思い出

野心家たちの競演

さすがにもう何も書くことがない。

いまのもっぱらの関心事は、「日の丸弁当を食べることは国旗損壊罪に当たるのか」ということである。もし国旗損壊罪に当たるのであれば、日の丸弁当は「梅干しどまんなか弁当」と名称を変えるか、あるいは白米のど真ん中に梅干しを乗せることを法律で禁止するかの、どちらかである。誰か国会で質問してくんねえかなあ。

という屁理屈はさておきですよ。

僕が大学生のころ、テレビ朝日で「プレステージ」という深夜の生放送番組をやっていた。月曜~木曜のたしか深夜1時からの番組で、明け方まで放送していた。司会者は曜日ごとに違っていて、いまから思えば、いずれも上昇志向の強い野心家たちが司会をしていた。

最近そのことを思い出して、運命とはまことに不思議なものである、と感慨に浸った。

何曜日か忘れてしまったが、ある曜日の司会者は、作家・飯干晃一の娘の飯星景子さん、それに蓮舫さん、高市早苗さんの3人だった。

僕はその番組をよく観ていたが、番組を仕切るのはおもに飯星さんで、ほかの2人は茶々を入れる役割だったと記憶する。

蓮舫さんと高市さんは、のちに政治家になったことはご承知の通りである。

しかも、蓮舫さんは野党政治家、高市さんは与党政治家、というふうに別々の道を歩むことになったのである。

そしてこのたび、高市さんは総理大臣にまで登りつめた。

いま、蓮舫さんと高市さんは激しく対立している。お互い譲らない野心家。2人は、あの番組のことについていまはどう思っているのだろう。なかったことにされているのだろうか。

ちなみに、僕も大学生の頃、この番組に出演したことがある。もっとも、飯星さんや蓮舫さんや高市さんが司会の曜日ではない。別の曜日である。その思い出話は以前に書いた

僕はこの番組に出演したことがきっかけで、「野心なんかくそ食らえ!」と思うようになった。

人間の運命とは、じつに不思議なものである。

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弘法は筆を選ばず

10月26日(日)

なんにも書くことがないので、高校のクラス会のことについてもう少しこすらせていただきます。もはや誰も関心がないだろうけど。

グループLINEの通知をオフにしたので、精神的にはずいぶん楽になった。あとは、頃合いをみて退会しようかと思っている。

「プロ写真家」のクラスメートによる写真撮影指南は、今日の深夜に至るまで続いた。専門用語の連続に、ド素人の僕にはサッパリわからないところがあるのだが、「写真を見たときに、見る側がエネルギーを感じ取るような力が備わった写真が撮れるとベスト」「またその一枚を見た時に、情景をイメージさせられるような写真だと良いでしょう」は、精神論を言っているのだなということだけはわかった。僕がバカだから意味は理解できなかったけど。

カメラの機種についてはとくに触れていなかったけど、撮影の時に必ず双眼鏡をもっていくようにというアドバイスがあり、双眼鏡ならこれを買えという指定まであった。ということは、カメラもまた、プロ仕様のいいカメラを揃えなくてはならないという暗黙の示唆があるものと思われる。この点は僕の勘違いかも知れないが。

いい写真を撮るには、その技術に耐えうるいいカメラを用意しなければならない、ということは、いいカメラでないとプロのような写真が撮れない、ということ?つまり写真の善し悪しは結局はカメラの善し悪しに左右されるってこと?という批判は、多分しちゃいけないんだよね。

そんな批判をしたらお前は何もわかっていない、と叱られるだろう。

なぜなら、むかしから「弘法は筆を選ばず」という格言があるからである。当然、写真芸術の世界も、カメラの善し悪しなど関係がないのだ。

音楽の世界もそうだ。以前に書いたことがあったが、むかしNHKの番組で、老境に入ったYMO の3人が、しょぼい楽器で「ライディーン」を戯れに演奏したことがあった。この時の演奏がすばらしく、視聴者に絶賛され、いまでも「どてらYMO」の名で語り継がれている。これはまさに現代の「弘法は筆を選ばず」の最適な事例である。

…とここまで書いていて僕が勘違いしていたことに気づいた。「弘法は筆を選ばず」は凡百の「プロ」に対して言った格言ではなく、「天才」に対して言った格言なのではないか、と。

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肩書きの多いクラスメート

10月25日(土)

昨日のクラス会終了後から、高校のクラス有志のグループLINEの盛り上りが止まらない。

深夜から翌日の午後まで、着信を知らせるバイブがずっと震えっぱなしなのである。

原因は、例の「一人旅愛好家」による投稿である。

相変わらず大量の写真がアップされている。

その過程で、彼の肩書きが複数あることが、本人により明らかにされた。

「プロ写真家」と「プロ料理家」。「プロ」というくらいだから、それで収入を得ているということである。

「嘘じゃない証拠に仕事道具の包丁コレクション送っておきます」

と、ご丁寧に包丁コレクションの写真も送られてきた。

「私は確かに『プロ写真家とプロの料理家』ですが副業でやってて本業は別にあります」

とも書いていて、本業はまた別にあるらしい。

そのあと、別のクラスメートが撮った「鳥の写真」をとりあげて、素人と一緒にしないでほしいと、やんわりディスっていた。

そのあとも五月雨式に今の自分の肩書きを写真とともに紹介していた。曰く、「自動車修理工房」「走り屋」「モータージャーナリスト」「その他」。

「その他」ってなんだよ(笑)

そこにはご丁寧にも車を運転している動画も添えられていた。

そのあとには次のようなコメントが書いてあった。

「あまり自身の正体明かすの好きじゃないですが、皆さまも人生楽しんでもらいたいと思ってね」

おいおい、「自身の正体明かすの好きじゃない」って、さんざん正体を明かしてるじゃん!(笑)

もうこうなると可笑しくて可笑しくてたまらない。本当は正体を明かしたくてたまらないんじゃないの?(笑)

最後にはこんなコメントで締められていた。

「もう私にはやり残した事は無いです。いつ死んでも良いように」

これにはちょっとカチンと来た。健常者の論理だ。僕みたいに生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人間にとっては、いつもそのことで葛藤している。それをこんなふうに軽々と言ってしまわれると、複雑な気持ちがする。

ともあれ、リア充ぶりを惜しげもなく披露してくれたクラスメートの写真と文章には大いに楽しませてもらった。僕はこういうツッコミどころ満載の文章が大好物なのである。

同時に、別のクラスメートが趣味でアップした「鳥の写真」を、いかにも「プロ写真家」の立場からこてんぱんに非難し、「きちんと真面目にやってください」と言ってのけたのはさすがに不愉快きわまりないことであった。プロ意識とはそういうものではない。

しかし「素人写真」と非難されたそのクラスメートは、ちゃんと大人の対応をしていた。みんなあたたかい人たちだなあ。僕だったら頭に来てグループLINEからすぐに退会するのに。

そういえば、高校3年間、彼とは一言も会話を交わしていなかったことを思い出した。

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クラス会の日だった

10月24日(金)

今日は高校のクラス会の日だったようだ。

新宿で飲み会をしたらしく、写真が送られてきた。出席したのは7人。

写真を見ると、みんなそれなりに年齢を重ねていることがよくわかるが、注目したいのはそこではない。

写っているほぼ全員がテニス部だったのである。1人だけサッカー部がいた。

完全に体育会系の人たちばかりである。高校時代にもほとんど接点がなく、かえすがえすも、なぜ僕がそのLINEグループに入っているのかがまったくわからない。僕は目立たない文学青年だったに過ぎない。だからあのメンバーの中で今さら何を話せばいいのかもわからない。

まことに世の中は不可思議なことばかりである。

そしてそして。

深夜に大量の写真をグループLINEにアップする者がいた。「一人旅愛好家」と自ら名乗っているヤツである。最近訪れた場所の風景写真を大量にアップしていた。そればかりか、「人生は一人旅であると知ろう」というスピリチュアルな格言も添えている。

あいつ、昔はそんなヤツじゃなかったはずなのにな。最近になって一人旅に目覚めたのだろうか。そしてスピな格言にハマってしまったのか?

もう一人、それに負けじと、自分が撮影した鳥の写真をアップするものが現れた。お前は池中玄太か!と突っ込みたくなってしまった。

僕が不思議に思うのは、それをグループLINEとはいえ、どうだ!とばかりに披露するという心理である。人間、歳をとると、自分の趣味を披露したくなるのだろうか。僕もこうしてブログを書いているので他人様のことは言えないが、別にむかしのクラスメートに読んでもらおうとは思わない。むしろ一切宣伝をしない。読んでくれる人に届けばいいだけの話だ。

しかし彼らの気持ちもわかる。久しぶりにクラスメートに会って、したたかにお酒に酔って、気分が高揚したのだろう。今の自分を知ってもらいたくて誇りたくなったのではないだろうか。そう思うと、彼らはいまも高校のクラスメートを大切に思っているのだろうなと微笑ましくなる。冷たい人間なのはむしろ僕のほうだ。

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救急車の思い出·後編

(承前)

Bさんが寝ている和室に行くと、Bさんが息苦しそうに呼吸をして、大汗をかいて布団に入っている。これはたしかに尋常ではない。学生たちが「様子がおかしい」と僕の部屋に駆け込んできたことは、決して大げさなことではない。

「あのぅ……」

Aさんが口を開いた。

「ひょっとして、私の霊感がうつったんじゃないでしょうか?」

霊感がうつる?霊感って、伝染するものなのか???

とにかくBさんをこのまま放っておくわけにはいけない。この時間だと病院はどこも閉まっているし、これで何か不測の事態が起こったら僕の責任だ。

僕は救急車を呼ぶことにした。

実習中に救急車を呼ぶなんて、前代未聞のことである。しかしBさんに何かあっちゃいけない。

救急車が来た。僕は救急車に同乗した。ほかに、Bさんと親しいCさんも同乗したと記憶する。

「とりあえず一晩入院しましょう」

救急車で運ばれた病院の先生が言った。「ついては入院の承諾書に署名してください」

ふつうなら家族が署名するところだが、代理で僕が署名するしかなかった。

「あのぅ……」

Bさんが息も絶え絶えに口を開いた。

「この私の携帯電話の一番上の電話番号にかけて、事情を説明していただけないでしょうか」

「誰?ご家族?」

と聞いたら、Bさんは言いにくそうに、

「彼氏です」

と言った。

おいおい、家族に連絡する前に彼氏に連絡するのか?

僕がかけるとややこしくなるため、同行したCさんに電話をお願いした。

僕は、その彼氏はBさんをそうとう束縛するタイプなのだろうと推測した。だから家族を差し置いて、いの一番に彼氏に電話したのだ。

その晩は旅館に戻り、翌朝、再びCさんと病院に向かった。Bさんはすっかり回復していて、安堵した。退院の手続きをとり、ほかの学生たちと合流した。やれやれ、一件落着である。

僕はその翌月の9月に職場を移ったから、それ以来、AさんにもBさんにもCさんにも会っていない。

でも今ならはっきりと言える。

あれは霊感なんかじゃなかった。熱中症だったのだ、と。

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救急車の思い出·前編

リハビリをするほかは、もう毎日がヒマでヒマで、書くことが何もない。いくら捻り出そうとしても、何にも思い浮かばない。

ヒマだと、自分がどんどん老け込んでゆくことがわかる。浦島太郎の玉手箱というのはこういうことのメタファーなんだなということがよくわかる。

このたびの入院では、初めて救急車に乗った。

(とうとう俺も救急車のお世話になってしまったか…)

と気落ちしていたのだが、待てよ、救急車に乗ったのは初めてではないぞ、と記憶がよみがえってきた。

それはもう25年ほど前のことになる。僕がまだ「前の前の職場」に勤めていた時のことである。

毎年、夏の8月に、学生を連れて関西方面に実習に行くことになっていた。実習先の京都に行ったとき、名前がすぐに思い出せないので仮にAさんとしよう、そのAさんがこう言った。

「私、霊感が強いので、京都に行けるか心配です」

たしかに京都は歴史的に大きな戦乱がいくつもあり、その霊が跋扈していそうな古都である。でもいくらなんでもそれで何かあるわけではないだろう。

だが僕の見通しは甘かった。養源院というお寺をめぐっていたとき、Aさんがとたんに気分が悪くなったのだ。

養源院には血天井というものがある。この血天井とは、伏見城の戦い(1600年)で自害した徳川の将士らの血で染まった廊下を、弔いのために天井に上げたものである。

伏見の戦いで亡くなった者たちの霊を感じとったということなのかぁ??

養源院を出た途端、Aさんは座り込んでしまった。僕はAさんが霊感が強いという告白を、過小評価していたのだ。

それでもしばらく経つとAさんは復活し、なんとか無事に京都の巡見を終えた。

その日の晩。

京都の旅館に泊まり、そろそろ寝る時間という頃に、学生たちが慌てた様子で僕の部屋にきた。

「先生、大変です!明らかに様子がおかしいんです」

「誰が?Aさんか?」

「いえ、Bさんです」

「Bさん???」

どういうこっちゃ!Bさんも霊感が強かったなんて聞いてないぞ!

僕は慌ててBさんのいる部屋に向かった。

(つづく)

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「1.同窓会幹事引き受けるってよ」byI、第二章中 同期生列伝上

第二章中 同期生列伝上

 「師匠本紀」の送信後、すぐ続きに取りかかる予定だったのだが、職場でちょっとした「トラブル」が発生した。四捨五入して説明すると、直属の上司が今年度一杯で退社することが決定し、私が急遽後任になることとなってしまったのだ。そんなわけで、先週は話し合いのオンパレード。一切身動きが取れなかった(怒涛の展開だったなあ。そして、管理職にだけはなりたくなかったんだけどなあ。私、出世願望ないんですよ)。人生とはままならないものだ、と嘆息してばかりの今日この頃である……と、こんな前置きばかり書いていてもしょうがない。我が同期生たちに話題を移そう。

 ……学生時代の思い出といったらいくつかの情景が思い浮かぶ。その中でも特に印象的な場所なのが学生研究室である。朝方、昼時、夕刻、深夜と、思い出の場面はほぼ全時間帯。そこに集っているのは、α・β・γ三研究室の面々。メンバーは流動的で、十人近く集まっていることもあれば、僅か数人のみの場合もある。特に、学部の四年生に上がった直後あたりから卒業するまでの約一年間、月に一、二度、学生研究室でささやかな宴が催された。そして、出席者が多いときには決まって、鬼瓦先生の御臨席があった。

 前回はお師匠様方の銘々伝であったが、今回は、同期生たちを『史記』列伝風、あるいはプルタルコスの『英雄伝』風に書き綴っていこうと思う(全然同窓会本編に行き着かないなあ・苦笑)。

巻一 I斑列伝

 同期生たちの中で、私が最初に親しくなったのがI斑である。小柄で口の達者なラガーマンであった。初対面時から強烈なインパクトを放っている男で、当初は何とも近付き難い存在であった。が、ある日の帰宅時、部屋の鍵を開けようとしているところでI斑に声をかけられた。

「へえ~、おまえここ住んでんだ」

 立ち話もなんだからと、自室に招き入れた……のではなく、奴はそのまま勝手に入ってきた! なんて厚かましい奴! 訊くと、同アパート内に別学部のラグビー部員がいるのだという。これがきっかけとなって、私は時折I斑とつるむようになる。私とI斑は対照的な一対であった。一方は、爆音を響かせながらバイクを乗り回すアクティブの極みのようなラガーマン。かたや、連日大学図書館に出没して乱読の限りを尽くす、ネガティブの塊の如き本の蟲。水と油のような関係性かと思いきや、何故か不思議と波長が合った。かくて、当時の我が母校周辺の国道では、小柄なライダーの背中にしがみつく、やや長身のどんくさい学生の姿が目撃されることとなる。

 当時のI斑にとって、私の存在は大袈裟でなく「生命線」そのものであった。なにしろラグビーとアルバイトの新聞配達に明け暮れすぎて、全く授業には出て来ず、一般教養の単位を落としまくっていたのであるから。必須科目だけは落とさないよう、私が試験日やレポート提出日を伝達する。強面だが愛嬌があって要領のよいこの男は、必要最低限度の単位だけは取得していった。

 二年次、私はβ研究室、I斑はγ研究室の門を叩いた。自然、履修科目は類似してくる。I斑の意図は明白であった。私と同一の講義を履修すれば、いざという時役立つだろうとの算段である。最初の一ヶ月程は真面目に出席していたI斑であったが、ある日突如音信不通になった。メールを打ってもなしのつぶてである。やむなく奴の自宅に言ってみると、そこには満身創痍のむくつけき小男の姿があった。

「いやあ、試合で骨折しちゃってさあ。しばらく授業は休むわ」

 悪びれもせずそんなことを言ってヘラヘラ笑う松葉杖野郎。私は溜め息一つ残して大学に戻ると、I斑の代わりにγ研究室のY先生の元へ赴き、事情を縷々説明した 。

 話を聞き終えたY先生は、「面倒は見ないよ」、と冷たくおっしゃった。それはそうであろう。I斑はY研究室のゼミのレジュメ発表をすっぽかし、日程に穴を空けていたのだ。激怒されても仕方ない。私はI斑の代わりに頭を下げて辞去した。結局I斑は二年次はほとんど学部棟に顔を出さずに過ごした。私も時折顔を合わせる程度となった。

 三年生に進級する直前、I斑が突如私のアパートに乱入してきた。なんとしてもあと二年で卒業したいから手を貸してくれ、というのである。

「でも、もうY先生はおまえの相手なんかしたくないと思うよ」

「だから、おまえんとこの研究室に移りたい。A先生とK先生に口利いてくれねえ?」

「えー……なんて言われるかな…… 」

やむなく、私はA・K両先生に事情を話し、I斑の移籍を相談した。当時、我が研究室は「困ったときの駆け込み寺」と呼ばれていた。最初の所属先から見放された学生の引き取り先扱いされていたのである。両先生は、

「必ず授業に参加すること」

「ゼミに穴は空けないこと」

「移籍前にY先生のところに直接顔を出し、きちんと了承を得てくること 」

という三条件を提示した。切羽詰まっていたI斑は、全ての条件を呑むと約束した。が、三番目の条件のみ逡巡した。もじもじしながらI斑が言う。

「悪いんだけどさ、付いてきてくんない? 」

「はあっ???」

 以外にも小心者なのである。私も付き合いの良いことに、Y研究室まで付いていってやった。さすがに一緒に入室するのはどうかと思ったので、I斑の入室後、しばらく室外で待つことにした。十数分で終わるだろうと思いきや、豈図らんや、待てど暮らせど戻ってこない。これはこってりやられてるんだろうな。

 ……約一時間が過ぎたあたりで、げっそりしたI斑が深々と頭を下げながらY研究室から退室してきた。相当絞られたらしい。Y先生は怒鳴り付けたりはせず、こんこんと教え諭し、最後に、「もしもβ研究室に迷惑をかけたら、A先生とK先生以上に、僕が許さない」と言い放った後、解放してくれたのだそうだ。

 以来、I斑は変わった(と思う)。私と、それ以外の幾人かのサポートもあって、これまで取得していなかった単位をきちんと取り、ゼミにも欠かさず出席するようになったのである。元々勘所もよく、ユニークな意見も出せる男ではある。研究室内でも独自のポジションを築き上げることに成功した。このまま卒業論文まで一直線に進んでくれればよかったのだが……四年次、またまた異変に見舞われることになる。

巻二 末っ娘一号(S藤)列伝

 「末っ娘一号」ことS藤は、β研究室のメンバーである。私とは所属が全く同一の、正真正銘の同期である。指導教授はA先生。私とは腐れ縁と言ってもよい。学部の一年次から面識があり、行動を共にすることが多かった 。

 知り合ったきっかけは、一年次の必須科目だった「プレゼミ」である。これは、所属先が決まる前の学部一年生にゼミの雰囲気を味わわせ、レジュメの作り方、発表のノウハウなどを伝授するというものであった。メンバーと担当講師はランダムに選ばれ、学生側に選択権はなかった。私が所属することになったのは、外国文学が専門のF先生のプレゼミであった。授業初回時集まったのは、私の他、既述のI斑、末っ娘一号、それから後述することになるT、ほか五名の合計九名。私からしてみれば、これが最初の「ゼミ仲間」であった。この時のメンバーとは何故か縁があったようで、約半数がα・β・γの学生研究室で再集結することになる(それ以外の数名とも交流が続いた)。ちなみに、私はこのゼミを主宰したF先生に大変可愛がられ、所属研究室選択時に大いに迷うことになる。私にとっては、既述の五人の師匠の次にお世話になった方であった(F先生については、後にもう一度だけ言及する予定である)。

 さて、S藤のあだ名である「末っ娘一号」というのは、文字通り彼女の生まれが「末っ子」だったから、というのがその由来である(「二号」については後述)。私が面白がって命名した。何かにつけ私を「兄」に見立てて手伝ってもらおうとする姿が、私の実の妹の言動に酷似していたのである。ある時私がTに、「まるで末っ子が増えたみたいだ」とぼやいたのが命名のきっかけであった。おそらく彼女はそう呼ばれるのは不本意であったろうが、そのうち諦めてくれた。

 末っ娘一号と私の間には会話の「お約束(テンプレ?)」というのがあった。

「ねえねえ、聞いて聞いて~」

「……聞きましょう(返しには、「伺いましょう」、「直答を許す」などいくつか別バージョンがあった)」

「一昨日ね、家のトイレで用を足してたらケータイが鳴ったのね」

「……慌てて出ようとしたら、便器の中に落っことした、とか?」

「えっ!? なんで分かったの!? そう、落っことしたのよ!」

「……ご、御愁傷様です」

「で、汚いじゃん。思わずお風呂場で洗ったのね」

「壊れるやん……」

「そう、壊れたのよ! もう最悪! 」

「でしょうね……」

「というわけで、機種変したので、みなさん、もう一回アドレスを教えてくださ~い 」

 ……これに類するやりとりを、誇張ではなく百回は繰り返したと思う。横で見ていたTやYが忍び笑いしていたのを思い出す。なんとも平和な光景である。我が学生研究室定番のやりとりであった。

 残念なエピソードばかりでは気の毒なので、まともな逸話も。末っ娘一号は大変な努力家であった。納得のいく卒論を書きたかった末っ娘一号は、卒業論文に必要な文献を収集するため東京にまで出向いたり、必要な語学をマスターしようと語学教室に通ったりと、コストと労力を惜しまない一面があった。その甲斐あって、彼女なりに満足のいく卒論が出来上がった。

 卒論提出から一ヶ月後、口頭試問が執り行われた。学籍番号順に進んでいったので、私が最初、末っ娘一号が最後となった。いよいよ彼女の番。「緊張する~」と言いながら試問会場に向かっていった。私は標準的な時間で終わったので、彼女も同程度で終わるだろうと踏んでいたが、待てど暮らせど帰ってこない。時計の分針が一回りした頃に、ようやく学生研究室に戻ってきた。

「お疲れ、長かったね」

「……だって、議論が噛み合わないんだもん」

「えっ?」

「この後、延長戦だから、よろしくね」

 試問後、A先生、N先生、私、末っ娘一号でささやかな打ち上げが催された。酒と料理の味は覚えていない。両先生と末っ娘一号が口頭試問の延長戦を開始したからである。A先生は苦笑い、そしてN先生はタジタジになっている。第三者である私が聴く限り、軍配はN先生に上がりそうなのだが、末っ娘一号が納得しないのである。

「……N先生はそうおっしゃいますけど、私はやっぱり違うと思うんですね」

「でも、この史料からはそうは読めないでしょ?」

「その史料だけだとそうなんですけど、こっちで引用した史料も見てみると、やっぱり私が出した結論になると思うんですよね」

「……自説を曲げないねえ」

「この史料に関しては、先生方より私の方が読み込んでますから。……ねえねえ、Iくん、どう思う?」

おい、こっちに振るなよ! と思いながら、私もやむなく参戦した。学生二人と若手講師が活発に議論する様子を、A先生は微笑ましそうにご覧になっていた。

 末っ娘一号とは、大学卒業後も交流が続き(私の地元と彼女の地元が近隣だったということも大きい)、数年前に彼女が結婚したときには招待されて式にも出席した。本当はA先生も呼ばれていたのだが、学会の都合で欠席なされた。それが「悲劇」の始まりであった。

 式当日、友人席に座っていた私に、彼女のお母様が近寄ってきた。

「本日はご出席賜りまして、誠にありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそおめでとうございます」

「娘の学生時代には、大変良くして頂いたそうで、ありがとうございました」

「いえいえ、大したことはしておりませんので」

「案外気が強い娘ですから、ご指導大変でしたでしょう?」

「……し、指導? 」

「卒論の担当だったと伺ってますけど……」

「……あのう、私は所属研究室が一緒だった、同級生のIと申します。ご指導くださったA先生は本日は欠席なされておりますが…… 」

「えっ! ……大変失礼致しました」

「……いえいえ、お気になさらず」

 どうやら、私はA先生と同年輩に見えるらしい。貫禄があると喜べばいいのか、花嫁と同世代に見えなかったことを悲しめばいいのか、どちらであろう。後日、「お母さんから聞いたよ。ごめんね~。でも間違われたなんて超ウケるんですけど」と、全く謝っていないLINEが届いたものである。

 挙式から十年弱。末っ娘一号も今では立派な一児の母。日々子育てに奮闘している、はずである。

巻三 T列伝

 Tはγ研究室のメンバーであり、Y先生の門下生であった(厳密にはもう少しややこしいのだが、便宜上こう記しておく)。

 知り合ったのは、先述のプレゼミだから、末っ娘一号とほぼ同時期であった。基本的には大変おとなしく、油断するとすぐに存在感を消して、その空間上で他者の定点観測を始めるという危険な存在であった。試みにこちらから話しかけてみると、やや早口だが大変論理性のある回答が返ってくる。柔和な表情で辛辣な台詞を吐く、という予想外のスペックも有しており、なかなかに凶悪な生命体である。また、本人は否定するが、かなりの酒豪であり、それこそ蟒蛇(うわばみ)のように酒を飲み干してしまう。私に負けず劣らずの本の蟲で、そういう点では気が合い、よく本の貸し借りをしながら悪口の交換会をしていた。

 Tは髪型をポニーテールにしていることが多く、講義で私とI斑のひとつ前の席に座っていることが多かった。I斑は、その都度小声で囁きかけてきたものである。

「……なあ、あのポニーテール姿見てると、引っ張ってみたくならねえ?」

「ならない」

「引っ張りてえ……そして、おまえに罪を擦り付けて知らぬ顔を決め込みてえ」

「思うだけで実行には移すなよ 」

「つまんねえの~ 」

 などという益体もないやり取りをしていた。彼女のことを「エゾシマリス」呼ばわりしたのもI斑である。見た目からあだ名が決まった悪い見本であろう。幸い、ほとんど定着しなかったが。

 Tは学生研究室の「ヘビーユーザー」であった。学部の四年次には、ほとんど毎日顔を合わせていたのではなかろうか。マイペースなTは、学生研究室に出入りする他の同期生たちを尻目に淡々と日々の予習をこなしていた。皆と積極的に交流を持とうとする様子はなかったが、かといって完全にシャットアウトする風でもない。努めて誰との距離も等間隔にしているように感じられた。かつてそのことを指摘すると、

「ああ……うん、そうかもしれない」

とだけ呟いて俯いてしまった。恐らく当時の同期生のほとんどが、彼女のインナースペースには深入りしなかったように思う。数少ない例外が私で、割とズケズケとTの本心に迫っていった。

 こんなことができたのには理由があって、私とTには共通の知人(Tの高校の同級生で、私のサークルの所属員だった男)がおり、その知人からTの本性(のようなもの)を聞かされていたのだ。その知人曰く、

「あ~、Tさんにはねえ、ある程度こっちから強引にでも距離を詰めていかないと、本音なんて出てこないよ。オレは詰め過ぎて煙たがられてるんだけど、Iくんなら絶妙なとこで止められるんじゃないの?」

ということであった。別にこのアドバイス(?)に従った訳ではないのだが、私は意識してTとの関係性を築いていった。当時、学生研究室に特に頻繁に出入りしていたのは、私、T、H、それにYであったが、時たまこの四人で「気晴らし」と称してドライブに出掛けることがあった。「呼吸するインドア」とでも言うべきTが参加するようになったというだけでも驚愕ものであったろう。こんなことを続けてきたからか、二十年以上経った今でも時たま、LINE上で毒舌の応酬をすることがある(さすがにここで晒すのは気が引けるので止めておく)。

 Tの逸話の中でも特に印象に残っているのは、「留年事件」であろうか。四年次の年末、いつものように学生研究室に何人かの同期生が集い、黙々と卒論を書いていた頃のことである。ひとりTだけが何か別の勉強をしている。それに気付いた私が、何気なく声をかけた。

「へえ、卒論は割と余裕あるんだ?」

「あ、うん……まあ、そんなようなもの」

「いつになく歯切れ悪くない?」

「うーん……言ってなかったんだけど、実は、今年度は卒論提出しないことにしたんだ」

「え? 留年するの?」

「うん、そう、就職も決まってないし……」

 この時期は就職氷河期真っ只中であったから、Tの決断は判らないではなかった(就職浪人するよりは、敢えて留年して次年度に備える方が良いという判断だったのだろう)。

「そっか……Y先生、なんて言ってた?」

「えっ、うーん……まだ言ってない」

「はあっ?」

「卒論提出日に言いに行こうかなあって……」

「いや、それはマズいでしょ。今すぐ行ってきな。そして、お小言頂戴してきな」

「えー、でも……」

「いいから行け!」

 ……この数日後、必要があってY先生の研究室にお邪魔したところ、Y先生が複雑そうな表情で愚痴をこぼされた。

「Tさんが留年するって決断をすること自体は仕方ないと思うんだよ。でもさあ、もうちょっと早く話してもらいたかったなあ」

 Tにはこういうところがあるのである。決してY先生を信頼していなかったのではない(と思う)。言いにくいことを後回しにしてしまう、というところがあるのだ。却って言い出せなかったというのに近いのだろう。私なんぞに口添えされたくないだろうな、と思いつつ、Tをフォローしてみたのだが、Y先生は納得しがたいという顔で天井を見上げておられた。

 ……と、ここまで書いてきて気付いたことがある。私たちの年度生、Y先生に迷惑かけすぎじゃないか? とんでもない連中ばかりである。届かないと知りつつ、でも、Y先生に衷心から謝罪せずにはいられない。後日、TがY先生と未だに年賀状のやりとりをしていることを知り、私は少しほっとした。

 留年した甲斐があったのだろう、Tは無事地元の自治体に就職し、現在も地方公務員として働いている。(つづく)

〔付記〕

最初の指導教授とその同世代の2人の教授を除き、出身大学の教員にはあまりいい印象を持っていない。

大学1年の頃からたいへんお世話になっている先生がいた。ご自宅にもお邪魔したほどだったが、僕が学籍を離れた頃、ある雑誌にその先生の書いた本の書評を頼まれ、読んでみたところ、自分とは相容れないことが書いてあり、こっぴどい批判を書いた。自分にとっては挑戦的な書評であり、若気の至りといえなくもないが、自分のアイデンティティーに関わることでもあるのでどうしても譲れなかった。

客観的にみれば恩を仇で返すようなものである。その先生は怒りに震えたのか、僕の心を打ち砕くような反論を雑誌に書いた。若造相手に容赦をしない反論を、である。

僕はすっかり打ちのめされた感じになったが、出身大学の教員は、同僚の手前、僕を擁護する人はいなかった。

ところが、ある会合に参加した時に、他の大学の先生がわざわざ僕のところにやって来て、

「あんなもの、気にする必要なんかありませんよ」

と言ってくれ、心が軽くなった。

それから僕は吹っ切れたように、どんなことを言われても動じなくなった。言いたいやつには言わせておけ、自分は自分の道をゆく、という境地になった。

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書かねば逃げるぞ

I先輩の同窓会伝、大変楽しく読ませていただいております。

私はおそらく先輩方よりも何学年か下になるかとは思いますが、文中に登場したA先生、N先生、Y先生のことは鮮やかに記憶しており、忘れようもありません。

N先生初任時のキレッキレなエピソードは意外でしたが、ご専門の某国を探訪された際のこぼれ話など、人生で一番かと思うほど笑った思い出があります(ちなみに、同率一位で笑った思い出は、鬼瓦先生に引率していただいて行った関西への実習の際、某歴史上の場所で催された寸劇です)。

一年次から素晴らしく研究熱心でいらっしゃった先輩の足元にも及ばず、お恥ずかしい限りですが、せっかくなので私も鬼瓦先生とのファーストコンタクトの思い出を。

私が鬼瓦先生を訪ねたのは、入学してしばらく経ったころです。

学問というものは宇宙のごとく広く遠いもので、わずかな学生生活ではそのうちの1%も手中にできないのだなと痛感しながら卒業しましたが、当時はさらにその1%もわかっていませんでした。専門の話をしようにも、自分で情けなくなるほど低レベルなことしか言えず、大変恥ずかしかったことを覚えています。

その流れというわけではありませんが、出身校の話題になりました。私はてっきり、先生という方々はその学校の卒業生が多いのかなと思っていましたが、どうやら違うようです。「あのー、先生はどちらの大学を…?」と、アホ丸出しな質問をしてしまいました。すると鬼瓦先生、「〇〇大学です」とおっしゃるではありませんか(ブログをお読みの方でしたらおわかりかと思いますので、伏字にします)。

(えっ?〇〇大学?)

私は、その大学ご出身の方にお会いするのが初めてでしたので、固まってしまいました。どっひゃああ!す、すごい!と心の中で叫びましたが、そんな反応をするとますますアホがばれると思い、

「はあー、そうなんですかぁ」と頷くことで精いっぱいでした。

ただ、そのときもう一つすごいと思ったことがあります。

先生、略称である「〇大」と言わず、きちんと正式名称で「〇〇大学」とおっしゃったのです。

まるで、ぜんぜん一般的でない名前だけど、こういうところの者なんです、と言われたような感じでした。

それを、自慢でも謙遜でも、もちろんイヤミでもなく、まったくもって自然な調子でおっしゃいます。ひたすらフラット、と申しましょうか。そこには偏差値も見栄えも、どんな敷居も存在しませんでした。今にしてみれば、それは学問の…いえ、人としてのありかたにつながる非常に重要な態度だったのだと思います。

もちろん当時はそこまで考えが及んでいたわけではありませんが、この方はなんと素晴らしい人格者なのだ!と私は天啓に打たれた気持ちでした。この方が私の恩師になるのだと(勝手に)確信したものです。

その後、私は何人かの〇大生や卒業生が自己紹介する場面をテレビなどで見かけましたが、みなさん「〇大です」か「いちおう〇大です」と言っています。※ものすごく少ないサンプルです。

もちろんそれも愛着ですとか、さまざまな思いの表現の一つでもあるでしょうし、何となく「いちおう」と付けたくなる気持ちもものすごくわかります。

それでも、吹けば飛ぶような新入生相手に、きちんと正式名称で名乗ってくださった先生の分け隔てなさと誠実さを、私はずっと誇らしく思っています。

先生には、飲み会で恋バナをしたり、授業の合間にも人生や進路についての悩みを聞いていただいたりと、今思えば研究の邪魔にしかならない無礼千万なことばかりしてしまいましたが、いつも真剣に耳を傾けてくださって、感謝しかありません。

卒業時、私の色紙に書いてくださった言葉は、

「書かねば逃げるぞ」。

最後の挨拶に訪ねた際には、「書くことだけは、やめないでくださいね」とおっしゃっていただき、大泣きしてしまいました。

誰にも言っていなかったことなのですが、当時私は公募の文学賞で4回連続一次落ちの最中でした。就職のために帰った故郷で5回目の郵送をし、それも途中で落ちてしまいましたが、たまたま編集者から声がかかりました。もっともその後、今に至るまで七転八倒ならぬ千転万倒くらいすることになるのですが。

出会いの話のみならず、卒業のことまで書いてしまいました。

良き恩師、良き友に巡り会えた4年間は、私にとって人生の宝物です。そう言える学生生活であって本当に幸福でしたし、それがあるからたぶんいろいろなつらいことにも耐えられているような気もします。また戻りたいと、どうしようもなくせつなくなるときもありますが、青春とはそういうものでしょうか。

とりあえず、芋煮の季節が来るので今年も作ります。

追伸

数独は私もやったことがありません。が、友人に愛好者がいて、大学時代に部室で何時間もやっていたことが思い出されます。

私が昔嗜んだのは囲碁でして、高校時代に数合わせで同好会創設に駆り出され、卒業までの二年半やっていました。

最初は興味がなかったのですが、やりだすと意外とハマってしまい、授業中に先生が板書した文字列すら白と黒の碁石に見えてきたものです。

中毒性があることを知ったので、仕事が詰まっているときは絶対に手を出さないようにしていますが、妊娠中につわりで死にそうだったとき、気を紛らわすために無心で囲碁アプリをやっていました。そういう意味では命の恩人です。

〔付記〕

卒業生のOさんからの投稿でした。

例によって憶えていないことが多い。「書かねば逃げるぞ」なんていういい言葉、書いたっけ?今となってはまるで自分に向けて書いた言葉のようだ。

関西の実習先の歴史的な場所で即興の寸劇をしたことはよく憶えています。後にも先にも、あの時だけだったんじゃないかなあ。

卒業の時に、「書くことだけは、やめないでくださいね」と言ったことは鮮明に憶えています。

そして卒業から十数年後、Oさんの住む北の町で仕事があったとき、再会することになる。今度はプロの小説家として。

「北の町の再会」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2023/02/post-d3b817.html

「1年ぶりの再会」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2a57f0.html

「北の町の再会·夏褊」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/07/post-ebdb2e.html

「イベント2日目·再会のための旅」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-0bd180.html

今や僕はOさんの小説の一読者であり、新作を待ち焦がれる一ファンである。

人生とは、伏線が回収されるもの。なんとつじつまの合う物語だろう。

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ふらりと訪ねる

いま、卒業生のI君の投稿が連載中だが、同期の卒業生のSさんからメールをいただいたので、本人の許可を得て、抜粋し、固有名詞を特定しないなどの改変を加えて、紹介する。

「鬼瓦先生

I君より、同窓会の報告が届いているかと思いますが、当日先生からメッセージをいただけてとても嬉しかったです!

それもあり、久しぶりに先生のブログにおじゃまさせていただいたところ、入院されていると知りました。

ご連絡するのも億劫に感じさせてしまうかしらとメールを控えていようかと思っていたのですが、I君めちゃくちゃ原稿送ってんな!?(笑)となったので私もメールをお送りしようと思った次第です。

2年前かな?先生に職場にいらしていただいた際には、短い時間でしたが色々とお話ができてとても嬉しかったです。

あの頃、ちょっと行き詰っていまして、仕事を続けるかどうか……というメンタルでいましたので、先生とお話して、色々と初心に戻れた部分がありました。

今は別の職場に異動となりましたが、元気に楽しく仕事をしております。

それから、いつか先生を講師としてお呼びできるような企画を立てる!というのを野望に仕事をしていますので、先生の体調が落ち着いてこられた暁には、ぜひともご講演をしていただきたいなあと思っております!

そのためにも私ももっと色々なことを勉強してより良い企画を考えていかなければ!!

あれこれ企画を平行して考えなければいけない時なんかは、先生が卒論を書く時に「文章に行き詰まったらその間に参考文献とかの整理をして事務的なことをやると良いよ」と言っていたのを思い出して、一度企画を寝かせて他のことをしてから練り直しをしたりしています。

私がメールを送りたい!と思っただけですので、お返事はお気になさらないでくださいね。

かわりに、先生のブログの更新を楽しみにしております!

またそのうち近況などメールさせてください!」

僕は、卒業生の職場や勤務地などにふらりと訪ねたりするのが好きだった。もっとも、わざわざ会いに行くというわけではなく、その地で仕事があったついでの時に限られる。もちろん空振りの時もある。

たいていの卒業生は驚く。そりゃそうだ。だってふらりと訪ねるんだもん。

Sさんの場合は、受付で呼び出してもらうという、いわば予告なしに訪ねたので、さぞびっくりしたことだろう。

訪ねたはいいが、あらかじめ話す内容を決めるわけではなく、たんに話を聞くだけである。別に何らかのアドバイスをするわけでもない。

話してもらっているうちに、結局は自分自身が答えを見つけるのである。

各世代の卒業生がそういう人ばかりだったので、僕自身は本当に楽だった。

ただ、

「文章に行き詰まったらその間に参考文献とかの整理をして事務的なことをやると良いよ」

というアドバイスをしたことは明確に覚えている。何気なく言った言葉だが、いまも覚えていてくれているのは嬉しい。

だから、ちょっとした言葉であっても、それを発することは責任重大なのだ。文章もまた、同じである。

メールに書かれていることが本当に実現するかはわからないが、いまの僕には病気を早く回復させるためのモチベーションを上げる役割をはたしている。

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「I、同窓会幹事引き受けるってよ」by I、第2章上

第二章上 師匠本紀

 十章構成になる予定の本企画、今後登場人物がまあまあ多くなる。そこで、本章は今後登場予定の鬼瓦先生以外の師匠&同期生を、「列伝」形式で列記していこうと思う(章題で「師匠本紀」などと記したのは、あくまでも洒落のようなもので、「本紀」だから年表風に記す、ということではない。基本的にどれも略伝・逸話語り風の記述となる)。

巻一 A老師本紀

 A先生は、私の所属したβ研究室の主任教授だった方である。私とA先生との「出会い」は、私の地元の県立図書館であった。そこに所蔵されていた『現代紳士録』(のようなもの)で、受験予定の大学の所属希望研究室の教授がA先生と後述のK先生であることを知った(まだネット検索が一般化する以前だったからこその検索方法である)。浪人決定直後で、まだ若く汚れを知らず、純粋無垢だった当時の私は、「進学したら、この先生方の下で卒業論文が書けるんだ!」と意気込んでいたものである。幸い、この目標は「半ば」達成されることになる

 翌年、浪人生活を何とか一年で終え、無事大学進学を果たした私は、とあるサークルに所属した。そこの先輩には偶然にもA先生の門下生がおり、A先生のお人柄を耳にする機会も多かった。話を聞くにつれ、いてもたってもいられなくなった私は、大学図書館でA先生の論文を集められるだけ集めて複写・通読し、質問事項をリスト化してからA先生の研究室の門を叩いた

 まだ学部一年生だった私の突来を、A先生は快く受け入れて下さった。裏話をすると、当時β研究室は大層不人気で、所属する生徒を獲得できていなかった。わざわざ研究室にまで顔を出した一年生を無碍にすることなどできなかったのである。

 A先生は、当時の私の両親とほぼ同年代ーー四十代半ばーーに見える風貌の紳士然とした方であった(後日判明したことであるが、実際、私の母と同い年であった)。先生は暖色系のバーバリーのベストかセーターを着こなしておられた(余談であるが、この数年後、A先生は今に至るまでトレードマークとなる口髭を蓄えることになる。これは、同期生たちの間で「A先生の口髭アリナシ論争」が勃発するほど話題を集めることになる)。私は生意気にも、集めた論文を読んでの感想を喋り散らし、これまた大変生意気にも、

「この一連の論文は連作であるように思うのですが、これらをまとめて一冊の本になさるご予定はないのでしょうか?」

などと言い放ってしまった。A先生は一瞬驚いた表情を浮かべた後、こうおっしゃられた。

「実は、数年後に一冊にまとめる予定はあるんですよ。もしかすると君に、その論文集の索引作りや校閲の一部を頼むことになるかもしれなませんね」

 A先生は数年後、予告どおり論文集を刊行することになるのだが、その論文集のあとがきには、校閲協力者として私の名前が記されることとなる。私の密やかな自慢である。

 A先生は放任主義の先生であった。少なくとも、生徒を自分の影響下に置きたがる、というタイプではなかった。例えば、私は本当に生意気な生徒だったから、A先生のゼミでのレジュメ発表時、参考文献として、A先生とはライバル関係にあたる研究者の論文・著書ばかり引用してみたことがある。A先生の見解に敢えて異論を唱えて、ひと搔きでいいから引っ掻き傷をつけてみたかったのだ。A先生は温容を崩さず、「なるほど、そういう解釈もあるかもしれないね」と呟き、異論も反論も受け止めてくださった。当時の私は肩透かしを食らったような気分になったものだが、今にして思えば、自由な発言を容認し、活発な議論をしやすい環境を作られていたのだろうと思う。「A先生は研究者である以上に教育者である」という評を、私は大学院進学後に知ることとなる。

 A先生は、私の卒業論文に大きな影響を与えたという存在ではなかった。研究したいと思うテーマが大きく異なっており、参考にしづらいと感じていたからだ。どこかで、A先生の存在を軽んずるような気分も、あるいはあったかもしれない。だが、大学院修了後、「教育に関係する職種」に就いてから、実はA先生の影響が大きかったことに気が付いた。敢えて異論を出してくるような生意気な生徒に接するとき、私は、知らず知らずのうちにA先生と同じ態度を取ることが多い。何故か自然とそうなってしまうのである。

ーーそうか、A先生はこうやって私を受け入れてくれていたのか。

 師匠の深慮遠謀に気付いたのは、実に十年後のことであった。全くもって歩みの遅い弟子である。お会いする機会が減ってからの方が、A先生を思い返す機会が増えていった。その後も不定期にはなってしまったが、研究室にお邪魔しては近況を報告していた。最後にお会いしたのは平成三十(2018)年三月のこと。還暦を過ぎたA先生は変わらずお元気なご様子であった。ただ、この年の一月に、A先生の恩師(私も大学院で謦咳に接したことのある老名誉教授)に当たられる方が急逝したということもあってか、どこか寂しげな表情でもあった。その後、令和三(2021)年三月に定年退職。コロナ禍の真っ只中ということもあり、お祝いの会を開いて差し上げることも叶わなかった。私の地元の日本酒をお贈りするのが精一杯のことであったが、それでも先生は喜んでくださったようである。

 令和七年(2025)年現在、A先生は同大学の名誉教授として、今も時折教壇に立っておられる。そして、今年の下半期にはいよいよ古稀を迎えられる。

巻二 Y老師本紀

 私が所属していたコースは、鬼瓦先生が担当するα研究室、A先生・K先生・N先生が担当し私が所属していたβ研究室、そして、Y先生が担当していたγ研究室の三研究室から構成されていた。

 私はβ研究室の所属ではあったが、α研究室の鬼瓦先生のところに頻繁に出入りしていたというのは既述の通りであるが、当時のα・β・γ三研究室に大きな垣根はなく、理論上はどの研究室のゼミに参加することも可能であった。ただ、ゼミの時間帯が重なっていることが多く、現実問題として受講することは難しかった。が、α・β・γのいずれのジャンルにも興味関心があった私は、暇を見つけては担当教授の部屋に足を運んだ。鬼瓦先生と並んで、私が頻繁に出入りしていたのが、γ研究室のY先生のところであった。

 Y先生は痩身に口髭を生やしたシャープな風貌の持ち主で、一見すると冷徹な官僚のようにも見えた。一対一で話してみると、柔和な口調に温容を湛えて接してくださる。が、不正や誤魔化しを嫌い、だらしのない生徒には時に峻厳な態度で接しておられた。

 私は、よく研究室にお邪魔してはY先生の蔵書をお借りしていたのだが、ある時、「どうしてそんなに直接は関係のない本ばっかり借りていくの?」と尋ねられたことがある。当時の私はK先生の影響でα・β・γ三ジャンルの比較検討の真似事をしていたので、そのことを正直に申し上げた。すると、面白がってくださったY先生は、「じゃあさ、その比較した成果を時々でいいから話して聴かせてよ」とおっしゃられた。内心、「か、課題が増えた……」とは思ったが、面白そうだとも思った私は、時折レジュメ(の、ようなもの)を持参して、一対一の講読ゼミ(オーバー)の如き時間を過ごすようになった。

 一度、Y先生には派手に叱責されたことがあった。学部の四年の秋口だったと記憶している。当時私たちが利用していた学生研究室は、学部棟の一階にあったのだが、土日になると自由な出入りが禁止されていた(大学院生以上の身分になると電子キーが貸与され、土日も自由に出入りができた)。私たち当時の学部生は、土日もここで勉強がしたかったので(紛れもない事実である。工具書が常備してあり、予習復習に最適な環境だったのである)、色々と策を弄した。金曜日の夜、誰かがそのまま徹夜して土曜日の朝まで学生研究室で過ごし(この役回りを担当したのが、主に私かHであった)、土曜日の午前中に別の学部生の誰かと交代するのである(出入口の自動ドアは、内側に人が立つとセンサーで開くようになっていた)。または、学生研究室が一階であることに着目し、金曜日の夜のうちに事前に学生研究室の窓の鍵を開けておき、土曜日の朝こっそり窓から侵入して利用するのである。

 これが問題になった。ある週末、Y先生が学生研究室に顔を出し、「土日の学生研究室の使用を制限しようと思う。あんまり勝手なことをしないように」とおっしゃった。表面上、「判りました」と答えつつ、当時の私は心で舌を出していた。

 翌日(土曜日)、私はいつもどおり、あらかじめ鍵を開けておいた学生研究室の窓を開け、窓枠に足をかけた。そのまま研究室に降り立った瞬間、向かいのドアが開いた。そこには、沈痛な表情を浮かべたY先生の姿があった。絶句して立ち竦む私に、Y先生は厳しい口調でこう言い放った。

「Iくん、僕は君を誤解していたよ。君は、規則も守れない男だったんだな? 今日はもう帰りなさい! そして月曜日、僕の研究室に顔を出して。少し話そう」

 有無を言わさぬ口調とはこのことであった。私は、入室したばかりの研究室からすごすごと退散せざるを得なかった。幸い、Y先生に対する怨み辛みはなかった。「自分が調子に乗っていたのだ」と自省するばかりであった。

 ……翌日、重い足取りでY研究室の門扉を叩く。Y先生は「ああ、来たね」とだけ呟くと、少し濃いめの珈琲を煎れてくださった。Y先生は、私の言い分を聞き終えると、珈琲の湯気に口髭を燻らせながら、静かに口を開かれた。

「やっぱり窓から入るなんて許されない。もしどうしても土日も研究室を利用したいのなら、私かA先生に事前に連絡しなさい。それから、金曜日徹夜して研究室に居残るっていうのも、セキュリティを考えると決して褒められたものじゃないな。やるなとまでは言わない。が、あまり頻繁にはやらないでくれ」

 耳朶と口内に苦味の残ったこの一件があって以降、毎週末になると、私はA or Y研究室に顔を出し、「明日は○○時になると思います。開けて頂けないでしょうか?」と許可をもらってから学生研究室を利用するようになった。ごく稀に、「なんなら昼飯でも食べに行こうか?」とお誘い頂くこともあった。叱られたはずなのに却って親睦が深まった出来事であった。卒業後も何度かY先生とお会いしているが、このときの件が話題に上ると決まって、「怒鳴りつけたりして、僕も若かったなあ」と苦笑いされる。

 そんなY先生は一昨年、定年退職を迎えられた。Y先生とは、実は他にも「重め」の逸話があるのだが、それはまた別章で語ることとしよう。

巻三 K老師本紀

 私の直接的な「師匠」と呼び得る人が、K先生(と、後述のN先生)である。当時のK先生は、β研究室の若手研究者であった。年齢は鬼瓦先生と同い年(どちらかが早生まれだったはず)。お二人は大学の同門であり、旧知の仲であった(正確な情報は失念してしまったので間違っているかもしれないが、確か、K先生の方が入学年度が一年早かったが、気が付いたら鬼瓦先生と同じ学年になっており、さらに気が付いたら鬼瓦先生に追い抜かれ、就職でも先を越されてしまったのだが、いつの間にか同じ大学の姉妹研究室の若手講師として轡を並べることになった、らしい)。

 私がK先生と出会ったのは、A先生の研究室の門扉を叩いた直後だったと記憶している。A先生に、「こんな研究がしたいんです」と話したところ、「ああ、だったらK先生の方が近い研究をしているから、一度話を聞いてもらったらいいですよ」と、アドバイス頂いたのである。

 私は勇躍してK研究室のドアをノックしたのだが、灯りは点いているものの不在であった(こういうことがよくあった)。それが運悪く三日続いた。一般教養の授業を受ける以外暇を持て余していた私は、K先生が戻ってくるまで、研究室の前で待つことにした。

 待つこと十数分。無駄に図体のでかい私よりも小柄な、三十代半ばの男性が近付いてきた。
「……あのう、なにかご用ですか?」

 呼び掛けのことば自体は一般的なものであったが、一般的でなかったのは、その風貌と声であった。風貌は、誤解を恐れずに表現すれば、「さる高貴な血筋の人」を少し圧縮して前後に潰したような、声は、想定していたよりも遥かに甲高いものであった。私は、多くの人に勝手に渾名をつける悪癖があるのだが、このときもそれが発動してしまう。以来、私はK先生のことを心の中では「殿下」、七年前からは「陛下」とお呼びしている(無論、直にそう言ったことは一度もないが、ご自分でも自覚のあったK先生は、柏原芳恵の逸話の時同様ご自身でネタにしておられた)。

 殿下、もとい、K先生に声をかけられた私は、「A先生に言われてお邪魔しました」と伝え、研究室に入室することに成功した。が、足を踏み入れた瞬間、衝撃を受けることになる。そこには、うず高く積み上げられた人文科学関連の書籍の小山が出来ていたからである。

「ああ、汚いところで申し訳ないねえ。その椅子の上の本をどかしてもらってもいいかな? そしたらそこにお座りください」

そう言われて手に取った本は、金欠の私にはなかなか手が出ない、箱入りハードカバーの学術文庫のかたまりであった。思わず、タイトルを読み上げ陶然としている、

「ん? 読みたい? 貸してあげてもいいよ? 僕もまだ読んでないけど」

「よ、よろしいんですか?」

「だって、机の上、こんなだよ? 当分そこには行き着かないからねえ」

 完全にK先生のペースであったが、気を取り直してひとまず着席すると、簡単に自己紹介し、「こんな研究がしたいんです」という一連の話をぶちあげた。すると、

「……ああ、じゃあ、T川先生とK勝先生の論文は読んでるのかな?」

「はい」

「それじゃあ……K本先生とK添先生とM崎先生は?」

「はい、それも読んでます」

「あ、判りました。じゃあねえ……これを貸してあげよう」

 K先生は無造作にファイルの束を取り出すと、私が見たことのない研究者の論文を四~五本取り出した。

「これとこれとこれは参考になるんじゃないかな? あと、これとこれはそれに対する反論の論文ね。あとはねえ……」

 呆気に取られている私を尻目に、K先生は蔵書と論文をどんどん取り出していかれた。

「……大体こんなものかな? これが、君がやりたいことの先行研究。好きにコピーしていいから。さすがに全部ではないから、残りは自力で見つけてね」

「ちょ、ちょっと待ってください! ひとつお訊きしたいんですが、K先生も私と同じテーマの研究をなさるおつもりなんですか?」

「いや、そんなつもりはないよ」

「じゃあ、どうしてこんなに論文をお持ちなんでしょうか?」

「これは、まあ……趣味だね。なんか集めちゃうんだよ。で、こういうときに役立つ、と」

 ……趣味。絶句するしかなかった。そして、誰かにこういうことが言える人間になりたい、と思ってしまった。

 以来、私の人生は変わった。暇があると図書館に向かい、手当たり次第に本を読み、論文を集め、先行研究を整理する日々を送るようになったのである。これが無上に楽しかった。脳内に少しずつ先行研究が蓄積されていくことで、自分がどんな研究をしたいのかが整理されていく。体系化された学問を習得する悦びを実感できたように思う。

 そして、K先生は、先述のとおり各研究者個々人の経歴や研究内容にも大変精通しておられる方であった。研究史整理の達人だったのである(おそらくそれと連動して、研究者間のゴシップにもとてつもなく精通しておられた)。その影響は凄まじかった。私の卒論の四分の一は研究史整理に費やされているのだが、これは明らかにK先生の影響によって出来上がったものである。口頭試問の際、A先生から、「Iくんの卒論の出色なところは、この先行研究整理に尽きるね。K先生の直弟子の名に恥じないよ」と言っていただいた。

 ……だが、にもかかわらず、この口頭試問にK先生の姿はなかった。K先生は口頭試問の一年半前、東京の某大学に転任されてしまったからである。

 現在、K先生は都内某所の大学の副学長(!)を務めていらっしゃる。実は、K先生とは二年前に都内で再会を果たしているのだが、それはまたまた別章で語ることとしよう。

巻四 N老師本紀

「……なんかねえ、途中でいなくなるなんて、Iくんからしてみたら、詐欺に遭ったようなもんだよねえ。本当に申し訳ない」

と言いながら、芋煮を旨そうに頬張るK先生の姿を、私は生涯忘れないだろう。この日は、帰京してしまうK先生の送別会。幹事は私(そう、二十数年前も私は幹事をやっていたのである!)。大学キャンパスのあるY市名物の芋煮を研究室総出で作り、河原で食べているところであった。複雑な表情で傍らに座る私に、K先生が続ける。

「……でもね、Iくんにとっては、僕の転任はラッキーな出来事になるかもしれないよ。僕の口からはこれ以上詳しくは言えないんだけど、きっとそうなると思うから、気を落とさずに、ここまでやってきたことを継続してください。時々会いに来ますから」

 師匠に去られることの何がラッキーなんだろう? このときの私にはさっぱり判らなかった。

 K先生との別れから約一ヶ月後。K先生の後任講師としてN先生が着任した。N先生は弱冠二十八歳。私とはたったの六歳しか違わない。大学院出立ての超若手講師であった。

 N先生は小柄で童顔、老け顔の私などと並ぶとどちらが年上か判らないと言われるくらいの若々しさであった。正直、師匠というより、先輩、兄弟子というに近い。が、この小柄な兄(あん)ちゃんが、私の人生を再度変えることになる。

 N先生の専門は、実は、私の卒論テーマとかなり近しいものであった。異なるのは対象とする地域と時間。そして、私の卒論テーマに語学はほぼ不要だったが、N先生の研究テーマでは語学とフィールドワークが欠かせないものだった。実体験に基づく立論の仕方、他地域との差異を踏まえた上での比較検討……K先生から教わったアプローチ法とは異なるものの、私が欲していた先達そのものがN先生だったのである。K先生が「ラッキー」とおっしゃったあのなぞかけが解けた瞬間であった。こうして私の二人目の直接的な「師匠」となったのが、N先生であった。

 N先生は、複数の言語を習得したポリグロットであった。しかも、N先生のかつての所属大学にはその複数の言語を教えてくれる存在がおらず、ほぼ独学でマスターしてしまったという人である。とにかく自分に厳しい人であったから、当然、所属ゼミの生徒にも同様の態度で接してくる。

「……ふうん、I大先生はそうおっしゃるけれど、そんな風に考えた根拠はどこにあるの?」

 N先生のゼミでもっとも多用された一言は「根拠は?」の一言であったろう。自分なりの根拠に基づいた発言であっても、N先生が納得いかない根拠であった場合、やり直しを促される。A先生やK先生のそれとは全く異なるゼミの風景であった。

「先行研究整理にかまけて、やるべきことをやってないんじゃないの? 卒論を書いている今、Iくんがやるべきことは、まず論理の構築でしょ? 先行研究まとめもいいけれど、まず自分の考えをまとめてきなよ」

「そういうのは根拠って言わない。トートロジーの罠に陥ってる」

「本当に辞書を引いてきたの? そんなことが書いてある辞書があるなら、おれの前に持ってきてよ」

 学生研究室に戻ってから、同期生たちに、

「またNの兄ちゃんにボコされた! 次は絶対反撃してやる!」

などと悪態を吐いていた記憶ばかり甦る。怖かったし、疲れきりもした。だが、N先生とのやり取りは刺激に満ちていて、すこぶる楽しかったのである。そうやって完成した卒論は、巧拙は置いて、思い出深いものとなった。

 後年、N先生に謝罪されたことがある。

「あの時は初年度だったから、力加減が判らなかったんだよね(←やっぱりな!)。結構ハードな要求を突きつけてたかもしれない(←本当そうですよ!)。君らの後の年度生に同じ要求はできなかったよ(←つまり、うちらだけハードモードで戦わされてたんですね!)。いやあ、若気の至りってことで許してください(←……でも楽しかったんで、許します)」

 現在もN先生は我が母校で教壇に立っておられる。あの若かった兄ちゃんも遂に知命の年(=五十歳)。昔と変わっていないのだとしたら、日本と某国を行ったり来たりする生活をしているはずである。

 今、私は教壇に立って授業をする身だが、授業スタイルは、A先生とK先生とN先生のハイブリッドである。授業前の調べごとの仕方はK先生仕込み、授業時、必ず生徒に根拠を求めるのはN先生の流儀、そして、生意気な生徒の意見に耳を傾けるのはA先生のスタンス……。

 アーネスト・ヘミングウェイのことばになぞらえて言えば、「わたしをつくったもの」は先生方である。出来の悪い、不肖の弟子ではあろうけれども。だから、今現在の「私」という存在の製造責任者たるお歴々に、時折無性に会いたくなってしまうのはやむを得ざることだと思って頂きたい。(つづく)

〔付記〕

大学の研究室時代の僕の思い出はほとんどない。指導教授は仰ぎ見る存在で、お話をする機会などまったくなかった。

指導教授の還暦パーティーの時、並みいるお弟子さんたちの中で、当時最年少の弟子であった僕がなぜかスピーチをさせられ、

「先生は真夏の暑い盛りの巡見の時に、自動販売機で缶のコーラをお買いになり、美味しそうに飲んでおられました」

というエピソードを披露するのが精一杯であった。

まことに不肖な弟子である。

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