思い出

人生を決めるひと言

前回書いた、出身高校の同窓会が、高校創立80周年を記念して編集した本の中に、いまはジャズピアニストとして活躍している僕の1学年上の先輩のインタビューが載っていた。

そこに、音楽のモリ先生とのエピソードが語られている。

その先輩は、高校に入ると、まったく勉強をせず、洋楽やジャズを片っ端から聴く毎日だった。高3になっても、六本木や新宿で遊んでいて、先生からはどうしようもないヤツと思われていた。

唯一違ったのが音楽のモリ先生だった。高3のあるとき、自分で作曲したものをみんなの前で発表するという課題が出た。自分は人前でピアノを弾くのが恥ずかしいので適当に家でピアノを弾いたのをテープに録音して提出したら、先生がみんなに聴かせて、

「おまえ、ちょっと来い」

と言われて、怒られるのかなと思って先生のところに行くと、

「おまえは音楽をやれ、ジャズで生きていけ」

と言われたという。

いよいよ進路を決めるとき、アメリカにバークリー音楽大学というジャズの教育機関があることを知り、親には反対されたが、唯一モリ先生だけが、

「おまえはバークリーへ行け」

と背中を押してくれた。そこから人生が大きく動き始めたというのである。

僕は在学中に、この先輩の存在を知らなかったし、かなり有名になってからその名前を知ったくらいだから、その人となりもわからないのだが、インタビューを読む限りでは、在学中はかなり異端な生徒だったんだろうと思う。そんな中でも、モリ先生はその才能を見抜いていたのだ。

その先輩が高校を卒業した翌年、モリ先生は病気で亡くなった。「CDデビューしたことくらいは報告したかった。喜んでくださったに違いありません」と語っている。

この本のほかのページによると、モリ先生は、1986年3月、病気により49歳の若さで亡くなったとある(僕の記憶では1987年であった気がするが…)。僕は、48歳の時にモリ先生と同じ病気になり、いまも生きながらえている。35年の間に医学が進歩したということなのか、あるいはたまたまなのか、よくわからない。

そして僕の恩師もご健在である。恩師に自分の近況をたまにお伝えできるというのは、ありがたいことである。

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謎の依頼だった

6月3日(木)

仕事部屋の机を少しずつ片づけていたら、書類の「層」になっている中から、ある会報を見つけた。

その会報は、書道を研究しているある組織の会報で、6年ほど前に、書道に関するエッセイを書いてほしいと、僕に依頼が来て、その会報にエッセイを書いたのであった。僕はそのことをすっかりと忘れていた。その会報ができた時に、先方から複数の部数が送られてきたのである。

それで思い出したのだが、僕は、その組織とはまったく関係がなく、知り合いがいたというわけでもない。どういう経緯で僕に書道についてのエッセイを依頼したのか、まったく覚えていない、というかわからない。そもそも僕は、書道の世界とは縁もゆかりもないのだ。

まことに不思議な依頼であるなあと思いながら、当時、依頼されるがままに原稿を書いたことを思い出した。

数百字程度の、ほんの短い文章だったが、いま読み返してみると、我ながら実によく書けている。エッセイの最後では、僕が学生時代に耽読した福永武彦のある小説を引用し、文学的な余韻を残している。エッセイのタイトルも、福永武彦へのオマージュに溢れている。

A4見開きで4頁のリーフレットのような体裁に、6名の執筆者が名を連ねている。どの方も肩書きのりっぱな方ばかりで、そのうちの一人は、僕が何度かお目にかかったことがある人だった。6名の中で唯一、その人となりを知っている方の書いたエッセイは、僕が何度かお目にかかった時の印象を裏切るものではなかった。僕だったら絶対書かないだろうな、というサムい書き出し(つかみ)で始まっていて、短いエッセイは、なんと人の心を端的に映し出すものだろうと、感慨深く思ったものである。

送られてきた会報は、2種類あった。日本語版と、中国語版である。わざわざすべて中国語に翻訳しているバージョンもあるのである。これだけ労力をかけているということは、会報の読者として中国語を母語とする人たちも想定されているということなのだろうか。いったいこの会報の読者は、どのくらいいるのだろう。

気になった僕は、インターネットで、この会報のことを調べてみた。まず、会報を出している組織のホームページを見てみることにした。

ところが、そこには会報のことがまったく書かれていない。レポジトリになっているかなと期待していたが、それどころではなかった。

廃刊になってしまったのかな、と思い、次に、その会報がどのような機関の図書館に所蔵されているかを調べるサイトがあるので、調べてみた。

すると驚くことに、その会報は、その組織が所属する図書館にしか置いていない、という結果が出た。

つまりこの会報は、いずれの公的機関の図書館にも、送付されていないのだ。公式ホームページにも記載がないということは、ほとんど知られていない会報といってもよい。

こんなふうに、僕には人知れず書いたエッセイがけっこうあって、自分でも忘れてしまうほどである。

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エンタメは私を救う、あるいは…

エンタメは我が身を助く

もしくは、

人生変えちゃうエンタメかもね

…と、タイトルに迷った。

5月18日(火)

月に一度の全体会議で、すっかり疲弊してしまった。

そういえば、先日ラジオクラウドで聴いたジェーン・スーと堀井美香アナウンサーの「OVER THE SUN」(ポッドキャスト配信番組)で紹介されたメールは、なかなか衝撃的だった。メールのテーマは「人生の転機」。

東北地方の田舎町で、10歳の時に人生に絶望し、28歳まで軽い引きこもりだった女性が、ある日どういうわけか思い立ち、渋谷で上演されている「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン」という芝居を見に行くことになる。理由はわからない。別につかこうへい作品のファンでも、主演の阿部寛のファンでもないのに。

ところがその1本の芝居が、彼女の人生を変えた。

彼女は芝居を観ている2時間、ずっと泣きっぱなしだった。芝居を観て、自らの人生をふりかえり、早く終えてしまいたいとばかり思っていた自分の人生を、「それでも生きていかなくてはいけないのだ」と強く思い直すようになる。

そこから彼女は、どうやったら一人で生きていけるかを真剣に考えるようになる。

東北の田舎町では、職歴のない28歳の女性を雇ってくれるところはない。そこで、そのころ広がり始めた、手っ取り早く仕事をもらえそうなパソコンの文字入力を覚えはじめ、東京へ出て派遣社員をしながら正社員の口を探し、ITベンチャー企業に潜り込む。しかしITベンチャー企業のなかには、経営が危うかったり無理な働き方をさせたりするところも多い。会社が潰れそうになったら、ほかのIT企業に移り、ということをくり返し、10年間で少しずつスキルアップしながらマシな会社へと転職し、8回転職した末に、いまの会社に落ち着き、数年前には自力でマンションを買うことができるまでになった。

…どうも文章だと伝わりにくい。やはり堀井アナのメール読みでないとね。

とにかくここで言いたいのは、1本の芝居がその人の人生を変えた、ということだ。

1本の芝居に救われた人生。それでもエンタメは、不要不急と言えるのだろうか?

「人はパンのみにて生くるものにあらず」

そういえばむかし、こんなことがあった。「前の前の職場」でのことである。

詳しい経緯はすっかり忘れてしまったのだが、その日は学生たち数人と、外で何かイベントを計画していたのだが、あいにくの大雨で、外で行事をすることができなくなった。

仕方がないので、学生たちと一緒に演劇のDVDを観ることにした。僕がそのときに持っていた三谷幸喜作・演出の「バイマイセルフ」というタイトルの演劇と、「グッドニュース・バッドタイミング」というタイトルの演劇のDVDだったと思う。

視聴覚室に大きなスクリーンがあるので、せっかくだからそこに投影して観ることにしよう、ということになった。

こういっては失礼だが、20年前の田舎町の学生だから、演劇の舞台というものを、それまでほとんど観たことがない。

観終わったあと、学生のうちの一人が、ひどく興奮しながら、

「私の人生、変わっちゃうかも」

と言った。どちらかと言えば地味な印象の学生だったが、演劇を観て衝撃を受けたらしい。

もう名前もすっかり忘れてしまったが、いまはどうしているのだろうと、堀井アナが読んだメールの内容を聴きながら、そんなことを思い出した。

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文化センター

散歩していると、むかしのことをよく思い出したりする。

僕が子どものころに住んでいた町、-といっても、30歳まで住んでいたのだが-には、市内の各地域に「文化センター」というのがあった。僕は小学生のころ、学校が終わると、文化センターによく通った。というよりも、放課後に何もすることがないと、とりあえず文化センターに行ったのである。

同居していた祖母も、毎日のように文化センターに通っていた。

その文化センターは、1階に児童遊戯施設や工作室があり、2階に高齢者用に解放された畳敷きの大広間がある。たしか、お風呂もあったんじゃないかなあ。そこはいわば高齢者のたまり場のようなところだったので、祖母は毎日、そこに通っては、日がな一日過ごしたのである。

3階は図書館と読書室があり、僕はもっぱら、1階と3階をよく使っていた。とくに図書館には入り浸っていたなあ。

中学生くらいになると通わなくなったが、高校3年の時、受験勉強のために3階の読書室を利用するために、ふたたび通うようになった。あるとき、初恋の女の子がやはり読書室で受験勉強をしていて、ドキドキしたものだが、とくにドラマや映画のような展開にはならず、翌年僕は浪人した。

それはともかく、3階の図書館は、市内の中央図書館にくらべるとはるかに小さな規模だったが、それでも小学生の僕の読書欲を満足させるに十分な世界だった。今でも図書館とか職場の図書室に行くと多幸感に溢れるのは、小学生の時の原体験があるからだろうな。とくにいま、職場の雑務から現実逃避して、数分でも図書室にこもる時間が最高の時間なのである。

文化センターにはもう30年くらい行ってないと思うのだが、最近、なぜか文化センターに通う夢をよく見るようになった。なぜなのかはよくわからない。娘を連れて実家に行くことが多くなったが、実家から近い文化センターにはまだ娘を連れて行っていない。コロナが収束したら、娘を連れて久しぶりに文化センターに行ってみようか。

今住んでいる市には、各地域に「コミュニティセンター」があるのだが、僕が通っていた「文化センター」とはややイメージが違っていて、気軽に立ち寄るような雰囲気ではないような気がする。やはり図書館の有無が大きいのかもしれない。

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ちょっとだけノスタルジー

12月10日(木)

今日は外回りの仕事。用務先は3カ所である。

1カ所目での用務が思ってたより早く終わり、2カ所目の用務まで少し時間がある。

「どうしますか?まだ少し時間がありますね」

一緒にまわってくれている「トラック野郎のSさん」が聞いた。

車は懐かしい道を走っている。忌野清志郎が歌った坂だ。

「この道を行くと、K駅を通りますよね」

「ええ」

「そこで降ろしてください」

「わかりました。ではこちらでお昼を済ませていただいて、のちほど時間になったらT駅まで来てください」

「わかりました」

僕はK駅の前で車を降りた。高校時代、3年間通った町だ。

個性的だった駅舎は、僕が卒業してしばらくして取り壊されてしまい、おもしろくもなんともない駅に生まれ変わってしまったが、住民の運動の成果か、つい最近、かつてのかわいらしい駅舎が復原されていた。

それでも、町はだいぶ変わってしまった。

(T書店がなくなってしまったんだな…)

駅前に2つの書店があった。T書店とM書店である。駅に近い方がT書店。高校時代、どちらの書店にもよく通った。

(M書店はどうなっているんだろう?)

駅から少し南に歩いたところにM書店がある。お店の前まで来て、記憶がよみがえってきた。この書店は、建物の1階と地下に売場がある。1階は文庫本とか雑誌などで、地下は専門書や教養書が並んでいる。僕が高校の時と、基本的には変わっていない。そして僕は、この地下の専門書のコーナーが好きだったのだ。エスカレーターで地下に降りていくと、そこは教養のワンダーランドだったのである。

(そうそう、こんな感じだったなあ…)

本棚に、雑然と並ぶ専門書。決して数は多いとは言えないのだが、僕からしてみたらツボを押さえた本ばかりが並んでいる。

(高校時代に通っていたときから、ブレてないなあ)

本棚を見ているだけで楽しい。

そういえば、高校時代も、こんなふうにして、この書店の地下で過ごしていた。

だがいまはすっかり勘が鈍ってしまった。たとえば最近ラジオなんかで紹介されて気になっている本を探してみようとするのだが、この雑然とした並びの中から、それを見つけるのはなかなか時間がかかる。高校時代は、折にふれて通っていたから、どこにどんな本が置いてあるのかが、だいたいわかっていたと思う。

最近だと、本の検索システムがあったりするのだが、この書店のどこを見渡しても、そんなものは見当たらない。

(なるほど。自分で探せっていうことだな)

考えてみれば、高校時代にもそんなものはなかった。時間をかけて本棚を眺めては、おもしろそうな本を手に取ったものだった。あらかじめ買おうと思っていた本を探しているうちに、別のおもしろそうな本を見つけたり。

もちろん、どこの本屋に行ってもその楽しみはあるのだが、とくにこの書店は品揃えが(売れ筋のものばかりではなく)個性的で誠実で謹厳実直なので、その楽しみが倍増するのである。

(へえ、こんな本があるのか)

本の背表紙のタイトルを見るだけなのだが、そこで新しい言葉を覚えたり、著者の名前を覚えたり、少し背伸びをした考えを学んだり、高校時代は、そんなことをしていたのだ。贅沢な時間だった。

(そろそろ行かなくては)

お昼は、やはり高校時代によく通った茶房に入った。

(ここも全然変わってないなあ…)

次に訪れることができるのは、いつだろう。

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一期一会

前回の記事で、9月5日(土)のオンライン舞台挨拶の宣伝を積極的に行おうと決意したのだが、

「行きたいです!でもその日はちょっと…」

と、まるで落語の「寝床」のような展開になる気がしたので、

(こりゃあヘタをすると、「星飛雄馬のクリスマスパーティー」のような結果になってしまうぞ)

と思い直し、自分からは個別に宣伝しないことにした。

もちろん、当然ながらいろいろと事情があるので、こういうことは一期一会なのである。

一期一会で思い出したが、つい先日送られてきた高校の同窓会会報に、僕の中学時代の社会科の先生が文章を寄稿していた。

へえ、N先生、僕の高校の先輩だったのか、とこの時初めて知ったのだが、さらに驚いたことに、大学と学部まで、僕と同じだった。つまり、高校と大学の直系の先輩だったのである。高校を昭和48年に卒業したとあるから、僕よりも14年ほど先輩である。

N先生の近況が語られたその文章には、公立中学校に33年勤務した後、現在はとある市で、子どもの貧困による教育格差をなくすための学習支援に取り組んでいると書かれていた。おそらく33年の教師生活を定年退職した後、学習支援の取り組みを始めたのだろう。

僕が通っていた中学校は、札付きの問題校で、荒れまくっていた。校内暴力が社会問題化していた時代である。そんな中学校で、当時新任の若い女性の先生だったN先生は、相当苦労されただろうと推測する。僕たちは、反抗期であることも手伝って、N先生に対してかなり酷いことを言ったのではないかと、いまでも忸怩たる思いを禁じ得ない。

だがN先生はおそらく定年まで中学校教師をつとめ、定年後のいまもなお教育のお仕事に携わっている、ということを知り、僕は少し安堵したのであった。やはり教職が天職だったのだろう。

僕は中学校卒業以来、もう35年もN先生にはお会いしていないのだが、もしいまお会いしたら、反抗的だった中学時代とはまったく異なり、先生からいろいろなことを学ぶことができるだろう。とくに、いま取り組んでおられる学習支援のこととか、聞いてみたいことがたくさんある。

…と、久しぶりに同窓会会報を読んで感慨に浸っていると、別のページに「同窓会役員改選報告」という記事が載っていて、それによると、同窓会役員10名のうち女性はたった1名で、あとは全員男性。しかもその女性役員の役職は「会計監査」という「ありがちな」役職。

さすが、ジェンダーギャップ指数が世界153カ国中121位の国だけある。僕はいきなり現実に引き戻されたのであった。

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犬笛のようなもの

ちょっと前に、あるオンラインの打ち合わせで、村木厚子さんとご一緒することになった。

2009年6月、厚労省の局長だった村木厚子さんが身に覚えのない罪で大阪地検特捜部に逮捕され、不当勾留という信じがたい仕打ちをされたが、その後裁判で無罪が確定し、厚労省に復帰して最終的には事務次官になったことは、記憶に新しい。

打ち合わせは5~6人のこぢんまりとしたものだったのだが、僕自身は直接村木さんとお話ししたわけでなく、もっぱらほかの人たちが村木さんにいろいろと質問していた。僕は黙ってそのやりとりを聞いていただけなのだが、村木さんのお話がとても明快でわかりやすく、じつに素敵な方だという印象を持った。

そんなわけで、僕は村木厚子さんのファンになったのだが、昨日たまたまテレビをつけると、NHK-BSの「アナザーストーリー」という番組で、村木さんの不当逮捕についてのドキュメンタリーを放送していた。

番組の後半の方に、映画監督の周防正行さんが登場した。周防さんは、映画「それでもボクはやってない」で、刑事司法のゆがんだ現状を丹念な取材に基づいて描いた。それがきっかけで、村木さんの事件をきっかけに進められることになった刑事司法改革の委員に抜擢される。そしてその顛末を、周防さんは「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店、2015年)にまとめた。

この本の内容については、すでに書いたことがあるので、そちらを参照のこと。

今回書きたいのは、村木厚子さんのことでも、周防監督の本のことでもない。周防監督の映画「それでもボクはやってない」についてである。

周防監督の映画は基本的には好きなのだが、僕はこの映画を見ていない。

それは、「この映画って、功罪両面あるよね」という妻の言葉になるほどと思ったからである。

この映画は、痴漢のえん罪についての映画である。

何の罪もない一市民が、痴漢の容疑者として逮捕され、不当な取り調べを受けて裁判にかかる、というストーリー。

現在の刑事司法の不当なやり方に対する告発的な映画だ、というのはよくわかる。

そこを問題にしたいのではなく、この映画が、「痴漢のえん罪」をテーマにしたことが引っかかるのである。

たしかに痴漢のえん罪という事案は存在する。だが、実際に痴漢の被害にあった事件にくらべると、痴漢のえん罪というのは、おそらくごくわずかである。

にもかかわらず、おそらく、この映画をきっかけに、痴漢のえん罪というのが社会問題化し、テレビのワイドショーなんかでも大きく取り上げられた。

その結果、痴漢を訴えた側が加害者である、という本末転倒な論調が生まれたのである。

いやいやいや、実際には痴漢の被害の方が断然多いのだ。痴漢のえん罪が社会問題化したために、男性を不当に陥れるために痴漢を訴える女性があたかも多いような空気ができてしまった。

これは、痴漢を訴えることに対して萎縮させてしまうことにもつながる。

ま、映画監督としては、ふつうの人が突然不当に逮捕されて不当な取り調べを受ける、もっとも身近な事例として、痴漢のえん罪という題材を選んだのだろうけれど、「でも、これが女性監督だったら、この題材にはしないよね」と妻。たしかにその通りである。

そんなわけで僕は、複雑な思いをもって、いまだにこの映画を見ることができていないのである。

…それで思い出したことがあった。

以前にいた職場で、ハラスメント防止対策の担当をしていたとき、どのようにしたらハラスメントに対して問題意識を高めてくれるだろうか、と考え、社内の全員に、大規模なアンケート調査をすることを考えて、提案した。当時仕えていた副社長に提案すると、ぜひやりましょうということになり、僕はアンケート項目を作り、自分の部局で、このアンケートについての説明をすることにした。

そのアンケートには、「ひょっとしたらこれ、ハラスメントじゃないかな」といった、ふだん言いたくても言えないようなことも、自由記述で書いてもらうような仕掛けを作った。つまり「寝たふりした子を起こす」ことをしよう、と思ったのである。そうすることで、ハラスメントに対する意識を高めることがこのアンケートの目的だった。

僕が自分の所属する部局で、そうしたアンケートのねらいを説明すると、当時その部局の管理職をしていたある同僚が、

「学生が教員を陥れようとしてありもしないハラスメントを書き込む可能性があるので、こうしたアンケートはいかがなものか」

といって、難色を示したのである。

僕はそのとき、非常にモヤモヤしたものを感じたのだが、あとになって、痴漢のえん罪が社会問題化したときに、そうか、これは痴漢のえん罪を恐れる心理と同じなんだな、と思った。実際のところハラスメントの事案が多いことは不問に付し、ひたすら、偽のハラスメントが起こることへの警戒感のみを主張する。典型的な「論理のすり替え」である。

その頃から、その管理職の同僚には違和感を抱くようになったのだが、その後も、僕がいろいろと相談しに行くと、同様の対応をされたことが何度か続き、

(う~む。この人に何を話してもダメだな)

と確信し、僕はその人と決別したのである。

すでにその人は定年退職され、別の職場に移られたそうだが、もうそんな年月が経ってしまったのかと、僕はある感慨をもって、このことを思い出したのであった。

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粘土詩

前回の続き。

小学校4年~6年の時の担任だったN先生が松山東高校出身だったことから、いろいろなことを思い出す。

同級生だった人たちの話も、しばしばしてくれた。その中には、のちに絵手紙作家として有名になる小池邦夫さんの名前もあった。

ほかにもいろいろな同級生のお話しをしていたよなあ、とつらつらと思い返してみると、愛媛県の知的障害者施設の先生をしている方がいらっしゃったことを思い出した。

すぐに名前が思い出せなかったが、僕は小学6年生の時、その学園に通う子どもたちが書いた詩をまとめた『どろんこのうた』という詩集を授業で読んだことを思い出した。そしてその先生の名前が、仲野先生であることを思い出した。

仲野先生は、学園に通う知的障害者の子どもたちに詩を書かせるのだが、その方法が一風変わっていた。粘土板に、自分がその時に浮かんだ言葉と、絵を彫らせて、版画にするのである。

その「版画詩」を集めた詩集だから、タイトルが「どろんこのうた」。

知的障害を持つ子どもたちの詩は、何の不純物も混じっていないようなみずみずしい言葉で綴られており、当時の本の帯には、詩人の谷川俊太郎の推薦文が書かれている。

また、のちに音楽家の池辺晋一郎がこの詩集に感動し、いくつかの詩に曲をつけたそうである。

さて、話を僕の小学生時代に戻す。小学6年生のときである。

N先生は、この『どろんこのうた』という本をクラスの一人一人に配った。

「この詩集を読んで、感想文を書いてください」

よくよく説明を聞くと、この詩集をまとめた仲野先生は、N先生の高校時代の同級生であり、この本は、仲野先生が知的障害者施設の子どもたちが粘土に掘った詩をまとめた本である、という。

その本を、まずはまっさらな気持ちで読み、感想文を書く。

その後、N先生が国語の授業でこの詩集をとりあげ、詩についてみんなで考える時間を作る。

そしてそれをふまえて、各自がもう一度、感想文を書く。

つまり、N先生による指導の前と指導の後、2度にわたって感想文を書いたのである。N先生は、指導によって児童の感想がどのように変化するかを見るために、このようなやり方をとったのであろう。

しかし、この詩集の感想を書くことは、当時の僕、いや、今の僕からしても、とても酷な課題だった。

それぞれの詩は、本当に純粋な気持ちに溢れたもので、飾りのない、混じりけのない言葉に溢れている。その詩について、僕がいくら感想を書いたとしても、それは所詮は飾り付けた言葉でしかないのである。どんなに言葉を並べ立てても、彼らの詩にふさわしい感想文を書けるはずがないのである。

詩人の谷川俊太郎は、この本の帯文に、「生まれたてのことば、何も着ていない裸のことば、心と体の見わけのつかぬ深みから、泉のようにわいてきたことば、詩の源と、生の源とがひとつであるということを教えられました。粘土に書くという着想も、すばらしい」と書いている。これ以上、どんな言葉が必要だろう。

400字だったか800字だったか、とにかくどのようにして僕が2回の感想文を原稿用紙のマス目に埋めていったのか、今となってはまったく覚えていない。

クラス全員が2回ずつ書いたその感想文は、ガリ版刷りの手作りの感想文集、いわゆる私家版としてまとめられた。

その後、その文集が誰かの目にとまったのか、ラジオの短波放送に取り上げられることになった。そのとき、N先生とともに、クラスの児童の何人かが出演し、インタビューに答える形でラジオ出演した。僕も出演した児童の一人として選ばれた。そのとき何を喋ったのか、まったく覚えていない。

…そんなことを思い出し、『どろんこのうた』の本は、いまどうなっているんだろう?と思って調べてみたら、なんと2016年に新装版が出版されていた。最初の出版が1981年であるから、35年以上経たロングセラーだったのである。

新装版には、仲野先生の回想録が掲載されていて、その中に、N先生が作った感想文集についても触れられていた。

「『どろんこのうた』出版直後に、東京都○○小学校のN先生が指導・編集されたクラス全員による初読と指導後の感想文を収めた『どろんこのうた 感想文集』(1981年、自家版)は交流教育の始まりでした」と述懐している。

小学校の国語の授業中で、『どろんこのうた』の詩集を読み、感想文集を作る、という試みは、N先生だけの着想で、ほかでは行われなかったようである。同級生だったからこその、着想だったのかも知れない。

さて、そこにどんな感想文が綴られていたのか。読み返したくもあり、読み返したくもなし。

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松山東高校

脚本家・早坂暁さんのエッセイ集について書いてきたが、早坂暁さんの出身地は愛媛県で、旧制松山中学、つまり松山東高校が出身校である。

松山東高校からは、伊丹万作とか、大江健三郎とか、多くの文化人を輩出している。

それで思い出したことがあった。

僕が小学校4年~6年の時の担任だったN先生の故郷は愛媛県で、松山東高校出身だった。その後、地元の大学の教育学部で教員免許を取り、数年間、故郷で教鞭をとったあと、東京の小学校に移ってきたのである。

N先生はよく、松山東高校時代の思い出話もしてくれた。その話を聞きながら、早く高校生になりたいと思った。松山東高校は、当時小学生だった僕にとって、最も身近な、そして憧れの高校名として、その後も記憶に残り続けた。

N先生は、当時小学生だった僕たちに、折にふれて、芸術や文学のお話しをしてくれた。もちろん、当時小学生だった僕たちには難しすぎて、そのすべてを理解したわけではなかったが、後々、僕が文章を書くことを生業のひとつにするようになったきっかけは、N先生との出会いが決定的だったと思う。

N先生はまた、正岡子規をはじめとして、伊丹万作や大江健三郎など、郷土の先輩方のお話しをしてくれたので、あるいはその時に(高校の先輩である)早坂暁さんのお名前も出ていたかも知れない。いずれにしても、松山東高校という響きに、僕は不思議な懐かしさを感じるのである。早坂暁さんのエッセイを読んで久々にその感覚を思い出し、N先生のことを思い出したのであった。

そんな折、母から電話があった。

「さっき、道ばたでN先生に会ったわよ」

N先生は、いまも、僕の実家の隣の町に住んでおられる。かかりつけの病院に行くとかで、うちの実家の近くの交差点を歩いていたところ、うちの母と出くわしたのである。

N先生は数年前に、体調を崩されているという噂を耳にしたが、いまはどうなのだろう?

「お元気そうだった?」

「お元気そうだったよ。以前お目にかかったときは、少し痩せていたけれど、いまは体調が悪そうな感じではなかった」

「それはよかった」

「でも先生がねえ、『癌で余命3年の宣告を受けましたが、いまもこうして生きています』と言っていたのよ」

「癌だったの?」

「そうみたい」

N先生は、僕の父と同じ、1941年生まれである。そういえば、高校時代の担任だったKeiさんもやはり、1941年生まれである。僕の父は2年前に他界したが、僕にとっての恩師、N先生とKeiさんのお二人が、いまでもお元気なのは、僕にとってまだ頼るべき父親がいるような気がして、嬉しいことである。

Keiさんとはここ最近、メールなどで連絡を取り合ったりしているが、近いうちに時間を作って、N先生のところに会いに行こうか、とか、手紙を書こうかとか、そんな考えが浮かんだ。

いろいろなことをつらつらと思い出しているうちに、一冊の本のことを思い出した。長くなるので次回に書く。

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振り幅

小学生の頃の思い出話。

小学校高学年のとき、学校で歌のコンクールみたいな催しをすることになった。

各クラスから、1チームが出て、自分たちが自由に選んだ曲を歌って、優勝を決める、みたいなコンクールである。1チームというのは、数名の編成である。

出場するクラスのチームがどのように決められていたのかは覚えていないのだが、1クラスは40名ほどの児童がいたので、1チーム4人だとしても、1つのクラスで10チームくらいはできる計算になる。つまり、各クラスは、クラスの中でまずチームをいくつか作り、クラスの中で予選をして、その中で最もよいと思ったチームが、本選に出場する、という流れだったと思う。

チームが決まると、各チームごとに、どんな歌を歌うかを自分たちで決めて、練習をしなければならない。数日後に、クラス中で予選会が開かれた。僕の記憶では、そのとき担任の先生は不在で、放課後にクラスの児童だけで予選会をおこなったと記憶している。児童たちの投票で1位を決め、翌日にそれを、担任の先生に披露するという流れであった。

僕のチームが何を歌ったのかはすっかり忘れてしまったのだが、その時に1位になったチームの歌はよく覚えている。スギモト君を筆頭に男の子4人くらいのチームの歌だった。

教室の前で自分たちが選曲し、練習した歌を披露しなければならない。

スギモト君たちのチームが歌った歌は、こんな歌だった。

「きっさまとおーれーと~は~ どおきのさ~く~ら~

お~なじへいがっこうの~ にわにさ~く~

さ~いたは~な~な~ら~ ち~るのはか~く~ご~

みごとにち~り~ま~しょ~ く~に~の~た~め~」

スギモト君たちは、この歌を、右手の拳を上げたりおろしたりして、勇ましげに歌っていた。

ほかのチームは、比較的おとなしめの、文部省推奨的な歌を選んでいたのに対して、スギモト君のチームの歌は、ぶっ飛んでいて、圧倒的なインパクトを持っていた。その時の僕たち小学生にとって、実に新鮮な歌だったのである。

スギモト君たちの歌は大ウケして、満場一致で、スギモト君たちのチームを代表として送り込むことが決まった。

さて翌日。担任の先生が、

「では、我がクラスの代表に決まったチームの歌を、披露してください」

と言って、スギモト君たちのチームを教室の前にうながした。先生も、どんな歌が決まったのか知らなかったので、楽しみのようであった。

スギモト君たちは、昨日歌った歌を、昨日と同様、右手の拳を上下に上げ下ろししながら、勇ましげに歌った。

「きっさまとお~れ~と~は~…」

先生の顔がみるみるうちに紅潮するのがわかった。

歌が終わるか終わらないかのときに、担任の先生は、歌っていたスギモト君たち一人一人の頭を、グーで殴った。もちろんいまでは体罰として許されないことなのだが、当時はそんな時代だった。

「君たち、この歌の意味を知っているのか!!!」

楽しそうに歌ったスギモト君たちも、笑いながら聴いていたクラスの僕たちも、次第に真顔になっていった。

「この歌のせいで、どれだけたくさんの若い人たちが、亡くなったと思っているんだ!!!」

先生は戦争の話をはじめ、この歌詞の意味を解説した。そのとき、これが「同期の桜」という軍歌であることをはじめて知り、何も知らずに茶化しながら歌っていたことに関して、僕たちはようやく事の重大さに気づいたのだった。

「うちのクラスの代表として、この歌を披露することなんてとてもできない。ほかの歌を考えなさい!」

それから数日くらいたったころか、スギモト君たちのチームは、別の歌を選曲して、みんなの前で披露した。それは、こんな歌だった。

「雪だるま 雪だるま

まわしげりくれたら ねころんだ

雪だるまって まんまるい

雪だる ま雪だるま

ニードロップくれたら つぶれちまった

雪だるまって かわいいな

しも柱 しも柱

朝ひえこんだのは しもかしら

しもの話で恐縮ですが

しもしも もしもし 今晩は

下北半島に しもがきた

しも柱 しも柱

はまぐりの中には貝柱

おちゃわんの中には 茶柱

春さき 天気がよくなって氷が一枚流れ出し

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚2 枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が... めんどくさいから水になる 」

僕たちはまたも爆笑した。あまりにもくだらない歌詞に、である。

先生からは、ようやく本選出場のOKが出たのであった。

その時はわからなかったのだが、ずっと後になってこの歌のことを調べてみたら、所ジョージの「組曲 冬の情景」という歌だったことがわかった。

今になって思うのだが、「同期の桜」を、面白半分に歌って先生にひどく怒られ、それに代わる歌として所ジョージを持ってきたというスギモト君たちのセンスは、実にすばらしかった。僕はその振り幅の広さに、感嘆したのである。

いまでも、テレビなどで「同期の桜」の歌が流れたりするのを聞くと、あのときのことを思い出し、すごく後ろめたい気分になる。

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