思い出

ふたたび、卒業文集、のはなし

5月20日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

自治体からの給付金4630万円が一人の口座に一括して誤送金されて、それを短期間のうちに一気に使い込んでしまった人のことが、いま話題になっているが、「アシタノカレッジ金曜日」のオープニングトークでは、その人の卒業アルバムや卒業文集をマスコミが公開したことに対する違和感を武田砂鉄氏が述べていた。

ああいう事件が起こるたびに、その事件の当事者が書いた過去の卒業文集がなぜかほじくり返され、マスメディアに平気で晒される。むかしからそうである。一方で個人情報保護と言いつつも、なぜか卒業文集という、人生で最も恥ずかしい文章を顔写真とともに、マスコミは何のためらいもなくさらしている。「ほら、小さい頃からこの人は、金に執着するタイプだったんですよ」と、まるで鬼の首を取ったようにニュース番組やワイドショー番組の司会者が説明する。なぜ攻撃の矛先は、叩きやすい方にばかり向くのだろう。

メインパーソナリティの武田砂鉄氏は、皮肉を込めて、「もし自分に何かあったときに、同級生に卒業文集を差し出させるのは迷惑がかかるから、あらかじめ公開しておきます。僕の卒業文集を公開したい人は、ここから引用してください」として、番組の中で、自分の高校時代の卒業文集の一部を読み上げた。

『出会い』と言うタイトルの卒業文集で、当然、テーマは高校時代に友人と出会ったエピソードなどを書くことが期待されていたのだが、偏屈な武田砂鉄氏は、当然、そんな純粋な文章は書けない。

「過去を振り返る上で、皆が大事と思わないことが、実は一番大事なことだったりする」

と、冒頭で、みんなが書くであろう文章のテンプレートをガツンと牽制した上で、

「なぜ修学旅行の落とし物のパンツは必ずブリーフなのだろう」

「バスの後ろに座っている人が、そのクラスの権力者なのだ」

「勝手に靴を借りておいて臭いとは何事だ!」

「昨日勉強していないと嘆いた人がいちばんいい点数をとった」

「しまった!尿検査、明日だった!」

「いい加減、マフラーはずしなよ」

と、ひたすら、「あるあるネタ」を羅列していたのである。これは明らかに、ふかわりょう氏やつぶやきシロー氏の影響をモロに受けている。

武田砂鉄氏らしい、偏屈な文章である。してみると、やはり卒業文集は、その人の人格形成を知ることのできる最もよい素材ということなのか???

武田砂鉄氏によると、卒業文集では、8割の人は素朴で素直な文章を書くが、1割の人は「ナナメ」の文章を書いて、1割の人はポエムを書くのだという。僕の高校では卒業文集は作らなかったので、小学校や中学校の卒業文集しか残っていないが、中学校の卒業文集を思い返してみると、その割合はやはり8:1:1だったと思う。

で、僕は当然、1割に属する「ナナメ」の文章を書いていた。ずっと前にもこのブログに書いたが、中学の思い出は一切書かず、「水戸黄門は実は漫遊していなかった」というテーマの文章を延々と書いていた。今から思うと、どうかしている。しかし、それが自分の人格形成に決定的な道筋をつけたことも、また事実である。

卒業文集、実家にまだ残っているだろうか。もし残っていたら、自分に何かあったときのために、同級生の手をわずらわせないように、このブログで公開しておこうか。しかし、自分の卒業文集がさらされたとしても、第三者が僕のそのときの心理を分析したり、気の利いたコメントを言うのは至難の業であろう。なぜなら、それを封ずるために書いた文章だからである。

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時刻表2万キロ

前回書いた、宮脇俊三さんの思い出というのは。

僕が小学校6年生のとき、ラジオ番組で初めて自分のはがきが読まれた、ということは、以前に書いた

このブログでも何度も登場している、NHKラジオの「おしゃべり歌謡曲」である。

ふだんは、パーソナリティーの近石真介さんと平野文さんがトークをしながら歌謡曲のリクエスト曲をかける、という番組なのだが、ごくまれに、ゲストを呼んで話を聞く、という週があった。僕のはがきが読まれたときは、まさにゲストを呼んで話を聞く週で、そのときのゲストが、宮脇俊三さんだった。

その頃、『時刻表2万キロ』が大ベストセラーだった。調べてみると、この本が刊行されたのが1978年だったから、僕が小学校4年生くらいのときか。番組の前半はゲストの話を聞いて、後半にはがきを紹介するという構成だったと思う。

ふつうだと、ゲストのコーナーが終わると、ゲストは帰って、そのあとにリスナーからのおたより紹介、という流れになるのだが、この番組ではなぜか、ゲストコーナーが終わっても、ゲストがそのまま居残って、近石真介さんの読むはがきに一緒になってコメントをしていた。

近石さんが僕のはがきを読み終えたあと、「こういうこと、わかるなぁ」と、いつもながらリスナーに寄り添うコメントをしたあと、

「宮脇さんは、どうですか?」

と、近石さんが宮脇さんに話を振って、宮脇さんも、コメントを言ってくれた。つまり、僕の他愛もない内容のはがきに対して、宮脇さんがコメントを言ってくれたのである。じつに朴訥とした語り口だったことは、いまでも忘れない。

それがきっかけになり、『時刻表2万キロ』を読んだ僕だったが、鉄道ファンにはならず、それを語る宮脇さんのファンになったというのが、いかにも僕らしい。

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夢の親子漫才

3月11日(金)

11年前の3月12日は、都内で行われる高校の後輩の結婚式に出る予定だった。

その前日、新幹線で上京しようとして、駅ビルで時間を潰していたときに、大地震に遭った。当然、僕は結婚披露宴に参加できなくなったが、披露宴自体は、翌日に予定通り行ったという。

ということは、あの2人は、今年で結婚11周年ということか。

その披露宴では、高校時代の親友のコバヤシと2人で、漫才を披露する予定だった。結婚する2人は、僕らが漫才を披露することを決して望んではいなかったのだが、コバヤシがむりやり、余興として漫才をやろうと提案して、2人は渋々承知したのである。まるで、三谷幸喜脚本・演出の舞台「BAD NEWS GOOD TIMING (バッドニュース グッドタイミング)」を地で行くような話である。わかる人だけがわかればよろしい。

で、僕は漫才の台本を書き、電話で何度も練習をした。それだけでは不安だから、3月12日当日も、披露宴会場の近くの公園で、練習しようという計画まであった。

しかし、それは幻と終わってしまった。この顛末については、このブログのどこかに書いたと思う。

僕からしたら、大勢の人の前で漫才をする、という夢が潰えてしまって、いまでもそれが残念である。

もうコバヤシと漫才をする機会なんて、ないんだろうな。あと、一緒にやるとしたら、こぶぎさんだろうか。でもこぶぎさんとは、このブログのコメント欄で漫才みたいなことをやっているからなあ。

で、ふと思いついたんだが、もうすぐ4歳になる娘と、「親子漫才」というのはどうだろう。

「ねえねえ、パパ、見て見て」

(手に写真を持っている)

「なに、それ」

「保育園の写真」

「何が写ってるの?」

「おともだち」

「どんなおともだち?どれどれ」

「えっとねえ、これがぁ~、エイシ君」

「エイシ君」

「これがぁ~、ハル君」

「ハル君ね」

「これがぁ~、セイナちゃん」

「セイナちゃん」

「これがぁ~…、あれ、誰だっけ」

(といって、メガネをおでこにずらして写真を凝視する)

「ちょっとちょっと!なんでメガネをおでこのほうにずらすの?」

「だってパパがいつもやってるでしょ」

「あのねえ、それはパパが老眼だからだよ!君は老眼じゃないでしょ。頼むから保育園でやらないでよ、恥ずかしいから」

「おお、ミホミステイク!」

「それは阿佐ヶ谷姉妹のミホさんのセリフでしょ!」

「結局、おばさんなのよね」

「あなた、おばさんじゃなくて保育園児ですよ!いい加減にしなさい!」

「どうも、失礼しました」

…的な、漫才。いま思いつきで考えただけなので、もう少し膨らませて4分くらいのネタにしたい。

しかし披露する機会がない。

そういえば、ラッパーのダースレイダーさんが、余命5年を告げられてから今度の4月で5年が経ち、「満期5年」のイベントをやると言っていた。

僕も大病を患ってから、今度の7月で5年になる。僕もダースさんにならって、「満期5年」のイベントでもするかな。

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テレビで会えない芸人

2月17日(木)

病院での診察が終わり、車で職場に向かうと、ちょうど文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の時間で、聴きながら運転していた。

今日の「大竹メインディッシュ」のゲストは、芸人の松元ヒロである。いま、「テレビで会えない芸人」というドキュメンタリー映画が話題になっている。

松元ヒロは、以前「ザ・ニュースペーパー」というコントグループに属していて、テレビでよく見ていた。たしか、フジテレビで日曜のお昼にやっていた「上岡龍太郎にはだまされないぞ!」(1990~1996年)という番組の中で、ザ・ニュースペーパーがコントをやるコーナーがあり、そこで松元ヒロとレギュラーの大竹まことは顔を合わせていたんじゃないかな。

…と思ったら、「お笑いスター誕生」時代からの芸人仲間だったことを、ラジオを聴いてはじめて知った。

ラジオのトークの中では、松元ヒロと立川談志、永六輔との交流について語られていた。

松元ヒロがむかしある劇場で一人でスタンダップコメディをやっていたら、客席で見ていた立川談志が終演後に感激のあまり壇上に上がり、松元ヒロを激賞した、というエピソードで、松元ヒロは談志がそのときに語った言葉を、おそらく一言一句忠実に再現して語ってみせた。その語りじたいがじつに見事だった。

永六輔の最晩年、病気のためにもはや直接会うことがかなわなくなった松元ヒロに対してひと言、「9条をよろしく」という言葉を残した。

それで思い出したのだが。

前の職場にいたときだから、いまから15年くらい前のことだったと思う。

ちょうど「9条の会」が盛り上がりを見せていた時期で、うちの職場でも、その支部みたいなものが作られ、僕も参加していた。

そのときの支部長が、T先生といって、学部長もつとめられた方である。T先生は厳格な法学者で、いつも背広姿で、紙を七三に分けた、まことに品格のある先生だった。物腰は柔らかいが、ときに毅然とした態度をおとりになる方で、言うべきことは言う、という、学部長としても尊敬すべき先生だった。

うちの職場で「9条の会」を盛り上げるために、何かイベントをした方がよいのではないか、という話し合いをしたことがあった。そのとき僕も、その話し合いの末席に連なっていた。

いろいろと案が出されたが、リーダーのT先生は、

「松元ヒロを呼んだらいいんじゃないか」

と提案した。「松元ヒロがいい、松元ヒロがいいよ」

僕は意外だった。厳格なT先生が、松元ヒロのことを知っている。知っているばかりか、その芸風を認めて、ぜひうちの職場に呼んだらどうか、と提案したのである。

いま思うと、松元ヒロが、はたしてどれだけ大学生に知名度があるのか、そしてどれだけ若い人の心をつかむかどうかは、わからないのだが、それでも、あの確信に満ちたT先生の発言は、いまでも時折思い出すのである。

結局、その夢は叶わなかったが、いまになってみると、T先生は、じつに先見の明のある方だったのだと、しみじみと感じるのである。

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人生を決めるひと言

前回書いた、出身高校の同窓会が、高校創立80周年を記念して編集した本の中に、いまはジャズピアニストとして活躍している僕の1学年上の先輩のインタビューが載っていた。

そこに、音楽のモリ先生とのエピソードが語られている。

その先輩は、高校に入ると、まったく勉強をせず、洋楽やジャズを片っ端から聴く毎日だった。高3になっても、六本木や新宿で遊んでいて、先生からはどうしようもないヤツと思われていた。

唯一違ったのが音楽のモリ先生だった。高3のあるとき、自分で作曲したものをみんなの前で発表するという課題が出た。自分は人前でピアノを弾くのが恥ずかしいので適当に家でピアノを弾いたのをテープに録音して提出したら、先生がみんなに聴かせて、

「おまえ、ちょっと来い」

と言われて、怒られるのかなと思って先生のところに行くと、

「おまえは音楽をやれ、ジャズで生きていけ」

と言われたという。

いよいよ進路を決めるとき、アメリカにバークリー音楽大学というジャズの教育機関があることを知り、親には反対されたが、唯一モリ先生だけが、

「おまえはバークリーへ行け」

と背中を押してくれた。そこから人生が大きく動き始めたというのである。

僕は在学中に、この先輩の存在を知らなかったし、かなり有名になってからその名前を知ったくらいだから、その人となりもわからないのだが、インタビューを読む限りでは、在学中はかなり異端な生徒だったんだろうと思う。そんな中でも、モリ先生はその才能を見抜いていたのだ。

その先輩が高校を卒業した翌年、モリ先生は病気で亡くなった。「CDデビューしたことくらいは報告したかった。喜んでくださったに違いありません」と語っている。

この本のほかのページによると、モリ先生は、1986年3月、病気により49歳の若さで亡くなったとある(僕の記憶では1987年であった気がするが…)。僕は、48歳の時にモリ先生と同じ病気になり、いまも生きながらえている。35年の間に医学が進歩したということなのか、あるいはたまたまなのか、よくわからない。

そして僕の恩師もご健在である。恩師に自分の近況をたまにお伝えできるというのは、ありがたいことである。

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謎の依頼だった

6月3日(木)

仕事部屋の机を少しずつ片づけていたら、書類の「層」になっている中から、ある会報を見つけた。

その会報は、書道を研究しているある組織の会報で、6年ほど前に、書道に関するエッセイを書いてほしいと、僕に依頼が来て、その会報にエッセイを書いたのであった。僕はそのことをすっかりと忘れていた。その会報ができた時に、先方から複数の部数が送られてきたのである。

それで思い出したのだが、僕は、その組織とはまったく関係がなく、知り合いがいたというわけでもない。どういう経緯で僕に書道についてのエッセイを依頼したのか、まったく覚えていない、というかわからない。そもそも僕は、書道の世界とは縁もゆかりもないのだ。

まことに不思議な依頼であるなあと思いながら、当時、依頼されるがままに原稿を書いたことを思い出した。

数百字程度の、ほんの短い文章だったが、いま読み返してみると、我ながら実によく書けている。エッセイの最後では、僕が学生時代に耽読した福永武彦のある小説を引用し、文学的な余韻を残している。エッセイのタイトルも、福永武彦へのオマージュに溢れている。

A4見開きで4頁のリーフレットのような体裁に、6名の執筆者が名を連ねている。どの方も肩書きのりっぱな方ばかりで、そのうちの一人は、僕が何度かお目にかかったことがある人だった。6名の中で唯一、その人となりを知っている方の書いたエッセイは、僕が何度かお目にかかった時の印象を裏切るものではなかった。僕だったら絶対書かないだろうな、というサムい書き出し(つかみ)で始まっていて、短いエッセイは、なんと人の心を端的に映し出すものだろうと、感慨深く思ったものである。

送られてきた会報は、2種類あった。日本語版と、中国語版である。わざわざすべて中国語に翻訳しているバージョンもあるのである。これだけ労力をかけているということは、会報の読者として中国語を母語とする人たちも想定されているということなのだろうか。いったいこの会報の読者は、どのくらいいるのだろう。

気になった僕は、インターネットで、この会報のことを調べてみた。まず、会報を出している組織のホームページを見てみることにした。

ところが、そこには会報のことがまったく書かれていない。レポジトリになっているかなと期待していたが、それどころではなかった。

廃刊になってしまったのかな、と思い、次に、その会報がどのような機関の図書館に所蔵されているかを調べるサイトがあるので、調べてみた。

すると驚くことに、その会報は、その組織が所属する図書館にしか置いていない、という結果が出た。

つまりこの会報は、いずれの公的機関の図書館にも、送付されていないのだ。公式ホームページにも記載がないということは、ほとんど知られていない会報といってもよい。

こんなふうに、僕には人知れず書いたエッセイがけっこうあって、自分でも忘れてしまうほどである。

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エンタメは私を救う、あるいは…

エンタメは我が身を助く

もしくは、

人生変えちゃうエンタメかもね

…と、タイトルに迷った。

5月18日(火)

月に一度の全体会議で、すっかり疲弊してしまった。

そういえば、先日ラジオクラウドで聴いたジェーン・スーと堀井美香アナウンサーの「OVER THE SUN」(ポッドキャスト配信番組)で紹介されたメールは、なかなか衝撃的だった。メールのテーマは「人生の転機」。

東北地方の田舎町で、10歳の時に人生に絶望し、28歳まで軽い引きこもりだった女性が、ある日どういうわけか思い立ち、渋谷で上演されている「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン」という芝居を見に行くことになる。理由はわからない。別につかこうへい作品のファンでも、主演の阿部寛のファンでもないのに。

ところがその1本の芝居が、彼女の人生を変えた。

彼女は芝居を観ている2時間、ずっと泣きっぱなしだった。芝居を観て、自らの人生をふりかえり、早く終えてしまいたいとばかり思っていた自分の人生を、「それでも生きていかなくてはいけないのだ」と強く思い直すようになる。

そこから彼女は、どうやったら一人で生きていけるかを真剣に考えるようになる。

東北の田舎町では、職歴のない28歳の女性を雇ってくれるところはない。そこで、そのころ広がり始めた、手っ取り早く仕事をもらえそうなパソコンの文字入力を覚えはじめ、東京へ出て派遣社員をしながら正社員の口を探し、ITベンチャー企業に潜り込む。しかしITベンチャー企業のなかには、経営が危うかったり無理な働き方をさせたりするところも多い。会社が潰れそうになったら、ほかのIT企業に移り、ということをくり返し、10年間で少しずつスキルアップしながらマシな会社へと転職し、8回転職した末に、いまの会社に落ち着き、数年前には自力でマンションを買うことができるまでになった。

…どうも文章だと伝わりにくい。やはり堀井アナのメール読みでないとね。

とにかくここで言いたいのは、1本の芝居がその人の人生を変えた、ということだ。

1本の芝居に救われた人生。それでもエンタメは、不要不急と言えるのだろうか?

「人はパンのみにて生くるものにあらず」

そういえばむかし、こんなことがあった。「前の前の職場」でのことである。

詳しい経緯はすっかり忘れてしまったのだが、その日は学生たち数人と、外で何かイベントを計画していたのだが、あいにくの大雨で、外で行事をすることができなくなった。

仕方がないので、学生たちと一緒に演劇のDVDを観ることにした。僕がそのときに持っていた三谷幸喜作・演出の「バイマイセルフ」というタイトルの演劇と、「グッドニュース・バッドタイミング」というタイトルの演劇のDVDだったと思う。

視聴覚室に大きなスクリーンがあるので、せっかくだからそこに投影して観ることにしよう、ということになった。

こういっては失礼だが、20年前の田舎町の学生だから、演劇の舞台というものを、それまでほとんど観たことがない。

観終わったあと、学生のうちの一人が、ひどく興奮しながら、

「私の人生、変わっちゃうかも」

と言った。どちらかと言えば地味な印象の学生だったが、演劇を観て衝撃を受けたらしい。

もう名前もすっかり忘れてしまったが、いまはどうしているのだろうと、堀井アナが読んだメールの内容を聴きながら、そんなことを思い出した。

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文化センター

散歩していると、むかしのことをよく思い出したりする。

僕が子どものころに住んでいた町、-といっても、30歳まで住んでいたのだが-には、市内の各地域に「文化センター」というのがあった。僕は小学生のころ、学校が終わると、文化センターによく通った。というよりも、放課後に何もすることがないと、とりあえず文化センターに行ったのである。

同居していた祖母も、毎日のように文化センターに通っていた。

その文化センターは、1階に児童遊戯施設や工作室があり、2階に高齢者用に解放された畳敷きの大広間がある。たしか、お風呂もあったんじゃないかなあ。そこはいわば高齢者のたまり場のようなところだったので、祖母は毎日、そこに通っては、日がな一日過ごしたのである。

3階は図書館と読書室があり、僕はもっぱら、1階と3階をよく使っていた。とくに図書館には入り浸っていたなあ。

中学生くらいになると通わなくなったが、高校3年の時、受験勉強のために3階の読書室を利用するために、ふたたび通うようになった。あるとき、初恋の女の子がやはり読書室で受験勉強をしていて、ドキドキしたものだが、とくにドラマや映画のような展開にはならず、翌年僕は浪人した。

それはともかく、3階の図書館は、市内の中央図書館にくらべるとはるかに小さな規模だったが、それでも小学生の僕の読書欲を満足させるに十分な世界だった。今でも図書館とか職場の図書室に行くと多幸感に溢れるのは、小学生の時の原体験があるからだろうな。とくにいま、職場の雑務から現実逃避して、数分でも図書室にこもる時間が最高の時間なのである。

文化センターにはもう30年くらい行ってないと思うのだが、最近、なぜか文化センターに通う夢をよく見るようになった。なぜなのかはよくわからない。娘を連れて実家に行くことが多くなったが、実家から近い文化センターにはまだ娘を連れて行っていない。コロナが収束したら、娘を連れて久しぶりに文化センターに行ってみようか。

今住んでいる市には、各地域に「コミュニティセンター」があるのだが、僕が通っていた「文化センター」とはややイメージが違っていて、気軽に立ち寄るような雰囲気ではないような気がする。やはり図書館の有無が大きいのかもしれない。

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ちょっとだけノスタルジー

12月10日(木)

今日は外回りの仕事。用務先は3カ所である。

1カ所目での用務が思ってたより早く終わり、2カ所目の用務まで少し時間がある。

「どうしますか?まだ少し時間がありますね」

一緒にまわってくれている「トラック野郎のSさん」が聞いた。

車は懐かしい道を走っている。忌野清志郎が歌った坂だ。

「この道を行くと、K駅を通りますよね」

「ええ」

「そこで降ろしてください」

「わかりました。ではこちらでお昼を済ませていただいて、のちほど時間になったらT駅まで来てください」

「わかりました」

僕はK駅の前で車を降りた。高校時代、3年間通った町だ。

個性的だった駅舎は、僕が卒業してしばらくして取り壊されてしまい、おもしろくもなんともない駅に生まれ変わってしまったが、住民の運動の成果か、つい最近、かつてのかわいらしい駅舎が復原されていた。

それでも、町はだいぶ変わってしまった。

(T書店がなくなってしまったんだな…)

駅前に2つの書店があった。T書店とM書店である。駅に近い方がT書店。高校時代、どちらの書店にもよく通った。

(M書店はどうなっているんだろう?)

駅から少し南に歩いたところにM書店がある。お店の前まで来て、記憶がよみがえってきた。この書店は、建物の1階と地下に売場がある。1階は文庫本とか雑誌などで、地下は専門書や教養書が並んでいる。僕が高校の時と、基本的には変わっていない。そして僕は、この地下の専門書のコーナーが好きだったのだ。エスカレーターで地下に降りていくと、そこは教養のワンダーランドだったのである。

(そうそう、こんな感じだったなあ…)

本棚に、雑然と並ぶ専門書。決して数は多いとは言えないのだが、僕からしてみたらツボを押さえた本ばかりが並んでいる。

(高校時代に通っていたときから、ブレてないなあ)

本棚を見ているだけで楽しい。

そういえば、高校時代も、こんなふうにして、この書店の地下で過ごしていた。

だがいまはすっかり勘が鈍ってしまった。たとえば最近ラジオなんかで紹介されて気になっている本を探してみようとするのだが、この雑然とした並びの中から、それを見つけるのはなかなか時間がかかる。高校時代は、折にふれて通っていたから、どこにどんな本が置いてあるのかが、だいたいわかっていたと思う。

最近だと、本の検索システムがあったりするのだが、この書店のどこを見渡しても、そんなものは見当たらない。

(なるほど。自分で探せっていうことだな)

考えてみれば、高校時代にもそんなものはなかった。時間をかけて本棚を眺めては、おもしろそうな本を手に取ったものだった。あらかじめ買おうと思っていた本を探しているうちに、別のおもしろそうな本を見つけたり。

もちろん、どこの本屋に行ってもその楽しみはあるのだが、とくにこの書店は品揃えが(売れ筋のものばかりではなく)個性的で誠実で謹厳実直なので、その楽しみが倍増するのである。

(へえ、こんな本があるのか)

本の背表紙のタイトルを見るだけなのだが、そこで新しい言葉を覚えたり、著者の名前を覚えたり、少し背伸びをした考えを学んだり、高校時代は、そんなことをしていたのだ。贅沢な時間だった。

(そろそろ行かなくては)

お昼は、やはり高校時代によく通った茶房に入った。

(ここも全然変わってないなあ…)

次に訪れることができるのは、いつだろう。

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一期一会

前回の記事で、9月5日(土)のオンライン舞台挨拶の宣伝を積極的に行おうと決意したのだが、

「行きたいです!でもその日はちょっと…」

と、まるで落語の「寝床」のような展開になる気がしたので、

(こりゃあヘタをすると、「星飛雄馬のクリスマスパーティー」のような結果になってしまうぞ)

と思い直し、自分からは個別に宣伝しないことにした。

もちろん、当然ながらいろいろと事情があるので、こういうことは一期一会なのである。

一期一会で思い出したが、つい先日送られてきた高校の同窓会会報に、僕の中学時代の社会科の先生が文章を寄稿していた。

へえ、N先生、僕の高校の先輩だったのか、とこの時初めて知ったのだが、さらに驚いたことに、大学と学部まで、僕と同じだった。つまり、高校と大学の直系の先輩だったのである。高校を昭和48年に卒業したとあるから、僕よりも14年ほど先輩である。

N先生の近況が語られたその文章には、公立中学校に33年勤務した後、現在はとある市で、子どもの貧困による教育格差をなくすための学習支援に取り組んでいると書かれていた。おそらく33年の教師生活を定年退職した後、学習支援の取り組みを始めたのだろう。

僕が通っていた中学校は、札付きの問題校で、荒れまくっていた。校内暴力が社会問題化していた時代である。そんな中学校で、当時新任の若い女性の先生だったN先生は、相当苦労されただろうと推測する。僕たちは、反抗期であることも手伝って、N先生に対してかなり酷いことを言ったのではないかと、いまでも忸怩たる思いを禁じ得ない。

だがN先生はおそらく定年まで中学校教師をつとめ、定年後のいまもなお教育のお仕事に携わっている、ということを知り、僕は少し安堵したのであった。やはり教職が天職だったのだろう。

僕は中学校卒業以来、もう35年もN先生にはお会いしていないのだが、もしいまお会いしたら、反抗的だった中学時代とはまったく異なり、先生からいろいろなことを学ぶことができるだろう。とくに、いま取り組んでおられる学習支援のこととか、聞いてみたいことがたくさんある。

…と、久しぶりに同窓会会報を読んで感慨に浸っていると、別のページに「同窓会役員改選報告」という記事が載っていて、それによると、同窓会役員10名のうち女性はたった1名で、あとは全員男性。しかもその女性役員の役職は「会計監査」という「ありがちな」役職。

さすが、ジェンダーギャップ指数が世界153カ国中121位の国だけある。僕はいきなり現実に引き戻されたのであった。

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