4級3班

キョスニムが愛した秋の空

台風のこととか、この時期恒例の「申請書祭り」(予告編大賞)の話とか、大河ドラマ「いだてん」の「懐かしの満州」のエピソードが神がかっていたとか、書きたいことはいくつかあるのだけれど、ブログを書くこと自体がしんどい。

台風の接近でたいへんだった12日(土)に、1通のメールが来た。

10年ほど前、韓国のK大学の語学学校で1年間勉強していたときの、4級の先生である。このブログでは「よくモノをなくす先生」として登場していたのだが、おそらく記憶にとどめている読者はいないだろう。

私よりもかなり年下の先生なのだが、外国語の先生というのは、それを初めて学ぶ者からすれば、「生まれたばかりの鳥が初めて見たものを親と思う」くらいの存在である。僕が習った韓国語の先生は何人もいるが、「よくモノをなくす先生」もその一人である。

最後に会ったのは、5年ほど前に、僕がK大学を訪れたときだった。それからまったく連絡をとっていないから、5年ぶりに連絡が来たことになる。K先生はいま、母校のK大学で非常勤講師をしているようだった。

韓国でも日本の台風のことがニュースになっていて、それで心配になってメールをくれたのかな?と最初は思ったのだが、メールの本文を読んで、まったくそうではないことがわかった。

「今日、ふと、キョスニムと奥様のことを思い出しました。

最近、韓国の空、とくに、キョスニムがこよなく愛した、 大学構内から見上げた空がとてもきれいで、先日大学構内を散歩していて、お二人を思い出したのでした。

お二人はいま、どのようにお過ごしですか?韓国へいらっしゃる機会はありませんか?

安否が気になってメールしました。

素敵な秋の季節、素敵にお過ごしください」

そうか。あれから5年、こちらの消息をまったく伝えていなかった。

僕は、返信に、昨年に子どもが生まれたことを書いた。

それともうひとつ。

僕の友人が、この9月から、僕の通っていた韓国のK大学に就職することになった。これもまた、深い因縁である。

その友人は、韓国語が堪能で、僕も妻も韓国に留学するときにはその橋渡しになってくれたりして、ずいぶんとお世話になった。その後も、いろいろなプロジェクトで一緒に仕事をしている。

メールの返信には、そのことも書いた。

「僕の親しい友人が、この9月から、K大学の研究教授になりました。韓国人のように韓国語が堪能ですし、とても人柄がいいので、機会があったら会いに行ってみてください。僕たち夫婦の話題を出せば、きっと会話がはずむはずです。

そんなこともあり、これからまた、K大学を訪れる機会が増えると思います。その時はまた連絡します」

すると返信にこうあった。

「お子様のご誕生を祝福せずにはいられません。この週末は、夫ともその話題で持ちきりでした。

週明けにK大学に行くので、キョスニムのご友人のところに行って、キョスニムのお話しをしてみようと思います。

K大学にいらした時には、必ずご連絡ください。私の子どもは10歳になりました。育児のノウハウを教えて差し上げます」

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아버지의 '서투른 삶'

우리 아버지는 삶이 서투른 편이다.

아버지는 할아버지가 하신 목수 일을 물려 받지 않고 회사원이 되었다.하지만 회사를 그만둔 적이 많이 있었다.

그래서 실업중에는 어머니 대신 집안 일을 하시곤 했다.

나는 10세 대  '사춘기'때 아버지의 '서투른 삶'이 싫어서 열심히 공부했다.아버지와 다른 인생을 보내기 위해서 학교에 가나 잡에 있으나 공부했다.

내가 대학생 때 아버지에게 대학원에 가서 계속 연구를 하고 싶다고 말했더니 아버지는 아무것도 말씀하시지 않고 등록금을 내 주셨다.

나중에 어머니가 말씀 해주신 이야기에 의하면 아버지는 다른 사람한테 돈을 빌려다가 등록금을 내 주셨다고 했다.

아버지는 사실은 내가 계속 연구하는 것을 싫어하셨다.내가 일찍 취직하면 좋겠다고 생각하셨다.그래도 그런 말을 하시지 않고 내가 하고 싶은 대로 하는 것을 허락해 주셨다.그 때 아버지가 '열심히 해'라고 말씀하신 것이 엊그제 같다.

나는 지금 내가 중학생 때의 아버지와 같은 나이가 되었다.지금 생각해보면 아버지의 인생은 전혀 '서투른 삶'이 아니다.내가 넘을 수 없는 삶이다.그것은 내가 아이를 키우다 보면 더 알게 될지도 모른다.

"내가 넘을 수 없는 아버지의 인생"   

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「アボジ」の作文、取りもどす!

2月19日(金)

懸案だった「アボジ」の作文

語学院の主任の先生が、探し出してくださった。

夕方、語学院5階の教員室に行って、ついに「アボジ」の作文を取りもどした。

「ほら、10点満点の10点で、点数の下に『加算点』とあるでしょう。文法的に多少誤りがあっても、内容がすぐれている場合には、加算点が与えられるのです。こんなこと、語学院ではじめてではないかしら」と先生。

「試験の答案用紙は、どのくらいの期間、保管されるものなんですか?」

とたずねると、

「3年です」

という。

「万が一、学生から成績について問い合わせが来たときに、対応できるようにしているんです。ま、いままで、そんなことはなかったんですけど」

…すると、私が過去の試験の答案を見せてくれ、という面倒なお願いをしたのも、語学院はじまって以来、ということか。

ともあれ、これで、思い煩わずに帰国できる。ただ、これを書いている時点で、まだ、「アボジ」の作文は読み返していない。いずれ時間ができたときに読み返して、ここに再録することにしよう。

「日本に帰ったら、アボニム(父上様)に翻訳して、読み聞かせてあげなさいよ~」と先生。

残念ながら、今のところ、そのつもりはない。

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「アボジ」の作文を取りもどせ!

2月10日(水)。ソウルから大邱に向かうKTXの車内にて。

突然の胃の痛みにたえかね、お腹をさすりながら、横に座っている妻に言った。

「ずっと気になっていることがあるんだけど」

「なになに?」

私が話したのは、次のような内容である。

語学院の4級のときに、スギ試験(作文試験)で書いた「アボジ(父)」をテーマにした作文

この日記でもしばしば書いてきたが、私が4級の時に書いた「アボジ」をテーマにした作文は、語学院の先生のあいだでも、かなり話題になり、文法や表現に多少の誤りがあったにもかかわらず、10点満点をいただいた。どうも、内容が胸をうつようなものだったようで、読んでいて泣きそうになった、という先生もいらした。

韓国語のプロの先生を泣かせた作文。私にとっては、いわば、奇跡の作文である。

ところが、私自身、その作文で、どんなことを書いたのか、まったく覚えていない。

試験の当時は、書くことに必死で、いわば精神が高揚していたため、内容については、すっかりと忘れてしまったのである。

宿題として提出した作文は返却されるが、試験の時に書いた作文は、本人に返却されない。いや、作文にかぎらず、試験の答案は、本人に返却されることなく、すべて回収されてしまうのだ。

だから、その「アボジ」の作文が、いま、私の手もとにはないのである。

私は、そのことが、ずっと気になっていた。はたして私は、どんな内容を書いたのだろう。

そのことを確認しないまま、帰国してしまうと、絶対に後悔するだろう。

「だから、なんとかして、「アボジ」の作文を取りもどしたい」

と私は妻に言った。

「もし、このまま帰国したら、数年後、あるいは、親父にもしものことがあったときに、きっと思い出して、悔やむことだろう。そうなれば、あと、頼める先は『探偵!ナイトスクープ』しかない」

唐突な私の発言に、妻は驚いた顔をした。

「『探偵!ナイトスクープ』に、『数年前に私が書いた「アボジ」という韓国語の作文を、見つけてきてほしい』と依頼を出して、小枝探偵あたりと一緒に韓国に飛んで、語学院を久しぶりに訪れる。そこで、『アボジ』の作文を見つけ出し、語学院の先生方の前で、韓国語で読み上げる。さらに日本に戻り、親父の前でその作文を日本語に翻訳して読み上げる。そして、画面がスタジオに戻り、西田探偵局長とざこば顧問が号泣」

かなり具体的な絵まで想像して話すと、妻はあきれた顔をした。

「そのころにはとっくに、試験の答案なんかシュレッターにかけられてるよ。というか、もう今の時点で、シュレッターにかけられてる可能性があると思うけど」

妻は私に冷や水を浴びせる。私の胃はふたたび痛くなった。

「でも、なんとかして、もう一度、あの作文を読んでみたいのだが…」

「とりあえず、4級の時の先生に、メールで聞いてみよう」

そういうと妻は、その作文を採点した4級の先生のところに、携帯のメールを送ることにした。その先生には、妻も教わっていたことがあるので、よく知っている先生だった。

「じつは先生にお願いがあります。以前、語学院の作文試験で夫が書いた「アボジ」についての作文を、もう一度読んでみたいと、夫が言っているのです。そして私もいちど読んでみたいと思うのですが、見せてもらうことはできるでしょうか」

少したって、先生から返事が来た。

「一度採点した試験の答案を、返してよいものか、私にはわからないのです。主任の先生に相談してみないと、何とも言えないと思います」

うーむ。主任の先生、か。ちょっとややこしいな。

語学院には、ひとり、主任の先生がいて、韓国語の授業のあらゆることをとりしきっておられる。その先生は、若くて美人で、エリートなのだが、妻も私も、ちょっと、苦手なタイプであった。

若いながらも、エリートであることの自覚が多少強かったり、韓国の伝統的な家族観とか倫理観をお持ちであったり、女子高生的な感性をお持ちだったり、と、まあ、私たちとは対極にあるタイプの方だな、と、つねひごろ思ってきた。

さらにややこしいことに、最初に依頼のメールを出した先生は、その主任の先生と、同じ研究室の先輩、後輩にあたる関係で、後輩が先輩に相談することが、なかなか難しいような雰囲気をただよわせていた。ふつうは、先輩後輩の関係であれば、相談しやすいだろうと思うのだが、この場合は、どうもそうではないらしい。あるいは、気むずかしい方なのかも知れない。

だから、その先生を介して、主任の先生に聞いてもらうこともなかなか難しいのである。

うーむ。どうしたらよいものか。

すると妻は、ふたたびメールをうちはじめる。

しばらくたって、「どう?これ」といって、そのメールの内容を私に見せた。

「先生、お元気ですか。お久しぶりです。実はひとつお願いがあってメールしました。夫が4級の時の作文試験で書いた「アボジ」についての作文が、先生方のあいだで、とてもよく書けているとほめられたそうです。それで、どのような内容か私もぜひ読んでみたいと思い、もし可能なら、日本に帰国したあと、それを義理の父(注、つまり私の父)に、ぜひ見せてさしあげたいと思います。そのときの作文を、見せていただくことはできるでしょうか」

妻は、主任の先生に直接送るメールを書いていたのだ。

しかもそこには、「義理の父に見せてさしあげたい」とある。伝統的な家族観とは対極にある妻が、ふつうならば決して書かない表現だ。

「つまり、この『義理の父に見せてさしあげたい』というところがミソなわけね」と私。

「そう」と妻は答え、メッセージを送信した。

するとしばらくして、主任の先生から返事が来た。

「そういうお願いなら聞いてさしあげなくちゃね!わかりました。今週は忙しいですが、ソルラル(旧正月)の後まで待ってもらえますか。それまでに探しておきます」

妻のメールは功を奏した。やはり、「義理の父に見せてさしあげたい」というところが効いたのかも知れない。「義理の父を大切に思う嫁の気持ち」が、伝統的な家族観を大事にする主任の先生の心を打ったのであろう。

「悪知恵がはたらくようになったもんだ」と私はつぶやいた。

これで、「アボジ」の作文に一歩近づいた。あとは実際に見つかることを祈るばかりだ。

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最後の(?)同窓会

12月23日(水)

前学期の4級3班の人たちと、夕食を食べることになった。 参加したのは、文法の先生(担任の先生)、ロンチョン君、リュ・リンチンさん、ウ・チエンさん、スン・ルオトゥンさん、リュ・チウィエさん、ヤン・チャン君、ヤン・ペイル君、チャオウォンウィエさん、ハナさん、そして私と妻。

5時に語学院の地下1階に集合し、大学の近くのサムギョプサル(豚焼肉)の店に行く。

文法の先生は、いま3級のクラスを受け持っておられる。

「4級のときと違って、自分の話す韓国語が、なかなかわかってもらえない」という。

4級の学生たちに話すような感じで、3級の学生たちに話しても、通じないことが多いというのである。

なるほど、そんなものかなあ、と思う。たしかに、先生がまくしたてるようにお話になることが、いまはほとんど聞き取ることができる。

もっぱら話すのは、文法の先生や、ハナさんだが、その話を聞いているだけで楽しい。

じつは昨日、前学期の妻のクラス(5級)の同窓会に参加して、一緒に食事をしたのだが、なんとなくいたたまれない感じがした。やはり、一緒に勉強をした仲間であるか、そうでないか、という違いは、大きいのだろう。

夕食の後、久しぶりにノレバン(カラオケ)に行く。

韓国語の歌を2曲ほど歌うが、これがキーが高すぎて、全然声が出ない。歌詞もあやふやである。無謀な歌に挑戦したのがいけなかった。といって、ほかに知っている歌もない。

対して、班長殿のロンチョン君は、実に上手に韓国語の歌を何曲も歌いあげる。その努力を、少しは勉強に費やせばいいのに、と思う。

それと、文法の先生は、学生時代にバンドでメインボーカルをやっていた、というだけあって、プロ並みの歌唱力である。

2人の歌を聴いてかなり落ち込んでしまい、日本の歌を数曲歌うことにした。

1年も韓国にいるのに、ノレバンで、韓国語の歌をあきらめて、日本の歌を歌うのは、なんとなく屈辱的であるが、まあ仕方がない。

夜10時、ノレバンを出て、解散。 「じゃあ、私はこっちですから。また、会いましょう」と言って、みんなと反対の方を歩き始めた。

すると、ロンチョン君が「미카미씨!」と、大きな声で私の名前を呼んだ。

振り返ると、ロンチョン君は、大きく手を振っていた。

私も、大きく手を振り返した。

この日の、ロンチョン君の韓国語日記。

「미카미 씨,노래 참 잘 부르셨네요.

나도 일본 노래를 좀 배울까?ㅋㅋ

미카미 씨,일본에 돌아가시면 다시 만날 수 있을지도 모르지만

일단 감사 드리고요.

같이 있을 때 너무 기쁘고요.

미카미 씨 덕분에 일기도 자주 쓰더니

이제 쓰기 시험이 많이 쉬워진다고 생각해요.ㅋㅋ」

「미카미 씨、歌、とても上手でした。

僕も日本の歌を習おうかなあ(笑)

미카미 씨、日本に帰った後も、また会うことができるかも知れませんが、

ひとまずお礼を言います。

一緒にいるとき、とても嬉しかったです。

미카미 씨のおかげで、韓国語の日記も書くようにしたら、

いま、作文試験がとても簡単に思えるんですよ(笑)」

なんだ、まるで、今日の同窓会が最後みたいじゃないか。

それで別れ際に、大きく手を振ったのか。

まだ、2カ月、ここにいるんだけどな。

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石橋を叩いて渡る

12月8日(火)

語学院でお世話になった先生お二人と、食事をご一緒する。

お一人は、妻が半年間習った「恩師」。

もうお一人は、4級のときのマラギの先生(よくモノをなくす先生)。この先生には、妻も1学期間だけ習っていた。

そして、その先生のナムジャチング(ボーイフレンド)も参加して、総勢5名で、八公山のふもとにある、雰囲気のよい韓定食の店に行く。

妻の「恩師」とは、授業で習ったことはないのだが、語学教育のプロ、というべき先生で、一度、授業を受けてみたかった先生である。

その先生はいま、5級クラスで文法を教えていらっしゃる。4級時代のチングたちが、いま、この先生のもとで学んでいる。

いま授業では、韓国のことわざについて、教えていらっしゃるという。

「ことわざって、経験がないとなかなか覚えられないみたいなんですね。一度でもそれに近いことを経験していれば、ことわざを実感して早く覚えられるんだけれども、若い子たちは、あまり経験がないから、ことわざを覚えるのがしんどいみたい」と先生。

先生が続ける。

「そうそう、ことわざで思い出したけれど、今日の5級の授業で、『石橋を叩いて渡る』ということわざを教えたときに、『このことわざのような経験をしたことがありますか』と聞いてみたんですよ」

「すると、学生の1人が手をあげて、『미카미씨が・・・』と言い出すんです」

ここで私の名前が出てきた。

「『この前、미카미씨と一緒に八公山に登ったとき、絶対に雨が降らない、という日なのに、미카미씨が傘を持ってきたんです』って。『それと、電子辞書も持ってきていたんです』とも言うんですよ」

ここで、思い出す。先日の同窓会登山のときのことである。

私があまりに大きなリュックを背負っていたので、「中に何が入っているんです?」と、「よくモノをなくす先生」に聞かれた私が、リュックの中から、折りたたみ傘と、電子辞書をとりだした。

「今日は、雨が降らないでしょうに」と先生。

「でも、万が一、ということもありますから」と私。

「で、電子辞書は?」

「わからない単語が出てきたときのために…」

先生を含めた、チングたちは呆れ顔。妻は「いつもこうなんです」と、ため息をついた。

その学生は、そのことを思い出したらしいのである。

「で、その学生は、誰なんです?」と、先生に聞くと、

「クォ・チエンさんですよ」と先生がお答えになる。

3級時代のパンジャンニム(班長殿)、クォ・チエンさん。

なるほど、クォ・チエンさんの観察力をもってすれば、私のリュックの中身のことは忘れずに覚えていただろうな。

「で、クォ・チエンさんがそのことを言うと、まわりの人も、『そうだそうだ』ってことになって、ひとしきり미카미씨の話題で盛り上がったんですよ」

同窓会登山に参加した人はごくわずかだと思うのだが、ほかに私を知っている人が便乗して盛り上がった、ということなのだろう。

(まだ、忘れられていなかったんだな…)と、少し嬉しくなる。

彼らにとっては、晴れの日でも傘を持ち歩き、登山のときでも電子辞書を持ち歩く、という私の癖(へき)、というか、病(やまい)のおかげで、「石橋をたたいて渡る」ということわざを覚えることができたのである。ちょっとニュアンスは違うような気もするのだが。

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最後のあいさつ

11月30日(月)

期末考査のあと、わが班で簡単な打ち上げをしたときのことである

文法の先生が私に言った。

「次の学期の開講式の時に、修了生を代表してスピーチしてもらえませんか?」

開講式とは、学期が始まる最初の日に、語学院に通う外国人留学生たちすべてが集まって行われる行事である。この行事は、開講式であるとともに、前学期の修了式の意味合いもかねていた。

それにしても、寝耳に水の話である。いままで、開講式に何度か出たことがあるが、修了生がスピーチをしたことなど、見たことがなかった。

事情を聞いてみると、以前は開講式の際に、学生たちによる発表などの行事が行われていたそうなのだが、ここ最近の開講式では、院長先生のあいさつとか、優秀者の表彰とか、型どおりの行事だけが行われていた。

このところ、あまりにも型どおりの開講式が続いていたので、ここらで、以前のような、趣向を凝らした行事を復活させよう、ということなのだそうである。

「ほかに、歌を歌う学生とか、踊りを踊る学生とか、授業でやった研究発表をする学生とかもいるんですよ」と先生。

歌とか踊りとかの出し物がある中で、オッサンがスピーチをするなんて、面白いか?と、一瞬、逡巡する。

だが、こんな機会はめったにないことだし、多くの学生が来学期も授業に出るのに対して、私は、今学期が最後である。さらに、この1年間、たぶん誰よりも勉強してきた、という自負もあった。

そこで、厚かましいと思いながらも、先生の勧めに従うことにした。

先週の木曜日、スピーチ原稿を作り、翌日の金曜日、原稿を直してもらうために文法の先生のところにうかがう。

「いま見たところ、直すところはほとんどないようですね。念のため、詳しく見て、修正したものを、あとでメールで送ります」

土曜日は学会の学術大会でソウルに行っていたため、身動きが取れず、日曜日に、修正されたものをもとに、練習をする。

スピーチに合わせて、パワーポイントも作成した。

「優等生的な内容ね」と、スピーチの内容を聞いた妻が言う。

たしかにそうだろう。私がこの1年間、語学院で韓国語を勉強した際に感じたことをスピーチするのだから、どうしても内容が無難にならざるをえない。

妻に言わせれば、私があれだけマラギ大会のスピーチには内容がなかった、なんて悪口を言っていたのに、自分自身のスピーチの内容もまた、同じではないか、ということなのだろう。

しかし私には、そんなことはどうでもよかった。私がやりたかったことは、こんなことではない。実はその場を借りて、どうしても、やりたいことが1つあったのである・・・。

さて、当日。

午後1時に、語学院の建物の中にある講堂で、開講式が始まる。

院長先生のあいさつ、そして前学期の成績優秀者の表彰などが行われたあと、学生たちによる行事が始まった。

最初は、中国人留学生2人による歌。当然、韓国語の歌である。

この2人の歌が、上手だったこともあって、思いのほか盛り上がる。

(このあとにスピーチをしなければならないのか・・・)

場の雰囲気が一気に盛り下がるのではないか、と心配した。

「続いて、修了生を代表して、미카미 씨に、語学堂で勉強した1年について、スピーチしてもらいます」

私の名前が出ると、会場がざわめいた。もはや私は、この語学院で、有名人である。

司会の先生にうながされるようにして、壇上に上がる。大きな拍手が起こる。

「みなさん、こんにちは、語学院で一番有名な学生、미카미です。みなさん、知ってるでしょう?」

「ネー(はーい)」と、会場から反応があがった。

これで、私の緊張感は、一気にほぐれていく。原稿を手に持たず、スピーチをはじめる。

「私は昨年の11月29日に韓国にやってきました。韓国へ来て、もう1年が経ちました。私は韓国へ来るやいなや、この語学院で韓国語の勉強をはじめました。その時から今に至るまで、私の韓国での生活の大部分を、この語学堂で過ごしました。そしてついに今日、韓国語の勉強を修了することになりました。いまから、私が1年間、この語学堂で経験したこと、そして、その経験を通じて感じたことを、お話ししたいと思います」

ここまでが前置き。語学院で習った文型をフルに活用する。

「私は日本にある大学で、日本の歴史を教えています」

スクリーンには、勤務先の大学で教えている学生たちの写真が映し出されている。

「日本の歴史を勉強すればするほど、韓国の歴史も勉強しなければならない、という考えが浮かびました。それで、直接韓国へ来て、韓国語の勉強からはじめることにしたのです」

「ところが、最初は、不安なことが多くありました。その理由のひとつは、私が歳をとっているということです。歳をとっているせいで、若い人たちにくらべて、勉強するのが大変なこともあり、何よりも、自分が若い学生たちと上手くやっていけるのかが、心配でした」

「ところで、私はこの語学院で勉強をはじめるとき、ひとつの決心をしました。それは、日本では私は教師ですが、韓国ではひとりの学生として、始めから終わりまで、ほかの学生たちと同じように勉強しよう、という決心です。そこで、若い学生たちと一緒に、授業を毎日受けて、宿題もして、試験も受けました」

「そうしたところ、小さな奇跡が起きました。それは、若い学生たちが、私のことを「チング」と思ってくれたことです。同じクラスのチングたちは、私に会うと「アンニョンハセヨ?」と挨拶してくれました。私をひとりの学生として、そしてチングとして見てくれたことが、何よりも嬉しいことでした」

「もちろん、語学堂で勉強したこの1年は、よいことばかりではありませんでした。気が重い経験もたくさんありましたが、いまはそのすべてが、忘れることのできない思い出となりました」

「ではここで、写真を見ながら、よい思い出を紹介していきましょう」

ここで、スライドが切り替わる。まずは、1級1班のときの写真である。

「これは、私が1級1班の時の写真です。マラギ(会話表現)の授業時間に、韓国の観光地について、チングと一緒に発表をしました

「続いて、2級の時に行った野外授業の写真です」

ここで少し笑いが起こる。私が、海岸で「タクサウム(闘鶏)」と呼ばれる、韓国の遊びをしているときの写真である。

「これは、慶州の海岸で、『タクサウム(闘鶏)』という韓国の民族的な遊びをしているときのものです」

「続いて、3級の時の写真です」

再び笑いが起こる。私が、手ぬぐいを頭に巻いて、プルコギを作っている様子を写した写真である。

「これは、3級の時の野外授業の写真です。料理教室で韓国料理を学びました。この写真を見れば、どんなに面白い料理教室だったかが、わかるでしょう?」

この言葉に、とくに先生方を中心に、再び笑いが起こる。いかに面白くない料理教室だったかを、皮肉を込めて言ったことに、気づいたのであろう。

「そしてこれは、前学期に行った野外授業での写真です」

リ・チャン君、ヤン・チャン君、チ・ジャオ君、そして、チ・ジャオ君のヨジャ・チングが写っている写真。

私が撮った写真だが、私はなぜかこの写真がとても好きだった。

「この写真は、私がいちばん気に入っている写真です」

この写真が映し出されたとたん、後ろの方にいたヤン・チャン君が、恥ずかしそうに下を向いたことを、私は見逃さなかった。

話は、「韓国語勉強法」に移る。

「ところでみなさん。韓国語を勉強しているみなさんに、韓国語を勉強する上でよい方法を、ひとつだけ紹介します。それは、韓国語で日記を書くことです。韓国語で日記をかくと、韓国語の勉強によい効果があるだけではなく、韓国で経験したことを忘れないように残しておくこともできます」

「実は私も、いままで、この語学院で経験したことを、日記に書いてきました。私の夢は、いつか、韓国語の日記をまとめて、韓国で本を出すことです。みなさんも、韓国語で日記を書いてみてはどうでしょう?」

自分で言っていて恥ずかしくなるような内容だが、スピーチの時には、このくらい恥ずかしいことを言うくらいがちょうどよいのである。

「そして最後に・・・」

ここで、原稿にはなかったことを言うことにした。あらかじめ原稿をみせていた妻や、文法の先生にも言わなかったことである。

「いままで一緒に勉強してきた、先生とチングたちを、紹介します」

私はそう言って、ジャケットの内ポケットから、これまで1年間に同じ班だった人たちの名前が書かれた紙を取り出し、ひとりひとりの名前を読み上げた。

「1級1班、キム・ジミン先生、ソ・ミョンア先生、ロン・ウォンポン君…」

「2級4班、カン・ユンヒ先生、クォン・ユウン先生、ス・オンイ君…」

「3級6班、キル・ユンミ先生、ナム・スジョン先生、クォ・チエンさん…」

「4級3班、チェ・ウニョン先生、キム・ジョンア先生、ロンチョン君…」

私がやりたかったことは、これだった。

これまで同じ班で、一緒に勉強してきたすべての人たちの名前を、呼びたかったのである。

「語学院の先生やチングたちのおかげで、最後まであきらめずに勉強をすることができました。楽しく勉強することができました。私は、みなさんのことを忘れないでしょう。いままで私を助けていただいた多くの方々、そして、今日のこの話を聞いてくださったみなさんすべてに感謝しつつ、この発表を終わります」

…ここまで、原稿を見ずに言えた。

会場から大きな拍手をもらう。

たぶん、いままで私が人前でしゃべった中で、いちばん大きな拍手かも知れない。

聴衆は、多くの中国人留学生を含む外国人留学生、韓国語の先生たち。そして、ほんの少しの日本人。

私の韓国語は、どれくらい通じたのだろう。

ホッとして壇上から降りると、司会の先生が、

「ほら、院長先生と握手してください。前からの希望だったんでしょう」

とおっしゃる。

以前、授業の中で私は、開講式で語学院の院長先生と握手したい、という希望を言ったことがある。そのことが、語学の先生の間でも広く知れ渡ってしまったようだ。

だがそれは、開講式で1等をとって表彰された人たちが、院長先生と握手する姿を見ていたからである。つまり、自分が1等をとって表彰されたい、ということを比喩的に言ったにすぎないのである。

しかしどういうわけか、私が理由もなく院長先生と握手したがっている、というように曲解されて伝わったらしい。べつにどうしても握手をしたい、というわけではないのだがな。

仕方がないので、言われるがままに、一番前に座っていらした院長先生と握手する。

握手をしながら、院長先生がおっしゃる。

「よくここまで頑張ってこられましたね」

かくして、私の語学院での学業は、本日をもって修了した。

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早くも同窓会

11月21日(土)

語学院の学期が終わって、パンハク(休暇)が始まると、中国人留学生たちのほとんどは、故郷の中国に帰る。

ところが、今回は、故郷に帰らない学生が多い。

その理由は、今学期の開始日が、新種インフルエンザの騒ぎで1週間遅れたため、パンハクの開始日が1週ほどずれ込んだ結果、期間が3週間から2週間に減ったためである。

そしてもう一つの理由は、この時期、韓国の大学に入学を考えている学生たちにとって、この時期が、大学合格が決まる時期にあたるからである。つまり、「結果待ち」の時期なのである。

ということで、後半のマラギの先生(よくモノをなくす先生)が、大邱の八公山(パルゴンサン)の登山を企画された。

正確には、マラギの先生が担任になっている4級4班のクラスに呼びかけたものだったのだが、先週の期末考査のあとの打ち上げの際に、わが4級3班の学生にも声をかけていただいたのである。

せっかくの機会なので、お邪魔とは思いつつも、参加させていただくことにした。

昨日、わが班のパンジャンニム(班長殿)ことロンチョン君から、携帯にメールが入る。

「明日、登山に行かれますよね?」

ロンチョン君も、期末考査の打ち上げに参加していて、登山の話を聞いていたのである。

「(ロンチョン君に)ずいぶんなつかれたものね」とは、メールを見た妻の言葉。

たしかに、「なつかれている」という言葉がふさわしい。どういうわけか、彼は私に、なついているのだ。

数日前の彼の韓国語日記に、パンハクは嫌いだ、というようなことが書かれていた。自分は授業に出ている時間が一番楽しい。パンハクになってしまうと、誰とも会えなくなってしまうので、とてもさびしいのだ、と。

それにしては、授業に遅刻してばかりいたじゃないか、と思ってしまうのだが、彼は、誰よりも人といることが好きなようである。

だから彼は、他の班の集まりにも、積極的に顔を出すのだ、と聞いていた。

今回の登山も、当然楽しみにしていたのだろう。

私は返事を書いた。

「当然だろ。明日、遅れずに来いよ」

すると、5秒で返事が戻ってきた。

「わかりました。明日会いましょう!」

さて、今日。

午前10時に空港のバス停に集合、ということで、私と妻は時間通りに到着したが、案の定、ロンチョン君は遅れてやってきた。

参加したのは、先生を含めて9人。そのうち、2級の時に一緒だった、ホ・ヤオロン君と、リ・ペイシャン君、3級の時に一緒だったクォ・チエンさんとはすでに顔見知りである。ちなみに、リ・ペイシャン君とクォ・チエンさんは、恋人同士である。

「ホ・ヤオロン君は、面白い」とは、妻の評。

たしかに2級の時から、彼は面白かった。ほかの人にはない、独特のセンスを持っているのだ。会話の端々から、それがうかがえる。頭のいい青年なのだろう。

「高校の時、川端康成の『伊豆の踊子』を読んで、日本に興味を持ちました」という。きっかけが、日本の漫画でないところがいい。

「大学に入学したら、プモニム(両親)に、旅行をしてもよい、といわれたんです。だから、大学生になったら、1週間、日本を旅行したいんです」そう言って、彼は日本の観光地に行くならどこがよいのかと、しきりに聞いてきた。

そんなホ・ヤオロン君は、「よくモノをなくす先生」のことが、とても好きである。

いや、愛している、といってもよい。

「よくモノをなくす先生」と結婚したい、と、半ば本気で思っているようである。

ちょっと待てよ、と思う。

たしか彼は、1級の時に習った「猟奇的な先生」のことが、とても好きだった。そのことは、中国人留学生たちはおろか、語学の先生方の間でも有名だった。

2級の授業のときに、「猟奇的な先生」を思うあまり、詩を作ったほどである

しかし、いまは、「よくモノをなくす先生」のことが、好きでたまらないようである。

惚れっぽい性格なのだろう。

彼は、ソウルにある大学に合格した。

「じゃあ、その大学に入学するの?」と聞くと、

「まだ考え中です。ソウルに行ってしまうと、友達がほとんどいませんから」と彼は答えた。

バスに乗り、八公山のふもとに到着。いよいよ登山の開始である。

真冬なみの寒さの中で登山をする、というのは、ふつうの人にとってはそうでもないのかも知れないが、私にとってはなかなか大変である。

というのも、無類の汗かきである私は、真冬の気候であっても、登山の最中には大量の汗をかくからである。大量の汗が、たちまち氷のように冷えてしまい、暑いのか寒いのか、よくわからなくなる。

果ては、自分の汗が原因で凍死してしまうのではないか、と思うほどである。まったく、面倒な体質である。

そうは言っても、山登りはやはり気持ちがよい。

それに、今回参加した留学生たちは、みんないい人たちばかりだ。一緒に登っていて、こんなに楽しい思いをしたことはない。

大好きな先生と登山をしているホ・ヤオロン君は、いつになくテンションが高い。

「あ、鼻血が出てるわよ!」

テンションが上がりすぎて興奮したホ・ヤオロン君は、鼻血を出してしまった。

頂上で、昼食を食べたあと、山を下りながら、「念仏庵」というところに向かう。

「念仏庵」には、大きな磨崖仏があった。

そこで、ホ・ヤオロン君がお祈りをしている。

「何をお願いしたの?」と聞くと、

「早く韓国の大学を卒業できますように、てお願いしました」

そうか、彼は、これから大学に入学して、あと少なくとも4年、韓国で暮らすことになるのか。

やはり、中国に早く帰りたいのかも知れない。

「念仏庵」をあとにして、「桐華寺」に向かう。

道すがら、ロンチョン君が話しかけてきた。

「実は僕、大学院の試験に落ちたんです」

「日記を読んだよ」

彼は数日前の韓国語の日記で、いま通っている語学院がある大学の大学院を受験したのだが、落ちてしまった、と書いていた。

「韓国語の実力がまだまだだ、ということは、自分でもよくわかっているんです。落ちたのも、それが原因でしょう」

「他の大学院を受けようとは思わないの?」

「ええ、僕、この大学が好きですから」

彼は、チングが多いこの大学院に、どうしても進学したいようだった。

「じゃあ、これまで以上に韓国語を勉強しないとね」と私。「韓国語の日記を続けなさいよ。いちばんの勉強になると思うよ」

「僕も書いてみてそう思いました。書いてみると、いろいろな表現を覚えられるし…。続けようと思います」と彼は言った。

やがて「桐華寺」に到着。桐華寺は、私が1級の時の野外授業で行ったお寺である。

あの時は、韓国語がほとんどわからなかった。でもいまは、中国人留学生たちや韓国語の先生と、韓国語で会話を交わしながらこのお寺を見学している。

同窓会にふさわしい場所である。

楽しい時間はあっという間に過ぎた。

夕方5時、バスで大学の近くまで戻り、中国人留学生たちと、夕食にカムジャタンを食べる。彼らと、いろいろな話をした。

夕食後、大学の北門で、解散。

彼らはまた新学期に会えるが、私と妻には、もう「新学期」が来ない。

「また、会えますよね」とロンチョン君が私に言った。

「まだ韓国にいるからね。こんどまた集まりがあったら誘ってよ」

「わかりました。連絡します」

律儀な彼は、おそらく連絡をくれることだろう。

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2万ウォンの伊達めがね

11月20日(金)

しばらく間があいてしまった。

理由は3つある。ひとつは、17日(火)から20日(金)まで、両親と妹が韓国に旅行に来たので、案内をしていたのである。

両親にとっては、初めての海外旅行であった。

2つめは、仕上げなければならない原稿の締め切りが迫っていたため。これは、よくあることである。

そして3つめは、語学院の授業も終わり、一区切りついたことによる。

期末試験が終わった日の夕方(14日)、わが4級3班の、簡単な打ち上げがあった。

わが班を担当された2人の先生(文法の先生、マラギの先生)も参加された。

その席で、文法の先生が私におっしゃった。

「あの、マラギの授業の宿題としてこれまで書かれてきた作文を、全部貸してもらえないでしょうか」

これにはいささか説明が必要である。後半のマラギ(会話表現)の授業では、何回かに1回、その日のテーマに関して、自分の考えを作文にまとめて提出しなければならなかった。ごくごく簡単な作文なのだが、その宿題は、後半のマラギの授業を担当される先生が、添削して返却することになっていた。だから、前半の文法の先生が、わが班の学生たちの作文の読む機会は、基本的にはなかったのである。

ところがその先生は、なにかの機会に、私の作文を読んだらしい。

それで、いままで書いたものを読みたいのですべて貸してほしい、とおっしゃったのである。

「コピーして、あとでお返ししますから」

それほどのものか?と思う。作文のほとんどは、難民問題とか、大都市の問題点とか、ダイエットの問題点とか、テーマが決まっていて、そのテーマに沿って無理やりに自分の考えをまとめなければならない。だから、仕方なくまとめてしまった文章ばかりであった。

しかしその反面、さまざまな宿題の中で、いちばん時間をかけて書いた、思い入れの強いものであったことも事実である。だから私は、その返却された宿題の作文を、すべてファイルして、御守りのようにいつも持ち歩いていたのであった。

「いまここにありますからどうぞお持ちください」

「あら、全部ファイルしていたんですね」

文法の先生が、話を続ける。

「미카미씨の作文、教員の間でもけっこう有名なんですよ」

マラギの先生(「よくモノをなくす先生」)が話題に入ってきた。

「実は、私の父と姉も、미카미씨の作文のファンなんです」

マラギの先生は、家に持ち帰って、宿題の作文を推敲する。たまたま私の作文を読んだ、先生の父君とお姉様が、いたく気に入られたというのだ。とくに父君は、毎回のように、私の書いた作文を読ませてくれとおっしゃるという。

「とくに、アボジ(父)について書いた作文。あれはよかったですねえ」

以前、スギ(作文)の試験で、「アボジ(父)」をテーマにした作文を書かされた。ずいぶん苦労して書いた記憶がある。

「あれを読んだ姉が、『これは満点をあげないとダメだわよ』と言ったんです」

文法の先生がつけ加える。

「うちの語学院では、スギ(作文)の試験の際に、多少文法に誤りがあっても、内容がよければ、点数を加算する、という決まりを作ったんですけど、いままで、実際にその決まりが適用されたことはなかったんですね。でも、あの『アボジ』の作文は、うちの語学院が始まって以来、はじめてその決まりが適用されたんですよ」

試験の答案は基本的に返却されないので、自分がその時どんな内容を書いたのか、覚えていなかった。だが、点数の確認のため、その作文を一瞬だけ返却されたことがあった(その後、すぐに回収された)。たしかそこには、いくつか文法の誤りがあったにもかかわらず、10点満点の10点の点数と、その下に「加算点」という文字が書かれていた。

「そういえば、点数を確認したときに、点数の下に『加算点』と書かれていました」と私。

「そうでしょう。あれがまさにそうです」と文法の先生。

「実は、10点をあげたらどうか、と会議で提案したのは、私なんですよ」と、マラギの先生が続ける。

作文の試験は、採点者の自由意志で評価されるものではなく、いったん採点したあと、先生方の会議にかけられ、最終的な点数が決定されるのだという。つまり、然るべき理由と、それに対する他の先生の同意がないと、点数の変更は不可能なのである。

私の作文が、他の先生の間でも有名だ、というのは、そういうことなのか。

「語学院始まって以来」というのは、文法の先生特有の大げさな表現といえなくもない。しかしこの言葉を聞いて、心の中で、ひとつの決意が生まれた。

それは、韓国語の文章をもっともっと修業をしよう、という決意である。

そのために、これからは、韓国語の日記に力を入れることにしよう。

だから、日本語の日記は、少し力を抜くことにしよう。

ところで、ひとつ、思い出したことがあった。

それは、中学の時の作文コンクールで入選したときも、たしかテーマは「私の父」であった、ということである。

どうも、「父」をテーマにすると、私の作文は誉められるらしい。

しかし、実際の私の父は、いたって平凡である。

とりたてて取り柄のある人間でもない。

作文に書くほどの父ではない。

社会的な地位や名誉といったものからは、最も遠いところにいる人である。

私自身、父の影響を受けた、ということは微塵もないのである。

なのになぜ、父のことを書くと、評判がいいのだろう。

私の父は、やや変わっている。

今回の韓国旅行では、見慣れない眼鏡をかけていた。

さして目が悪いわけでもないのに、どうして眼鏡をかけているのだろう。

理由を聞いてみると、「自転車に乗っていると、目に虫が入ってくるから」。

つまり、虫よけのために「だて眼鏡」をかけているというのである。

ふだん、自転車に乗って近所に散歩に行くくらいしか楽しみのない父ならではの悩みといえるが、それにしても、韓国ではべつに自転車に乗る機会がないのに、なぜ、相変わらず眼鏡をかけているのか、よくわからない。

しかも、その眼鏡は、ビックリするほど「ダサイ」のである。

聞いてみると、100円ショップで買った「伊達めがね」だという。

横にいる母が「一緒にいると恥ずかしいので、頼むからもっといい眼鏡をかけてくれ」と言うほど、「ダサイ」眼鏡である。

しかし父は、頑として新しい眼鏡を買おうとはしない。ケチな父は、新しい眼鏡を買うなんて、もったいない、というのである。

しかしそんな眼鏡をかけられては、身内はたまったものではない。

仕方がないので、昨晩、明洞(ミョンドン。ソウルで一番の繁華街)の地下街で、眼鏡を買ってあげることにした。

地下にある眼鏡屋の店頭に並んでいた2万ウォン(2000円弱)均一の眼鏡の中から、似合いそうなものをひとつを選び、プレゼントする。

まあ、2万ウォンの安物の「伊達めがね」だから、プレゼント、というほどのものでもない。

父は、「しょうがないなあ」という感じで、その眼鏡を受け取った。

そしてソウルを発つ今日。

朝、両親たちをホテルに迎えに行くと、母が私に言った。

「今朝ね、お父さん、起きるとすぐに、昨日おまえが買ってくれた眼鏡をかけて、何度も鏡の前に立ったんだよ。ふだん鏡の前になんか立たないのに。よっぽど嬉しかったんだろうね。口では何も言わないけど」

2万ウォンの、安物の「伊達めがね」。

私が父にした唯一のプレゼント。

その眼鏡をかけた父、そして母と妹は、今日、ソウルを発って日本に戻った。

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期末考査(4級)

11月14日(土)

朝9時、期末考査開始。私にとって、最後の定期試験である。

相変わらず、試験時間といい、問題の分量といい、サディスティックであることこの上ない。

この年齢になると、長時間、眼を酷使することで、とたんに眼が疲労し、集中力がなくなってくる。若いころであれば、これほど眼が疲れることもなかった。

どんなにやる気を出そうとしても、体がついていかない、とは、こういうことなんだな。

やはり若いというのは、それだけですばらしいことなのだ。

休み時間、前に座っていたカエ氏が言う。

「相変わらずキビしすぎる問題ですね。どうにも肩が凝っちゃって」

「私は眼にきてますよ」と私。

「私なんか、全身サロンパスだらけなんですから」

満身創痍、とはこのことである。

しかしくどいようだが、私はこのキビしすぎる試験を、もう8回も受けているのだ。

そのとき、私の隣の列に座っていた2級クラスの青年が、私に韓国語で話しかけてきた。

「あのう、…日本の方ですか?」

「そうです」

日本語の会話を聞いていて、日本人だと思ったのだろう。

「英語で話してもいいですか?」

う…、それは勘弁してくれ、と思い、「韓国語で」と答える。

「この語学院、中国人が多いですよね」

「どこの国から来たんですか?」と、私が質問すると、

「マレーシアです」と、彼は答えた。

「いま、私の班は、私以外、全員中国人なんです。4級は、日本人が多いんですか?」

「そんなことないですよ。ほとんど中国人です。私も1級から3級までは、私以外全員中国人でした」

「どうして韓国語を勉強しようと思ったんですか?」と彼が質問する。明らかに学生ではない私を見て、疑問に思ったのだろう。

「韓国の文化や歴史を勉強したいと思って」

と、とおりいっぺんの答えをした。

まわりが中国人ばかりで辟易としていた彼は、どうも私と友だちになりたかったようである。

その気持ちはよくわかる。私も同じ経験をしてきたから。

しかし残念だ。私は、今日で最後なんだよ。

午前の読解、作文、文法、リスニングの試験が終わり、あとは午後のマラギ(会話表現)の試験を残すのみとなった。

マラギの試験は、さしずめ大学入試の面接試験のような感じである。まず、受験をする学生が、控え室に集まり、自分の順番を待つ。名前を呼ばれると、控え室担当の先生に誘導され、試験の教室へと向かう。

午後3時、控え室に行き、自分の順番を待つ。

この時間が、何よりも耐え難い。まるで、病院の待合室のようである。

やがて名前が呼ばれた。名前を呼んだのは、2級の時の「粗忽者の先生」である。

控え室を出て、試験の教室に行く道すがら、先生に「私、これが最後の試験なんですよ」と小声で言うと、

「わかってますよ」と小声でお答えになった。

教室に入ると、マラギ試験の担当の先生は、3級の時のナム先生であった。

「大都市のかかえる問題点とその解決方法」について、3分ほど発表しなければならない。

試験の主題は、あらかじめ知らされていた。ただし、主題が5つほどあげられ、そのうちの1つが出る、ということだけしかわからない。

その5つについて、あらかじめ準備していたが、この主題(大都市)については、事前にあまり面白い内容を組み立てられなかった。できれば出てほしくない問題だった。

でもまあ仕方がない。

担当の先生がナム先生だったということもあって、さほど緊張することもなく、独白(ひとりごと)のように淡々と話し、発表は終わった。

「さあ、これで全部試験が終わりましたね」とナム先生がおっしゃった。

「これでもう最後ですね。どうですか。ホッとした、という感じですか?それとも、終わってしまってさびしい、という感じですか?」

「ソプソプヘヨ(さびしいです)。できればもっと勉強したかったんですが…」

「私もそう思います。次の学期も続けられればよいのに…」

しかし研究もしなければならないので、と、私はとおりいっぺんの答えをくり返した。

「韓国語の日記、続けるんでしょう」

「ええ。日本に帰ったあとも、続けようと思います」

「ぜひそうしてください。…私も近いうちに、日本に遊びに行こうと思うんですよ」

「そうですか。その時はぜひ連絡してください」

試験の教室を出て、階段を降りると、1階にわが班のパンジャンニム(班長殿)こと、ロンチョン君がいた。

おかしいな。さっきの控え室では、顔を見かけなかったんだが。

「マラギ試験、受けたの?」と私が聞くと、

「いえ、試験の時間に5分だけ遅刻してしまって、受けることができませんでした。…どうしましょう…」

彼は前学期、4級から進級できず、今学期もまた4級に「留級」した。来年3月に大学院に進学することを考えると、遅くとも来学期は5級に進まなければいけない。つまり「待ったなし!」の状況だったのである。

「マラギの試験」が受けられなかった、となると、今学期もまた、進級はかなりキビしいかもしれない。

まったく、どこまでも不器用なやつだ。人間的にはとてもいいやつなんだが。

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