第二章上 師匠本紀
十章構成になる予定の本企画、今後登場人物がまあまあ多くなる。そこで、本章は今後登場予定の鬼瓦先生以外の師匠&同期生を、「列伝」形式で列記していこうと思う(章題で「師匠本紀」などと記したのは、あくまでも洒落のようなもので、「本紀」だから年表風に記す、ということではない。基本的にどれも略伝・逸話語り風の記述となる)。
巻一 A老師本紀
A先生は、私の所属したβ研究室の主任教授だった方である。私とA先生との「出会い」は、私の地元の県立図書館であった。そこに所蔵されていた『現代紳士録』(のようなもの)で、受験予定の大学の所属希望研究室の教授がA先生と後述のK先生であることを知った(まだネット検索が一般化する以前だったからこその検索方法である)。浪人決定直後で、まだ若く汚れを知らず、純粋無垢だった当時の私は、「進学したら、この先生方の下で卒業論文が書けるんだ!」と意気込んでいたものである。幸い、この目標は「半ば」達成されることになる。
翌年、浪人生活を何とか一年で終え、無事大学進学を果たした私は、とあるサークルに所属した。そこの先輩には偶然にもA先生の門下生がおり、A先生のお人柄を耳にする機会も多かった。話を聞くにつれ、いてもたってもいられなくなった私は、大学図書館でA先生の論文を集められるだけ集めて複写・通読し、質問事項をリスト化してからA先生の研究室の門を叩いた。
まだ学部一年生だった私の突来を、A先生は快く受け入れて下さった。裏話をすると、当時β研究室は大層不人気で、所属する生徒を獲得できていなかった。わざわざ研究室にまで顔を出した一年生を無碍にすることなどできなかったのである。
A先生は、当時の私の両親とほぼ同年代ーー四十代半ばーーに見える風貌の紳士然とした方であった(後日判明したことであるが、実際、私の母と同い年であった)。先生は暖色系のバーバリーのベストかセーターを着こなしておられた(余談であるが、この数年後、A先生は今に至るまでトレードマークとなる口髭を蓄えることになる。これは、同期生たちの間で「A先生の口髭アリナシ論争」が勃発するほど話題を集めることになる)。私は生意気にも、集めた論文を読んでの感想を喋り散らし、これまた大変生意気にも、
「この一連の論文は連作であるように思うのですが、これらをまとめて一冊の本になさるご予定はないのでしょうか?」
などと言い放ってしまった。A先生は一瞬驚いた表情を浮かべた後、こうおっしゃられた。
「実は、数年後に一冊にまとめる予定はあるんですよ。もしかすると君に、その論文集の索引作りや校閲の一部を頼むことになるかもしれなませんね」
A先生は数年後、予告どおり論文集を刊行することになるのだが、その論文集のあとがきには、校閲協力者として私の名前が記されることとなる。私の密やかな自慢である。
A先生は放任主義の先生であった。少なくとも、生徒を自分の影響下に置きたがる、というタイプではなかった。例えば、私は本当に生意気な生徒だったから、A先生のゼミでのレジュメ発表時、参考文献として、A先生とはライバル関係にあたる研究者の論文・著書ばかり引用してみたことがある。A先生の見解に敢えて異論を唱えて、ひと搔きでいいから引っ掻き傷をつけてみたかったのだ。A先生は温容を崩さず、「なるほど、そういう解釈もあるかもしれないね」と呟き、異論も反論も受け止めてくださった。当時の私は肩透かしを食らったような気分になったものだが、今にして思えば、自由な発言を容認し、活発な議論をしやすい環境を作られていたのだろうと思う。「A先生は研究者である以上に教育者である」という評を、私は大学院進学後に知ることとなる。
A先生は、私の卒業論文に大きな影響を与えたという存在ではなかった。研究したいと思うテーマが大きく異なっており、参考にしづらいと感じていたからだ。どこかで、A先生の存在を軽んずるような気分も、あるいはあったかもしれない。だが、大学院修了後、「教育に関係する職種」に就いてから、実はA先生の影響が大きかったことに気が付いた。敢えて異論を出してくるような生意気な生徒に接するとき、私は、知らず知らずのうちにA先生と同じ態度を取ることが多い。何故か自然とそうなってしまうのである。
ーーそうか、A先生はこうやって私を受け入れてくれていたのか。
師匠の深慮遠謀に気付いたのは、実に十年後のことであった。全くもって歩みの遅い弟子である。お会いする機会が減ってからの方が、A先生を思い返す機会が増えていった。その後も不定期にはなってしまったが、研究室にお邪魔しては近況を報告していた。最後にお会いしたのは平成三十(2018)年三月のこと。還暦を過ぎたA先生は変わらずお元気なご様子であった。ただ、この年の一月に、A先生の恩師(私も大学院で謦咳に接したことのある老名誉教授)に当たられる方が急逝したということもあってか、どこか寂しげな表情でもあった。その後、令和三(2021)年三月に定年退職。コロナ禍の真っ只中ということもあり、お祝いの会を開いて差し上げることも叶わなかった。私の地元の日本酒をお贈りするのが精一杯のことであったが、それでも先生は喜んでくださったようである。
令和七年(2025)年現在、A先生は同大学の名誉教授として、今も時折教壇に立っておられる。そして、今年の下半期にはいよいよ古稀を迎えられる。
巻二 Y老師本紀
私が所属していたコースは、鬼瓦先生が担当するα研究室、A先生・K先生・N先生が担当し私が所属していたβ研究室、そして、Y先生が担当していたγ研究室の三研究室から構成されていた。
私はβ研究室の所属ではあったが、α研究室の鬼瓦先生のところに頻繁に出入りしていたというのは既述の通りであるが、当時のα・β・γ三研究室に大きな垣根はなく、理論上はどの研究室のゼミに参加することも可能であった。ただ、ゼミの時間帯が重なっていることが多く、現実問題として受講することは難しかった。が、α・β・γのいずれのジャンルにも興味関心があった私は、暇を見つけては担当教授の部屋に足を運んだ。鬼瓦先生と並んで、私が頻繁に出入りしていたのが、γ研究室のY先生のところであった。
Y先生は痩身に口髭を生やしたシャープな風貌の持ち主で、一見すると冷徹な官僚のようにも見えた。一対一で話してみると、柔和な口調に温容を湛えて接してくださる。が、不正や誤魔化しを嫌い、だらしのない生徒には時に峻厳な態度で接しておられた。
私は、よく研究室にお邪魔してはY先生の蔵書をお借りしていたのだが、ある時、「どうしてそんなに直接は関係のない本ばっかり借りていくの?」と尋ねられたことがある。当時の私はK先生の影響でα・β・γ三ジャンルの比較検討の真似事をしていたので、そのことを正直に申し上げた。すると、面白がってくださったY先生は、「じゃあさ、その比較した成果を時々でいいから話して聴かせてよ」とおっしゃられた。内心、「か、課題が増えた……」とは思ったが、面白そうだとも思った私は、時折レジュメ(の、ようなもの)を持参して、一対一の講読ゼミ(オーバー)の如き時間を過ごすようになった。
一度、Y先生には派手に叱責されたことがあった。学部の四年の秋口だったと記憶している。当時私たちが利用していた学生研究室は、学部棟の一階にあったのだが、土日になると自由な出入りが禁止されていた(大学院生以上の身分になると電子キーが貸与され、土日も自由に出入りができた)。私たち当時の学部生は、土日もここで勉強がしたかったので(紛れもない事実である。工具書が常備してあり、予習復習に最適な環境だったのである)、色々と策を弄した。金曜日の夜、誰かがそのまま徹夜して土曜日の朝まで学生研究室で過ごし(この役回りを担当したのが、主に私かHであった)、土曜日の午前中に別の学部生の誰かと交代するのである(出入口の自動ドアは、内側に人が立つとセンサーで開くようになっていた)。または、学生研究室が一階であることに着目し、金曜日の夜のうちに事前に学生研究室の窓の鍵を開けておき、土曜日の朝こっそり窓から侵入して利用するのである。
これが問題になった。ある週末、Y先生が学生研究室に顔を出し、「土日の学生研究室の使用を制限しようと思う。あんまり勝手なことをしないように」とおっしゃった。表面上、「判りました」と答えつつ、当時の私は心で舌を出していた。
翌日(土曜日)、私はいつもどおり、あらかじめ鍵を開けておいた学生研究室の窓を開け、窓枠に足をかけた。そのまま研究室に降り立った瞬間、向かいのドアが開いた。そこには、沈痛な表情を浮かべたY先生の姿があった。絶句して立ち竦む私に、Y先生は厳しい口調でこう言い放った。
「Iくん、僕は君を誤解していたよ。君は、規則も守れない男だったんだな? 今日はもう帰りなさい! そして月曜日、僕の研究室に顔を出して。少し話そう」
有無を言わさぬ口調とはこのことであった。私は、入室したばかりの研究室からすごすごと退散せざるを得なかった。幸い、Y先生に対する怨み辛みはなかった。「自分が調子に乗っていたのだ」と自省するばかりであった。
……翌日、重い足取りでY研究室の門扉を叩く。Y先生は「ああ、来たね」とだけ呟くと、少し濃いめの珈琲を煎れてくださった。Y先生は、私の言い分を聞き終えると、珈琲の湯気に口髭を燻らせながら、静かに口を開かれた。
「やっぱり窓から入るなんて許されない。もしどうしても土日も研究室を利用したいのなら、私かA先生に事前に連絡しなさい。それから、金曜日徹夜して研究室に居残るっていうのも、セキュリティを考えると決して褒められたものじゃないな。やるなとまでは言わない。が、あまり頻繁にはやらないでくれ」
耳朶と口内に苦味の残ったこの一件があって以降、毎週末になると、私はA or Y研究室に顔を出し、「明日は○○時になると思います。開けて頂けないでしょうか?」と許可をもらってから学生研究室を利用するようになった。ごく稀に、「なんなら昼飯でも食べに行こうか?」とお誘い頂くこともあった。叱られたはずなのに却って親睦が深まった出来事であった。卒業後も何度かY先生とお会いしているが、このときの件が話題に上ると決まって、「怒鳴りつけたりして、僕も若かったなあ」と苦笑いされる。
そんなY先生は一昨年、定年退職を迎えられた。Y先生とは、実は他にも「重め」の逸話があるのだが、それはまた別章で語ることとしよう。
巻三 K老師本紀
私の直接的な「師匠」と呼び得る人が、K先生(と、後述のN先生)である。当時のK先生は、β研究室の若手研究者であった。年齢は鬼瓦先生と同い年(どちらかが早生まれだったはず)。お二人は大学の同門であり、旧知の仲であった(正確な情報は失念してしまったので間違っているかもしれないが、確か、K先生の方が入学年度が一年早かったが、気が付いたら鬼瓦先生と同じ学年になっており、さらに気が付いたら鬼瓦先生に追い抜かれ、就職でも先を越されてしまったのだが、いつの間にか同じ大学の姉妹研究室の若手講師として轡を並べることになった、らしい)。
私がK先生と出会ったのは、A先生の研究室の門扉を叩いた直後だったと記憶している。A先生に、「こんな研究がしたいんです」と話したところ、「ああ、だったらK先生の方が近い研究をしているから、一度話を聞いてもらったらいいですよ」と、アドバイス頂いたのである。
私は勇躍してK研究室のドアをノックしたのだが、灯りは点いているものの不在であった(こういうことがよくあった)。それが運悪く三日続いた。一般教養の授業を受ける以外暇を持て余していた私は、K先生が戻ってくるまで、研究室の前で待つことにした。
待つこと十数分。無駄に図体のでかい私よりも小柄な、三十代半ばの男性が近付いてきた。
「……あのう、なにかご用ですか?」
呼び掛けのことば自体は一般的なものであったが、一般的でなかったのは、その風貌と声であった。風貌は、誤解を恐れずに表現すれば、「さる高貴な血筋の人」を少し圧縮して前後に潰したような、声は、想定していたよりも遥かに甲高いものであった。私は、多くの人に勝手に渾名をつける悪癖があるのだが、このときもそれが発動してしまう。以来、私はK先生のことを心の中では「殿下」、七年前からは「陛下」とお呼びしている(無論、直にそう言ったことは一度もないが、ご自分でも自覚のあったK先生は、柏原芳恵の逸話の時同様ご自身でネタにしておられた)。
殿下、もとい、K先生に声をかけられた私は、「A先生に言われてお邪魔しました」と伝え、研究室に入室することに成功した。が、足を踏み入れた瞬間、衝撃を受けることになる。そこには、うず高く積み上げられた人文科学関連の書籍の小山が出来ていたからである。
「ああ、汚いところで申し訳ないねえ。その椅子の上の本をどかしてもらってもいいかな? そしたらそこにお座りください」
そう言われて手に取った本は、金欠の私にはなかなか手が出ない、箱入りハードカバーの学術文庫のかたまりであった。思わず、タイトルを読み上げ陶然としている、
「ん? 読みたい? 貸してあげてもいいよ? 僕もまだ読んでないけど」
「よ、よろしいんですか?」
「だって、机の上、こんなだよ? 当分そこには行き着かないからねえ」
完全にK先生のペースであったが、気を取り直してひとまず着席すると、簡単に自己紹介し、「こんな研究がしたいんです」という一連の話をぶちあげた。すると、
「……ああ、じゃあ、T川先生とK勝先生の論文は読んでるのかな?」
「はい」
「それじゃあ……K本先生とK添先生とM崎先生は?」
「はい、それも読んでます」
「あ、判りました。じゃあねえ……これを貸してあげよう」
K先生は無造作にファイルの束を取り出すと、私が見たことのない研究者の論文を四~五本取り出した。
「これとこれとこれは参考になるんじゃないかな? あと、これとこれはそれに対する反論の論文ね。あとはねえ……」
呆気に取られている私を尻目に、K先生は蔵書と論文をどんどん取り出していかれた。
「……大体こんなものかな? これが、君がやりたいことの先行研究。好きにコピーしていいから。さすがに全部ではないから、残りは自力で見つけてね」
「ちょ、ちょっと待ってください! ひとつお訊きしたいんですが、K先生も私と同じテーマの研究をなさるおつもりなんですか?」
「いや、そんなつもりはないよ」
「じゃあ、どうしてこんなに論文をお持ちなんでしょうか?」
「これは、まあ……趣味だね。なんか集めちゃうんだよ。で、こういうときに役立つ、と」
……趣味。絶句するしかなかった。そして、誰かにこういうことが言える人間になりたい、と思ってしまった。
以来、私の人生は変わった。暇があると図書館に向かい、手当たり次第に本を読み、論文を集め、先行研究を整理する日々を送るようになったのである。これが無上に楽しかった。脳内に少しずつ先行研究が蓄積されていくことで、自分がどんな研究をしたいのかが整理されていく。体系化された学問を習得する悦びを実感できたように思う。
そして、K先生は、先述のとおり各研究者個々人の経歴や研究内容にも大変精通しておられる方であった。研究史整理の達人だったのである(おそらくそれと連動して、研究者間のゴシップにもとてつもなく精通しておられた)。その影響は凄まじかった。私の卒論の四分の一は研究史整理に費やされているのだが、これは明らかにK先生の影響によって出来上がったものである。口頭試問の際、A先生から、「Iくんの卒論の出色なところは、この先行研究整理に尽きるね。K先生の直弟子の名に恥じないよ」と言っていただいた。
……だが、にもかかわらず、この口頭試問にK先生の姿はなかった。K先生は口頭試問の一年半前、東京の某大学に転任されてしまったからである。
現在、K先生は都内某所の大学の副学長(!)を務めていらっしゃる。実は、K先生とは二年前に都内で再会を果たしているのだが、それはまたまた別章で語ることとしよう。
巻四 N老師本紀
「……なんかねえ、途中でいなくなるなんて、Iくんからしてみたら、詐欺に遭ったようなもんだよねえ。本当に申し訳ない」
と言いながら、芋煮を旨そうに頬張るK先生の姿を、私は生涯忘れないだろう。この日は、帰京してしまうK先生の送別会。幹事は私(そう、二十数年前も私は幹事をやっていたのである!)。大学キャンパスのあるY市名物の芋煮を研究室総出で作り、河原で食べているところであった。複雑な表情で傍らに座る私に、K先生が続ける。
「……でもね、Iくんにとっては、僕の転任はラッキーな出来事になるかもしれないよ。僕の口からはこれ以上詳しくは言えないんだけど、きっとそうなると思うから、気を落とさずに、ここまでやってきたことを継続してください。時々会いに来ますから」
師匠に去られることの何がラッキーなんだろう? このときの私にはさっぱり判らなかった。
K先生との別れから約一ヶ月後。K先生の後任講師としてN先生が着任した。N先生は弱冠二十八歳。私とはたったの六歳しか違わない。大学院出立ての超若手講師であった。
N先生は小柄で童顔、老け顔の私などと並ぶとどちらが年上か判らないと言われるくらいの若々しさであった。正直、師匠というより、先輩、兄弟子というに近い。が、この小柄な兄(あん)ちゃんが、私の人生を再度変えることになる。
N先生の専門は、実は、私の卒論テーマとかなり近しいものであった。異なるのは対象とする地域と時間。そして、私の卒論テーマに語学はほぼ不要だったが、N先生の研究テーマでは語学とフィールドワークが欠かせないものだった。実体験に基づく立論の仕方、他地域との差異を踏まえた上での比較検討……K先生から教わったアプローチ法とは異なるものの、私が欲していた先達そのものがN先生だったのである。K先生が「ラッキー」とおっしゃったあのなぞかけが解けた瞬間であった。こうして私の二人目の直接的な「師匠」となったのが、N先生であった。
N先生は、複数の言語を習得したポリグロットであった。しかも、N先生のかつての所属大学にはその複数の言語を教えてくれる存在がおらず、ほぼ独学でマスターしてしまったという人である。とにかく自分に厳しい人であったから、当然、所属ゼミの生徒にも同様の態度で接してくる。
「……ふうん、I大先生はそうおっしゃるけれど、そんな風に考えた根拠はどこにあるの?」
N先生のゼミでもっとも多用された一言は「根拠は?」の一言であったろう。自分なりの根拠に基づいた発言であっても、N先生が納得いかない根拠であった場合、やり直しを促される。A先生やK先生のそれとは全く異なるゼミの風景であった。
「先行研究整理にかまけて、やるべきことをやってないんじゃないの? 卒論を書いている今、Iくんがやるべきことは、まず論理の構築でしょ? 先行研究まとめもいいけれど、まず自分の考えをまとめてきなよ」
「そういうのは根拠って言わない。トートロジーの罠に陥ってる」
「本当に辞書を引いてきたの? そんなことが書いてある辞書があるなら、おれの前に持ってきてよ」
学生研究室に戻ってから、同期生たちに、
「またNの兄ちゃんにボコされた! 次は絶対反撃してやる!」
などと悪態を吐いていた記憶ばかり甦る。怖かったし、疲れきりもした。だが、N先生とのやり取りは刺激に満ちていて、すこぶる楽しかったのである。そうやって完成した卒論は、巧拙は置いて、思い出深いものとなった。
後年、N先生に謝罪されたことがある。
「あの時は初年度だったから、力加減が判らなかったんだよね(←やっぱりな!)。結構ハードな要求を突きつけてたかもしれない(←本当そうですよ!)。君らの後の年度生に同じ要求はできなかったよ(←つまり、うちらだけハードモードで戦わされてたんですね!)。いやあ、若気の至りってことで許してください(←……でも楽しかったんで、許します)」
現在もN先生は我が母校で教壇に立っておられる。あの若かった兄ちゃんも遂に知命の年(=五十歳)。昔と変わっていないのだとしたら、日本と某国を行ったり来たりする生活をしているはずである。
今、私は教壇に立って授業をする身だが、授業スタイルは、A先生とK先生とN先生のハイブリッドである。授業前の調べごとの仕方はK先生仕込み、授業時、必ず生徒に根拠を求めるのはN先生の流儀、そして、生意気な生徒の意見に耳を傾けるのはA先生のスタンス……。
アーネスト・ヘミングウェイのことばになぞらえて言えば、「わたしをつくったもの」は先生方である。出来の悪い、不肖の弟子ではあろうけれども。だから、今現在の「私」という存在の製造責任者たるお歴々に、時折無性に会いたくなってしまうのはやむを得ざることだと思って頂きたい。(つづく)
〔付記〕
大学の研究室時代の僕の思い出はほとんどない。指導教授は仰ぎ見る存在で、お話をする機会などまったくなかった。
指導教授の還暦パーティーの時、並みいるお弟子さんたちの中で、当時最年少の弟子であった僕がなぜかスピーチをさせられ、
「先生は真夏の暑い盛りの巡見の時に、自動販売機で缶のコーラをお買いになり、美味しそうに飲んでおられました」
というエピソードを披露するのが精一杯であった。
まことに不肖な弟子である。
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