思い出

続・忘れ得ぬ人

9月2日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

今日は久しぶりに飛行機に乗り、旅の空です。

前回書いた「忘れ得ぬ人」。さっそく高校時代の親友・コバヤシからメールが来た。

「また大分昔のことを思い出したものですね。

あの旅のことは、断片的ではありますが、何となく覚えています。

大垣夜行の中で一緒になったサークルの先輩は○○○○さんという方で、あの後ほとんどサークルには顔を出さなくなったので、その後は全くと言っていいほど接点がありませんでした。

ただ、大学院に行ったとは聞いていたので、何年か前にふと思い出してネットで検索してみたら、今は○○大学の教授になっていました」

この後も、そのときの旅の思い出が続くが、そこは省略する。

僕も、その名前をもとに、インターネットで検索をかけてみた。すると、コバヤシの言ったとおりだった。

その人を紹介するとある新聞記事に、こんなことが書いてあった。

「…研究室のドアを開けると、真っ先に目を引くのが友人のキューバ土産という、チェ・ゲバラのフラッグ。ラテンアメリカ関連のサブカルチャー本やDVD、CDも所狭しと並んでいる。…北九州市の門司で生まれた。理系の姉たちと異なる分野で、他人とも違うことをしたいと社会学を専攻し、プエルトリコの社会や文化を専門に選んだ。「エスニック・スタディーズが隆盛になってきたころで、多人種性、多文化性を問う新しいテーマだった」。その後、政治、経済、文学、メディア、文化人類学といった学問領域を横断的視点で分析する「カルチュラル・スタディーズ」が登場。これが自分の分野だと直感した。入学した大学では教員が当たり前に政治的発言をしていて、それが今の自分につながっていると言う。99年に○○大学に就職。2003年から研究のため、2年間ニューヨークで暮らした。…」

このあと、市民運動にめざめ、今も活動を続けている、と書いてあった。

僕は前回の記事で、「あのようなサバサバした性格で、初対面の僕にも気軽に話しかけてくれた人だから、いまでもどこかで持ち前のコミュニケーション能力を生かして活躍していることだろう」と書いたが、僕の勝手な願望を裏切らない人生を歩んでいた。福岡出身ではないかという僕の推測も、その通りだった。「忘れ得ぬ人」には、そのように思う然るべき理由があるのかも知れない。

コバヤシからのメールで気になったのは、「何年か前にふと思い出してネットで検索してみたら、今は○○大学の教授になっていました」と、彼自身も、何年か前に彼女のことをふと思い出したことである。その後ほとんど接点のなかったという彼にとっても、人生の一場面に通り過ぎた「忘れ得ぬ人」なのだろう。

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忘れ得ぬ人

9月1日(木)

TBSラジオの「東京ポッド許可局」という番組の中で、「忘れ得ぬ人々」というコーナーがある。

「ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない。そんな、あなたの「忘れ得ぬ人」を送ってもらっています。」

という趣旨のコーナーで、僕はたまにラジオクラウドで聴いているのだが、これがそこはかとなくよい。

今日、たまたま聴いた中に、「青春18きっぷで北海道を旅したときに親切にしてくれたキヨスクの店員さん」についてのエピソードが紹介されていた。

「青春18きっぷ」、懐かしい響きだなあ。いまでもあるのだろうか。

その響きから、僕の記憶の扉が開いた。

大学に入学して間もない頃だったと思う。いまから30年以上前。

季節は忘れたが、大学の長期休業期間を利用して、高校時代の親友・コバヤシと、青春18キップで、西日本を一周する旅に出た記憶がある。

「青春18きっぷ」といえば、「大垣夜行」。東京から東海道線の普通列車に乗って、岐阜県の大垣まで行く夜行電車がある。青春18きっぷを使って関西に行くときには、東京を午前0時より少し前に発車するこの電車が必ずといっていいほど利用された。

僕たちもご多分に漏れず、この「大垣夜行」に乗り込んだ。「大垣夜行」は、ほんとうの普通列車で、2人ずつが対面する、いわゆる4人一組のボックスシートに座らなければならない。座り心地は、決していいものではない。

僕とコバヤシがある席に座ると、対面の座席に座った女性が「あら」と声を上げた。コバヤシはびっくりした顔をしている。

その女性は、コバヤシが通っている大学の、しかも同じサークルの先輩らしい。そりゃあ、びっくりするはずである。まさか、こんな場所で、知り合いがいるなんて思ってもみなかっただろうから。

しかし、「旅は道連れ世は情け」とはよくいったもので、ここで会うのも何かの縁。長い鉄道旅の道中、とくにやることもないので、コバヤシとその女性の先輩は四方山話をし始めた。初対面の僕も、やがてその会話に参加した。

その女性の先輩は、じつにサバサバした方で、とにかく話題が面白くて話が尽きない。僕も、女性とお喋りする機会なんてほとんどなかったから、つい調子に乗って話し始めた。ま、青春18切符を買って1人旅をするくらいだから、僕らみたいな人間と話をするのも、苦にならなかったのだろう。

なぜ、その女性の先輩が、1人で大垣夜行に乗っていたのか、よく覚えていないが、たしか故郷が九州、それも福岡だったと聞いたので、ひょっとしたら九州に帰省するために「大垣夜行」に乗ったのかも知れない。

なぜ、故郷が九州だということを覚えているかというと、いろいろと話しているうちに、その先輩の高校時代の担任の先生の名前が、僕が知っている先生だったからである。正確に言えば、僕は、ある雑誌で、その先生の文章を読んだことがあり、その先生の居住地が、九州だったのだ。そして、その先生の苗字が、めったに聞かない「次郎丸」だったので、僕はその先生の名前を覚えていたのである。

「変わった先生だったよ」

「そうでしょうね。文章からわかります」

人間、話してみるもんだ。どこでどんなつながりがあるかわからない。そんなこんなで、時間を忘れて3人で話し込んだ。

そうこうしているうちに終点の大垣駅に着いた。そのあと、すぐに別の普通電車に乗り換えるのだが、その女性の先輩とは、そこで別れたのか、それとも、僕たちの最初の目的地である倉敷(だったと思う)まで一緒に行動したのか、いまとなってはまったく覚えていない。

そこから先の旅はもう、記憶が茫洋としている。はたしてそんな旅をしていたのかどうかすら、あやしくなってきた。

しかし、大垣夜行のボックスシートで、3人で話し込んだことだけは、よく覚えている。あのようなサバサバした性格で、初対面の僕にも気軽に話しかけてくれた人だから、いまでもどこかで持ち前のコミュニケーション能力を生かして活躍していることだろう。もちろん、名前も連絡先もわからない。それ以来会うことはなかったし、これからも会うことはないだろう。なるほどこれこそが、一期一会の「忘れ得ぬ人」なのだろうと、いまになって思う。

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ある授業の思い出

7月21日(木)

「宅急便で本が届いているよ」と、実家から連絡があった。

「誰から?」

「高校の第○○期卒業生の××という人から」

第○○期、というのは、僕の代よりもはるかに上である。それに名前にも心当たりがない。

「開けてみて」

開けてもらうと、ある新興宗教団体の発行している本だった。

新興宗教団体、といっても、いま世間を賑わしている、あの団体ではなく、ま、それとちょっと近いのだが、政界に参入しようとしている、有名な団体である。

同窓会名簿をたよりに、おそらく片っ端から本を送っているのだろう。まったく、迷惑きわまりないのだが、いままでそんな本が送られてきたことはなかった。

これは邪推だが、ここ最近、政治と宗教の関係が取り沙汰されていて、そこに危機感を抱いた別の新興宗教団体が、私たちはあやしいものじゃございません、これを読んでいただければおわかりになるはず、と、片っ端から本を送る運動を行っているのではないだろうか?だとしたら逆効果だと思うのだが。

新興宗教団体、ということで思い出した。

大学1年生の時、宗教史の授業を受講した。その先生は、その分野ではたいへん有名な先生である。

授業の内容に、僕は面食らった。

ある一つの新興宗教団体を対象にし、その信者のもとにインタビューに行くことが、受講生一人ひとりに課されたのである。それも、学生ひとりにつき、5~6組の信者の家に行くのがノルマとして課された。

その新興宗教団体は、ほとんど聞いたこともない名前の団体であった。

当然、受講生のひとりである僕にも信者へのインタビューが割り当てられたのだが、住んでいる場所を考慮して割り当てられたものの、隣県に住む信者にもインタビューに行った記憶がある。交通費は自腹だったと思う。

一人ひとり、僕が電話でアポを取り、日程を調整して、個人のお宅にお邪魔したのである。いまだったら考えられない授業だよね。

インタビューの質問事項は、なぜその新興宗教に入信したのか、とか、入信して自分のどういうところが変わったか、とか、そういった内容だったと思う。

当然ながら、あらかじめその先生から新興宗教団体には話を付けてくれていたので、インタビューにはみなさん快く応じてくれた。

ご夫婦でインタビューに答えてくれる人もいれば、おひとりで答えてくれる人もいた。誰ひとりとして悪印象の人はいなかったと記憶している。むしろ僕の先入観とは違い、みんなごくふつうの人のように思えた。

目の前でインタビューしている僕を、その宗教に勧誘しようとした人は、誰ひとりいなかった。

それらをレポートにまとめて提出することで、単位をもらうことができた。

授業期間の最後の方で、先生の引率のもと、その新興宗教団体の集会に参加させられた。

都内23区のはずれのほうに、その新興宗教団体の施設があり、行ってみると、畳敷きのだだっ広い大広間みたいなところに、集まった信者がすし詰めの如く座っていた。

(信者の数がこんなにいたのか…)小さい団体ながら、老若男女さまざまな人がいることに僕は驚いた。

その集会で何をやるかというと、この宗教に入信してよかったこと、ためになったことを、何人かの信者がスピーチをする、というものだった。

教祖はすでに亡くなられたそうで、教祖の思い出話をする人もいた。狂信的、という印象はまったくなく、それぞれの人がじつに穏やかにスピーチをしていた。

僕が一番記憶に残っているのは、ある若い女性のスピーチである。この宗教に入信して、自分が変わったことについて述べていた。

公共施設とか他人の家とかのトイレをお借りしたとき、いままでの私は、用を足してトイレのスリッパを脱ぐとき、脱いでそのままにしていたのだが、いまは、あとに入ってくる人がスリッパを履きやすいように、スリッパの向きをトイレのほうに揃えてからトイレを出るようになった、と、そんな内容だった。

それを聞いていた僕は、それ、宗教とあんまり関係ないじゃん、と思ったのだが、逆にその宗教団体の本質は、そこにあったのではないか、とも思えたのである。

インタビューに答えてくれた方々が、どなたも快く迎えてくれたのも、おそらくそういうことなのだろう。

僕はその宗教に入信しようとは決して思わなかった。要は心の持ちようなのだ。心の持ちようによって行動が変わる、ということがわかれば、僕にとって宗教は必要ない、と確信したのである。一方で、その心の持ちようについて迷っている過程において、宗教が必要な人もいるのだろう、と。

いまはコンプライアンス的に、こんな授業はとてもできないとは思うが、僕にとっては貴重な体験だった。

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ふたたび、卒業文集、のはなし

5月20日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

自治体からの給付金4630万円が一人の口座に一括して誤送金されて、それを短期間のうちに一気に使い込んでしまった人のことが、いま話題になっているが、「アシタノカレッジ金曜日」のオープニングトークでは、その人の卒業アルバムや卒業文集をマスコミが公開したことに対する違和感を武田砂鉄氏が述べていた。

ああいう事件が起こるたびに、その事件の当事者が書いた過去の卒業文集がなぜかほじくり返され、マスメディアに平気で晒される。むかしからそうである。一方で個人情報保護と言いつつも、なぜか卒業文集という、人生で最も恥ずかしい文章を顔写真とともに、マスコミは何のためらいもなくさらしている。「ほら、小さい頃からこの人は、金に執着するタイプだったんですよ」と、まるで鬼の首を取ったようにニュース番組やワイドショー番組の司会者が説明する。なぜ攻撃の矛先は、叩きやすい方にばかり向くのだろう。

メインパーソナリティの武田砂鉄氏は、皮肉を込めて、「もし自分に何かあったときに、同級生に卒業文集を差し出させるのは迷惑がかかるから、あらかじめ公開しておきます。僕の卒業文集を公開したい人は、ここから引用してください」として、番組の中で、自分の高校時代の卒業文集の一部を読み上げた。

『出会い』と言うタイトルの卒業文集で、当然、テーマは高校時代に友人と出会ったエピソードなどを書くことが期待されていたのだが、偏屈な武田砂鉄氏は、当然、そんな純粋な文章は書けない。

「過去を振り返る上で、皆が大事と思わないことが、実は一番大事なことだったりする」

と、冒頭で、みんなが書くであろう文章のテンプレートをガツンと牽制した上で、

「なぜ修学旅行の落とし物のパンツは必ずブリーフなのだろう」

「バスの後ろに座っている人が、そのクラスの権力者なのだ」

「勝手に靴を借りておいて臭いとは何事だ!」

「昨日勉強していないと嘆いた人がいちばんいい点数をとった」

「しまった!尿検査、明日だった!」

「いい加減、マフラーはずしなよ」

と、ひたすら、「あるあるネタ」を羅列していたのである。これは明らかに、ふかわりょう氏やつぶやきシロー氏の影響をモロに受けている。

武田砂鉄氏らしい、偏屈な文章である。してみると、やはり卒業文集は、その人の人格形成を知ることのできる最もよい素材ということなのか???

武田砂鉄氏によると、卒業文集では、8割の人は素朴で素直な文章を書くが、1割の人は「ナナメ」の文章を書いて、1割の人はポエムを書くのだという。僕の高校では卒業文集は作らなかったので、小学校や中学校の卒業文集しか残っていないが、中学校の卒業文集を思い返してみると、その割合はやはり8:1:1だったと思う。

で、僕は当然、1割に属する「ナナメ」の文章を書いていた。ずっと前にもこのブログに書いたが、中学の思い出は一切書かず、「水戸黄門は実は漫遊していなかった」というテーマの文章を延々と書いていた。今から思うと、どうかしている。しかし、それが自分の人格形成に決定的な道筋をつけたことも、また事実である。

卒業文集、実家にまだ残っているだろうか。もし残っていたら、自分に何かあったときのために、同級生の手をわずらわせないように、このブログで公開しておこうか。しかし、自分の卒業文集がさらされたとしても、第三者が僕のそのときの心理を分析したり、気の利いたコメントを言うのは至難の業であろう。なぜなら、それを封ずるために書いた文章だからである。

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時刻表2万キロ

前回書いた、宮脇俊三さんの思い出というのは。

僕が小学校6年生のとき、ラジオ番組で初めて自分のはがきが読まれた、ということは、以前に書いた

このブログでも何度も登場している、NHKラジオの「おしゃべり歌謡曲」である。

ふだんは、パーソナリティーの近石真介さんと平野文さんがトークをしながら歌謡曲のリクエスト曲をかける、という番組なのだが、ごくまれに、ゲストを呼んで話を聞く、という週があった。僕のはがきが読まれたときは、まさにゲストを呼んで話を聞く週で、そのときのゲストが、宮脇俊三さんだった。

その頃、『時刻表2万キロ』が大ベストセラーだった。調べてみると、この本が刊行されたのが1978年だったから、僕が小学校4年生くらいのときか。番組の前半はゲストの話を聞いて、後半にはがきを紹介するという構成だったと思う。

ふつうだと、ゲストのコーナーが終わると、ゲストは帰って、そのあとにリスナーからのおたより紹介、という流れになるのだが、この番組ではなぜか、ゲストコーナーが終わっても、ゲストがそのまま居残って、近石真介さんの読むはがきに一緒になってコメントをしていた。

近石さんが僕のはがきを読み終えたあと、「こういうこと、わかるなぁ」と、いつもながらリスナーに寄り添うコメントをしたあと、

「宮脇さんは、どうですか?」

と、近石さんが宮脇さんに話を振って、宮脇さんも、コメントを言ってくれた。つまり、僕の他愛もない内容のはがきに対して、宮脇さんがコメントを言ってくれたのである。じつに朴訥とした語り口だったことは、いまでも忘れない。

それがきっかけになり、『時刻表2万キロ』を読んだ僕だったが、鉄道ファンにはならず、それを語る宮脇さんのファンになったというのが、いかにも僕らしい。

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夢の親子漫才

3月11日(金)

11年前の3月12日は、都内で行われる高校の後輩の結婚式に出る予定だった。

その前日、新幹線で上京しようとして、駅ビルで時間を潰していたときに、大地震に遭った。当然、僕は結婚披露宴に参加できなくなったが、披露宴自体は、翌日に予定通り行ったという。

ということは、あの2人は、今年で結婚11周年ということか。

その披露宴では、高校時代の親友のコバヤシと2人で、漫才を披露する予定だった。結婚する2人は、僕らが漫才を披露することを決して望んではいなかったのだが、コバヤシがむりやり、余興として漫才をやろうと提案して、2人は渋々承知したのである。まるで、三谷幸喜脚本・演出の舞台「BAD NEWS GOOD TIMING (バッドニュース グッドタイミング)」を地で行くような話である。わかる人だけがわかればよろしい。

で、僕は漫才の台本を書き、電話で何度も練習をした。それだけでは不安だから、3月12日当日も、披露宴会場の近くの公園で、練習しようという計画まであった。

しかし、それは幻と終わってしまった。この顛末については、このブログのどこかに書いたと思う。

僕からしたら、大勢の人の前で漫才をする、という夢が潰えてしまって、いまでもそれが残念である。

もうコバヤシと漫才をする機会なんて、ないんだろうな。あと、一緒にやるとしたら、こぶぎさんだろうか。でもこぶぎさんとは、このブログのコメント欄で漫才みたいなことをやっているからなあ。

で、ふと思いついたんだが、もうすぐ4歳になる娘と、「親子漫才」というのはどうだろう。

「ねえねえ、パパ、見て見て」

(手に写真を持っている)

「なに、それ」

「保育園の写真」

「何が写ってるの?」

「おともだち」

「どんなおともだち?どれどれ」

「えっとねえ、これがぁ~、エイシ君」

「エイシ君」

「これがぁ~、ハル君」

「ハル君ね」

「これがぁ~、セイナちゃん」

「セイナちゃん」

「これがぁ~…、あれ、誰だっけ」

(といって、メガネをおでこにずらして写真を凝視する)

「ちょっとちょっと!なんでメガネをおでこのほうにずらすの?」

「だってパパがいつもやってるでしょ」

「あのねえ、それはパパが老眼だからだよ!君は老眼じゃないでしょ。頼むから保育園でやらないでよ、恥ずかしいから」

「おお、ミホミステイク!」

「それは阿佐ヶ谷姉妹のミホさんのセリフでしょ!」

「結局、おばさんなのよね」

「あなた、おばさんじゃなくて保育園児ですよ!いい加減にしなさい!」

「どうも、失礼しました」

…的な、漫才。いま思いつきで考えただけなので、もう少し膨らませて4分くらいのネタにしたい。

しかし披露する機会がない。

そういえば、ラッパーのダースレイダーさんが、余命5年を告げられてから今度の4月で5年が経ち、「満期5年」のイベントをやると言っていた。

僕も大病を患ってから、今度の7月で5年になる。僕もダースさんにならって、「満期5年」のイベントでもするかな。

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テレビで会えない芸人

2月17日(木)

病院での診察が終わり、車で職場に向かうと、ちょうど文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の時間で、聴きながら運転していた。

今日の「大竹メインディッシュ」のゲストは、芸人の松元ヒロである。いま、「テレビで会えない芸人」というドキュメンタリー映画が話題になっている。

松元ヒロは、以前「ザ・ニュースペーパー」というコントグループに属していて、テレビでよく見ていた。たしか、フジテレビで日曜のお昼にやっていた「上岡龍太郎にはだまされないぞ!」(1990~1996年)という番組の中で、ザ・ニュースペーパーがコントをやるコーナーがあり、そこで松元ヒロとレギュラーの大竹まことは顔を合わせていたんじゃないかな。

…と思ったら、「お笑いスター誕生」時代からの芸人仲間だったことを、ラジオを聴いてはじめて知った。

ラジオのトークの中では、松元ヒロと立川談志、永六輔との交流について語られていた。

松元ヒロがむかしある劇場で一人でスタンダップコメディをやっていたら、客席で見ていた立川談志が終演後に感激のあまり壇上に上がり、松元ヒロを激賞した、というエピソードで、松元ヒロは談志がそのときに語った言葉を、おそらく一言一句忠実に再現して語ってみせた。その語りじたいがじつに見事だった。

永六輔の最晩年、病気のためにもはや直接会うことがかなわなくなった松元ヒロに対してひと言、「9条をよろしく」という言葉を残した。

それで思い出したのだが。

前の職場にいたときだから、いまから15年くらい前のことだったと思う。

ちょうど「9条の会」が盛り上がりを見せていた時期で、うちの職場でも、その支部みたいなものが作られ、僕も参加していた。

そのときの支部長が、T先生といって、学部長もつとめられた方である。T先生は厳格な法学者で、いつも背広姿で、紙を七三に分けた、まことに品格のある先生だった。物腰は柔らかいが、ときに毅然とした態度をおとりになる方で、言うべきことは言う、という、学部長としても尊敬すべき先生だった。

うちの職場で「9条の会」を盛り上げるために、何かイベントをした方がよいのではないか、という話し合いをしたことがあった。そのとき僕も、その話し合いの末席に連なっていた。

いろいろと案が出されたが、リーダーのT先生は、

「松元ヒロを呼んだらいいんじゃないか」

と提案した。「松元ヒロがいい、松元ヒロがいいよ」

僕は意外だった。厳格なT先生が、松元ヒロのことを知っている。知っているばかりか、その芸風を認めて、ぜひうちの職場に呼んだらどうか、と提案したのである。

いま思うと、松元ヒロが、はたしてどれだけ大学生に知名度があるのか、そしてどれだけ若い人の心をつかむかどうかは、わからないのだが、それでも、あの確信に満ちたT先生の発言は、いまでも時折思い出すのである。

結局、その夢は叶わなかったが、いまになってみると、T先生は、じつに先見の明のある方だったのだと、しみじみと感じるのである。

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人生を決めるひと言

前回書いた、出身高校の同窓会が、高校創立80周年を記念して編集した本の中に、いまはジャズピアニストとして活躍している僕の1学年上の先輩のインタビューが載っていた。

そこに、音楽のモリ先生とのエピソードが語られている。

その先輩は、高校に入ると、まったく勉強をせず、洋楽やジャズを片っ端から聴く毎日だった。高3になっても、六本木や新宿で遊んでいて、先生からはどうしようもないヤツと思われていた。

唯一違ったのが音楽のモリ先生だった。高3のあるとき、自分で作曲したものをみんなの前で発表するという課題が出た。自分は人前でピアノを弾くのが恥ずかしいので適当に家でピアノを弾いたのをテープに録音して提出したら、先生がみんなに聴かせて、

「おまえ、ちょっと来い」

と言われて、怒られるのかなと思って先生のところに行くと、

「おまえは音楽をやれ、ジャズで生きていけ」

と言われたという。

いよいよ進路を決めるとき、アメリカにバークリー音楽大学というジャズの教育機関があることを知り、親には反対されたが、唯一モリ先生だけが、

「おまえはバークリーへ行け」

と背中を押してくれた。そこから人生が大きく動き始めたというのである。

僕は在学中に、この先輩の存在を知らなかったし、かなり有名になってからその名前を知ったくらいだから、その人となりもわからないのだが、インタビューを読む限りでは、在学中はかなり異端な生徒だったんだろうと思う。そんな中でも、モリ先生はその才能を見抜いていたのだ。

その先輩が高校を卒業した翌年、モリ先生は病気で亡くなった。「CDデビューしたことくらいは報告したかった。喜んでくださったに違いありません」と語っている。

この本のほかのページによると、モリ先生は、1986年3月、病気により49歳の若さで亡くなったとある(僕の記憶では1987年であった気がするが…)。僕は、48歳の時にモリ先生と同じ病気になり、いまも生きながらえている。35年の間に医学が進歩したということなのか、あるいはたまたまなのか、よくわからない。

そして僕の恩師もご健在である。恩師に自分の近況をたまにお伝えできるというのは、ありがたいことである。

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謎の依頼だった

6月3日(木)

仕事部屋の机を少しずつ片づけていたら、書類の「層」になっている中から、ある会報を見つけた。

その会報は、書道を研究しているある組織の会報で、6年ほど前に、書道に関するエッセイを書いてほしいと、僕に依頼が来て、その会報にエッセイを書いたのであった。僕はそのことをすっかりと忘れていた。その会報ができた時に、先方から複数の部数が送られてきたのである。

それで思い出したのだが、僕は、その組織とはまったく関係がなく、知り合いがいたというわけでもない。どういう経緯で僕に書道についてのエッセイを依頼したのか、まったく覚えていない、というかわからない。そもそも僕は、書道の世界とは縁もゆかりもないのだ。

まことに不思議な依頼であるなあと思いながら、当時、依頼されるがままに原稿を書いたことを思い出した。

数百字程度の、ほんの短い文章だったが、いま読み返してみると、我ながら実によく書けている。エッセイの最後では、僕が学生時代に耽読した福永武彦のある小説を引用し、文学的な余韻を残している。エッセイのタイトルも、福永武彦へのオマージュに溢れている。

A4見開きで4頁のリーフレットのような体裁に、6名の執筆者が名を連ねている。どの方も肩書きのりっぱな方ばかりで、そのうちの一人は、僕が何度かお目にかかったことがある人だった。6名の中で唯一、その人となりを知っている方の書いたエッセイは、僕が何度かお目にかかった時の印象を裏切るものではなかった。僕だったら絶対書かないだろうな、というサムい書き出し(つかみ)で始まっていて、短いエッセイは、なんと人の心を端的に映し出すものだろうと、感慨深く思ったものである。

送られてきた会報は、2種類あった。日本語版と、中国語版である。わざわざすべて中国語に翻訳しているバージョンもあるのである。これだけ労力をかけているということは、会報の読者として中国語を母語とする人たちも想定されているということなのだろうか。いったいこの会報の読者は、どのくらいいるのだろう。

気になった僕は、インターネットで、この会報のことを調べてみた。まず、会報を出している組織のホームページを見てみることにした。

ところが、そこには会報のことがまったく書かれていない。レポジトリになっているかなと期待していたが、それどころではなかった。

廃刊になってしまったのかな、と思い、次に、その会報がどのような機関の図書館に所蔵されているかを調べるサイトがあるので、調べてみた。

すると驚くことに、その会報は、その組織が所属する図書館にしか置いていない、という結果が出た。

つまりこの会報は、いずれの公的機関の図書館にも、送付されていないのだ。公式ホームページにも記載がないということは、ほとんど知られていない会報といってもよい。

こんなふうに、僕には人知れず書いたエッセイがけっこうあって、自分でも忘れてしまうほどである。

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エンタメは私を救う、あるいは…

エンタメは我が身を助く

もしくは、

人生変えちゃうエンタメかもね

…と、タイトルに迷った。

5月18日(火)

月に一度の全体会議で、すっかり疲弊してしまった。

そういえば、先日ラジオクラウドで聴いたジェーン・スーと堀井美香アナウンサーの「OVER THE SUN」(ポッドキャスト配信番組)で紹介されたメールは、なかなか衝撃的だった。メールのテーマは「人生の転機」。

東北地方の田舎町で、10歳の時に人生に絶望し、28歳まで軽い引きこもりだった女性が、ある日どういうわけか思い立ち、渋谷で上演されている「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン」という芝居を見に行くことになる。理由はわからない。別につかこうへい作品のファンでも、主演の阿部寛のファンでもないのに。

ところがその1本の芝居が、彼女の人生を変えた。

彼女は芝居を観ている2時間、ずっと泣きっぱなしだった。芝居を観て、自らの人生をふりかえり、早く終えてしまいたいとばかり思っていた自分の人生を、「それでも生きていかなくてはいけないのだ」と強く思い直すようになる。

そこから彼女は、どうやったら一人で生きていけるかを真剣に考えるようになる。

東北の田舎町では、職歴のない28歳の女性を雇ってくれるところはない。そこで、そのころ広がり始めた、手っ取り早く仕事をもらえそうなパソコンの文字入力を覚えはじめ、東京へ出て派遣社員をしながら正社員の口を探し、ITベンチャー企業に潜り込む。しかしITベンチャー企業のなかには、経営が危うかったり無理な働き方をさせたりするところも多い。会社が潰れそうになったら、ほかのIT企業に移り、ということをくり返し、10年間で少しずつスキルアップしながらマシな会社へと転職し、8回転職した末に、いまの会社に落ち着き、数年前には自力でマンションを買うことができるまでになった。

…どうも文章だと伝わりにくい。やはり堀井アナのメール読みでないとね。

とにかくここで言いたいのは、1本の芝居がその人の人生を変えた、ということだ。

1本の芝居に救われた人生。それでもエンタメは、不要不急と言えるのだろうか?

「人はパンのみにて生くるものにあらず」

そういえばむかし、こんなことがあった。「前の前の職場」でのことである。

詳しい経緯はすっかり忘れてしまったのだが、その日は学生たち数人と、外で何かイベントを計画していたのだが、あいにくの大雨で、外で行事をすることができなくなった。

仕方がないので、学生たちと一緒に演劇のDVDを観ることにした。僕がそのときに持っていた三谷幸喜作・演出の「バイマイセルフ」というタイトルの演劇と、「グッドニュース・バッドタイミング」というタイトルの演劇のDVDだったと思う。

視聴覚室に大きなスクリーンがあるので、せっかくだからそこに投影して観ることにしよう、ということになった。

こういっては失礼だが、20年前の田舎町の学生だから、演劇の舞台というものを、それまでほとんど観たことがない。

観終わったあと、学生のうちの一人が、ひどく興奮しながら、

「私の人生、変わっちゃうかも」

と言った。どちらかと言えば地味な印象の学生だったが、演劇を観て衝撃を受けたらしい。

もう名前もすっかり忘れてしまったが、いまはどうしているのだろうと、堀井アナが読んだメールの内容を聴きながら、そんなことを思い出した。

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