこまでしてここでコーヒーを飲むほどではないなあと思い直し、座って休むことを諦めた。

ようやく娘がキッズスペースに飽きたところで、帰ることになり、再び渋滞の中を自宅まで戻ったのであった。

結局、このお店で買ったのは、絵日記帳とぬりえ帳のみ。600円くらいの買い物で終わった。でもまあ、娘が楽しんでいたからいいか。この先、本を買う目的でわざわざこのお店に訪れることは、おそらくないだろう。期待値が高すぎたのかもしれないな。

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献本

8月20日(火)

ええ、相変わらず薬の副作用に苦しんでますよ。それが何か?

先週は1週間休暇を取り、昨日の月曜日は公休日だったので(オンライン会議はあったが)、今日はお盆休み明け最初の出勤日である。

午前中に、短い時間だったがオンライン打合せがあり、それがわりと組織の偉い人と1対1の打合せだったので、どのように交渉を進めるか、僕なりに気苦労した。相手に言質を取られてしまってはこっちの組織に不利益なことになるし、お互い腹の探り合いといった感じの打合せになった。時間じたいは短かったが、初めての相手だったこともあり思いのほか疲労した。

職場に本が届いていた。今年の1月に書いた短い原稿が載った本である。一般向けと銘打っているが、内容を読むと執筆者全員の原稿がやたらと難しい。いちおう「です」「ます」体になっているのだが、「です」「ます」の上に来る文章がそもそも難しいので、「です」「ます」と書いたところで平易な文章になるわけではない。

そんな中にあって僕の文章は、自分で言うのもヘンなハナシなのだが、わりとわかりやすく書いたつもりで、文章構成も工夫を凝らしたので、近年にない自信作に仕上がった(と思う)。刊行前からその自覚があったので、同業者以外でお世話になっている知り合いに献本することにした。

自分の単著についてはもちろん献本というのが欠かせないのだが、たんに短い文章を載せただけの本というのは、いままであまり献本したことがない。新書ならまだしも、1冊あたりの単価の高い単行本であればなおさらである。たった十数ページだけ書いた文章が載った、その他大勢の一人にすぎない僕が、まるまる1冊を知り合いに献本するなどというのは、どう考えてもコスパが悪い。しかしまあ、同業者以外の知り合いだったら俺の文章のことはわかってくれるに違いないと思い、送ることにしたのである。

吟味したつもりでも、献本先は10名ちょっとになった。もちろん住所のわかる人たちばかりである。

で、今日、職場に著者献呈本が届いた。同時に、出版社からの封書も届いた。

その封書には、請求書が入っていて、僕が献本した10冊ちょっとの八掛けの値段が書かれた郵便振替用紙が入っていた。

金額を見て、

「……」

後先考えずに献本リストをつくってしまったことを反省した。

この本は原稿料がないので、完全な赤字である。

まあでも、何がきっかけでどう転ぶかわからないから、投資と考えよう。

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書店は小宇宙だ!

以前の職場の同僚で、いまは同じ中央線沿線に住む友人のAさんに、おそらく7~8年前ぶりにお会いすることになった。待ち合わせ場所は、中央線沿線のM書店。僕にとっては高校時代の懐かしい書店で、Aさんにとっては日常通っている書店だ。

この書店は、僕が欲しいとつい思ってしまうような品揃えであることに加えて、思わず買ってしまいたくなるような本の並べ方をしていて、僕にとっては危険極まりない書店である。それは高校時代から変わっていない。

むかしから、本屋で待ち合わせる、ということに憧れていた。仮に相手が遅れたとしても、書棚に並ぶ本の背表紙を見ているだけで時間を忘れることができる。待ち合わせ場所としては最高の場所なのではないかと以前から思っていた。それは、デートだけではなく、今回のように50歳をすぎたおじさんの待ち合わせ場所としても最適である。なぜならふたりとも本が好きだからだ。

この書店を前回訪れたのは、仕事でこの町を訪れた今年の2月のことだった。そのときは、気の重い仕事が終わり、すっかり疲れてしまったのでほんの少し立ち寄ったというていどだった。

今回は、本好きのAさんが一緒なので、書棚をひとつひとつをまわり、気になった本についてフリートークをするというイベントにはからずもなった。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルの新書を見つけて、

「これ、いますごく流行っているみたいですよ。僕は読んでませんけど」

と僕が言うと、

「なぜ本が読めなくなるのか、という本を出すって、矛盾してないか?だって働いていると本が読めなくなるわけでしょう。だれに向けた本なんだ?」

と、Aさんがツッコミを入れたりしながら、書店中を歩き回る。

「この本の著者は、かくかくしかじかなんですよ」

と僕が蘊蓄をたれると、

「へぇー…。鬼瓦さんはストライクゾーンが広いねえ」

と感心されたのだが、

「いえ、僕はたんに、いろんな人に奨められるがままに本を読んでいるだけです」

と答えた。

これはまったくそのとおりで、自分が信頼する人から本を始めとするいわゆる「コンテンツ」を奨められたら、気になったものについてはとりあえず読んでみたり観てみたり聴いてみたりするのが、僕の癖(へき)なのだ。実際、Aさんからもいままでいろいろな本を薦められてきて、気になったものは実際に読んできた。個人的に信頼する人たちばかりではなく、ふだん聴いているラジオ番組とかでパーソナリティーが、「○○っていう本、おもしろいですよ」とポロッと言っただけで、読んでみたくなる。

頼むから俺に本を薦めないでくれ!

…と叫びたいところなのだが、奨めてもらわないと自分の知らない世界についてふれる機会がなくなってしまうので、奨めてくれないのも困る。そこが渡世人のツレえところよ!

しかし自分に主体性がないおかげで新しい世界を知ることもできるので、しばらくこの生き方は変えないつもりだ。

そんなこんなで、2時間近くもこの書店に滞在してしまった。銀河系の星を廻るがごとく、書棚をまわっては対話をくり返した。よい書店は、さながら小宇宙である!

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どうする原稿依頼

7月16日(火)

火曜日恒例の分刻みのスケジュールをかいくぐって、職場の暑気払いに参加したが、自分は大勢で立食パーティーに参加するというのが苦手だということを再確認するだけで終わった。ひたすらボーッとウーロン茶を飲んでいた。

「いまは立食パーティーには全然行かなくなりましたけど、素面で行くとあんなにくだらないものはありません。冷めたローストビーフだとか生ハムだとかみたいなどうやって食べてもマズいものを皿に取って、知っている人もいるけど別に親しいわけでもなくて、「どうですか」「太りましたね」「余計なお世話だ」みたいな話をするだけのことでしょ?そうやって一、二時間つぶして、ビンゴで当たるとか当たらないとかちょっとだけ騒いで帰ってくる。もうパーティーとか大っ嫌いになっちゃいましたね」(小田嶋隆『上を向いてアルコール』ミシマ社、2018年)

という小田嶋さんの言葉を思い出した。

家に帰ると、僕が会員になっている「手書きでガリ版刷りのミニコミ誌」の最新号が届いていた。このミニコミ誌には、高校の恩師がコラムの連載を持っていて、その内容が僕にとってあまりにも衝撃的なので、…正確にいうと高校時代には知らなかった恩師のさまざまな事情を知ったので、その感想をそのミニコミ誌の編集長にメールしたところ、

「この感想メール、次号に掲載してもいいですか?」

という返信が来た。僕が「いいですよ」と言ったら、最新号の「読者発」という欄に、大勢の読者の感想に交じって僕の感想も掲載してもらった。自分の短い文章が手書きのガリ版刷りで読めるというのはかなり嬉しい。封筒には500円のクオカードが同封されていて、これは原稿料か?でもあんな短い感想を書いただけでクオカードをいただくのは申し訳ないと思い、よっぽどカンパの意味で編集長にお返ししようと思ったが、かえって気を使うだろうと思い、ありがたくいただくことにした。

ミニコミ誌の封筒にはもう一つ、手紙が添えられていた。そこには、「ふと思ったのですが、鬼瓦さんの専門分野っておもしろい!みたいな原稿を書いていただけないかなー、私のようなまったく関心のない人間がふっと心を動かされるような、そんな世界がきっとあるのではないかと思いました」と書いてあり、これは原稿依頼なのか?と判断に迷った。

もともと僕の専門分野は、その分野が好きな人でないとなかなか理解してもらえないだろうし、まったく関心のないという人にその面白さを伝えるのはかなり難しい。もしお手紙の内容を原稿依頼だと勝手に解釈して調子に乗って原稿を書いて送ったら、やっぱり全然わかりませんでした、ということになりかねないのではないだろうか。「またメールでご連絡したいと思います」と書いてあったので、そのタイミングでもし依頼が来たら考えることにしようか。

一方で自分の書いたちょっと長めの文章を、味わい深い手書きのガリ版刷りで読んでみたい気もする。どうする原稿依頼!?

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