思い出

スピーチの極意·前編

いやはや今日も尋常じゃない仕事量だった。常に追い込まれている。…という話はともかく。

極意シリーズ。

いまから20~30年前は、多くの人を呼ぶ結婚披露宴をする人が多かった。僕は結婚式をしなかったが、当時は珍しがられたと思う。

僕自身は結婚式をしない派だったが、不思議と結婚式に呼ばれ、披露宴でスピーチをさせられることが多かった。

まだ僕が20代の頃、大学の研究室の先輩の結婚式でスピーチを頼まれた。僕はあらかじめ用意していたBGMに合わせてスピーチをして、その音楽が終わると同時にスピーチも終わる、という凝った演出を考えて実行した。そんな凝ったスピーチをやるヤツなんていない。

ところがこれが評判を呼び、次に別の先輩が結婚するときに、結婚式の司会を頼まれた。僕は完全台本を作り、時折アドリブを混ぜながらも、新郎新婦を引き立てる役に徹した。会場には偉い先生がたくさんいたが、披露宴全体は和やかな雰囲気に包まれ、「ふだん地味な君があんなに芸達者だったとは」と、口々に言われた。

そこに出席していた別の先輩から、「俺の結婚式の時にもスピーチをしてくれ」と頼まれた。結婚式の会場は四国にある県である。四国の結婚式にはとにかくたくさんの人を呼ぶのがならわしのようで、200人からの出席者がいたと思う。わざわざ四国まで行き、ほとんど知らない人たちの前でスピーチをした。

それから10年以上経った頃に、その結婚式に出席した人と偶然に会った。「あなた、○○さんの結婚式でスピーチした人でしょう。いまでもその内容を覚えていますよ」と言われてびっくりした。

高校の吹奏楽部の後輩の結婚式にも何度かスピーチをした。新郎新婦はお互い部活の同期生である。僕はさほど親しかったわけでもなかったが、是非にと頼まれたのである。後年その後輩夫婦から、いまでもそのスピーチを思い出すと言われた。

やはり同じ吹奏楽部の1学年後輩どうしが結婚することになり、スピーチを頼まれた。通常のスピーチではつまらないと思い、親友のコバヤシと二人で漫才をすることにした。僕が漫才台本を書き、何度か練習をして、さぁ披露するぞと意気込んでいたら、結婚式の前日に東日本大震災が起こり、僕もコバヤシも披露宴に出席できず、漫才は幻と化した。あの漫才が上手くいったらM-1グランプリにエントリーしようと思ったのに、それが叶わず残念だった。

教え子の結婚式にも何度か呼ばれ、スピーチをした記憶があるが、一番印象に残っているのは、出席しない結婚式でスピーチをしたことである。正確に言えば、新婦である教え子に手紙を書いて、司会の方に代読してもらったのである。

新婦と同期である教え子たちが、サプライズで先生(つまり僕)の手紙を結婚式で読んでもらうという演出を考え、依頼してきた。僕はわりと一所懸命に手紙を書いた。その手紙は思い出の写真のスライドショーとともに読まれ、新婦は感激のあまり泣いたと後から聞いたが、僕が記憶を盛っているかもしれない。

つまり何が言いたいかというと、ここまではたんなる自慢話なのである。地味で滑舌の悪い僕がなぜスピーチを頼まれ、後々にも記憶に残るスピーチをすることができたのか?そのメカニズムはよくわからない。小学校の時にはあまりに無口で先生によく叱られていたのである。

思いのほか自慢話が長くなったので分析編はまたの機会に書くことにする。といってもたいした分析ではないといまから言っておくぞ。

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しぼむ

1月27日(月)

外付けハードディスクの中身を整理しようとしたら、4年ほど前に職場のイベントを解説するという動画サイトの元映像のファイルが出てきた。

「元映像」といったのはリアルタイムだと映像の中にひっきりなしにコメントが右から左へ流れていくタイプの動画サイトだからである。そのコメントのないバージョンをファイルとしていただいたので「元映像」と称したのである。

全体で3時間半くらいの番組で、僕はそのうち40~50分くらいの時間を担当し、リレー形式で次の同僚につなぐ、というものだった。

なにより思い出深いのは、説明をする相手が、現役のアイドルだったことである。しかもこういうイベントに関心の高いアイドルだと僕は知ってたから、何人か候補があがっていたなかで、僕はいろいろと根拠をあげてこのアイドルの強硬に推薦した。そしたらそれが実現しちゃったのである。

僕が思っていた通り、その方は私の説明に対して的確なコメントや質問を返していて、聡明な方だなという印象を受けた。そうなるとこちらも話が乗ってくる。「聞く力」とはこういうことなのかと僕は学んだ。

僕の最後の説明が終わると、そのアイドルの方は、

「視点を変えると別の意味が見えてくる」

とまとめのコメントを言ったあと、一呼吸おいて、僕の目をじっと見つめて、

「素敵です!」

と言ったのだった。もちろんイベントが素敵なのであって、僕が素敵なわけではない。そんなことはわかっていても、チャンカワイの決めゼリフを思わず言いそうになった。いまならこの部分を切り抜いてショート動画にするのだろうが、僕にはそんな技術はないし、なによりそれだと嘘になってしまうのでやりたくない。

しかし現役のアイドルが僕の目を見つめて「素敵です」と言ってくれる機会はないのだから、貴重な思い出である。

クドいな!その話はもういいよ!書きたかったのはそんなことじゃない。

4年前の僕の姿を見たら、まるまると太っていた。引退したばかりの力士のようだ。

実際、生放送の日から期間限定でアーカイブ配信された、画面に流れてくる視聴者のコメント付動画を細かく見ると「柔道選手みたいな体格やな」というコメントがあることを見逃さなかった。

それがいまはどうだ。すっかり痩せちゃって、というかしぼんじゃって、着る服着る服、そして履くズボンがどれもブカブカである。おそらく昨年末に長期入院したことに原因があるのだろう。おかげで体力がすっかりなくなった。久しぶりに会う人はビックリするだろうな。

そんなことより、生放送の日から期間限定でアーカイブ配信された、画面に流れてくる視聴者のコメント付動画を見ていくと、

「鬼瓦先生はTBSラジオリスナー」

というコメントが流れてきて、おいおい俺の個人情報を晒すな!というより誰にも言ったことがないのになぜ芯を食ったコメントができるのか?いまだに謎である。

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一度は言ってみたいセリフ

録画しておいた『ノンレムの窓』というオムニバスドラマを観た。新春(2015年)に日本テレビで放送されていたドラマである。初めてこのドラマを観たのだが、どうやらシリーズもので、『世にも奇妙な物語』を思わせる構成である。

これを録画してまで観たいと思ったのは、バカリズム脚本のドラマが放送されるというふれこみがあったからである。

何の予備知識もなく見始めると、ドラマのタイトルが、

『前の車を追ってください』

と、ドーンと出た。

その瞬間、僕は、

(ははあ~ん、これは人生で一度は言ってみたい言葉についてのドラマだな)

と思っていたら、はたしてその通りの内容だった。

僕がタイトルだけを見てそう思ったのは、昨年(2024年)にオンエアされたTBSラジオの『東京ポッド許可局』のなかで、「一度は言ってみたいセリフ」について雑談をしていたのを思い出したからである。

その中で取り上げられていたのは、

「前のタクシーを追ってください!」

「俺にかまわず先に行け!」

(白紙の小切手を出して)「ここに必要な金額を書いてください」

といったセリフだった。ひょっとしてバカリズムさんは『東京ポッド許可局』を聴いていたのか?とも思ったが、仮に聴いていたとしても、1つのセリフを使ってあれほどねちっこくドラマに仕上げていくバカリズムさんの手腕はすばらしい。

それで思い出した。

「前の前の職場」に勤めていたときのことである。

卒業が近づくと、「卒業論文発表会」が開かれる。全員が発表するのではなく、各ゼミからひとりだけが選ばれてゼミの代表として発表する。

このひとりを選ぶのがなかなか難しい。

一番簡単な方法は、指導教員である僕が指名することなのだが、それだと代表になれなかった学生たちに不満が残る。できれば民主的に決めたい。

そこで思いついたのは、代表として相応しい人を、挙手で選ぶという方法である。

しかしたんなる挙手では、学生たちがお互いの顔色をうかがいながら手を挙げたりするので、できれば、誰が誰に手を挙げたかを他の人に知られない方法で選びたい。つまり投票に近いやり方である。

そこで、ゼミ生全員に、顔を伏せてもらって手を挙げる方法を考えた。

しかしこの方法、一見民主的に思われるが、じつはそうではない。なぜなら、誰が誰に手を挙げたかは、指導教員である僕しか知らないからである。つまり結果的には、僕の裁量で決めることができるのである。

ゼミ生にはあくまで民主的な方法であると言った上で、このやり方を実行してもらうことにした。

「ではみなさん、テーブルの上に顔を伏せてください。手を挙げるときも、決して見ないでください」

その言葉通り、ゼミ生たちはいっせいにテーブルに顔を伏せた。

全員が息をのむ、緊張の瞬間である。教室は静寂に包まれた。

そして僕は言った。

「この中で、クラスの給食費を盗んだ者がいる。だれにも言わないので手を挙げなさい!」

その瞬間、静寂だった教室は一気に爆笑の渦に巻き込まれた。

「先生!やめてくださいよ~。こっちは真剣なんですよ」と、ゼミ生みんなが笑いながら言う。

「ごめんごめん、一度言ってみたかったんだ。『この中に給食費を盗んだ者がいる』ってね」

ゼミ生の緊張感が一気にほぐれて、トラブルなく卒論発表会のゼミ代表が決まった。もちろん、決めたのは僕である。

ゼミ代表に決まったMさんはいまや広い意味での同業者となり、いまでもたまに連絡が来る。たぶんあのときのことは覚えていないだろう。

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後悔はしていない

12月10日(火)

最近、有名人の訃報を目にすることが多い。僕より1歳年下の俳優の中山美穂さんの突然の訃報にも驚いたが、そのあと日を置かずして、テレビ司会者の小倉智昭さんの訃報を聞いた。それを聞いてある思い出がよみがえってきた。

5年ほど前のある日の夕方のことである。フジテレビの朝の情報番組の「とくダネ!」のディレクターから電話が来た。電話を取り次いだ方の話では、出演依頼の話らしい。なんでこの俺が?と思い、そのときは居留守を使ったが、その後そのディレクターからメールが来て、番組の中でかくかくしかじかのテーマでお話ししてほしいということだった。どうやらディレクターはそのテーマでネット検索したら僕の名前が出てきたからということらしい。

僕はその依頼の仕方も失礼だなと思ったが、何より失礼と思ったのは翌日の朝の番組に生出演してほしいということだった。そんな横暴な依頼があるだろうか。こっちだって予習する時間が必要なんだ。それに僕なんかよりほかにふさわしい人がたくさんいるではないか。僕はすぐにお断りの返信をした。

仮に出演したとしても、あの番組には僕の嫌いなコメンテーターが出演していて、そういう人と共演するのはまっぴらごめんだという気持ちもあった。

唯一逡巡したのは、メイン司会者の小倉智昭さんに生でお会いしてみたい、ということだった。しかしそれをもってしても、あまりに乱暴な依頼には出演を瞬速で断るという選択肢しかなかったのである。

小倉智昭さんの訃報を聞いてそのことを思い出し、心残りだったが、あの時断ったことはいまも後悔していない。

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思い出したこと

12月8日(日)

たんなる思い出話。

3年ほど前、民放局のテレビ番組の取材を受けた。戦争に関する番組である。

電話をかけてきたディレクターの方がめずらしく誠実そうな方だったのでその取材をお受けすることにした。

「当日はうちのニュース番組のキャスターがお話をうかがう形で撮影します。ただ平日夕方のニュース番組を担当しておりますので、土日にお仕事場に取材にうかがってもよろしいでしょうか」

「わかりました」

平日夕方のニュース番組のキャスター?誰だろう?ひょっとしてあの人か?などと胸踊らせながら当日を迎えると、予想に反して男性アナウンサーだった。

その男性アナウンサーは、シュンとした顔立ちで、身長もスラリと高い。いまどきルッキズムかよ!と叱られるのを覚悟でいえば、「好感度の高そうなイケメンアナウンサー」に見えた。学歴もエリート街道を歩まれてきたらしい。

しかし、そのときの態度を見て僕は少し驚いた。

取材陣と最初に挨拶をして、ディレクターと撮影の打合わせをし始めると、彼はどこかへ行ってしまった。

打合わせに同席しなくていいのかな?と僕は少し心配したが、そういうものなのかなぁとそのときはそう思った。

しかし番組のテーマは「戦争」である。デリケートなテーマを扱うのだから、通常の仕事の中のひとつ、というわけにはいかないのではないかという思いも依然として残り続けた。

結局、彼は撮影をはじめるという時になってようやくあらわれ、ぶっつけ本番で撮影をして、帰っていった。

実際の番組を見ると、さすがディレクターの思いの強さがあらわれている番組に仕上がっているなぁと思った。だからこの番組にお手伝いできたことはとても貴重な体験となった。

ただひとつ心に引っかかったのは、あのアナウンサーの態度である。彼は番組自体に関心がなさそうに僕には見えた。事前に下調べをしたのかどうかもよくわからない。いや、しているのかも知れないが、もしそうだとしたらもう少し関心のある姿勢を見せるはずである。それ以降、僕はそのアナウンサーに対する見方がガラリと変わってしまった。

なぜこんなことを思い出したかというと、今日のニュースをチェックしていたら、そのアナウンサーがレギュラー出演するニュース番組の中で、韓国のユン大統領の戒厳令の一連の動きを報じたあと、「韓国では民主主義が根付いていないのかな」と発言し、「軽率な発言だった」と、ニュース番組とは別にレギュラー出演しているラジオ番組で謝罪した、というニュースを見たからである。僕はそのニュース番組もラジオ番組もリアルタイムではチェックしていなかったが、映像や音声に残っていた。

僕は「出るべくして出た発言だな」と、3年前のことを思い出し感慨深く思った、という、ただそれだけの話である。

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憶えていない

ずいぶんむかしにお会いしたことのある人に「鬼瓦さんですか?」と思わぬ場所で声をかけられることが、思い返せばけっこう多い。

先日書いた、お墓参りの後に昼食のため立ち寄ったパスタ屋さんで中3の時の同級生に会ったときもそうである。こっちはほとんど憶えていなかったのだが、先方は僕のことを完全に憶えていた。

つい先日仕事のために訪れた、母校の大学の一角にある図書室でもそんな出来事があった。

先日そこで作業を行ったことは前回書いたが、その作業の下準備のために最初に訪れたのがその約半年前、今年の2月である。

図書室のカウンターに行って、本日予約した者ですがと言うと、カウンターにいた白髪の老紳士ともいうべき司書の方が、

「鬼瓦さんですか?」

と聞いてきた。

見覚えのないお顔だなあと思っていると、

「Iです。あなたのゼミの先輩だった…」

「あ、Iさんですか!」

と言ってはみたものの、にわかに思い出すことができない。

下準備の作業している間もそのことが気になって仕方がない。

するとだんだん思い出してきた。

Iさんは、たしかに僕が入っていたゼミの先輩だが、10年近く上の先輩だったので直接の交流は全くなかった。当然、お話ししたこともない。

ただ、1年に1度、恒例のゼミ合宿があるたびに、IさんはゼミのOBとして参加されていた。ただし合宿でお目にかかったのはほんの2、3回のことだったと思う。Iさんは、卒業後は母校の大学の図書館にお勤めであるとそのとき聞いた。

あのIさんか…!

ようやく僕はその記憶を取り戻した。当時のイメージとの変わりように、にわかには思い出せなかったのである。

それにしても、1年に1度、ゼミ合宿の時にしかお会いしておらず、しかもたくさんいる学生のひとりだったペーペーの僕のことを、Iさんが憶えていてくれたとは!

Iさんは、母校の大学の司書として、各部局にある図書室を転々とし、いまはこの図書室のカウンターにいるところを、たまたま僕が訪れて、約30年ぶりの再会となったのである。

大変失礼なことに、僕は忘れっぽい性格なのでお会いしたことがあることを憶えていなかったりすることが多いのだが、先方はほんの1~2回会っただけなのに僕のことを憶えてくださっていることが多い。というかそれがふつうで、俺の記憶力のなさが異常なのか?

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カレーの思い出・コバヤシ編

鬼瓦殿

ちょっとご無沙汰してました。コバヤシです。

相変わら忙しそうですが大丈夫ですか?

先日、ブログのカレーの思い出話、読みました。

後輩たちの家、果ては信州大学に入学した同期の友人の松本市の下宿や、確かOB楽団の合宿だかなんだかで軽井沢の貸別荘でもカレーを作らされたことが懐かしく思い出されます。

作らされた、と書いたものの今思えば楽しかったので文句は無いのですが、同期の友人の松本の下宿や、OB楽団の合宿でカレーを作るのは貴君の発案だったと記憶しており、多分当時は、え〜っ面倒だからヤダ!と言っていたのを無理矢理連れて行かれたように思いますし、同期の友人の松本の下宿に至っては、全く知らない信州大学の吹奏楽部の後輩10人近くにカレーをご馳走したように思います。

まあ、それも含めて楽しかったのですが。

貴君も書いていましたが、この歳になると流石に、もうカレーで集まるのはいいや、というのとみんなで集まるのも面倒臭いのでいいや、という感じですね。

今はカレーを作るのも昔ほど力が入らず、オーソドックスなチキンカレーやキーマカレーなんか、半年以上は作っていません。

と書きつつも、スパイスは未だに10種類以上は常備しているので、平日でも適当なカレーは作ってます。最近はナスやズッキーニやなんかの適当な夏野菜と鶏肉を具に適当に炒めた玉ねぎや生姜、ニンニクにトマト、あればココナッツミルクなども入れたり、ナンプラーで味付けしたりしてます。

今流行りのスパイスカレーみたいなもんでしょうか。

ということで、取り止めもない話で失礼しました。

そのうち何処かで会いましょう。

では、お元気で。

※なんだよ、楽しかったんじゃねえか。で、いまは「適当に炒めた玉ねぎ」って…(鬼瓦)

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カレーの思い出

9月13日(金)

まことに芸のない話と思われるかもしれないが、夕食を何にするか困ったときにはカレーを作る。といっても本格的なカレーではない。豚バラ肉とタマネギとニンジンとジャガイモを入れて、ルーを加えて作るもっとも家庭的なというのか、基本的なカレーである。ほんとうは辛いカレーが好きなので、ジャワカレーの辛口あたりのルーを使いたいのだが、小1の娘がいるので辛くすることはできず、ハウスバーモンドカレーの甘口のルーを使っている。明日から3連休であることもあり、できるだけたくさん作って休日の夕食もまかないたいというセコい考えもある。

カレーについては、ちょっとした思い出がある。

高校時代は吹奏楽団に所属していた。同じパートにはコバヤシという奴がいて、これがウマが合うんだか合わないんだか、とにかく親しくなり、いまも親友という位置づけである。もっともいまはめったに会うことはない。

コバヤシは高校時代からなかなか大人びていて、ジャズ音楽に傾倒したり、文学に詳しかったり、食べ物にもこだわったりしていた。なかでも高校時代にカレーを作ることに目覚めた。それはインド風のチキンカレーで、当時の僕にとっては未知の食べ物だった。

楽器のパート練習の合間にその話が盛り上がり、そのインド風のチキンカレーを作ってカレーパーティーをしようなどという提案がどこからともなく出された。コバヤシと私と、1学年下の後輩数人がメンバーで、カレーパーティーは持ち回りで参加メンバーの自宅ですることとなった。

もちろんパーティーは週末におこなうこととしたが、大変なのはパーティー会場となるメンバーの自宅である。この日ばかりは、ほぼ一日、家を空けるために家族にどこかに行ってもらわなければならなかった。あと、会場となる家の参加メンバーは、当日までにカレーを作るのに必要な食材を揃えなければならなかった。もちろん材料や分量はコバヤシの指示である。で、コバヤシは当日、カレーを作る寸胴の鍋と香辛料を持ってくれば、これですべてカレーを作る準備が整うことになる。

午前中から集まり、最初は大量のタマネギをみじん切りし、それをカレー鍋に入れて弱火で焦げないように炒めなければならなかった。当然、鍋に入れっぱなしにすればOKというわけではなく、ひたすらタマネギのみじん切りが焦げないようにヘラだかシャモジだかを使って、つきっきりでタマネギをかき回さないといけない。つまり鍋のそばから片時も離れることはできないのである。当然一人だけが担当するわけではなく、交替でタマネギをひたすら炒めていたと思う。

何時間かすると、大量のタマネギのみじん切りが半分以下の量に減り、その色も飴色になる。コバヤシは適宜鍋の中を覗き、「これでよし」と許可が下りてはじめて、鍋の前から解放されるのである。

そのあとの手順はすっかり忘れてしまったが、ヨーグルトにつけ込んでいた骨付きチキンをヨーグルトごと鍋の中に投入していたと思う。香辛料をブレンドして投入するのはその後だったか?とにかくこのカレーパーティーのおかげで、コリアンダーとかクミンだとかカルダモンとか、香辛料の名前を覚えることができた。そして、たしかガラムマサラは最後に入れるということも教えられたと思う。後年(1991年)、デンゼル・ワシントン主演の映画「ミシシッピー・マサラ」を映画館で観たときに、タイトルにある「マサラ」とは、インド料理で使われるミックスされた香辛料という意味で、多様な文化が混じり合うことの象徴だという説明を聞いて、なるほどと思ったことがある。

とにかくそんなこんなで、ようやく食事にありつけるのが午後の遅くになってからというくらい、時間をかけてカレーを作ったのである。

それでもこのカレーパーティーはなかなかの好評で、高校を卒業してからも年に1回だったか半年に1回だったか、だれかの家を貸し切って同様のパーティーがおこなわれた。20代半ば頃まで続いたと思う。しかしその後はみんな忙しくなり、そんなパーティーのことは忘れてしまった。

最近になって、たんなる郷愁からだと思うが、そのカレーパーティーを復活したいという希望が後輩からどうやら出されているようだったが、もちろんコバヤシも僕も、そんなことはまったくやる気がないので無視している。復活することはないだろう。

で、冒頭の夕食の話に戻る。僕がコバヤシのカレー作りから学んだほとんど唯一のことは、

「タマネギを炒めれば炒めるほどカレーは美味しくなる」

ということだった。そのことがつねに念頭にあったので、若い頃は自分でカレーを作るとき、ルーを使ったとしてもタマネギを炒め続けることにはこだわった。いまはすっかりそんな元気はなくなってしまったが、いまでも短時間ながらタマネギがかなりしんなりするまでフライパンで炒めてから鍋に移すことにしている。

だからたとえ市販のルーを使っても、僕の作ったカレーは美味しいと思っている。実際小1の娘は「美味しい」と言ってくれた。ま、もともとカレー好きではあるのだが。

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これぞゴールデンヒストリー

僕が「究極のミニコミ誌」と呼んでいるガリ版刷りのミニコミ誌に、高校の恩師がエッセイを連載しているという話は、以前に書いた

つい最近送られてきたミニコミ誌には、驚くべきことが書かれていた。恩師の若い頃の話である。

子どもの頃から数々の病気の治療に時間を費やしていた恩師が高校を卒業したのは、21歳のことだった。さてこれからどうしようかと考え、まずは体力を回復するために、市役所で単純作業を行うアルバイトをした。しかしこんなことを続けても生きがいにはならないことに気づき、一念発起して大学に入学することをめざし、急遽夏から受験勉強を始めて準備不足のまま受験にのぞんだ。

入学試験が終わった夜、打ち上げの席で友人が「元気出せ」と、恩師の右耳をバン!と叩き、鼓膜が破裂してしまった。もともと左耳の聴力のなかった恩師は、残された右耳も壊され、完全無音の世界になった。こんなことでは大学に行って何ができる?どうせ受験は失敗したので、大学を諦めて別の新しい世界を生きていこうと決心した。

家族には「これからは新しい世界で生きていきます。落ち着いたら必ず連絡するから心配しないでほしい。探さないでほしい」と手紙を書き残して西へと向かった。放浪の果てにたどり着いたのは、知り合いのいない広島だった。駅前のパチンコ屋に飛び込み、ここで働かせてもらえないかと頼み込んだら、あっさりとOKをもらい、この日から住み込みの店員生活が始まった。マネージャーとオーナーに可愛がられ、快適な生活を謳歌した。右耳の聴力も次第に回復していった。

ある日、朝食のときに新聞の朝刊を読んでいると、尋ね人の欄に自分の名前が書いてある。「合格している。連絡せよ」と。すぐさま実家に電話をかけ、無駄なお金を使うなと言ったら、兄が入学と入寮の手続きをすませたからできるだけ早く大学に顔を出せという。マネージャーとオーナーに事情を説明した。マネージャーは半信半疑だったが、オーナーは2カ月分の給料をくれて「すぐ行きな」と、恩師を送り出した。

かくして14歳~22歳の8年間の「道草はぐれ半生も終わって、以後は凡庸な生活となっている」と、最後に綴っている。

「以後は凡庸な生活となっている」という言葉に思わず笑ってしまった。その後もいろいろあったのだろうけれど、このころの8年間にくらべたら、どんな生活も凡庸に思えてしまうのだろう。

僕が高校時代に知らなかった、恩師の青春時代の話。高校を卒業して40年近くたって初めて知ったのである。

このエッセイを僕だけが読むのは勿体ない。このページをスマホで撮影して、高校時代に同じクラスだった有志で作っているグループLINEで共有した。「まるで映画のような人生だ」というコメントをつけて。

クラスの仲間たちも、当然このエッセイを読んで驚いていた。「ドラマ以上だわ」「そのあとの人生についてももっと話を聞いてみたい」と。

僕は恩師にメールをした。何よりまず、恩師に断りなしにエッセイを同級生の仲間たちと共有してしまったことを謝り、仲間たちの反応を紹介した。

するとほどなくして恩師から返信が来た。

「連載エッセイをクラスのみんなに回したのですね、ははは、恥ずかしいけれどおもしろいね。今まで家族にも言わなかったことがたくさんあるけれど、そろそろ人生の終点も近づいているはずなので最後まで面白がって生きてやろう!という気分です。但し、共通タイトルは「他人にわかってもらうのはむずかしいこと」に限っているのでそんなに長くは続きません。(連載は)あと3回くらいかな」

そうおっしゃる恩師は、今度の日曜日に春風亭一之輔師匠の独演会を聴きに行くそうだ。「激しい座席とり競争の中、最前列の席を確保できたので行きます」と書いてあった。

僕のいまの夢は、恩師の連載エッセイを1冊の本にまとめることである。

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今年の新語流行語大賞(予想)

9月15日(金)

今週も、よくぞよくぞ、「武田砂鉄のプレ金ナイト」のアフタートークまでたどり着きました!

いきなりですが、今年の新語流行語大賞を予想します!

今年の新語流行語大賞は、「アレ」です!!!

根拠は明白。新語流行語大賞を選ぶ審査の人たちは、まちがいなく野球好きのオジさんたちばかりだと思われるからだ。

ここ最近の大賞を見てみても〈カッコ内は受賞者〉、

2015年「トリプルスリー」(柳田悠岐/福岡ソフトバンクホークス、山田哲人/東京ヤクルトスワローズ)

2016年「神ってる」(緒方孝市監督/鈴木誠也外野手/広島東洋カープ)

2021年「リアル二刀流/ショータイム」(大谷翔平/ロサンゼルス・エンゼルス)

2022年「村神様」(村上宗隆/東京ヤクルトスワローズ)

とまあ、野球に関する言葉が大賞に選ばれているのである。

これって、ほんとうに流行ったのか?

「流行語」といわれた言葉はおろか、受賞者の野球選手・監督の名前が、大谷翔平以外はひとっつもわからない。なぜならまったく野球に興味がないから。

それにこれらの言葉は、ほんとうに流行したのか?「神ってる」と言ってる人を見たことないぞ。むしろ「スピってる」のほうがふだんよく使うぞ(「東京ポッド許可局」発)。

「村神様」なんて、絶対に「神様・仏様・稲尾様」からの連想としか思えない。つまり、野球好きのオジさんたちがノスタルジーからこの言葉を生み出し、それを勝手に流行語大賞にした疑いが強いのだ。まるで自作自演である。

そう考えると、今年の流行語大賞は「アレ」しかない。

数日前だったか、阪神タイガースがリーグ優勝をしたそうなのだが、岡田彰布監督は、チームにマジックが点灯したくらいから(この「マジックが点灯」という言葉も、野球に興味のない僕からしたらよくわからない言葉である)、選手に「優勝」のプレッシャーを与えないように、「優勝」とは言わずに、「アレ」と言い換えたのだという。つまり「優勝」という言葉を使うのは禁止で、代わりに「アレ」という隠語を使った、というのである。

…という話で思い出したのだが、創業者の名前を冠している大手芸能事務所の社名について、その創業者が数十年にわたり、人類史上に類をみない犯罪行為を犯したことが、その創業者の没後に問題となり、その犯罪者の名前を社名に残し続けていいのか、とだれもが思っているにもかかわらず、当の大手芸能事務所は意に介さず、その社名を使い続けている。

しかし、実際にテレビを見てみると、最近は所属タレントの口から所属事務所名が出ることが少なくなったし、まわりの出演者もなるべくその大手芸能事務所の名前をほとんど口にしないことに気づいた。つまり出演者や被害者にダメージを与える社名だということに、だれもが気づいたのである。

もうさ、「アレ事務所」と改名したほうがよくね?

…ということを、阪神タイガースそのファンたちが「優勝」をいう言葉を避けて「アレ」と言い換えてるのを見て、思いついたのである。

そんなことはともかく、もし「アレ」が受賞したら、受賞者はだれもが知っている岡田彰布監督となり、なかなか映える授賞式になるのではないだろうか。ということで、かなり高い確率で「アレ」が受賞すると考えたわけである。

個人的な希望をいえば、今年の新語流行語大賞は「ひもづけ」になってほしいと思うけどね。

そんなことより、阪神タイガースが優勝したことは、僕にとってかなり憂鬱である。

思い出すのは、1985年、僕が高校1年のとき、阪神タイガースは初のリーグ優勝、そして日本一に輝いた。

同じクラスにテニス部のK君という人がいて、このK君がむかしからのタイガースファンだった。

タイガースファンは一人だけで、それ以外の多くは、ジャイアンツファンだったと思う。

高1のクラスの男どもは、休み時間になると毎日のように野球話に興じ、ターゲットは自然とタイガースファンのK君となった。K君が、クラスのムードメーカー的な存在だったこともあり、みんながイジりやすかったのだろう。

やれジャイアンツが強いとか、タイガースが弱いとか、そんなことを飽きもせずに毎日言い合っていて、野球に関心のない僕は、どうして一つのチームにそれほどまでに肩入れできるのだろう?どうして好きなチームを一つだけ決めることができるのだろう?と、半ば呆れながら彼らの会話を横で聞いていた。

ところが、である。

高1の秋になると、形勢が逆転する。K君が応援しているタイガースがリーグ優勝し、さらには日本一となったのだ。

K君は「やっと俺の時代が来た」とばかりにマウントを取り始めた。心なしか声もでかくなった。まわりの同級生も、K君の強運さに舌を巻くばかりだった。ま、今から思えば、全然たいしたことではないのだが。

なぜこのことを思い出したかというと、再来月初旬に、高校のクラス会があるからである。

行かないつもりでいたが、お世話になった担任の先生もおいでになるというので、やはり担任の先生とは会えるときにあっておきたいと思い、出席の返事を出した。

僕が懸念しているのは、同級生の男どもの間で、野球話に花が咲くのではないか、ということである。しかも、高1の時に阪神が優勝して、あれから40年近く経って久しぶりにクラス会をしようとなった年に、また阪神が優勝したのである。こうなると、野球の話題が出ないということはありえない。

あ~、野球にまったく関心のない僕は、その場をどうやってやり過ごそうか。

そのことを考えると、ひどく憂鬱になるのである。

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