思い出

一期一会

前回の記事で、9月5日(土)のオンライン舞台挨拶の宣伝を積極的に行おうと決意したのだが、

「行きたいです!でもその日はちょっと…」

と、まるで落語の「寝床」のような展開になる気がしたので、

(こりゃあヘタをすると、「星飛雄馬のクリスマスパーティー」のような結果になってしまうぞ)

と思い直し、自分からは個別に宣伝しないことにした。

もちろん、当然ながらいろいろと事情があるので、こういうことは一期一会なのである。

一期一会で思い出したが、つい先日送られてきた高校の同窓会会報に、僕の中学時代の社会科の先生が文章を寄稿していた。

へえ、N先生、僕の高校の先輩だったのか、とこの時初めて知ったのだが、さらに驚いたことに、大学と学部まで、僕と同じだった。つまり、高校と大学の直系の先輩だったのである。高校を昭和48年に卒業したとあるから、僕よりも14年ほど先輩である。

N先生の近況が語られたその文章には、公立中学校に33年勤務した後、現在はとある市で、子どもの貧困による教育格差をなくすための学習支援に取り組んでいると書かれていた。おそらく33年の教師生活を定年退職した後、学習支援の取り組みを始めたのだろう。

僕が通っていた中学校は、札付きの問題校で、荒れまくっていた。校内暴力が社会問題化していた時代である。そんな中学校で、当時新任の若い女性の先生だったN先生は、相当苦労されただろうと推測する。僕たちは、反抗期であることも手伝って、N先生に対してかなり酷いことを言ったのではないかと、いまでも忸怩たる思いを禁じ得ない。

だがN先生はおそらく定年まで中学校教師をつとめ、定年後のいまもなお教育のお仕事に携わっている、ということを知り、僕は少し安堵したのであった。やはり教職が天職だったのだろう。

僕は中学校卒業以来、もう35年もN先生にはお会いしていないのだが、もしいまお会いしたら、反抗的だった中学時代とはまったく異なり、先生からいろいろなことを学ぶことができるだろう。とくに、いま取り組んでおられる学習支援のこととか、聞いてみたいことがたくさんある。

…と、久しぶりに同窓会会報を読んで感慨に浸っていると、別のページに「同窓会役員改選報告」という記事が載っていて、それによると、同窓会役員10名のうち女性はたった1名で、あとは全員男性。しかもその女性役員の役職は「会計監査」という「ありがちな」役職。

さすが、ジェンダーギャップ指数が世界153カ国中121位の国だけある。僕はいきなり現実に引き戻されたのであった。

| | コメント (0)

犬笛のようなもの

ちょっと前に、あるオンラインの打ち合わせで、村木厚子さんとご一緒することになった。

2009年6月、厚労省の局長だった村木厚子さんが身に覚えのない罪で大阪地検特捜部に逮捕され、不当勾留という信じがたい仕打ちをされたが、その後裁判で無罪が確定し、厚労省に復帰して最終的には事務次官になったことは、記憶に新しい。

打ち合わせは5~6人のこぢんまりとしたものだったのだが、僕自身は直接村木さんとお話ししたわけでなく、もっぱらほかの人たちが村木さんにいろいろと質問していた。僕は黙ってそのやりとりを聞いていただけなのだが、村木さんのお話がとても明快でわかりやすく、じつに素敵な方だという印象を持った。

そんなわけで、僕は村木厚子さんのファンになったのだが、昨日たまたまテレビをつけると、NHK-BSの「アナザーストーリー」という番組で、村木さんの不当逮捕についてのドキュメンタリーを放送していた。

番組の後半の方に、映画監督の周防正行さんが登場した。周防さんは、映画「それでもボクはやってない」で、刑事司法のゆがんだ現状を丹念な取材に基づいて描いた。それがきっかけで、村木さんの事件をきっかけに進められることになった刑事司法改革の委員に抜擢される。そしてその顛末を、周防さんは「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店、2015年)にまとめた。

この本の内容については、すでに書いたことがあるので、そちらを参照のこと。

今回書きたいのは、村木厚子さんのことでも、周防監督の本のことでもない。周防監督の映画「それでもボクはやってない」についてである。

周防監督の映画は基本的には好きなのだが、僕はこの映画を見ていない。

それは、「この映画って、功罪両面あるよね」という妻の言葉になるほどと思ったからである。

この映画は、痴漢のえん罪についての映画である。

何の罪もない一市民が、痴漢の容疑者として逮捕され、不当な取り調べを受けて裁判にかかる、というストーリー。

現在の刑事司法の不当なやり方に対する告発的な映画だ、というのはよくわかる。

そこを問題にしたいのではなく、この映画が、「痴漢のえん罪」をテーマにしたことが引っかかるのである。

たしかに痴漢のえん罪という事案は存在する。だが、実際に痴漢の被害にあった事件にくらべると、痴漢のえん罪というのは、おそらくごくわずかである。

にもかかわらず、おそらく、この映画をきっかけに、痴漢のえん罪というのが社会問題化し、テレビのワイドショーなんかでも大きく取り上げられた。

その結果、痴漢を訴えた側が加害者である、という本末転倒な論調が生まれたのである。

いやいやいや、実際には痴漢の被害の方が断然多いのだ。痴漢のえん罪が社会問題化したために、男性を不当に陥れるために痴漢を訴える女性があたかも多いような空気ができてしまった。

これは、痴漢を訴えることに対して萎縮させてしまうことにもつながる。

ま、映画監督としては、ふつうの人が突然不当に逮捕されて不当な取り調べを受ける、もっとも身近な事例として、痴漢のえん罪という題材を選んだのだろうけれど、「でも、これが女性監督だったら、この題材にはしないよね」と妻。たしかにその通りである。

そんなわけで僕は、複雑な思いをもって、いまだにこの映画を見ることができていないのである。

…それで思い出したことがあった。

以前にいた職場で、ハラスメント防止対策の担当をしていたとき、どのようにしたらハラスメントに対して問題意識を高めてくれるだろうか、と考え、社内の全員に、大規模なアンケート調査をすることを考えて、提案した。当時仕えていた副社長に提案すると、ぜひやりましょうということになり、僕はアンケート項目を作り、自分の部局で、このアンケートについての説明をすることにした。

そのアンケートには、「ひょっとしたらこれ、ハラスメントじゃないかな」といった、ふだん言いたくても言えないようなことも、自由記述で書いてもらうような仕掛けを作った。つまり「寝たふりした子を起こす」ことをしよう、と思ったのである。そうすることで、ハラスメントに対する意識を高めることがこのアンケートの目的だった。

僕が自分の所属する部局で、そうしたアンケートのねらいを説明すると、当時その部局の管理職をしていたある同僚が、

「学生が教員を陥れようとしてありもしないハラスメントを書き込む可能性があるので、こうしたアンケートはいかがなものか」

といって、難色を示したのである。

僕はそのとき、非常にモヤモヤしたものを感じたのだが、あとになって、痴漢のえん罪が社会問題化したときに、そうか、これは痴漢のえん罪を恐れる心理と同じなんだな、と思った。実際のところハラスメントの事案が多いことは不問に付し、ひたすら、偽のハラスメントが起こることへの警戒感のみを主張する。典型的な「論理のすり替え」である。

その頃から、その管理職の同僚には違和感を抱くようになったのだが、その後も、僕がいろいろと相談しに行くと、同様の対応をされたことが何度か続き、

(う~む。この人に何を話してもダメだな)

と確信し、僕はその人と決別したのである。

すでにその人は定年退職され、別の職場に移られたそうだが、もうそんな年月が経ってしまったのかと、僕はある感慨をもって、このことを思い出したのであった。

| | コメント (0)

粘土詩

前回の続き。

小学校4年~6年の時の担任だったN先生が松山東高校出身だったことから、いろいろなことを思い出す。

同級生だった人たちの話も、しばしばしてくれた。その中には、のちに絵手紙作家として有名になる小池邦夫さんの名前もあった。

ほかにもいろいろな同級生のお話しをしていたよなあ、とつらつらと思い返してみると、愛媛県の知的障害者施設の先生をしている方がいらっしゃったことを思い出した。

すぐに名前が思い出せなかったが、僕は小学6年生の時、その学園に通う子どもたちが書いた詩をまとめた『どろんこのうた』という詩集を授業で読んだことを思い出した。そしてその先生の名前が、仲野先生であることを思い出した。

仲野先生は、学園に通う知的障害者の子どもたちに詩を書かせるのだが、その方法が一風変わっていた。粘土板に、自分がその時に浮かんだ言葉と、絵を彫らせて、版画にするのである。

その「版画詩」を集めた詩集だから、タイトルが「どろんこのうた」。

知的障害を持つ子どもたちの詩は、何の不純物も混じっていないようなみずみずしい言葉で綴られており、当時の本の帯には、詩人の谷川俊太郎の推薦文が書かれている。

また、のちに音楽家の池辺晋一郎がこの詩集に感動し、いくつかの詩に曲をつけたそうである。

さて、話を僕の小学生時代に戻す。小学6年生のときである。

N先生は、この『どろんこのうた』という本をクラスの一人一人に配った。

「この詩集を読んで、感想文を書いてください」

よくよく説明を聞くと、この詩集をまとめた仲野先生は、N先生の高校時代の同級生であり、この本は、仲野先生が知的障害者施設の子どもたちが粘土に掘った詩をまとめた本である、という。

その本を、まずはまっさらな気持ちで読み、感想文を書く。

その後、N先生が国語の授業でこの詩集をとりあげ、詩についてみんなで考える時間を作る。

そしてそれをふまえて、各自がもう一度、感想文を書く。

つまり、N先生による指導の前と指導の後、2度にわたって感想文を書いたのである。N先生は、指導によって児童の感想がどのように変化するかを見るために、このようなやり方をとったのであろう。

しかし、この詩集の感想を書くことは、当時の僕、いや、今の僕からしても、とても酷な課題だった。

それぞれの詩は、本当に純粋な気持ちに溢れたもので、飾りのない、混じりけのない言葉に溢れている。その詩について、僕がいくら感想を書いたとしても、それは所詮は飾り付けた言葉でしかないのである。どんなに言葉を並べ立てても、彼らの詩にふさわしい感想文を書けるはずがないのである。

詩人の谷川俊太郎は、この本の帯文に、「生まれたてのことば、何も着ていない裸のことば、心と体の見わけのつかぬ深みから、泉のようにわいてきたことば、詩の源と、生の源とがひとつであるということを教えられました。粘土に書くという着想も、すばらしい」と書いている。これ以上、どんな言葉が必要だろう。

400字だったか800字だったか、とにかくどのようにして僕が2回の感想文を原稿用紙のマス目に埋めていったのか、今となってはまったく覚えていない。

クラス全員が2回ずつ書いたその感想文は、ガリ版刷りの手作りの感想文集、いわゆる私家版としてまとめられた。

その後、その文集が誰かの目にとまったのか、ラジオの短波放送に取り上げられることになった。そのとき、N先生とともに、クラスの児童の何人かが出演し、インタビューに答える形でラジオ出演した。僕も出演した児童の一人として選ばれた。そのとき何を喋ったのか、まったく覚えていない。

…そんなことを思い出し、『どろんこのうた』の本は、いまどうなっているんだろう?と思って調べてみたら、なんと2016年に新装版が出版されていた。最初の出版が1981年であるから、35年以上経たロングセラーだったのである。

新装版には、仲野先生の回想録が掲載されていて、その中に、N先生が作った感想文集についても触れられていた。

「『どろんこのうた』出版直後に、東京都○○小学校のN先生が指導・編集されたクラス全員による初読と指導後の感想文を収めた『どろんこのうた 感想文集』(1981年、自家版)は交流教育の始まりでした」と述懐している。

小学校の国語の授業中で、『どろんこのうた』の詩集を読み、感想文集を作る、という試みは、N先生だけの着想で、ほかでは行われなかったようである。同級生だったからこその、着想だったのかも知れない。

さて、そこにどんな感想文が綴られていたのか。読み返したくもあり、読み返したくもなし。

| | コメント (0)

松山東高校

脚本家・早坂暁さんのエッセイ集について書いてきたが、早坂暁さんの出身地は愛媛県で、旧制松山中学、つまり松山東高校が出身校である。

松山東高校からは、伊丹万作とか、大江健三郎とか、多くの文化人を輩出している。

それで思い出したことがあった。

僕が小学校4年~6年の時の担任だったN先生の故郷は愛媛県で、松山東高校出身だった。その後、地元の大学の教育学部で教員免許を取り、数年間、故郷で教鞭をとったあと、東京の小学校に移ってきたのである。

N先生はよく、松山東高校時代の思い出話もしてくれた。その話を聞きながら、早く高校生になりたいと思った。松山東高校は、当時小学生だった僕にとって、最も身近な、そして憧れの高校名として、その後も記憶に残り続けた。

N先生は、当時小学生だった僕たちに、折にふれて、芸術や文学のお話しをしてくれた。もちろん、当時小学生だった僕たちには難しすぎて、そのすべてを理解したわけではなかったが、後々、僕が文章を書くことを生業のひとつにするようになったきっかけは、N先生との出会いが決定的だったと思う。

N先生はまた、正岡子規をはじめとして、伊丹万作や大江健三郎など、郷土の先輩方のお話しをしてくれたので、あるいはその時に(高校の先輩である)早坂暁さんのお名前も出ていたかも知れない。いずれにしても、松山東高校という響きに、僕は不思議な懐かしさを感じるのである。早坂暁さんのエッセイを読んで久々にその感覚を思い出し、N先生のことを思い出したのであった。

そんな折、母から電話があった。

「さっき、道ばたでN先生に会ったわよ」

N先生は、いまも、僕の実家の隣の町に住んでおられる。かかりつけの病院に行くとかで、うちの実家の近くの交差点を歩いていたところ、うちの母と出くわしたのである。

N先生は数年前に、体調を崩されているという噂を耳にしたが、いまはどうなのだろう?

「お元気そうだった?」

「お元気そうだったよ。以前お目にかかったときは、少し痩せていたけれど、いまは体調が悪そうな感じではなかった」

「それはよかった」

「でも先生がねえ、『癌で余命3年の宣告を受けましたが、いまもこうして生きています』と言っていたのよ」

「癌だったの?」

「そうみたい」

N先生は、僕の父と同じ、1941年生まれである。そういえば、高校時代の担任だったKeiさんもやはり、1941年生まれである。僕の父は2年前に他界したが、僕にとっての恩師、N先生とKeiさんのお二人が、いまでもお元気なのは、僕にとってまだ頼るべき父親がいるような気がして、嬉しいことである。

Keiさんとはここ最近、メールなどで連絡を取り合ったりしているが、近いうちに時間を作って、N先生のところに会いに行こうか、とか、手紙を書こうかとか、そんな考えが浮かんだ。

いろいろなことをつらつらと思い出しているうちに、一冊の本のことを思い出した。長くなるので次回に書く。

| | コメント (0)

振り幅

小学生の頃の思い出話。

小学校高学年のとき、学校で歌のコンクールみたいな催しをすることになった。

各クラスから、1チームが出て、自分たちが自由に選んだ曲を歌って、優勝を決める、みたいなコンクールである。1チームというのは、数名の編成である。

出場するクラスのチームがどのように決められていたのかは覚えていないのだが、1クラスは40名ほどの児童がいたので、1チーム4人だとしても、1つのクラスで10チームくらいはできる計算になる。つまり、各クラスは、クラスの中でまずチームをいくつか作り、クラスの中で予選をして、その中で最もよいと思ったチームが、本選に出場する、という流れだったと思う。

チームが決まると、各チームごとに、どんな歌を歌うかを自分たちで決めて、練習をしなければならない。数日後に、クラス中で予選会が開かれた。僕の記憶では、そのとき担任の先生は不在で、放課後にクラスの児童だけで予選会をおこなったと記憶している。児童たちの投票で1位を決め、翌日にそれを、担任の先生に披露するという流れであった。

僕のチームが何を歌ったのかはすっかり忘れてしまったのだが、その時に1位になったチームの歌はよく覚えている。スギモト君を筆頭に男の子4人くらいのチームの歌だった。

教室の前で自分たちが選曲し、練習した歌を披露しなければならない。

スギモト君たちのチームが歌った歌は、こんな歌だった。

「きっさまとおーれーと~は~ どおきのさ~く~ら~

お~なじへいがっこうの~ にわにさ~く~

さ~いたは~な~な~ら~ ち~るのはか~く~ご~

みごとにち~り~ま~しょ~ く~に~の~た~め~」

スギモト君たちは、この歌を、右手の拳を上げたりおろしたりして、勇ましげに歌っていた。

ほかのチームは、比較的おとなしめの、文部省推奨的な歌を選んでいたのに対して、スギモト君のチームの歌は、ぶっ飛んでいて、圧倒的なインパクトを持っていた。その時の僕たち小学生にとって、実に新鮮な歌だったのである。

スギモト君たちの歌は大ウケして、満場一致で、スギモト君たちのチームを代表として送り込むことが決まった。

さて翌日。担任の先生が、

「では、我がクラスの代表に決まったチームの歌を、披露してください」

と言って、スギモト君たちのチームを教室の前にうながした。先生も、どんな歌が決まったのか知らなかったので、楽しみのようであった。

スギモト君たちは、昨日歌った歌を、昨日と同様、右手の拳を上下に上げ下ろししながら、勇ましげに歌った。

「きっさまとお~れ~と~は~…」

先生の顔がみるみるうちに紅潮するのがわかった。

歌が終わるか終わらないかのときに、担任の先生は、歌っていたスギモト君たち一人一人の頭を、グーで殴った。もちろんいまでは体罰として許されないことなのだが、当時はそんな時代だった。

「君たち、この歌の意味を知っているのか!!!」

楽しそうに歌ったスギモト君たちも、笑いながら聴いていたクラスの僕たちも、次第に真顔になっていった。

「この歌のせいで、どれだけたくさんの若い人たちが、亡くなったと思っているんだ!!!」

先生は戦争の話をはじめ、この歌詞の意味を解説した。そのとき、これが「同期の桜」という軍歌であることをはじめて知り、何も知らずに茶化しながら歌っていたことに関して、僕たちはようやく事の重大さに気づいたのだった。

「うちのクラスの代表として、この歌を披露することなんてとてもできない。ほかの歌を考えなさい!」

それから数日くらいたったころか、スギモト君たちのチームは、別の歌を選曲して、みんなの前で披露した。それは、こんな歌だった。

「雪だるま 雪だるま

まわしげりくれたら ねころんだ

雪だるまって まんまるい

雪だる ま雪だるま

ニードロップくれたら つぶれちまった

雪だるまって かわいいな

しも柱 しも柱

朝ひえこんだのは しもかしら

しもの話で恐縮ですが

しもしも もしもし 今晩は

下北半島に しもがきた

しも柱 しも柱

はまぐりの中には貝柱

おちゃわんの中には 茶柱

春さき 天気がよくなって氷が一枚流れ出し

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚2 枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が... めんどくさいから水になる 」

僕たちはまたも爆笑した。あまりにもくだらない歌詞に、である。

先生からは、ようやく本選出場のOKが出たのであった。

その時はわからなかったのだが、ずっと後になってこの歌のことを調べてみたら、所ジョージの「組曲 冬の情景」という歌だったことがわかった。

今になって思うのだが、「同期の桜」を、面白半分に歌って先生にひどく怒られ、それに代わる歌として所ジョージを持ってきたというスギモト君たちのセンスは、実にすばらしかった。僕はその振り幅の広さに、感嘆したのである。

いまでも、テレビなどで「同期の桜」の歌が流れたりするのを聞くと、あのときのことを思い出し、すごく後ろめたい気分になる。

| | コメント (0)

悪意があるのは誰だ?

忙しいので、どーでもいい話を一つ。

かなり前のことだが、Aさんという人が、僕にこんなことを言った。。

「鬼瓦さんがEさんの悪口を言ってるってことを、Tさんが言いふらしてましたよ」

えええぇぇぇぇっ!!!???

僕は驚いた。

僕には、Eさんの悪口を言った記憶など、まったくないのだ。

そもそも、僕はEさんとそれほど接点があったわけではない。

だから、悪口を言う理由もないのだ。

誰かと話している中で、Eさんについて話題に出したこともない。

これが、もっとほかの、僕が本当に嫌っている人の名前が出ていたら、さもありなん、と僕も反省するところだが、なにしろEさんに対しては、僕が悪口を言う必然性が一切ないのである。

(なぜ、そんなことになっているのだろう?)

僕は不思議で仕方なかった。

もう一つ疑問なのは、それが「Tさん」が言いふらしている、というのである。

Tさんは、僕がちょっと苦手に思っている人で、そんな人に、僕が心を開いて第三者の悪口を言うことなんぞ、ありえないのである。

つまり僕がこの話を聞いて信じられないのは、

・僕がEさんの悪口を言うはずがない。

ということと、

・万が一悪口を言っていたとしても、それをTさんに話すはずはない。

ということで、つまり二重の意味でこれはあり得ない話なのである。

さらに不思議なのは、これをAさんが僕に言ってきたという事実である。

Aさんは、EさんともTさんとも親しい。可能性としては、EさんがAさんに、「鬼瓦さんが僕の悪口を言ってるようだね。Tさんから聞いた」と言ったか、AさんがTさんから直接、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言ってる」と聞いたかの、どちらかである。

Eさんは、誠実でいい人なので、EさんがAさんにわざわざそんなことを言うはずはないだろう。

とすれば、Aさんに言ったのは、Tさんなのか???

僕は、第三の可能性を考えた。

それは、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言っている、とTさんが言いふらしている」ということ自体が、Aさんの作り話である、という可能性である。

こうなると、話は変わってくる。

Eさんと親しいAさんは、Eさんに対しても、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言っていると、Tさんが言ってました」と言っている可能性がある。

何のために?

何のためかはわからないが、何らかの意図を以て、そんな作り話をした可能性も、十分考えられるのである。

ここで思い出すのは、「間接的に聞いた、という話法のほうが、心にずしんとくる」という法則である。

たとえば何かについて褒めるにしても、直接褒めるのではなく、「誰々さんが君のこと褒めていたよ」と言ったほうが、より効果的である、といった法則である。

あるいは逆に、直接くさすのではなく、「誰々さんが君の悪口を言っていたよ」と言った方が、ショックが大きかったりする。

それと同じで、間にTさんを挟むことで、「悪口を言っている」という作り話に真実みを持たせようとしたのではないだろうか。

はたして、悪意があるのは、Tさんだったのか?それとも、Aさんだったのか?

今となっては、AさんともTさんとも疎遠になったので、こんな話はどーでもよいことなのだが、こんなどーでもいい話を思い出したのは、最近、Eさんにお会いする機会があったからである。

この根も葉もない話をAさんから聞いたのが、いまから20年近く前である。20年近く経ったいまも、あのときの「根も葉もない噂話」のことが思い出されて、「Eさんには、僕がEさんの悪口を言っているという根も葉もないうわさが耳に入っているのではないだろうか」と、いまでも疑心暗鬼に震えるのである。

もちろん、Eさんとお会いするときは、普通にご挨拶して、普通にお話しをしているので、あんな根も葉もない噂に怯える必要など何もないと信じたい。

まったく、人の世というのは、恐ろしいものである。

| | コメント (2)

かおる君のこと

2月8日(金)

高校時代の4学年下の後輩だった、かおる君の訃報を知ったのは、韓国に向かう飛行機に搭乗する直前のことだった。かおる君と同期のKさんからメッセージが入っていた。、

「ご無沙汰しております。

久しぶりのご連絡が、このようなことでとても悲しいのですが、先輩のところに私たちの同期、かおるくんの訃報は届いているでしょうか?

いろいろな方面から発信されているので、もうご存知かもしれませんが、念のためお知らせさせていただきます。

そして、もし、まだご存じなかったとしたら、ご連絡が遅くなり申し訳ありません。

もし、お時間のご都合がつくようでしたら…。かおるくん、日本酒同好会をとても楽しみにしていたので、先輩に参列していただけたら、とても喜ぶと思います」

メッセージの後に、2月8日にお通夜、9日に告別式とあった。つまり今日がお通夜で、明日が告別式である。

突然のことに言葉もありません。いま羽田にいて、これから韓国出張のため、お通夜も告別式も出席できず、とても残念です。ただただご冥福を祈るばかりです」

僕は短い返事を書いて、飛行機に乗り込んだ。

…いまから30年近く前。

高校を卒業して大学生になった僕たちは、かつての部活の仲間とともに、新たに吹奏楽団を結成した。高校のOBによる楽団ということで、「OB楽団」と呼んでいた。

OB楽団には、同じ高校を卒業した吹奏楽部の後輩の有志たちが、毎年入ってきた。その中の1人が、かおる君である。

僕は、かおる君と高校時代をともに過ごしたわけではなかった。OB楽団で、一緒に演奏をするようになって、親しくなっていったのである。かおる君も僕も、ある時期、わりと熱心にOB楽団の活動をしていた。

Kさんのメッセージを見て思い出したのだが、ある時期、OB楽団の有志たちで、「日本酒同好会」というのを結成した。今の僕にはまったく考えられないことだが、日本酒が好きな数名の有志が集まって、都内にある日本酒の美味しいお店をまわって日本酒を飲む、という会である。年に1,2回程度開催していたと思う。一応年長者ということで、僕が会の代表だった。かおる君も、ほぼ毎回参加していた。

かおる君は屈託のない笑顔で、人懐っこくて、それでいて自分を前面に出さないタイプの人間だったと記憶する。いまから思えば、損な役回りだったのではないか、と想像するのだが、それも含めて、彼は楽しんでいたのかも知れない。今となっては、わからない。

僕がいまでも忘れることのできない、つらい思い出がある。

OB楽団の、何回目かの定期演奏会の日のことである。

その日の朝、大型の楽器をトラックで運搬する際に、僕の不注意で、かおる君に怪我をさせてしまったのである。

僕が慣れないトラックを運転して、かおる君がトラックの誘導をしていた。僕の運転が下手なせいで、トラックとコンクリート塀の間に、かおる君の手が挟まってしまったのである。

すぐに病院に行き、手当てをした。大事には至らなかったようであるが、たしかその日は、演奏会に出なかったと記憶している。

せっかくいままで練習してきたのに、僕の運転が下手なせいで、腕に怪我をさせ、かおる君の演奏の機会を奪ってしまったのである。

悪いのは明らかに僕の方なのだが、演奏会が終わって数日後、あのときはよけいなことをしてすみませんでした、と、かおる君は僕の家に菓子折を持って謝りに来たのである。

僕は恐縮した。謝らなければならないのは、怪我をさせた僕の方なのだ。

いま思うと、この当時僕は、そのことをそうとう気にしていたのかも知れない。そのことを、かおる君が察したのだろう。あまり気にしないでください、という意味で、彼は僕の家にわざわざ来てくれたのだと思う。

だが僕は、のちのちまでずっとこのことが気にかかっていた。妙な話だが、あのときの怪我のせいで、腕に後遺症など残らなかっただろうか、とか、そんなことを、ずっと気に病み続けた。いまでもときおり夢に見ることがある。

その後、僕は東京を離れることになったため、OB楽団の演奏会には参加しなくなってしまった。かおる君も、仕事が忙しくなったのか、ほとんど顔を見せなくなったように思う。当然、日本酒同好会も自然消滅した。

最後に会ったのがいつだったかは覚えていないが、おそらく15年くらいは経っているかも知れない。

昨年の10月末頃だったか、別の後輩から、こんな話を聞いた。

OB楽団の初期のメンバーを中心に、LINEグループを作っているらしい。僕は参加していないのだが、その後輩は、昨年9月に出した僕の本について、そのLINEグループの中で、宣伝してくれたそうなのである。

そのグループには、かおる君も入っているらしく、かおる君が「すでにポチッたです!普通に面白そうだったのでw」とLINEに書いていたと、その後輩は僕に報告してくれた。

そうか。

長らく会ってないけど、かおる君、僕の本を読んでくれていたのか…。

そしてこれが、僕がかおる君の消息を知る、最後となった。

できれば、本の感想を聞きたかったよ。

僕が何らかの形でかおる君と連絡をとって、本の感想を聞くべきだったと、いまはそれが悔やまれてならない。

いまはただ、彼のことを思い出すことが供養になるのではないかと思い、思い出をここに書きとめる。

| | コメント (0)

ポスターの思い出

鉄道の駅に貼られた自殺防止のポスターが、かえって自殺願望の人たちに疎外感を与えるものになっているのではないか、とインターネット上で話題になっている。制服を着た女学生たちが、まるで悩みなどひとつもないかのように、満面の笑みを浮かべてこちらを見つめて、「ひとりじゃないよ」と問いかけている。悩み苦しんでいる人にとっては、かえって同調圧力を強要するような残酷なポスターなのではないかと批判が高まっているのである。僕もそのポスターを見て、そう思う。

ポスターで思い出した。

10年以上前、僕がまだ「前の職場」にいた時のことである。

やや前置きが長くなるが、その頃、中央官庁の次官を務めた官僚が、うちの職場の社長になるという話がふってわいた。

職場の自治を守るために、何としてもそれだけは食い止めなければならん、と、組合に所属していた僕は、組合の支部長のKさんらと一緒に、天下り社長就任の反対運動を繰り広げた

しかし結局、その次官がうちの職場の社長に就任したのである。

それからほどなくして、組合の支部長だったKさんが僕の仕事部屋にたずねてきた。

「ちょっと相談が…」

「何でしょう?」

「実は、社長から、副社長にならないかと打診を受けてね…」

僕は驚いた。天下り社長は、反対派の急先鋒であったKさんを、副社長にするというのである。

「あなたと一緒に反対運動をしてきたのに、いきなり僕が副社長になったら、あなたに申し訳ないと思ってね。あなたにだけは事前に申し上げておきたかった」

「はあ」

僕は、突然のことで、どう反応していいかわからない。

「外から反対するのではなく、中に入って意見を言うことも大事だと思いますよ」

と僕は答えた。

「ありがとう。そこでひとつ相談なのだが」

「何でしょう」

「あなたに、副社長付スタッフをしてもらいたい」

「僕がですか?」

「私は何としても、自分の任期中に、キャンパス・ハラスメントの防止をするための規則を作りたい。そのために、あなたの力を貸してほしい」

「…わかりました」

ということで、どういうわけか僕も巻き込まれてしまったのである。

僕は、キャンパス・ハラスメント対策のために、いろいろなことを提案した。講演会、ワークショップ、全学アンケートの実施などである。そのたびに、Kさんは僕の提案を全面的に聞き入れてくれ、実現させてくれた。

その中のひとつが、「キャンパス・ハラスメント防止の啓発ポスター」の制作である。

ポスターのデザインじたいは、美術専攻の学生に画いてもらうことになり、そのコンセプトを僕が考えることになった。

僕は、他の機関の同様のポスターを研究して、ある結論にたどり着き、次のようなコンセプトを学生に伝えた。

「まず、『ハラスメントは絶対にダメ!許さない!』みたいな、断罪するようなポスターはやめてください。ポスターを見た人が、他人事だと思ってしまいますので。みんなが当事者であることがわかるようなデザインにしてください」

「できるだけかわいいポスターにしてください。人目をひくような。立ち止まって見ても、不審に思われないものにしてください。ハラスメントで悩んでいる人は、ポスターをじっくり見ていることを、他人に見られるだけでも、イヤな思いをするものなのです」

こうして完成したポスターが、以下のものである。

Photo


ポスターのキャッチコピーは、他の機関の同様のポスターのよい部分をまねて、僕が作成した。

学生は僕の意図をくんでくれて、とてもかわいいポスターに仕上げてくれた。これは、いまでも僕の自信作であり、僕が「前の職場」に残した、唯一の誇るべき仕事であると思っている。

その後、副社長だったKさんは任期を終えて職場を退職され、僕も同じ年に職場を移った。それから数年経って、「前の職場」では、セクハラやパワハラの事件が相次ぎ、いまや世間からは非難の目が注がれている。

Kさんと僕とで取り組んできたことは、いとも簡単に、水泡に帰した。

僕はどんな眼差しで、そのことを眺めればよいのだろう。

〔付記〕

このポスター、作られて10年以上たった今も、「前の職場」の中で貼られているところがあるという。はがさないでいてくれる人がいるわけで、このポスターが貼られて続けていることに、希望を見出すべきだろう。

| | コメント (0)

ラングドシャへの道・後編

「ラングドシャへの道」、あまりにどーでもいい内容なので書くのをやめようと思ったのだが、あんまり引っ張るほどの内容でもないので、続きを書きます。

シャノアールの意味がわからない。

「じゃあ、シャはいいから、ノアールの意味はわかる?」

ノアール、ノアール、ノアール…。

聞いたことがあるぞ!何だっけな…。

香港ノワールだ!!!

たしか、以前の俺のブログにも、「香港ノワール」という言葉を使ったはずだ。

「ひょっとして、香港ノワールの、ノアール?」

「そうだよ。そのノアール」

はて、香港ノワールまではよかったが、肝心の、香港ノワールの意味がわからない。

映画のジャンル、ということだけはわかるのだが。

香港ノワールといって思い出すのは、香港映画「男たちの挽歌」の、チョウ・ユンファの顔なのだが、はて、「男たちの挽歌」が、香港ノワールといわれる所以は、何だろう?

しかも俺は、「男たちの挽歌」を、ちゃんと見ていない。

やくざ映画みたいなもんかな?

しかし、喫茶店の名前にそんなやくざチックな言葉が入るとも思えない。

「色だよ、色」

「色?」

ノアールは、色の名前か。

なるほど、「北野ブルー」みたいな感じなのね。

何色だろう?

「香港ノワールの映画のイメージだよ」

…そう言われても、香港ノワールをちゃんと見ていないので、よくわからない。

「香港の闇の世界を描いた…」

「…く、黒?」

「そう、黒」

シャノアールのノアールは、黒という意味か。

…って、ノアールの意味がわかったところで、シャの意味がわからない。

「シャは、動物」

動物??

いろんな動物を言い続けて、ようやく正解に行きあたった。

「猫か~」

なるほど、黒猫という意味か。

とすると、ラングドシャのシャも猫ということになる。

「ドは『~の』という意味」

「猫のなんとかってこと?」

「そう。ラングは体の一部」

体の一部???

「お菓子の形を思い浮かべてごらんよ」

…耳、でもないし、額、でもないし…。

「舌!」

「正解」

というわけで、ラングドシャの意味が、ようやくわかったのであった。

…どうです?答えのわかっている人にとっては、どーでもいい話でしょう。

ここで言いたいのは、ラングドシャの意味って何だっけ?って思い出すとき、いったん「シャノアール」を思い浮かべ、O先輩のエピソードを思い出し、その次に「香港ノワール」でチョウ・ユンファの顔を思い出し、そこまで行ってから、ノアール=黒、シャ=猫、ああ、猫の舌ね、と思い出すようになってしまった、ということだけです。

そこでまた思い出した。

また30年以上前の話。

高校1年の時って、部活とはべつに、「クラブ活動」というのが時間割に組まれていた。

授業名は「必修クラブ」と言ったかも知れない。水曜日の午後だったと記憶する。

運動系とか、文化系とか、いろいろなクラブがあったんだけど、僕はなんと、フランス語クラブに入っていたのだ!

たしか、英語のヒロイ先生という先生が顧問で、選択していた生徒は数人だったと記憶する。

フランス語の授業はほとんどなく、もっぱらフランス映画を見ていたような…。

そのとき面白かったのが、ルイ・マル監督の映画「死刑台のエレベーター」。

あれって、いまから思えばフィルム・ノワールだったのかな?映画に詳しくないので、よくわからない。

| | コメント (0)

ラングドシャへの道・前編

職場の同僚が、京都の出張みやげにラングドシャを買ってきた。

いまや、京都みやげは、八ッ橋ではなくラングドシャである。

それで思い出した。

僕がいかに無知な人間であるかを示すエピソード

数年前だったか。

京都みやげに、ラングドシャを買ってきた。

ところで、ラングドシャって、何だ???

ラングドシャの意味がわからない。

和尚「珍念や!」

珍念「へーい」

和尚「ラングドシャじゃがのう。うちにあったかのう?」

珍念「ラングドシャって、いったい何です?」

和尚「おまえ、寺方にいてラングドシャを知らんやつがあるか!俺はお前に教えたはずだぞ」

珍念「へえ、すんません。忘れました」

和尚「なぜ忘れる?いいことがある。近所に物知りのご隠居がいるから、そこへ行って聞いてみなさい」

珍念「何て言って行くんです?」

和尚「ラングドシャがおありですか、と」

珍念「あるって言いましたら?」

和尚「あると言うたら必要だからと言ってちょっと借りてきなさい」

珍念「借りに行くんでも品物を知らないで行っちゃおかしいんですけど…何のことなんです?」

和尚「先方へ行ってそう言ってみれば向こうの返事であらかた様子がわかるで。行ってみなさい!」

…また始まった。

何でもかんでも、わからない言葉を落語の「転失気(てんしき)」で煮しめるのは、やめれ!

とにかく恥ずかしいことに、ラングドシャの意味がわからないのだ。

物知りの妻に聞いてみると、

「そんなこともわからないの?」

と言われた。

「有名なお店の名前?」

僕はてっきり、ラングドシャを「ラングド社」もしくは「ラングド舎」というフランスあたりの有名なお菓子店の名前かな?と思ったのだ。「ぴょんぴょん舎」みたいに。マジな話である。

「まさか、『ラング土砂』という意味でもないよねえ」

妻は呆れた様子だった。

「ラングドシャ」の「シャ」の意味、わからないの?」

「わからない」

妻は少し考えて言った。

「じゃあ、『シャノアール』ってあるでしょう」

「ああ、喫茶店の」

「シャノアールって、どういう意味?」

そういえば、シャノアールの意味がわからない。ルノアールと同じ、画家の名前かなんかかな、と思っていたのだ。

「画家の名前?」

「それはルノアール。ラングドシャのシャと、シャノアールのシャは、同じ意味」

ますます混乱してきた。

シャノアール、シャノアール、シャノアール…。

シャノアールという言葉を聞いて、30年以上の思い出が、鮮やかによみがえってきた。

高校1年のときのことである。

吹奏楽団に入っていた僕は、部活が終わると、みんなと一緒によく喫茶店のシャノアールに行った。

1つ上の学年の先輩たちがよくいっていたお店で、そこについていったのである。

高校生になって喫茶店に入るなんてのは、大人になった気分がしたものだ。

1つ上の学年に、O先輩という人がいた。

まことに独特な感性の持ち主で、いまは有名な漫画家である

高校時代は、頼まれもしないのに、毎日回文を考えて、音楽室の前の黒板にその回文を披露していた。ほら、よくモスバーガーのお店の前に置いてある季節のおたよりを書いた黒板みたいな感じで。

「猪木の胃」とか、そんな回文である。

ちょっと独特の感性を持っていた人なんだが、その先輩が、喫茶店シャノアールに行くと、必ずすることがあった。

喫茶店に行くと、注文を聞く前に、店員さんがまずおしぼりとお水を持ってくるでしょう。

で、そのあと、コーヒーなんかを注文して、コーヒーを飲みながら、べちゃくちゃお喋りした。

問題はそのあとである。帰り際、O先輩はとんでもないことをするのが日課だった。

O先輩は、お水の入ったコップの上に、おしぼりが入っていたビニール袋を使って、まるでラップで蓋をするかのようにしてコップの口をふさぎ、それを手で押さえる。

で、そのコップを、水がこぼれないように蓋にしたおしぼりのビニール袋を押さえながら、ひっくり返してテーブルに置く。

つまり、コップの飲み口の部分が下に、コップの底が上になるように逆さまにするのである。

ここまで、わかるかな?

で、最後にコップの飲み口に蓋をしていた、おしぼりのビニール袋を、マチャアキが新春かくし芸大会でよくやっていた、「テーブルクロス引き」さながらに、サッと引くのである。

するとどうなるか?

テーブルの上に、水の入ったコップが、逆さまに置いてある格好になるのである!

で、テーブルをその状態のままにして、レジで会計を済ませ、みんなでお店を出る。

困るのは、店員さんである。

テーブルに、水の入ったコップが、逆さまに置いてあるのだ!

これをこぼさないように、片付けなければならない。

ひどいイタズラである!!!

いいですか。よい子のみなさんは絶対にマネをしてはいけませんよ!

僕たちは、そそくさとお店を出るわけだから、テーブルを片付けるときの店員さんの反応を見たことがない。

だから、実際、そのあとどのようなことになったのか、まったくわからないのだが、たぶん、さぞかし怒っていることだろうと、予想した。

いま思えば、性懲りもなくそんなイタズラを何回もしたのに、よく出入り禁止にならなかったもんだ。

いまでもたまに、シャノアールの系列店に入ると、何とも言えない罪悪感にさいなまれることがある。

それもこれも、O先輩がすべて悪いのだ!!!

…と、ここまで思い出して、

アレ?俺はいま、何について考えていたのか?

とわからなくなってしまった。

そうそう、「シャノアール」の意味だ!

というか、そもそもは「ラングドシャ」の意味だ!

はたして「ラングドシャ」は解明されるのか??

ラングドシャまでの道のりは遠いなあ。

(次回に続く)

| | コメント (0)

より以前の記事一覧