育児

入学式

4月8日(月)

どこもかしこも、今日は入学式のようだ。

高校時代のクラスの有志で作っているグループLINEに、今日は出身高校の入学式だと書いてあった。

出身高校の近所にある国立大学も、今日が入学式だという。

うちの市内の小学校も、今日が入学式である。

ずいぶん前に、そのことに気づかずうっかり出張を入れてしまったのだが、あとでこの日が入学式だと気づき、慌ててほかの同僚に代わりに出張に行ってもらった。のっけから情けないスタートである。

入学式は13時半からだが、午前中もいろいろと準備があり、小学校には開会の40分前には到着しないといけなかったので、あまり余裕などなかった。

入学式が行われる体育館に入ると、愕然とした。

入学式のフォルムというのか、舞台装置というのか、僕が半世紀前に小学生になった時の入学式と、まったく同じだからである。もちろん、娘の小学校と僕の小学校は、別々の小学校なのだ。にもかかわらず、会場の設営の仕方がまったく同じというのは、どういうことだろう?

驚いたのはそれだけではなかった。

「式次第」も、半世紀前に体験した入学式と、何ら変わっていないのだ。

いや、ひとつだけ違うのが、「国歌斉唱」というのがあるということだ。僕が小学校の時はなかったと思う。国旗・国歌法が制定されて、いつの間にか入学式で国歌を歌うことが義務づけられたのだろう。

入学式が始まった。

国歌斉唱のあと、学園歌斉唱というのもあった。

うちの町は少し変わっていて、小・中学校の9年は一貫した教育をするという方針のようで、市内の小・中学校はひとつの「学園」ととらえられている。その「学園歌」というものが存在するようなのである。

もちろん、初めて聴く歌なので、歌えるわけはないのだが、あらかじめ録音してある生徒たちの歌を聴くと、難しくて覚えられないほど、歌詞やメロディーが複雑な歌である。

(ここの小中学生は、こんな難易度の高い「学園歌」をおぼえなければならないのか…)

次に校長先生の挨拶である。校長先生が壇上に立つと、合図にしたがって新1年生が頭を垂れてお辞儀をした。

校長先生は、新1年生に向けて、道徳的な訓辞を垂れるのだが、

「戦前か!」

と思う内容の訓辞だった。

続いて、教育委員会の告辞である。これもまた、十年一日、いや、百年一日のような内容だった。

次に来賓紹介。いま告辞を述べたばかりの教育委員会の人を筆頭に、市会議員とか、あとはよくわからない団体の人などが紹介される。

いちばん笑ったのが、その町の駐在所のおまわりさんである。

僕はこの町に6年住んでいて、僕の住むマンショのすぐ向かいに駐在所があるのだが、いつ見ても、駐在所のお巡りさんの姿が見えない。まるで無人の駐在所なのである。

ところが今日、6年目にしてはじめて、駐在所のおまわりさんの顔を見た。おいおい、こんなんで地元の治安は守られるのかよ!

その後、担任紹介や小学校6年生による歓迎の言葉などがあり、最後に「校歌斉唱」である。

「学園歌」のほかに、この小学校独自の「校歌」もあるのだ。

どんだけ歌うんだよ!しかも校歌もまた難しい。

この小学校に通う児童はともかく、保護者は「学園歌」も「校歌」も、ひとっつも覚えることなく終わってしまうのかと思うと、絶望すら感じる。

入学式に出た感想は、

「ずいぶんと権力的な入学式だった」

という一言に尽きる。校長や教育委員会が壇上から児童たちを見下ろして訓辞や告辞を垂れるという権力構造は、おそらく戦前からちっとも変わっていないのだろう。その証拠に、歓迎の言葉を述べた6年生の児童は、壇上に上がらせてもらえなかったのだ。

儀式とは権力構造を確認する行為に過ぎないというかねての主張は、小学校においても同じであるということを目の当たりにして、暗澹たる気持ちになった。

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驚愕のお店屋さんごっこ

3月26日(火)
娘が誕生日を迎え、6歳になった。
最近驚いたことがあった。

娘が保育園で「お店屋さんごっこ」をして遊んだようで、家に帰ってその遊びを再現してくれただが、お金を支払う段になって、娘がこんなひとり芝居をはじめた。

「アイスクリーム、おいくらですか?」

「200円です。お支払いはどうされますか?」

「PayPayで」

「PayPayですね、はいどうぞ」

ピッ!『PayPay!』(カードをタッチしたときに出る音声)

「ありがとうございました」

…いまどきの「お店屋さんごっこ」では現金での支払いをしないことにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、娘が絶対に知るはずのないPayPayでの支払いを忠実に再現していたことである。なぜなら、私も妻も、PayPayで支払ったことがなく、そもそもPayPayのアプリも持っていないからである。


「PayPayのこと、だれに教わったの?」

と聞くと、娘は何人ものお友だちの名前をあげて、

「みんな知ってるよ」

と言うではないか。つまり他のお友だちのパパやママは、ふだんからPayPayを使って支払いをしているから、それを見ていた子どもたちが「お店屋さんごっこ」にPayPayの支払いを導入したというわけである。

いつも現金払いやクレジットカード払いをしている僕と妻は、急に取り残された気持ちになった。現実にPayPayでの支払いを見たことのない娘にも、申し訳ない気持ちになった。

といって、今後もPayPayを導入するつもりはない。

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卒園メッセージ

3月23日(土)

毎日なかなか忙しい。今日の午前中は実家のお墓参りをし、午後は都内の私立大学でみっちりと打合せを行った。明日は北関東の都市で会合である。自業自得と言われればそれまでなのだが。

一昨日の保育園の卒園式のときに、「思い出」というタイトルの卒園文集がひとりひとりに渡された。卒園文集、といっても、当然、園児が文章を書くのではなく、保護者が文章を書くのである。ひとりあたり見開き2ページを使い、左ページには子どもが書いた「自画像」と簡単なアンケートの回答が載り、右ページには、「小さかった頃は…」というテーマと、「そつえんをむかえるあなたへ」というテーマで、保護者がサインペンを使って手書きの文章を書くことになっていた。事前にそれを提出し、保育園の方で簡易製本に仕立てて、みんなに配ったのである。

保護者から子どもへのメッセージなんて、みんなどうせ月並みなことしか書かないだろうし、どうせだれも読まないだろうからと、いつもの私の悪いクセで、通り一遍ではないメッセージを書こうと考えた。せっかくなので、ごく一部だけ改変して全文を書き残しておく。

「そつえんおめでとう!!

○○さん(娘の名前、以下同)がうまれたばかりのころ、パパはあるゆうめいなえいがかんとくとおしごとをしました。そのかんとくはしきしにこんなことをかいてくれました。

「○○さんへ

映画(えいが)の学校(がっこう)の良(よ)い生徒(せいと)で、賢(かしこ)く優(やさ)しく育(そだ)ちましょう」

そのことばどおり、○○さんはえいががすきなこどもにそだってくれました。パパとママはとてもうれしいです。パパやママとえいがかんにいってえいがをたくさんみたよね。がくげいかいでちゃんとうたったりおしばいができたりしたのは、えいがをたくさんみたからだと、パパはおもいます。

がっこうはひとつだけではありません。えいがかんでえいがをみることも、がっこうにかようこととおなじくらいたいせつなことです。これからも、パパやママといっしょにえいがのがっこうにかよって、かしこくやさしくそだちましょうね」

ほかの保護者は、子どもがこれから小学校に通うことが楽しみだというニュアンスのことを書いているが、僕はちょっとへそを曲げて、「学校はひとつではない。映画館も『映画の学校』だ」とちょっとナナメに書いてみたのである。

「あるゆうめいなえいがかんとく」というのは、このブログのむかしからの読者には、大林宣彦監督だということがすぐにわかるだろう。そして「映画の学校」という言葉は、大林監督が尊敬してやまなかった映画評論家の淀川長治さんの言葉だということも、このブログのむかしからの読者だったら知っているはずである。

しかし一般には、当然わからない。

どうせだれも読まないだろうと思っていたら、そのあとの夕方の卒園パーティーの時に、あるママ友が妻に聞いたそうだ。

「○○ちゃんのパパは映画関係の仕事をされているのですか?」

と。

その時点で卒園文集をまだ読んでいなかった妻はビックリして、何のことかわからず、答えに詰まったという。

それもそのはずだ。僕はこの文章を妻にも見せずに保育園に提出したからである。

人に誤解を与える文章を書くというのは、ほんとうはいけないことなのだが、ときに痛快なこともある。

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パーティー行かなあかんねん

3月21日(木)

午前10時からは保育園の卒園式だった。

卒園式が始まる前、さほど広くない卒園式の会場で集合写真を撮るという段取りが組まれていたのだが、卒園する園児が25人で、おおかたひとりにつき保護者2名も写真に写ることになっていたから、全部で75名を1枚の集合写真に収めなければならない。これはなかなかたいへんなことで、ギュウギュウになりながらようやく写真を撮り終えた。その過程でカメラマンが、「男の子は両手をグーにして、女の子は両手を重ねて膝の上に置いてくれると、写真写りがよくなりますよ」という言葉にちょっと引っかかった。

お昼前に卒園式が終わり、お昼ご飯を食べてから、3時過ぎのバスに乗って、今度は卒園パーティー会場に向かう。これまでこのブログでも散々書いてきた、あの「卒園パーティー」である。

卒園パーティーの会場となるお店は、もともと結婚式の2次会などを行う目的のところのようで、プロジェクタなどもデフォルトで設置されていた。ただ、半地下のような場所で、しかも店内が非常に狭い。ここに70人ほどの人数が入るのは正気の沙汰ではない。

椅子やテーブルの数も限られていて、立食するにしてもそれ用のテーブルがなく、居場所を確保するのが難しい。僕は別にだれとも親しくないし、だれからも話しかけられない存在なので、ますます居心地が悪い。しかし5000円も会費を払っているので、絶対に食べ物にはありつきたい。

当初から子どもたちのテンションはMAXだった。つまり「ウルサい」ということである。はたしてこんなカオスな状態で卒園パーティーを始められるのだろうか。あの机上の空論の「司会台本」の通りに行くのだろうかと心配になった。

いよいよ「パパ2人」の司会による卒園パーティーが始まった。最初は司会台本通りに進んでいたが、それは最初だけだった。子どもたちは、食べることと、友だち同士でお話しすることに夢中で、段取りなんぞ関係ないのである。

それでも、大人たちが想定していた余興はすべて予定通りに行われた。結果オーライということだろう。

僕は2時間、だれからも話しかけられることなく、ひたすら居心地の悪さを感じながら所在なく立っていたので、やることといえば人間観察をすることくらいしかない。

なかでも興味深かったのは、司会のお二人の司会ぶりの違いだった。ひとりは司会台本をしっかりと手に持って、台本に書かれたセリフを一言一句違うことなく言おうとするのに対し、もう1人は、台本にしばられずに自由に司会していた。

そのうち子どもたちがマイクを奪い、自分たちで司会をはじめた。それもまた面白かったのだが、マイクを握って離さない何人かの子どもたちは、いずれも保護者が「出たがり」の人ばかりで、出たがりの親の子どもはやはり出たがりなのだとあらためて実感した。

僕は何もしていないのに、狭いところで2時間もいたせいか、すっかりと疲れてしまい、やはりパーティーは苦手だなと再確認した。

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ママ友系ブロガーの誕生

どうも。ママ友系ブロガーの鬼瓦です(○○系YouTuberみたいなノリです)。

不定期で、ママ友たちの不可思議な行動についてお伝えしているこのブログですが、前回、卒園式後に行われる卒園パーティーの話をしましたよね。ママ友たち有志が企画したパーティーです。

分刻みの司会台本が送られてきた、という話をしましたが、その「最終版」とやらが送られてきました。

パッと見ると、前回送られてきた台本とどこが違うのかよくわかりませんが、よくこの司会台本をみんなに共有できるなあと、ママ友たちのメンタルの強さには驚くばかりです。

で、これは前から決まっていたことのようですが、パーティーの中盤で、保護者が子どもたちに向けて余興をやらなければいけないそうです。

それが、「まいにちそだてマッチョ」という体操で、パパママが踊らなければいけないようなのです。

送られてきたYouTubeの動画を見ると、サムい踊りで、こんな踊りを子どもたちの前で踊って恥ずかしくないのかと問いただしたくなります。

この余興を行うにあたって、司会台本には次のようにあります。原文のまま引用します。

「さてさて、ここからは少し趣向を変えて、皆さんで素晴らしい筋肉をご堪能いただきましょう!

筋肉パパたち、あっ筋肉ママもいますね!

(筋肉多そうに、着こんで上はロンTで筋肉っぽっく準備)

ご準備はよろしいでしょうか?

それでは皆様お待たせいたしました。によるデモンストレーションのスタートです!」

「素晴らしい筋肉をご堪能いただきましょう」という、なんだこの昭和を思わせるルッキズムは!というツッコミはさておきですよ。

このサムい踊りを、服装まで指定されて踊らなくてはいけないというのは、何の罰ゲームですか???みなさん、YouTubeで「まいにちそだてマッチョ」と検索して、踊りの動画を見てみてください。

それにここの台本を読んでみると、最後にこう書いています。

「それでは皆様お待たせいたしました。によるデモンストレーションのスタートです!」

「によるデモンストレーション」って何だよ!明らかに何か抜けてる。「最終版」とうたっているのだからちゃんと校正くらいしろよ!と、日々校正に苦しんでいる僕は思うわけです。

しかしこれは全員参加の余興なのか???司会台本にはそこがはっきり書いていないのでわからない。うちの家族は、ポツダム宣言よろしく、これを「笑止」として「黙殺」する方針をとることにしました。

さて、この最終版がみんなに送られた直後、スライドショーの作成を担当しているE君のママから反応がありました。

「司会台本には、スライドショー上映後、『作成してくださったE君ママ、ありがとうとざいました』と私の紹介を入れてくださっているのですが、こちら『なし』でお願いします。見えないところで動いてくれている方がほとんどのなか、子どもたちには保護者みんなからのパーティーと受けとってもらいたいので(ニッコリ)」

どうですかこの気の遣いよう!自分だけが目立つのがみんなに申し訳ないという同調圧力が見事に作動しているではありませんか。ママ友の鏡ですね。

この日は、公式行事の卒園式に始まって、夕方の卒園パーティーに至るまで、やれお花係だの、プレゼント係だの、装飾係だの、受付係だの、子ども係だの、会計係だの、司会台本係だのと、係が細分化して設定されて、ママ友たちは、どこかの係を担当することになっているようなのです。これもまた同調圧力ではないかと、うちの家族は一切かかわらないことにしました。おかげでママ友たちからはすっかり白眼視されていますが、こういうことはやりたい人がやればいいのではないでしょうか。会社の送別会で花束を渡す係が全員女性であるという昭和の心性とどこがどう違うのでしょうか。

そんなに文句ばっかり言ってるんだったら、じゃあおまえ、参加しなきゃいいじゃん!と思われるかもしれませんが、子どもが人質に取られてますからね、楽しみにしている子どものためにも参加しなければなりません。そこが渡世人の辛えところよ!

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あらかじめ号泣するママ友たちよ

この記事のタイトルは、「あらかじめ失われた恋人たちよ」(清水邦夫・田原総一朗共同監督、1971年公開)のパロディーである。

3月7日(木)

保育園の卒園式が2週間後に迫った。

卒園式という公式行事が終わったその日の夕方に、ママ友たちが企画して「卒園パーティー」を2時間かけて行う、ということはすでに述べた。卒園する子どもたちと保護者が参加することになっている。

いきなり話が逸れるが、「ママ友」という言葉はいつから使われるようになったのだろう?少なくとも僕が子どもの頃は、そんな「概念」などなかった。

「ママ友」という概念ができあがってしまうと、そのコミュニティーに参加しなければならないという同調圧力が生まれる。「ママ友」を作らないと、子どもの将来を脅かしかねないという「脅し」のようなワードでもある。「ママ友」とカテゴライズすることにより、「パパ」は排除される。僕も妻も、そういうコミュニティーにおもねることが大嫌いなので、「ママ友」からは距離を置いている。だが、それが「ママ友」たちにとっては不快らしい。「ママ友はこんなに一生懸命役割分担しているのに、なぜあなた方は何もしないの?」と。生きにくい世の中だ。いったい誰だよ?ママ友なんて言葉を発明したのは!

話を戻すと、2時間の卒園パーティーに、「司会の台本を作ります!」と名乗り出たママ友がいた。「私、そういうの得意なんです!」

司会の台本、という言葉に驚いた。そもそも2時間の卒園パーティーに司会なんかいるのかよ!いや、司会がいたとしても、台本なんて必要なのかよ!参加する子どもたちが大人が考えた進行に素直に従うとはとても思えない。

ママ友軍団は、卒園パーティーを開くに際して役割分担をしており(わが家はその中に入っていない)、その役割分担の一つとして、「司会の台本を作る」という、なくてもいい仕事をすると名乗り出たママ友がいたのである。

司会なんてどーでもいいじゃん、と思いながら、先日の打合せの時は聞き流していたのだが、今日になって、エクセルで編集された「完全台本」が送られてきた。

見ると分刻みのスケジュールになっていて、「食事・歓談」の時間が、前半10分、後半10分のわずか20分しかない。あとはひたすら余興なのである。

しかも、司会のセリフが全部決まっているではないか!ま、完全台本なのだから仕方ないのだが。

最初に驚いたのが、司会をするのが司会の台本を書いたママ友二人ではなく、全然関係ない二人の「パパ」だということである。

何?この「昭和」のジェンダー意識は!オモテに出るのはいつも男性ってか?不適切にもほどがある!

司会はこんなふうに始まる。

本日は、卒園おめでとうございます!

(子供たち「ありがとうございますー」)

パパたち、ママたちも、保育園生活、お疲れ様でした!

皆さん!

みんなのとても素敵な卒園式の姿に、パパママたちも号泣でした!

今日は、パパママたちより、皆さんに、卒園おめでとうパーティーをプレゼントします。

なななな、なんと!

(中略)

ではでは、これからの約2時間、最後までみんなで楽しみましょう!」

「なななな、なんと!」という陳腐なフレーズは措いといて、僕がいちばん気になったのは、「みんなのとても素敵な卒園式の姿に、パパママたちも号泣でした!」という一節。

おいおい、俺は号泣なんかしないぞ!どうして他人の号泣を勝手に決めているのだ?

この「号泣」というキーワードは、このあとも1回出てくる。

保育園での活動の様子を撮影した写真を20分のスライドショーとして上映するそうなのだが(20分は長い!準備をしたママ友はご苦労様です)、そのスライドショーが終わった後の司会のセリフが、

ちょっと、泣いちゃった?

あそこに号泣してる人いますね!

ちょっと感想聞いてみようかな?

あっ、あとその時保育園で一番思い出に残ってること教えてもらおうっかなー!

(数人に聞いてみる)」

まるで、生放送の番組なのに新聞のラテ欄に「涙の対面」とか「マル秘ゲスト乱入」とか書いているのと同じではないか。それとも号泣する人を仕込むつもりなのか?

なぜ、号泣を前提としているのだろう?僕には全然わからない。

そのあと、「保護者が恥ずかしいことをする」という謎の余興があって、絶対にやるもんか!と心に誓った。

最後の挨拶のところの、

「楽しい時間は、あっという間ですね」

というセリフにも違和感。やる前から「楽しい時間」と決めている。恐るべき予定調和である。

僕は何が言いたいかというと、すべては「机上の空論」であるということ。たくさんの未就学児が集まるパーティーで、大人が考えたように上手くいくのか、はなはだ疑問である。それは、どの家庭も日常で経験していることではないのか?

子どもたちが求めているのはカオスなのではないだろうか?つまりこのパーティーは、「保護者のエゴ」以外の何物でもないのである。ま、それでいいのだというのが多数意見なのであれば仕方がない。

…僕はどんな顔をして参加すればいいのだろう?

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君も博士になれる展

2月11日(日)

せっかくの3連休、5歳の娘をどこかに連れていきたいと思いつつ、なかなか適当な場所が思い浮かばない。娘は「カラオケに行きたい!」と頻りに言うのだが、あまり健康的な感じがしないので却下した。それに代わる面白いものを見つけなければならない。ただし、身体を動かすこととか、アウトドアの遊びというのは、こっちの体力がないということから選択肢にものぼらない。

考えたあげく、「君も博士になれる展」に行ってみるのはどうかと考えた。民放のテレビ番組から派生した展示というかアトラクションである。それを思い付いたのが、今日の10時頃、そこから慌てて調べて、どうやら本日の入場チケットが買えそうだとわかり、急いでスマホでチケットを購入して、姪や母方の祖母にも急遽呼びかけて、総勢5人で車に乗って40分ほどかかって到着したときには、お昼の12時をまわっていた。

すでにチケットの購入手続きの際に、13時からの入場と決めてしてしまったものだから、1時間弱で昼食をとらなければならない。こっちは事前に何も調べてこなかったものだったから、「昼食はどこか適当な場所があるだろう」と高をくくっていたら、ドトールコーヒーしか見つからなかったので、そこで軽食をとることにした。

で、13時に入場したのだが、思ったよりもスペースが狭く、しかも多くの家族連れでひしめき合っている。もちろんそこにあるアトラクションじたいは、小さい子どもの興味関心を引くものばかりであり、楽しめる空間になっているのだが、それにつきそっている大人、というか僕は、だんだんと具合が悪くなっていった。

2時間も遊んでいればもう限界、というのは大人の理屈で、5歳の娘にとってはもっと遊びたいらしいのだが、やはり5歳の娘の体力も気持ちには追いつかず、最後はグズり始めたので、車に乗ってそそくさと帰ってきた。隣接したお店は、本屋と文具屋とCDショップが合体したような夢のようなお店があったのだが、捲土重来を期すことにした。

建物を出ると、具合の悪さが次第に解消されていった。よくよく考えると、僕は酸欠状態に陥っていたのだ。あの狭い空間の中で、多くの人たちがひしめき合っていれば、自然と酸素が足りなくなる。建物を出たとたん、ひんやりと澄んだ空気に触れたことにより、僕の気持ちは建て直されていったのである。とはいっても、肉体的に疲れたことじたいは解消されることはなかった。

この地元に住む後輩に後から聞くと、ちょっと歩けば食べるところはたくさんありますよと教えてくれたのだが、なにぶんそんな調子だったから、周りを見る余裕などなかった。教訓としては、思いつきで行くものではなく、事前にいろいろと調べてから行った方がはるかに有意義だという、実にあたりまえの結論である。

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とんだデジタル化社会

能登の地震については心が痛むばかりだが、マイナンバーカードを担当する大臣が、

「地震が起きたときは、マイナンバーカードを持って逃げてください」

とか、

「マイナンバーカードは財布に入れて携帯してください」

と発言したことは、実に噴飯物だった。大きな地震が起こったときに、マイナンバーカードのことを考えている余裕などないし、そもそもマイナンバーカードは携帯するものではなかったはずである。さらに電気が通っていなければ持っていても何の意味もない。

それだけならまだしも、

「カードリーダーの準備が間に合わない」

という理由で、マイナンバーカードが使えないことがわかり、避難した方々の情報はJR東日本の「Suica」を配布することで対応することになったというのは、マイナンバーカードが役に立たないことを白日の下にさらしただけであった。

すべてをデジタル化することでほんとうに世の中が便利になるのかどうかは、そろそろ本気で考えた方がよい。

昨年末から、保育園の連絡帳がデジタル化された。それまでは、小さなノートに1日1ページ、子どもの様子を書いて登園の時に提出し、保育士さんはそこに短いコメントや既読のサインを書いて降園時に家族に返す、というやりとりを続けていたが、それがスマホのアプリを使った「電子連絡帳」に変わったのである。

ノートに書いたほうがあたたかみがあるし、日記としての意味もあるので、できれば紙の形で続けてほしかったが、途中からデジタル化してしまったので、紙の連絡帳との断絶が起こってしまった。

しかも今朝、電子連絡帳を起動して入力しようとすると、「すべて削除された可能性があります」という表示が出て、どうがんばっても入力・送信ができない。自分がアプリをヘンなふうに操作してしまったのだろうかと焦ったが、登園して聞いてみると、ほかの保護者からも、「電子連絡帳が送信できない」という連絡が何人も来ているという。といって、すべての保護者からというわけではなく、無事に送信できる保護者もいるという。つまり、システムの不具合が生じたのだが、その原因はよくわからないである。

といって、保育園から解決策を示されるわけでもなく、いまもって、僕のスマホに入っているアプリからは入力・送信ができない状態が続いている。

とんだデジタル化社会だ。

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ママ友ディストピア

1月28日(日)

午後1時から、3月に行われる「卒園式」に関する会議が行われる。呼びかけ人は、ママ友有志たちである。

以前にも書いたが、うちの娘と同じ保育園クラスのママ友たちは、保育園の提供する通常の行事だけでは飽き足らず、自分たちでどんどん行事などを増やしていく。どこのママ友もそうなのだろうか?

地元の公会堂で1時から開始というので行ってみると、すでに会議が始まっていた。例によって、参加者16名のうち、ママ友が15名、パパは僕1人である。

どうしてママ友が主導権を握るのか?どうして意志決定からパパが排除されるのか?というのがいつも疑問で、それで僕は「バカなフリ」をしてママ友のみの会議に平然と顔を出すことにしたのである。

ママ友ばかり15人の中に入っていくことは勇気が要るのだが、「バカなフリ」をしているので恐いものは何もない。

今日の議題は、次の通りである。

①卒園式の時に、保育園と担任の先生に贈る花の可否

②子どもたちに記念品の可否

③卒園パーティーの可否

「可否」とあるが、以上の3つはすでにやることが決まっているので、いまさら反対するわけにもいかない。

卒園式というのは、3月21日(木)の午前中に行われる、保育園の公式行事である。子どもたちが歌を歌ったり、卒園証書を授与したりするという、おそらく1時間ほどで終わる簡素な儀式である。

ママ友たちは、それが気に食わないらしい。

「そんなのつまんな~い」

と一部のママ友が大声で駄々をこねたところからはじまり、あの手この手で卒園式を盛り上げようと考えた。それが、議題の①と②である。

①は、保護者たちが、保育園全体に対してと担任の先生に対して花束を贈るという提案で、保育園には大きな花束を、担任の先生にはそれなりの花束を贈ることになり、全部で2万円くらいの予算で花束を渡すことになってしまった。一見よさそうな提案だが、花束を渡すということは、だれかが花を注文して、花を取りに行くか届けてもらうかしなければならない。それだけ手間とお金がかかる。

②は、卒園式の時に保護者たちが子どもたちに向けて記念品を贈りたいという提案なのだが、そんなの、それぞれの家でやればいいじゃん!と喉元まで出かかった。なぜわざわざそんなことをする必要があるのか。

記念品の中身は、同じデザインの、かつそれぞれ自分の子どもの名前を入れた「鉛筆ひと箱」だということだった。鉛筆なんて、それぞれの家で買えばいいじゃん!と思うのだが、わざわざ同じデザインの鉛筆を作ることで、「小学校に行っても、保育園の友だちはいつも一緒にいるよ!」という意味を込めているという。

はぁ???意味がまったくわからないんですけど。というかそんなスピリチュアルな話、キモチワルイ!

卒園式はそれだけではない。卒園式の一部始終の様子を、業者にビデオ撮影してもらって、あとでDVDに焼いてみんなに配るという提案もなされた。なぜ業者に撮影してもらうかというと、保護者のだれかが撮影係になってしまうと、卒園式で一緒に感動できないから、だという。当然、その分の費用が保護者の負担となる。

するとこんどは、

「DVDに焼くのはヤダ!USBに入れたデータでほしい!」

と駄々をこねるヤツが出てきた。このあともそうなのだが、こいつはいちいちこのあとも自分のわがままを通そうとする。で、司会進行をしているママ友は、なんとかしてその意見をくみ取ろうとするので、どんどんと手間がかかる方向に進んでしまう。話し合えば話し合うほど、どんどんとお金と手間が増えていく。ダメな会議の典型である。重要なことなので2度言う。これはダメな会議の典型である。

③の「卒園パーティー」というのは、卒園式が終わったあとに、ママ友有志が主催するパーティーである。この日は平日なのだが、おそらくみんな終日休暇を取るだろうと推測して、午後に行うことが提案された。というかすでにお店も貸し切りでおさえたそうなので、反対する余地がない。

問題は、卒園パーティーを午後の何時から開始するかである。当初は午後4時から6時までの2時間として、卒園式が終わって、いったん家に戻って着替えをしたりしてクールダウンしてからパーティー会場に移動するというつもりだったようなのだが、また一部のわがままなママ友どもが、

「ええぇぇぇ?卒園パーティーも(着替えずに)おめかししたままやりた~い」

と言いだした。さあそこで、卒園パーティーを、いったん家に戻ってからお店に向かうか、それとも卒園式からそのお店に直行するかで、真っ向から意見が割れた。

ややこしいのは、別のヤツが、

「せっかくだから保育園の先生もよびましょう。謝恩会みたいな感じで」

と提案して、またもや場が盛り上がってきたのだが、僕はもう我慢できず、

「その時間、保育園の先生は勤務時間ですよ」

と反論した。午前の卒園式が終わってからも、保育士さんは午後に通常勤務があるのだ。この辺から僕はもう会議室のテーブルをひっくり返したい衝動に駆られた。

「卒園パーティーで何やりますか?」

「余興をやりましょう、余興を」

「スライドショーなんていいね」

おいおい、結婚披露宴かよ!!

「子どもたちの歌が聴きた~い」

「ママから子どもたちに歌のプレゼントがした~い」

「子どもたちが学芸会の時にやった劇を、パパたちにやってもらいた~い」

「ビンゴゲームをした~い」

「プレゼント交換をした~い」

「クイズをした~い。パパとママの小さい頃の写真を持ってきてもらって、『これはだれのパパ(ママ)でしょうか?』っていうクイズ~」

とまあ、次から次へとわがままな提案をしてきた。

卒園パーティーは、お店の都合で2時間しか貸し切りができないのだ。しかも、余興を考えれば考えるほど、そのための手間を増やすことになる。何度でも言うが、ダメな会議の典型である。

この中で「プレゼント交換」という提案が残ったが、具体的にどのようにするのか、まったく話がまとまらない。500円くらいのお菓子をそれぞれ買って交換したらどうか、と言うところまでは話が進んだのだが、そこから先、やれ包装はどうするかなど、細かい議論が始まって、いっこうに埒があかない。業を煮やした僕は、

「『まちおか500円チャレンジ』でいいんじゃないっすか?」

と思わず発言した。

「何ですかそれ?」

「知らないんですか?いま巷では『まちおか1000円チャレンジ』ってのが流行っているんですよ」

「知りません」

そりゃそうだ。TBSラジオ「東京ポッド許可局」のヘビーリスナーの間でしか流行っていないのだから。

「お店を『まちおか』に決めて、そこで500円以内のお菓子をそれぞれチョイスするのです。それを交換すれば、不公平がないでしょう?」

だれかが、

「『まちおか』の回し者ですか?」

と聞いてきたので、

「回し者です」

と答えてやった。

その提案が通るかはわからないが、おそらく通らないだろう。

最後にひとつ、ママ友の間で、こんな会話が交わされていたのを耳にした。

「卒園パーティーで子どもたちに歌ってもらおう」という提案の中で、何の歌を歌ってもらおうかという話題になった。さまざまな歌が提案されたが、なかに、

「やっぱり『一年生になったら』がいいんじゃない?」

と言った人がいた。すると僕の隣に座っていたママ友が、

「あの歌ですか…。『友だち100人できるかな』という歌詞は、友だちは多いほどよいという特定の価値観を押しつけているので、あんまりよくないんじゃないかという人もいますね…」

とぽつりと言った。僕も、たしかにそのとおりだと思った。するとそのまた隣に座っていたママ友が、

「そんなこと言ってるヤツには『黙ってろ』と言いたいわよ!」

と、声を荒げていた。そんなことぐだぐだ考えずに歌えばいいのよ、ということなのだろう。

結局、子どもたちが歌うという余興自体は行わないことになったが、それにしてもどんなディストピアなんだ、この世界は。

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阿鼻叫喚の送別会

12月17日(日)

娘の通っている保育園の同じクラスのM子ちゃんが引っ越しをするというので、送別会をすることになった。

といっても、まわりのママ友たちが企画したのではなく、引っ越しをするM子ちゃん一家自身が企画したのである。

「14時~16時半まで○○団地の会議室でお別れ会をします。手作りのお菓子を差し上げますので、お時間のある方はどうぞお立ち寄りください」

というチラシまでLINEで送られてきた。

自分たちのお別れ会を自分たちで企画して人を呼ぶなんて、まるで「泣いた赤鬼」ではないかと、少々切ない気持ちがしたが、それが聞いてみるとそういうことではなかった。

M子ちゃん一家は、北海道に引っ越して、そこでカフェを始めるという。つまりこれまでの仕事を辞めてまったくの新天地で新しい人生を始めるというのだ。なるほど、だからホスピタリティに関するポテンシャルが高いのだな、あるいはこれは、北海道でカフェを新しく始める前の予行演習なのかもしれない、などと妙に納得した。

14時キッカリにたずねるのもアレなので、15時頃に娘を連れてその団地の会議室に行くと、すでにほとんどのお友だちがいて、収拾がつかないくらい大騒ぎしていた。

今日はさすがにアルコールはないだろうと思ったが、あいかわらずママ友やパパ友たちは勝手にお酒を持ち込んで呑んでいる。僕はいつまで経ってもその光景に慣れない。

あいかわらずだれとも話すことなく、しばらくは呆然としていたが、やがてM子ちゃんのパパが話しかけてくれた。

僕はM子ちゃんのパパと話をするのは初めてだったが、実に人当たりのいい好青年だ、という印象を受けた。ま、そういう人でないとお店をやろうとは思わないだろうけれど。

僕は、

「よく決断しましたね。どうして北海道でお店をやろうと思ったんです?」

と聞いてみた。見たところ30代で、人生これからといった感じである。

「前から、いつかお店をやりたいと思っていました。たまたま北海道を旅行した時に、その町に惹かれ、ここでお店を開こうと決めたのです」

「北海道出身じゃないんですか?」

「いいえ違います。北海道に住むのはこれが初めてです」

僕はますます驚いた。なんとい無鉄砲な生き方だ。しかし、お話ししていると穏やかな人だし、野心まる出しの人というわけではない。

聞くと、その町というのは、ほかからの移住者が多く、しかもそこで観光客を相手に飲食店を始める人が多いということだった。地図で場所を確認すると、道央のあまり聞いたことのない町なのだが、ある有名な女性の俳優が移住してからたいへん話題になった町であるという。

「最近、アド街ック天国でも紹介された町なんですよ」

「しかしそんな小さな町では、ベスト20を探すことじたいが大変でしょう」

「ええ。かなりむりやりな感じでベスト20をひねり出してました」

「来年からM子ちゃんは小学生でしょう?小学校とかはどうなんです?」

「来春の1年生は7人だそうです」

「それだと、サッカーとか野球とか、チームが組めませんね」

「かろうじてドッジボールくらいですかね。内野に1人、外野に2人とか」

「内野が圧倒的に不利ですね」

「あとはバドミントンとか卓球とかテニスとか」

「ほとんど個人競技ですね」

今後のM子ちゃん一家の人生、なかなか面白い人生になりそうだ。

「お店ではコーヒーも出すのですか?」

「ええ。妻の弟も移住するので、コーヒーは弟に任せるつもりです」

なんと、一族総出で移住するのか?ますます面白い。

こういった話を聞けただけで今日は来た甲斐があった。しかし「今度遊びに行きますよ」とは軽々しくは言えなかった。なにしろ遠すぎる。

会の最後で集合写真を撮った時、M子ちゃんのママは感激のあまり涙を流していた。全体としては、いい会だったのだろう。

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