音楽

バラカンさん、バカラックを語る

2月16日(木)

あいかわらず校正の日々。まじめにやり出すと、「終わらない校正はない」ではなく、「校正に終わりなし」という感を強くする。しかし校了の日は決まっているので、それまでにはなんとしても終わらせなければならない。

唯一の楽しみは、通勤の車の中で聴くradikoである。

最近聴き始めたのは、interfmの「Barakan Beat」である。ピーター・バラカンさんが、リスナーからのリクエストに応え(あるいは応えるふりをして)、ひたすら好きな曲をかけるという2時間番組である。

音楽に疎い僕は、バラカンさんの博識と選曲のセンスにすっかり圧倒されつつ、その音楽がどれもいいからずーっと聴けてしまう。知らない曲ばかりだし、バラカンさんの語る知識にもまったくついていけてないのだが、そんなことは関係ないのだ。

今日は、先日亡くなったバート・バカラックの曲が少し特集されていた。ビートルズの「Baby It's You」って、バカラックの曲だったんだね。

あるリスナーからのメールでは、自分が幼い頃に「雨の日の曲」としてずっと印象に残っていた曲があった。その後10代になって、その曲名をを知りたいと「雨」をキーワードにFM番組をエアチェック(死語)しまくって、ようやく自分が幼少のときに出会った曲が「雨に濡れても」という曲名で、その作曲がバート・バカラックであることを知った、という思い出を書いていた。

そしてそのメールの中で、坂本龍一さんがバカラックについて語った

「荒れた世界の片隅にあった狂おしいまでのロマンティシズム」

という言葉と、矢野顕子さんがバカラックについて語った

「バカラックの曲を聴いたせいで、自分の作る曲がこんなふうになってしまったという人が地上に100万人はいる」

という言葉が紹介されていた。

このブログでも何度か書いたが、坂本龍一さんは、バート・バカラックに憧れていることをラジオで語っていたし、高橋幸宏さんは、バート・バカラックの「エイプリル・フール」をカバーしている。僕もYMOを通じて、バカラックを知ったクチである。

実際、この番組の中でも、坂本龍一さんのラジオでバカラックの名前を知り、ユキヒロさんの「エイプリル・フール」でバカラックファンとなることが決定づけられた人のメールが紹介されていて、僕と同じ体験をしている人が多かったんだなと、感慨深かった。もちろん、番組では、ユキヒロさんの「エイプリル・フール」をかけていた。そらぁかけるさ。バラカンさんだもの。

バートバカラックの思い出について書こうと思ったが、すでに書いていたので、省略。高1の時にカセットテープに録音していたNHK-FMの「バートバカラック特集」は、無事にデジタルファイルとしてパソコンの中に入ったので、また聴き直そう。

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むかし、フュージョン音楽というものがありまして

いまは死語になったのだろうか、10代のころはフュージョン音楽がわりと好きだった。僕が10代の頃の1980年代は、フュージョン音楽が全盛期だったと思う。

中学生の頃にYMOを聴くようになってから、インストゥルメンタルの音楽が好きになった。坂本龍一さんのソロデビューアルバムの『千のナイフ』は、たしかフュージョン音楽の分類に入れられていたと思う。前にも書いたと思うが、坂本龍一さんは、フュージョン音楽の名手である。

しかし、インストゥルメンタルとかフュージョンというのは、あまり評価がされにくいような印象も、当時から感じていた。

「歌詞のない音楽なんて、無理」

みたいな反応があったし、最近ではさらにその傾向が強いのではないだろうか。

ジャズ音楽に詳しい人からは、フュージョンなんて、などと軽く見られていたふしがある。被害妄想かもしれないが。

クラシック音楽に傾倒したいた人からも同様の反応があったように思う。ロックもまた然り。

あくまでも、クラシック音楽やジャズ音楽やロックが主で、フュージョン音楽はそこから派生した亜流の音楽なのだ、という謎の階級意識などを感じて、何となく後ろめたい感じがした。

高校時代は吹奏楽の部活動に参加していたが、やたらクラシック音楽に詳しかったり、ジャズ音楽に詳しかったりする人が多くて、僕のような根無し草はちょっと肩身の狭い思いをした。

高校を卒業してからも、10年ほど吹奏楽はほそぼそと続けたが、吹奏楽にそれほど思い入れがない自分に気づき、自分にとって続ける意味がわからなくなって、結局辞めてしまった。いまでも続けている人を見ると、心の底からうらやましいと思うし、尊敬する。

その代わり、10年ほど前になるが、前の職場の学生たちとフュージョンバンドを組んで、学園祭で3曲ほど演奏したときは、これほど楽しいと思ったことはなかった。またやってみたい、と思った。

久しぶりに楽器を持ちだして、練習でもしてみるか、などと時折思うことがあるが、いまの体力では、とうてい演奏をするなどということはできない。

でも、フュージョンはやっぱり僕にとって好きな音楽だし、その立ち位置から、ジャズファンやクラシックファンの生態を眺めてみると、なかなかおもしろい見え方ができる。僕の人生の立ち位置にふさわしい音楽なのである。

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はらかなこさん!

1月20日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

なかなかに気分が落ち込んだ週の後半だったが、それでも仕事は変わらずに降ってくる。

ユキヒロさんがいなくなって以来、ユキヒロさんの曲やYMOの曲ばかりを聴いている。それがいまの、僕の唯一の癒やしである。

そうしているうちに、あるYouTubeのチャンネルに行き着いた。

ピアニスト・はらかなこさんのチャンネルである!

もう、この映像に釘付けになった!

僕の大好きなYMOの曲を次々とピアノアレンジで披露している。

そればかりではない、THE SQUARE(T-SQUAREではない)の「宝島」だとか「OMENS・OF・LOVE」など、和泉宏隆さんの懐かしい名曲まで弾いているではないか!(そういえば、和泉宏隆さんも最近お亡くなりなってしまった…)。

とにかく、曲のチョイスが、アラフィフやアラカンのオジサンの心を鷲掴みにして放さないのだ。これで沼に落ちるなと言う方がオカシイ。

ピアノの技術をさることながら、ピアノを弾いているときの楽しそうな表情がとてもよい。とくに「OMENS・OF・LOVE」を弾いているときの表情がそうだ。ピアノを前にして、自己が解放され、鍵盤の上を自在に駆け回っている、そんな印象を受けるのである。あんなふうに軽やかに生きられたら、どんなにすばらしいだろう。

YMOの曲をピアノアレンジでカバーする動画は数あれど、いまのところはらかなこさんがベストワンである!

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ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)

1月15日(日)

大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年公開)に、かなり重要な役として高橋幸宏こと「ユキヒロ」さんが出演しているのを知ったとき、ああ、大林監督とユキヒロさんとの友情がずっと続いていたのだな、と安堵した。

10代の頃、寝ても覚めてもYMOの音楽ばかり聴いていた僕は、とにかくYMOのことばかり追いかけていた。そのユキヒロさんが、これまた10代の頃からのファンの大林宣彦監督の映画『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』に主演すると知ったときは、僕にとってはいまでいう「夢のコラボ」で、胸が躍ったのだった。

当時、坂本龍一さんは大島渚監督とタッグを組み、ユキヒロさんは大林宣彦監督とタッグを組む。いかにも「らしい」組み合わせである。

『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』は、大林宣彦監督にはめずらしいウェルメイドな喜劇で、フランス映画を意識したおしゃれな作品だった。フランス料理のシェフが料理監修に就いて、映画の中で料理を本格的に見せようとする手法の、先駆けの映画といえるかもしれない。ヒットはしなかったものの、愛すべき小品である。

ユキヒロさんは、大林監督の『天国にいちばん近い島』や『異人たちとの夏』にもゲスト出演していた。そして、大林宣彦監督の集大成ともいうべき『海辺の映画館 キネマの玉手箱』で、監督の分身ともいうべき「狂言回し」として出演したのは、二人の信頼関係がずっと続いていた証なのだろう、と思った。

ユキヒロさんの訃報を聴いて、僕が大好きなソロアルバム『薔薇色の明日』を聴き直し、『四月の魚』を見直す。『薔薇色の明日』にはバート・バカラックの「エイプリル・フール」をカバーしたユキヒロさんの歌が収録されており、これがとても大好きである。『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』は、フランスでは4月1日のことを意味するらしい。ユキヒロさんは4月1日に縁がある。今年の4月1日を迎えることなくユキヒロさんが旅立ってしまったのは、とても悲しいし、悔しい。でも僕は、これからもユキヒロさんの音楽を聴き続ける。

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東風に始まり、東風に終わる

4月12日(火)

配信で行われたコンサートは、僕の複雑な心境を払拭するような、すばらしいものだった。

正直に言うと、2000年代に入ってからの坂本龍一さんは、よい意味で落ち着いた、だが見ようによってはちょっと衰えを感じさせる演奏という印象を抱かせ、少し遠ざかっていた。それは、矢野顕子さんが年齢を重ねてもエネルギッシュなピアノ演奏を見せてくれるのと、ちょっと対照的だな、そう感じていた時期がある。

しかし、1時間強の、今回の配信コンサートは、実に力強かった。

スタジオには、ピアノ1台と坂本さんが1人。音楽を極限まで濾過した、究極のステージ。命を削るように音を紡ぎ出す、もはや求道者である。

それでいて、楽しみながら演奏している。

ピアノを弾く皺の多い指は、しかしながら若いときにシンセサイザーを弾いていた指の動きと、変わらなかった。

選曲は、そうとう吟味して行われたようだが、その中の1曲に「東風」が入っていたことは、僕にはたまらなかった。

おそらく、YMOの曲でいちばん好きな曲は何か、といわれたら、「東風」と答えるだろう。YMOは東風に始まり、東風に終わるのである。

すべての演奏が終わったあと、坂本龍一さんのコメントで、

「ここへ来て新境地をひらいた」

と自画自賛していたが、まさにその通りだった。

演奏が終わり、立ち上がって歩いて画面から去っていく姿を見て、僕は複雑な心境から、いつのまにか解き放たれていた。

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メッセージ

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「ザ・ゴールデンヒストリー」は、市井の人々の人生を取材し、放送作家が原稿にまとめたものを、大竹まことが語る、というコーナーで、聴くとしみじみした気持ちになる。

数日前、僕と同世代の男性の人生が取り上げられていた。

その人は、小学生のころ、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の音楽に出会い、「電気的啓示」(エレクトリック・リベレーション、芦原すなお『青春デンデケデケデケ』より)ならぬ、「テクノ的啓示」を受ける。そこから、寝ても覚めてもYMOの日々が始まる。

しかし、別れは意外と早く訪れる。1983年に、YMOはわずか5年の活動に終止符を打つのである。「解散」ならぬ「散開」コンサートが、全国ツアーで行われ、その最後が東京の日本武道館だった。

当日券のあてもない彼は、コンサートの当日、せめて近くで同じ空気を吸おうと、日本武道館まで訪れる。すると、「友だちのひとりが来れなくなった」というグループから、運よく定価でチケットを譲ってもらうことができ、YMOのラストステージを噛みしめたのだった。

その後もYMOの後を追いかけ、お金を貯めてシンセサイザーを買ったりするが、勉強からは落ちこぼれてしまう。それでも、独学でコンピュータを勉強し、その技術を生かすことのできる会社に入る。

一時期、音楽関係の仕事に就いたこともある。そのときに、細野さんや坂本さんが自分の間近にあらわれる機会があり、一ファンとして握手をしてもらったことがあるという。

YMOが自分の励みとなり、いまではIT関係の会社の取締役になった。でも夢は、「一ファンとしてではなく、いつかYMOのメンバーと仕事でお会いしたい」と、いまでも彼は、YMOを追い続けているのだ、と、大竹まことのナレーションが締めくくられる。

…小・中学生の時にYMOの洗礼を受けた同世代の僕にとっては、まるで自分のことのようだ。思わず涙が出る。

当時は、まだ中学生くらいだったから、コンサートには行けなかったものの、レコードは全部買い、3人が載っている雑誌や本を集めた。大人になってからも、さまざまな再編集版のCDや、「YMO伝説」について書かれた本を、できるだけ集めた。散開から10年経ったときに東京ドームで行われた再結成のコンサートも行った。坂本龍一さんの武道館ライブも行った。こういうのを、いまでいう「推し」というのかどうかはわからない。たぶん違うのだろう。

僕は音楽関係の職に就くような才能はないが、自分が10代の時に憧れていた人と、一ファンとして会うのではなく、一緒に仕事をするというのが、いちばんの理想だというのも、よくわかる。

以前に書いたが、昨年、テレビの取材を受けて、それが番組として放送されたとき、自分が語っているバックに、坂本龍一さんの「戦メリ」の曲が流れたときは、坂本さんといっしょに仕事をしている気分になり、「ああ、生きていてよかった」と思ったのだった。

YouTubeに、4日ほど前に公開された坂本龍一さんの短い動画があがっていた。

それは、2分ほど、坂本龍一さんが語った動画だった。

2020年6月に癌であることがわかり、それ以来、表だった活動をしてこなかった。かなり体力が落ちてしまい、1時間とか1時間半といった通常のコンサートを行うのが難しい状態になった。なので、1曲づつ演奏したものを映像にまとめて、コンサートの形にしたい。

力をふりしぼるように語っていた。僕はいま、複雑な心境である。

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詠み人知らずの歌

録画してあったNHK-BSPの「The Covers」の「スターダスト☆レビューLIVE」(5月27日放送)を見た。

感染対策に配慮しつつ観客を入れたLIVEだったが、客層は明らかに、アラフィフの年代の人ばかりである。

とりあえず、「木蘭の涙」が、アコースティックバージョンではなく、オリジナルのバンドバージョンだったのがよかった。

「木蘭の涙」は、何といってもオリジナルのバンドバージョンに限る。

アコースティックバージョンが歌われ始めた頃、この曲は注目を集め、いろいろなアーティストがカバーをした。そのうち、誰のオリジナル曲なのかわからなくなっちゃって、

「『スタレビさんも、「木蘭の涙」をカバーするんですね』、と言われたんですよ」

と、そのLIVEでボーカルの根本要さんが、本当とも嘘ともつかないMC を炸裂させて、会場を笑わせていた。

根本要さんのMC力は、レギュラーをつとめた毎日放送のラジオ「ヤングタウン」で、野沢直子と笑福亭笑瓶とのトークで培われたという。

あるテレビ番組の受け売りだが、大滝詠一が、本当にいい曲というのは、作った人間の手を離れて、いつしか「詠み人知らず」のように歌われるようになることだと語っていたという。「木蘭の涙」も、もはやその域に達しているということなのだろう。

最近、ネット上で読んだ、、根本要さんのインタビューが、とてもよかった。

「僕らが40年続いたいちばんの理由は、売れなかったことかもしれない」

「本当にヒット曲はないんです。でも長いこと歌っていると、世の中の人が勝手にヒット曲のように感じちゃうらしく、実際は『木蘭の涙』だって20位くらいで、『今夜だけきっと』は50位にも入ってない。だから最近は“ヒット曲でもないのに知られてる曲がある”って自虐的に言ってます(笑)。本当にヒット曲のないバンドなんです。でも、世の中の人たちはそこに価値を見出す。ありがたいことに今回こうやってインタビューしてもらっていますが、僕らはただのマニア向けバンドかもしれません。でも音楽は、マニアックに聞いてくれたほうが、それまで知らなかった音に出会えたりするんですよ。僕自身も“もっとマニアックに音楽を聴こう”と思います。時代と共に薄れる曲よりは、“あなたの中でのヒット曲を作ろうよ”と。売れた曲を“ヒット曲”と呼ぶより、心を叩いてくれた曲を“ヒット曲”と呼んでほしいですね」(週刊女性PRIME 、 2022年6月4日)

そういえば、ムーンライダーズも、まったく同じことを言っていた。

ラジオ番組で、「バンドが長続きする秘訣は?」と聞かれて、

「ヒット作(代表作)がないこと」

と答えていた。

そういうふうなスタンスで仕事が続けられたら、どんなにいいだろう、と憧れる。

ところで、さきの根本要さんのインタビューでは、こんなことも言っていた。

「『木蘭の涙』はたくさんの方にカバーしていただいていますが、なかには“あれ? オリジナルを聴いたことないのかな?”ってカバーもありますよね。やっぱり原曲へのリスペクトはとても大切だと思います。最初にカバーしてくれたのは佐藤竹善とコブクロ、最近も鈴木雅之さんが歌ってくれていますが、僕よりうまくて困りました(笑)。原曲はバンドでの演奏ですが、アコースティックバージョンがよく歌われます」

いろいろなアーティストが「木蘭の涙」をカバーすることに対して僕が違和感を抱いていたのは、そういうことだったのかと、溜飲が下がった。今回のLIVEでオリジナルのバンドバージョンを演奏したことの意味が、わかった気がした。

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ムーンライダーズがいた!

5月9日(月)

今日の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のメインゲストがムーンライダーズだと聞いて、矢も盾もたまらず、帰りの車の中でradikoのタイムフリーで聴いた。ゲストは鈴木慶一氏と白井良明氏。

1975年結成。僕の原体験は、1976年のドラマ「高原へいらっしゃい」の主題歌「お早うの朝」。作詞谷川俊太郎、作曲小室等、演奏ムーンライダーズとクレジットが出ていた。ラジオでの話だと、最初はバックバンドの活動をしていたというから、これもその一環として、バックバンドとして演奏していたのだろう。

この歌が大好きで、のちにこの曲が入った小室等のアルバムを買ったが、演奏はムーンライダーズではなく、編曲もまるで違ったバージョンになっていて愕然とした。やはりこの曲は、ムーンライダーズの演奏でないといけない。

中学の時にYMOにハマり、当然、その界隈にいたムーンライダーズがしばしば話題にあがったが、YMOにばかり執心していた当時の僕は、ムーンライダーズを熱心に聴いた方ではない。「ムーンライダーズはいいぞ」と教えてくれたのは、中学の時にYMOの音楽の手ほどきを受けたヤマセ君だったか、高校時代の親友のコバヤシだったか、記憶が定かではない。「火の玉ボーイ」は買ったかも知れない。

でも僕が圧倒的に好きだったのは、ムーンライダーズのドラマー、かしぶち哲郎氏の初のソロアルバム「リラのホテル」だった。これは今でも持っている。素朴な感じの曲ばかりで、とても素敵だった。

Wikipediaで調べたら、かしぶち哲郎さんは、2013年にお亡くなりになっていた。ラジオの中で鈴木慶一さんが「46年間の活動の中で、メンバーの1人が死んで、1人が新たに加入して‥」と言っていたが、その1人というのが、僕が好きだったかしぶち哲郎さんだったとは、いまさらながらショックである。

長寿のロックバンドといえば、アルフィーとかスタレビとかがすぐに思い浮かぶが、ムーンライダーズもいたね。

 

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投げ銭ライブ

以前にも書いたことがあるが、僕の高校時代の1学年下と2学年下に、サックスミュージシャンがいる。1学年下の後輩はアサカワ君で、2学年下の後輩はジロー君である。

この二人が、この大型連休中に、それぞれライブをするという告知がSNSのタイムラインに流れてきた。ジロー君は大型連休のはじめのほうに、アサカワ君は大型連休の最後の方に、それぞれライブを行うようである。大型連休は、ライブをするのにもってこいの時期ともいえる。

行動制限のないこのたびの大型連休では、ライブ会場にお客さんを入れて行うようなのだが、同時に動画投稿サイトでの配信も行うという。これは、ありがたいことである。

僕のように、おいそれとライブ会場に足を運ぶことのできない人間にとっては、たとえ感染症がおさまったとしても、ライブ配信は今後も続けてほしいと願うものである。

しかも、ふたつのライブとも、あるていどの期間、アーカイブ視聴できるというのも嬉しい。なかなかリアルタイムで視聴する環境を確保するのが難しいからである。

もちろん、ただで観ることは失礼かなと思うから、わずかながら投げ銭で応援することにしている。

ジロー君のライブは、以前に視聴したときと同じ、ジロー君の地元のカフェが会場である。ジロー君のライブは、だいたい午後3時頃から、1時間半程度行われる。この時間帯がまたよい。

カフェの窓から差し込む日の光によって、自分もまるで日だまりにいるような感覚になり、それだけでも、じつに癒やされるのである。

以前にも書いたように、映像も、ライブの音質も、格段にすばらしく、聴いていてまったくストレスを感じない。今回は、ジロー君と、Minkoさんという、ギター兼ボーカルの二人によるライブで、古いブルースを中心にしたラインナップだった。Minkoさんというミュージシャンを初めて知ったが、ギターとボーカルがとても耳心地がよくて、それがカフェの日だまりの映像と相まって、これ以上にない癒やしの音楽を演出していた。

ジロー君は、サブトーンという奏法にこだわるサックス奏者である。力強い音や伸びのある音が好きな僕にとって、サブトーンという奏法は耳慣れない感じが最初はしたけれども、Minkoさんの音と共鳴することで、次第に僕の耳にもなじんだ音になっていった。

僕の好きな「Lover,Come Back to Me(恋人よ我に帰れ)」を聴くことができたのが嬉しかった。最後の「On The Sunny Side Of The Street」も、キャッチーな選曲でよかった。

続いて視聴したのは、アサカワ君のライブである。アサカワ君は、ジャズというよりも、ブラジル音楽のミュージシャンである。おそらく、中央線沿線のブラジル音楽界を代表する一人であろう。「中央線小説」ならぬ、「中央線ブラジル音楽」である。僕は、コロナ前に、阿佐ヶ谷北口の小さなライブハウスにフラッと立ち寄って、彼の演奏を聴きに行ったことがある。今回のライブ会場は、吉祥寺である。

こちらの配信映像も、なかなか凝っていた。複数のカメラを据えてスイッチングしながら、あらゆる角度からミュージシャンの様子を映し出している。そのなかに1台だけ、モノクロ映像で映しているカメラがあり、これがまたいい雰囲気を醸し出していた。

ジロー君のライブは演奏者が2人だったが、アサカワ君のバンドは5人ほどの編成である。こちらは、日だまりのライブではなく、夜が似合うライブだった。アサカワ君の音にはちょっと色気がある。

僕は高校時代、吹奏楽団で彼らと演奏をともにしたが、僕は早々に音楽に対するこだわりがなくなってしまい、高校卒業後もOBによる吹奏楽団を立ち上げたものの、吹奏楽に対するこだわりのないまま無為に10年近くを過ごし、結局はやめてしまった。だからいまとなっては、僕は吹奏楽もジャズも、たんなるド素人の一人である。だが二人は、その後も自分なりの音楽にこだわり続け、いまでもライブを続けているのだから頭が下がる。彼らのライブを観ていつも思うのは、彼らの周りには常に一緒に演奏する人が集まってきて、それがまたいいメンバーで、だからこそ長く続けてこられたのだな、ということである。音楽分野に限らず、僕の業界でもそうだが、見限られることなく続けられるというのは、それだけですばらしいことである。

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ひまわり

2月28日(月)

車で1時間以上かかる病院へ、定期の診察である。

診察、といっても、1か月以上前に行った別の病院での治療の結果を、ただ報告するだけである。しかも報告といっても、すでに治療の結果は画像データと文書で主治医に報告されているため、わざわざ僕が行って報告する必要はないのである。

1時間以上かけて病院に行き、何時間も待たされてあげく、ほんの2分程度で問診が終わる、というのは、いつも割に合わない。それだけで体力を消耗する。まったく、桂文珍師匠の小噺ではないが、病院に通うためには、そのための体力が必要である。

しかし、まったく無意味かというと、そうでもない。主治医の先生は、治療の結果の画像を見て、「前回、ちょっと心配だったところが、だいぶよくなっていますね」と、大事に至らなかったことを教えてくれた。まあそれだけでも安心である。

ようやく診察が終わり、車で自宅に引き返す。折しも、「大竹まこと ゴールデンラジオ」が始まる時間だったので、運転をしながら久しぶりにリアタイで聴くことにした。

月曜日のオープニングトークのドあたまは、いつも阿佐ヶ谷姉妹の美しいアカペラコーラスから始まるのだが、今日はそれがなく、いきなり「姉のエリコです、妹のミホです、阿佐ヶ谷姉妹です」という挨拶から始まっている。

おかしいな、と思っていると、おもむろに大竹まことが、

「今日はこの曲から聴いていただきましょう」

と、いきなり曲が流れた。オープニングトークでは、あまりないパターンである。

流れた曲は、映画「ひまわり」のテーマ曲だった。

大竹まことは、この曲をかけた意味を何も語らず、冒頭からいきなりこの悲しいテーマ曲が流れたので、曲が流れている間中、僕は「そのココロは?」と自問自答していた。

曲が最後まで終わったあと、大竹まことは静かに、この映画のストーリーについて語った。1970年公開のこの映画は、イタリアを代表する俳優、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンによる、第二次世界大戦に翻弄された男女の物語である。

映画で最も印象的な場面は、ソフィア・ローレンが、戦争で行方不明となった夫(マルチェロ・マストロヤンニ)を探しに、ソ連に赴いたとき、そこに地平線まで続くひまわり畑が広がっている光景である。僕もむかしこの映画を見たときに、ストーリーの細部は忘れてしまったが、この場面だけは強い印象に残った。

「あのひまわり畑の撮影地は、ウクライナだったのです」

という大竹まことの言葉に、この曲をかけた真の意味を、ようやく理解した。

「この『ひまわり』は、以前、長野県の医師である鎌田實さん(「大竹まこと ゴールデンラジオ」でしばしばゲストとして登場する)の呼びかけで、坂田明さんも演奏されています」

僕は、10年前ほど前の記憶がよみがえった。坂田明の演奏する「ひまわり」を、である。

友人のKさんに教えてもらい、僕が最初に聴いたのは、東日本大震災のあとだった。もともと、チェルノブイリの原発事故等で病気になった子どもたちを救うためのチャリティーとして企画されたアルバムだった。

いまはまた、違う文脈で「ひまわり」が大きな意味を持つことになるとは、誰が想像しただろう。

坂田明といえば、大林宣彦監督の映画「この空の花 長岡花火物語」(2012年)で、戦争で片腕を亡くしたアルトサックス奏者の役を演じていた。長岡の花火の映像と相まって、映画の終盤に流れる坂田明の魂の叫びともとれるアルトサックスの音色は、あの「ひまわり」のアルバムに込められた思いにも通じている。

大林監督と坂田明とのつながりは、ともに広島県出身であるということである。「この空の花」のメイキング映像に、大林監督のディレクションのもとで、坂田明がアルトサックスを演奏するシーンが残っているが、僕にとって貴重な映像である。

久しぶりに聴き直してみよう。

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