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シティボーイズなひととき

YouTubeのおすすめ動画に、俳優の荒川良々氏とシティボーイズのきたろうさんが「さし飲み」をする動画、というのがあがっていた。

文化放送の「大竹まこと ゴールデンラジオ」で、きたろうさんがよく荒川良々氏と一緒に芝居を見に行った話をしたりしていたので、ふたりは仲良しなのだろうなということは何となく知っていた。

そのYouTubeを見ると、荒川良々氏にとって、役者としてのきたろうさんを尊敬する先輩だそうで、きたろうさんもまんざらでもないような感じで、その動画はその関係性がよくわかる内容だった。

そのとき荒川良々氏がこんなことを言っていた。自分が上京して初めて見た舞台が、シティボーイズだった。それは三鷹で行われたもので、3人がコントをするのではなく、一人ひとりがピンでネタを披露する、というものだった。そのとききたろうさんは、落語を披露していて、後々になって自分も、落語に挑戦するようになった。自分はいつもきたろうさんの後を追いかけている、と。

それを聞いて、僕はビックリした。僕もまた、20代の頃に、三鷹で行われたシティボーイズの舞台を観に行ったことがあったからである。荒川良々氏が言うとおり、それのときは3人のコントではなく、一人ひとりがネタを披露するというものだった。

たしか、タイトルは「シティボーイズなひととき」というもので、タイトルからもわかるように、都内で行われるシティボーイズの本公演とはまったく雰囲気が異なり、肩の力が抜けた、ゆるゆるした舞台だった。

調べてみると、三鷹での「シティボーイズなひととき」シリーズは、3回ほど行われている。

「三鷹公演・シティボーイズなひととき」(1996年11月)

「三鷹公演・さらにシティボーイズなひととき」(1997年11月)

「三鷹公演・ますますシティボーイズなひととき」(1998年11月)

この3回の公演すべてを観に行ったかどうか、記憶にはない。この3回の公演のうち、きたろうさんの落語はいずれかの回で行ったはずで、その落語を観た気もするのだが、記憶が定かではない。もしその回を観ていたとしたら、そのとき僕は荒川良々氏と同じ会場にいたことになる。

僕が強烈に覚えているのは、それとは別の回だと思うのだが、きたろうさんが「1行のポエム」というネタを披露していた回である。当時、シティボーイズがレギュラーだったテレビの深夜番組で行われていたコーナーの一つだったと思う。内容は、少し悲しげなBGMに乗せて、きたろうさんが短いポエムを朗読する。そのきたろうさんの朗読がまた、たまらなく可笑しかった。1999年に伊集院光氏が深夜ラジオで「ダメ人間だもの」という名物コーナーを誕生させるが、それよりも前に、きたろうさんは同じようなコンセプトのコーナーをしていたのである。

いまでも一つだけ覚えているポエムがあって、悲しげなBGMに乗せてきたろうさんが朗読した、

「…………夫に間違いありません」

というポエムだった。このひと言だけで、いろいろな想像が膨らみ、さまざまな情景が思い浮かぶ。たったひと言のポエムが、これほどまで豊かな想像力をかき立てるものなのかと、僕はいまに至るまでこのきたろうさんの朗読を、忘れることができない。

荒川良々氏の動画を観ながらそんなことを思い出していたら、2月17日(金)に文化放送で「SAYONARAシティボーイズ」という単発のドキュメンタリー番組をやるということを知った。タイトルから、すわ解散か、と心配したが、どうやらそういうわけではないようだった。

番組は始まると、テーマ曲が流れた。小西康陽さんが音楽を担当した、1993年公演「愚者の代弁者、西へ」のテーマ曲だ!!!懐かしい!これはいま聴いても名曲である。

そのほかにも、90年代のコントをよく見ていた僕にとってはたまらない内容の番組だった。老境に入った3人のコント師(当時、コント師などという言葉はなかった)が、いい感じにポンコツなジジイになりながらも、それぞれが意固地になることもなく、ずっと変わらない人間関係を維持している。やはり僕にとってはこんなポンコツジジイが理想である。

若いときは大竹まことさんが3人のリーダー的存在なのかと思っていたが、実は真のリーダーはきたろうさんである。その関係性もずっと変わっていないことが、3人の会話から感じられた。

トリオ・ザ・テクノ(YMO)は、3人の活動がもう叶わなくなってしまい、いまはその喪失感が甚だしいが、僕にはまだ、シティボーイズがいる。

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かく語りき

2月3日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日のアフタートーク」までたどり着きました!お疲れさん!

今週は忙しかった!何が忙しかったと言って、武田砂鉄氏がほぼ毎日のようにラジオに出演していたからである。砂鉄推しの人間にとっては、いちいちチェックしなければならない。

今週の出演履歴は、

月曜日はTBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の「週間ニッポンの空気」15時過ぎから20分ほどのコーナー出演。

火曜日は文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」で13時~14時まで出演。

木曜日はbayfm「髭男爵山田ルイ53世 シン・ラジオ -ヒューマニスタは、かく語りき-」16時~19時までの3時間出演。

金曜日はTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」22時~25時過ぎまでの2時間+α出演。

金曜日はもう一つ、J-WAVE「わたしたちのスリープオーバー」25時半~26時に出演。

これだけあると、移動中は常にradikoを聴くことになる。

この中でいちばんおもしろかったのは、髭男爵山田ルイ53世のラジオである。前々から薄々感じていたが、伊集院光氏の朝のラジオ番組のテイストのようなコーナーまわしができるのは、髭男爵山田ルイ53世だけじゃなかろうか?しかし、週1でも、忙しい時間をやりくりして3時間を聴き通すのは、なかなか至難の業である。

山田ルイ53世、YBSラジオでも週1で2時間のワイド番組をやっているんだよなあ。これも聴き始めると、ますます収拾がつかなくなる。

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スダを比較する

11月25日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

イベントの準備が、アクセルを踏んでも進んでいない感じのスランプ状態に陥っている。つまりはクッソ忙しいのだが、唯一の楽しみは、職場への行き帰りの長時間に、ポッドキャストを聴くことである。

韓国語で「スダ」という言葉がある。おしゃべりとか、無駄話、という意味である。「駄弁る」と言う言葉がいちばんしっくりくるように思うのだが、「駄弁る」は死語なのか?

最近聴いているのは、自分と同世代、つまりギリギリバブル世代の二人が「スダ」をするポッドキャスト番組と、「ゆとりっこ世代」の二人が「スダ」をするポッドキャスト番組である。

二つの番組に共通しているのは、番組のリスナーを「リスナー」とはいわず、独特の呼び方をしていることと、どちらの番組も熱狂的なファン、いわゆるヘビーリスナーがいるということである。

両者を比較してみると、面白いことに気づく。

ゆとりっこ世代の二人のスダは、お互いの言ったことを決して否定しない。「わかる」とか「たしかに」という言葉を連発しながら、話題を重ねていく。話し方も、かなりゆったりとしていて心地よい。

一方で、ギリギリバブル世代の二人のスダは、一種のプロレスである。もちろん、根底に強い信頼関係があるからこそできるのだろうが、言葉の応酬がすさまじい。そしてずいぶん早口である。それに、ゆとりっこ世代のスダを聴いた後であらためて聴いてみると、話題やたとえが古い。2000年問題、あったよねえとか、いまの若い人はまったく知らないだろう。

全共闘世代、バブル世代、ロスジェネ世代、ゆとり世代、Z世代など、いろいろな世代があるが、各世代の「スダ」の特徴を分析した新書を書けば売れるかも知れない。書こうとは思わないけど。

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レモンの実

11月1日(火)

仕事が終わらず、夜遅くになってやっと職場を出て車に乗り込む。運転しながらの2時間はもうひと仕事である。

今日は、火曜日か、じゃあradikoのタイムフリーで「大竹まこと ゴールデンラジオ」を聴こう。メインパーソナリティーの大竹まことさん、火曜パートナーの小島慶子さん、火曜レギュラーの武田砂鉄さん、砂山圭太郎アナウンサーの4人のオープニングトークが始まった。

わが家のレモンの木、もう全滅かと思ったら、地べたのところにひとつだけ実がなってねえ、まだ青いんだけれど、うれしくってねえ、と大竹さん。

そこから、1つだけ実がなったレモンの使い道について、あーだこーだと話が弾む。

焼き魚にレモン汁としてかけたらどう?、そんなもったいない使い方がありますか、1個しかないんですよ、もっと大切に使いましょうよ、じゃあ無駄なく使う方がいいね、砂糖漬けなんかどうかしら、砂糖漬けにしたら、皮まで全部食べられるし、砂糖漬けねえ、蜂蜜漬けとかはどうかね、そもそも、レモンって、実が青いうちに収穫してもいいものなのかね、バナナみたいに収穫した後に黄色くなるとか?、さあ、どうなんでしょうねえ。

そのうちリスナーも参加しはじめる。レモンはこれからの時期に黄色くなりますから、収穫はちょっと待った方がいいですよ、レモンの木は、年に4回は肥料を与えなければ実がなりませんよ、1年に4回!?、ずいぶん多くやらないとダメなんだねえ、レモンの皮と青唐辛子を細かく砕いて、ゆず胡椒みたいにしたらどうでしょう、なるほど、レモン胡椒ってわけね。

ひとつの小さなレモンの実をめぐって、じつに他愛のない話が飛び交っている。だれも不愉快にならずこの話題に参加しているというのがよい。楽しそうにどうでもよい話をする、というのが、おそらく日常生活の中で最も尊い時間なのではないか、と思わせる。

人生のある瞬間に、そういえば、あのとき、1つだけ実がなったレモンをどうすればいいか、なんて、みんなで話してたね、そうだね、あのときほどレモンについて考えたことはなかったね、などと思い出すのかもしれない。いや、そういうことほど、覚えているに違いないのだ。

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よろしくどうぞひとつ

10月9日(日)

近石真介さんの訃報を知る。91歳で老衰で亡くなったとのこと。つい先日、「はがきでこんにちは!」の後継番組、「おたよりください!」のパーソナリティーだった6代目円楽さんの訃報を聞いたばかりである。今年は、なんと喪失感の多い年だろう。

近石さんについては、これまでもいくつか書いてきた。

決定!「ラジオ遺産」第1号

ラジオの神様

近石さんのラジオでの口癖は、「よろしくどうぞひとつ」だった。そのフレーズが、頭の中をリフレインしている。合掌。

 

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俺は、六代目の落語を生で観たんだぜ

10月3日(月)

人の命ってのは、あっけないねぇ。

六代目三遊亭円楽さんの訃報を聞いた。

そういえば、僕は六代目円楽さんの落語を生で観たことがあるなあ、と思って、過去の記事をたどってみたら、いまから10年前、2012年8月27日(月)に、「前の勤務地」の県民ホールでのことだった。

円楽サンの会」といって、サンドウィッチマンと六代目円楽さんの会である。

当時の記事を読みなおすと、ふと思い立ち、当日券を買って入ったようだ。

いまとなってはサンドウィッチマンがどんなネタをやったのか、円楽師匠の「一文笛」がどんな内容だったのか、すっかり忘れてしまったが、大いに笑って、巧みな話芸に唸らされた。そのあと、円楽師匠のCDをさっそく買ったことを覚えている。

ふだん、笑点というテレビの尺の中でしか円楽さんを知らなかったことを、ひどく後悔したのである。

「三遊亭円楽のおたよりください!」というラジオ番組はどうなっちゃうんだろう?円楽さんが病気の間、伊集院さんが長らく代打をしていたが、「ラジオ遺産」と僕が勝手に認定しているこの番組を、このまま伊集院さんに続けてもらいたい。

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伝説の劇作家

9月22日(木)

サブカル界隈では、劇作家の宮沢章夫さんの訃報が、衝撃を与えている。

昨日の「大竹まこと ゴールデンラジオ」では、大竹さん、きたろうさん、えのきどいちろうさんが、宮沢さんの思い出話をしていた。シティボーイズの初期の頃、宮沢さんはシティボーイズの座付き作家のような位置にあった。「宮沢がいなかったら、いまのシティボーイズはない」と言わしめるほどの存在だったという。

残念ながら、僕はその頃のシティボーイズのコントを見た記憶があまりない。「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」は伝説的なコント集団だったと聞くが、その頃まだ僕は10代後半だった。

話としてよく聞くのは、「砂漠監視隊」というコントである。砂だらけの何もない砂漠を、ひたすら監視する隊員たち。もちろん、何も起こらないのだが、それでも監視を続けなければならない。ラフォーレ原宿の8階に何トンもの砂を持ち込んだ、伝説的なコントだったという。えのきどさんはそのコントを、「ゴドーを待ちながら」みたいなコンセプトだ、と評した。見てみたかったなあ。

シティボーイズは、宮沢章夫を作家に迎えて10年、三木聡を作家に迎えて10年、僕は三木聡が座付き作家をつとめてからのコントから、シティボーズにのめり込むようになった。

いま思うと、三木聡作のシティボーイズのコント「鼓笛隊迷う」(1993年公演『愚者の代弁者、西へ』)は、鼓笛隊のパレードからはぐれてしまった3人の奏者が、砂漠に迷い込んでしまう、という内容だったが、あれは「砂漠監視隊」を意識したコントだったのかな、とも思う。違うかも知れない。

ということで、僕は劇作家としての宮沢章夫さんの偉大さというのを、肌感覚で実感したことがない。これはきっと、悲しむべきことなのだろう。唯一、以前に宮沢さんが講師をつとめた「ニッポン戦後サブカルチャー史」というNHKの番組シリーズを何回か観たくらいで、そのときに宮沢章夫さんのことを初めて知ったというほどのていたらくである。あの番組は、むちゃくちゃ面白い番組だった。僕にとっては、正真正銘の「伝説の人」である。

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たいこムーン

8月30日(火)

通勤途中に聴いていた「大竹まこと ゴールデンラジオ 月曜日」で、「大竹メインディッシュ」のゲスト、内田也哉子さんの話に、つい聴き入ってしまった。

内田也哉子さんに関する僕の知識は、

・父が内田裕也さん、母が樹木希林さん、夫が本木雅弘さん。

・「おかあさんといっしょ」の2019年9月の月歌である「たいこムーン」の作詞者。

・早坂暁さん脚本のドラマ「花へんろ 風の昭和日記」で、女遍路を演じた樹木希林の娘役として「小きりん」という芸名で出演していた。

という3つくらいである。

いままでちゃんと話を聞いたことがなかったが、落ち着いた喋り方で、まるで樹木希林さんを彷彿とさせるようなたたずまいだった。ま、親子なのであたりまえだが。

小さい頃からの親子関係から始まり、樹木希林さんを看取るまでの話を聴いているうちに、自然に涙が出てきてしまった。

とくに、死を目前にした樹木希林さんが、その2週間ほど前の9月1日に突然、「死なないで」とつぶやいたという話。そこにどんな意味があったのかを、内田也哉子さんの語りで聴いたときには、ちょっと涙腺が崩壊した。

その話のあたりから、ラジオの中では、聞き手がメインパーソナリティーの大竹まことさんから、月曜パートナーの阿佐ヶ谷姉妹のエリコさんに代わる。

エリコさんは、すでに内田也哉子さんの『9月1日 母からのバトン』(ポプラ社新書、2022年)を読み込んでいて、その本の中で印象に残ったところを次々と質問していく。

そのとき僕は思った。ひょっとしたらこのとき、僕と同じで、内田也哉子さんの話を聞いて、大竹さんも涙腺が緩んだのではないだろうか。

それを察知した阿佐ヶ谷姉妹のエリコさんが、涙腺が緩んでなかなか言葉にならない大竹さんの代わりに、内田也哉子さんとの対話を進めたのではないだろうか。そしてようやく、大竹さんの気持ちが落ち着いたところで、バトンタッチして、最後に大竹さんがとっておきの質問をして、コーナーが終わる。

もちろん、これはイタいファンである僕のまったくの妄想なのだが、もしその通りだとすると、この信頼関係はそうとうに厚いものだと、ますますこの番組の機微というものに魅せられる。

さて、この番組の中で、内田也哉子さんは、次のようなことを言っていた。

父の内田裕也は、自分が生まれてから数えるほどしか会っていないし、まったく家にも寄りつかず、母がなぜ離婚しようとしないのか、自分はほんとうに愛されて生まれてきた子どもなのか、と、子どもの頃はそのことに悩んでいた。

しかし年齢を重ねるにしたがって、父のことがなんとなくわかるようになってきた。たしかに表面上は、常識外れで自分勝手なところがあるが、芯のところにはジェントルマンな部分があることに気づいた。それでようやく父を理解できるようになった、と、正確ではないが、たしかこんな話だったと思う。

僕はこの話を聞いて、そうか、そういうことなのか、と気づいた。

内田也哉子さんが「おかあさんといっしょ」の月歌のために作詞した、「たいこムーン」の歌詞には、印象的な一節がある。

「きみのまんなか みーつけた」

そうか、この歌は、父の「芯の部分」に気づいた内田也哉子さんが、父に向けて書いた歌だったのではないだろうか。

僕はそのことに思い至ったとき、「たいこムーン」の不可解な歌詞の謎が解けた思いがして、ますます涙が止まらなくなった。

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ブオン

8月26日(金)

今週もよくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!そしてプレミアムフライデー!

オープニングのフリートークで、パーソナリティーの武田砂鉄氏が、新潟の佐渡に行った話をしていた。そこで、佐渡の友人とこんな会話が交わされたという。

「佐渡のコンビニは、ローソンばかりですねえ」と砂鉄氏。

「ええ。むかしはブオンばかりだったんですけど、いまはブオンのほとんどがローソンに転換されましたからね」

「ブオン?」

ブオンとは、群馬県を中心に展開していたコンビニチェーン店「セーブオン」のことである。

武田砂鉄氏は、この「ブオン」という略称に、ひどく驚いていた。

「ふつう、言葉の冒頭ではなく後半だけで略称にしたりしますかねえ?」

たしかに、他のコンビニでいえば、「ファミリーマート」は「ファミマ」と略するし、ファミレス(これも略称)でいうと、「ロイヤルホスト」を「ロイホ」と略したりする。

あれこれ頭を思いめぐらせていたら、思い出した。

「アルバイト」の略称は、「バイト」ではないか、と。

つまり「セーブオン」を「ブオン」と略すのは、「アルバイト」を「バイト」と略すことと同様に考えれば、さほど不自然なことではないのだ。

おそらく、濁音を冒頭にするほうが語感として心地よいのではないだろうか、というのが僕の仮説である。

しかし、である。

韓国語では、「アルバイト」のことを「アルバ」と略称する。韓国留学中に、語学学校でそのことを習ったとき、面食らったものである。

なぜ、日本語では「バイト」で、韓国語では「アルバ」なのか?その当時はその違いに、言語学的な意味で興味を覚えたが、その後、そのことをすっかり忘れていた。

ま、僕が気づくくらいだから、そんなことはもうとっくに研究されているのだろうな。

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ラジオ業界の知られざる一大勢力

8月11日(木)のTBSラジオ「荻上チキ Session」と、翌12日のTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」は、神回の名にふさわしいものだった。

以前、ライターの武田砂鉄氏が評論家の荻上チキ氏にインタビューしたときに、チキ氏は高校時代に放送部に所属していて、そのときに「聴くだけで洗脳されるテープ」というものを作成した、と語っていた。おそらくいまでも、母校に残っているかも知れない、というひと言が、砂鉄氏を動かした。

砂鉄氏はチキ氏の母校に、チキ氏が放送部時代に作った「聴くだけで洗脳されるテープ」を探してほしいと呼びかけたのである。

それを聴いていた、TBSラジオのヘビーリスナーである同校の教諭が、校内を大捜索して、高校の視聴覚室から、荻上チキ氏が脚本、演出、出演、編集をしたラジオドラマのテープを発見した。それは、NHKのコンクールにエントリーしたときのテープだった。残念ながら、「聴くだけで洗脳されるテープ」は発見されなかったが、「夢限」と題するそのラジオドラマのテープが、TBSラジオに持ち込まれたのである。

「アシタノカレッジ金曜日」の中で、そのラジオドラマがノーカットで放送されたが、聴いてみて驚いた。音響やタイミングなど、作り込み方が尋常ではない。脚本も、星新一のショートショートの世界観をモチーフにしながら、チキ氏のいまにつながる社会批評的な視点も盛り込んでいる。放送機材について使いこなせていなければ、なかなかここまでの作り込みはできないのではないか。荻上チキ氏の、ラジオでのマルチタスクぶりの片鱗がうかがえる、貴重な音源だった。評論家でありながら、ラジオ界においても頭角をあらわしたのは、高校時代の放送部の経験が大きいのだと、あらためて認識したのだった。

三谷幸喜監督の映画『ラジオの時間』に、「ラジオドラマには無限の可能性がある」というセリフがある。三谷幸喜氏が、どのていど意識して、このセリフを書いたのかはわからないが、これはラジオの本質を言い当てたセリフであると思う。「夢限」というラジオドラマは、まさに無限の可能性を感じさせるものだった(夢限だけに)。ちなみにこのラジオドラマは予選で敗退したという。落選理由は当たり障りのないものだったらしいが、僕が推測するに、あまりにも社会批評的で、高校生らしくないと審査員が判断したからではないか、とも思う。

さて今回の特集で判明したことは、ラジオに携わる人たちの中には、高校の部活としての放送部、あるいは、学校の放送委員会を経験した人が、けっこうな数いるということだった。

武田砂鉄氏も高校時代に放送委員会だったというし、南部広美さんも小学校の時に放送委員会だった。そればかりか、TBSラジオで交通情報を伝えるキャスターも、そしてはぴねすくらぶで商品を紹介する人も、放送委員会に所属していたというではないか。

いちばんの驚きは、「大竹まこと ゴールデンラジオ」火曜日レギュラーの、コラムニスト・深澤真紀さんは、荻上チキ氏と同じ高校の、放送部の先輩だったという。こうなるともう、ラジオで重宝される文筆家の多くが、放送部や放送委員会を経験しているのではないかという仮説を立てたくなる。

いままで明らかにされてこなかったが、ラジオ放送業界に入り込む放送部・放送委員経験者の一大勢力の存在が、この番組によって白日の下にさらされた。それはまるで、反社会的勢力のカルト教団が、一大勢力として与党の政治団体に入り込んでいることを知ったのと同じくらいの驚きである。

つくづく、僕も高校時代に放送部に入っていればなあと、後悔する。でも当時の僕は、(いまもそうだが)自分の声が大嫌いだったので、放送部に入りたいという選択肢はまったくなかった。放送部に入っていたら、その後の人生は変わっただろうか?いや、たいして変わっていないだろうな。

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