話芸一代
6月2日(金)
今日の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークは、リアルタイムで聴くことができた。というか、どうしてもリアルタイムで聴きたかった。
この直前に、上岡龍太郎さんの訃報がインターネットのニュースで伝えられたからである。当然僕は、大竹まことさんのコメントを聴きたかった。訃報のニュースが出てから番組開始までほとんど時間がなかったので、どの程度のコメントを言うかわからなかったが、いざ番組が始まると、かなりの時間をとってコメントをしていた。
僕はまだ20代の頃、上岡龍太郎さんと大竹まことさんの共演する番組のウォッチャーだった。そのことは、以前に書いたことがある。
大竹さんのコメントは、僕が以前から感じていたことと、おおむね同じようなことだった。上岡さんに対する思いが、時を経ても変わっていなかったということである。
おりしも、その3日前の「ゴールデンラジオ」で、火曜パートナーの小島慶子さんに「40歳の頃、大竹さんはなにしていました?」と聞かれて、
「上岡さんと一緒に仕事をし始めたくらいの頃かな…」
と答えていて、ああ、大竹さんは上岡さんに出会ったことが自分史の中で画期になっているのだな、と、感じていたところだった。
上岡さんの息子さんの、小林聖太郎さんのコメントが、名文である。
「お世話になった方々にも突然のお知らせとなってしまったことを深くお詫びいたします。
昨年秋頃、積極的治療の術がなく本人も延命を求めていない、と知らされた時に少しは覚悟しておりましたが、あれよあれよという急展開で母も私もまだ気持が追いついていない状態です。
とにかく矛盾の塊のような人でした。父と子なんてそんなものかもしれませんが、本心を窺い知ることは死ぬまでついに叶わなかったような気もします。弱みを見せず格好つけて口先三寸……。運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生だったと思います。縁を授けてくださった皆様方に深く感謝いたします。 小林聖太郎」
6年前に死んだ僕の父が、上岡さんと同じ病だったこともあり、「積極的治療の術がなく」「あれよあれよという急展開で」という表現が手にとるようにわかる。ちなみに父は1941年生まれ、上岡さんは1942年生まれである。僕の父と同じように、上岡さんは最期のときを迎えたのだろうと、僕は想像した。
上岡さんの名言は数多い。僕もこのブログの中でしばしば紹介している。過去の記事の検索をかけて、どんな名言を紹介したっけなと思って探してみたが、僕が大好きな名言をまだ一つ紹介していなかったことに気づいた。今から30年以上前の『鶴瓶・上岡パペポTV』での発言である。
現行憲法には、「五・七・五」になっている条文が一つだけある。第23条である。
「学問の自由は、これを保障する」
実は戦前の帝国憲法にも、「五・七・五」の条文が一つだけあった。第11条である。
「天皇は陸海軍ヲ統帥ス」
上岡さんみずからが発見したものではなく、憲法学者かだれかから聞いた話を紹介したと記憶している。
上岡さんの本領はここからである。
「憲法の条文を、全部『五・七・五』にしたらええねん。そうしたらみんなが覚えられるやろ」
「どういうことですか?」と鶴瓶。
「憲法第9条あるやろ。小難しい表現にせんと、『戦争はしません、軍隊持ちません』にしたらわかりやすいやろ」
僕はテレビの前で手を叩いて喝采した。「五・七・五」で、憲法第9条の本質が見事に表現されているではないか。
僕はこの一連の話が大好きで、ことあるごとに「うんちく」として披露している。つい最近は、僕が担当したイベントの準備をしているときに、イベント会場にあるひとつひとつの説明文はできるだけ短い方がよい、と提案して、一緒に準備をしている仕事仲間に、上記のエピソードをひととおり話した。
この話はいわゆる「テッパン」ネタのようで、万人が面白がってくれるネタである。その仕事仲間もその話の面白さに魅了されていた。
「…だから、説明文も全部「五・七・五」にしたらどうか」
と冗談で提案したら、
「面白いです!そうしましょう!」
と本気にされてしまったが、説明文を書くのは僕なのだから、全部の説明文を「五・七・五」にまとめるという至難の業は、僕自身を苦しめることになる。
結局、その試みはできなかったが、もっと準備の時間があればできたかもしれない、そうすれば、画期的なイベントになったかもしれない、と、今になって思っている。
上岡さんがいなくても、上岡さんの話芸は、僕の中で反芻し続ける。
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