職場の出来事

カメラマンの生態

11月16日(水)

今週はクソ忙しい、というか、来年のイベントまでこんな感じで終わりなき仕事が続くのかと思うと、ノイローゼになりそうだ。

今日は朝から一日、プロのカメラマンと仕事である。これまで何度か一緒に仕事をしているが、若くてとてもまじめな青年である。当然のことながら、撮影に関するこだわりは並大抵のものではない。こちらとしては、基本的にまる一日、写場に籠もっての仕事なので、これが身体にこたえる。

僕は彼にどうしても聞きたいことがあった。

「この前、皆既月食がありましたよね。写真は撮りましたか?」

「いいえ、ただボーッと見ていただけでした」

ええええぇぇぇっ!!!

そこはふつう、撮るんじゃねえの?プロのカメラマンだぜ??

「そうか、写真、撮ればよかったですねえ。気づきませんでした」と。

皆既月食なんて、そうめったに起こるものではない。僕だって、スマホを駆使して撮影にチャレンジしたのだ。ここがカメラマンの腕の見せ所じゃねえの?

そんな話をしていたら、ある人が、

「撮りたいものではなかったんじゃないんですか?」

と言った。

「どういうことです?」

「カメラマンだからといって、どんなものでも撮りたいわけじゃなく、おそらく撮りたいものが人それぞれ違うわけです」

「ほう」

「たとえば、その若いカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮るのが好きだけれども、風景写真にはあまり興味ない、という可能性もあるのではないですか」

「なるほど」

「私の知っている別のカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮る仕事ばかりをしていたのですけれど、以前、学生時代にその方が撮影した写真を見せてもらったことがあって」

「ほう」

「それを見たら、ほとんどが風景写真だったんですよ」

「どういうことです?」

「つまりそのカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮ることを主たる生業としていたけれども、本当のところは、風景写真が撮りたくて仕方がなかったのではないかと。ひょっとしたら、その人にとって静物写真を撮ることは苦痛だったのではないか、と、こういう仮説が浮かんだのです」

「なるほど。テレビや映画のカメラマンなどでも同じことがいえるかもしれませんね」

「といいますと?」

「『水曜どうでしょう』の嬉野ディレクターは、あの番組でカメラマンをしていましたけれど、ともすれば、タレントを映さずに風景の方にカメラを向けていましたよね。それを藤村ディレクターにたしなめられたりして。嬉野ディレクターもまた、風景を撮るのが好きだったんじゃないか、と」

「そのたとえはよくわかりません」

いずれにしても、プロのカメラマンだから何でも写真におさめたいのだろうと考えるのは、こちらの偏見なのだということがよくわかった。

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饒舌な社長

11月10日(木)

来年のイベントにご協力いただくために、都心の一等地に居を構える会社の社長に挨拶しに行く。朝から緊張して何も手につかない。

忙しい社長なので、ひょっとしたら待たせることになるかも知れないので、午後2時半過ぎに来てくれ、と言われた。

その社長は饒舌で有名な方だそうで、ブログも毎日更新されているのだそうだ。僕は事前にブログを読み込み、その社長の経歴を調べたりしてのぞむことにした。経歴を調べていて、あることに気づいた。

さて、約束の時間にうかがうと、すでに社長はいらっしゃった。噂通り饒舌な人で、会うなり、まくし立てるようにお話が始まった。

うーむ。これは完全にあちらのペースだ。

部下の方が「そろそろ本題に…」と言いかけたときに、僕は「その前に、ひとつだけよろしいでしょうか」と話を遮った。

「社長は以前、別の会社の社長をされていましたよね」

「してましたよ」

「実は私、前の職場につとめていたときに一緒に仕事をした同僚が、その後そちらの会社に採用されて、いまそこに勤務しています」

「お名前は?」

「○○○さんです」

「○○○さん!それは僕が社長のときに採用した人だよ!しっかりした人でねえ」

「そうですねえ。私も前の職場のときはいろいろと助けてもらいました」

そこからひとしきり、前の会社の社長時代のエピソードを饒舌にお話しになった。

横でヤキモキして聴いていたのは、部下の方である。

「そろそろ本題に…」

「そうでした。こんどこそ本題に入りましょう」

ひとしきりイベントの趣旨を説明して、無事に社長への挨拶は終了した。ま、あとで聞くと、この会社特有の儀式のようなものだったので、別に僕が事前に社長のことをリサーチしなくても、型どおりの説明をすればそれだけで交渉は無事に済んだのかも知れない。

でも、前の職場で一緒に仕事をしたその人のことを思い出しながら、人間の縁というのは不思議なものだなあ、ここでこうして社長とお会いすることになったのも、必然だったのかも知れない、と思えてきた。もっとも、その社長はお忙しい方なので、そんな些細なことなどすぐに忘れてしまうかも知れないけれど。

その、饒舌の異名をとる社長のブログを読み返す。

どう考えても、饒舌なのは俺のブログの方だな、と思った。

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わかりやすさの罪

11月4日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

最近運転中の車中でよく聴く30代前半のラジオパーソナリティーのポッドキャスト番組で、こんな話をしていた。

知り合いが、このままあなたが埋もれてしまうのはもったいない、もっと売り出すための戦略を練ろうと考えてくれることになった。売り出すためのキャッチコピーを考えようと提案し、いくつかキャッチコピーを考えてくれたのだが、どれもしっくりこない。自分は、何事も極めてはいないし、それゆえに、何かひとつの言葉で自分を表すことができない。たとえばそれが、時代のトップランナー的な人ならば、わかりやすいキャッチフレーズができるかもしれないが、自分はとてもわかりにくい存在であり、わかりやすくカテゴライズされることが苦手である。ということで、その売り出し戦略はボツになった。

たしかに、その分野のトップランナーというのは、自分の職業(専門)は○○です、と胸を張って言えるし、だからこそその分野で評価されたりする。一方でそのラジオパーソナリティーは、ラジオもやれば、文筆業もやり、裏方の仕事もやる。そのどれもが自分自身の一部なので、自分はその道の専門ですと堂々と名乗ることができない。あなたは何者ですか?とたずねられて、わかりやすい回答をするのに窮するのである。

わかりやすいことはほんとうにいいことなのか、というのは、永遠の命題である。

僕がいま準備に奔走しているイベントも、正直に言うと、きわめてわかりにくい。わかりやすいイベントではなく、わかりにくいイベントなのである。というか、わかろうとするためには、そうとうな忍耐で理解しようとしなければ、わからないと思われる。

僕自身がもともとカテゴライズされるのが苦手な人間なので、その映し鏡として、自分が企画したイベントも自然とそのような性格のものになりつつある、と言えなくもない。

しかし一方で、これは客商売なので、できるだけ多くの人にこのイベントに関心を持ってもらいたい、という思いもある。間に入る広告代理店は、どうにかこうにか、このわかりにくいイベントをわかりやすくアピールしようと、いろいろなキャッチフレーズを考えたりしてくれるのだが、しかしながらどうも僕自身にはしっくりいかないことが多い。

この文章、こうした方がいいですよ、と提案してくれた文章が、僕には悪文に思えてしょうがない、と思うこともあるのだが、これは僕自身にセンスがないのか、と悩むこと頻りである。

いまはいろいろなプレゼンテーションの際に、常にわかりやすさが求められる。しかしそうすることで取りこぼされるものも多くなる。最近の僕はそっちの方が気になるようになってきた。なのでそのラジオパーソナリティーの言うことはすごくよく理解できる。

そのパーソナリティーはまた、「最近は、裏方の仕事をするようになってきたんだけれど、それをやってみて思うのは、仕事のほとんどは調整なんだということ。これは、人前に出る仕事だけをしていたころにはまったく気づかなかった」と言っていた。これもまた同感である。いまの僕の仕事の9割以上は、調整である。調整は決してオモテにあらわれない仕事だが、これをやらないと仕事が回らないという意味で、最も重要な仕事である。わかりにくく、見えにくいところにこそ、真実が隠されている、という言い方は、ちょっと大げさか。

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この暗い部屋の片隅で

10月28日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

来春のイベントの準備で、しんどい日が続く。

どうしてこんなにしんどいイベントを考えついちゃったんだろう。事態はどんどんしんどい方向に向かっていく。

イベントの準備自体が、楽しくないわけではない。楽しいことは楽しいのだが、しんどいのである。

より楽しむためには、手間を惜しんではいけない、ということなのだろうか。

今日は朝から都内某所で技師さんと作業をした。

そうねえ、たとえて言えば、僕が映画監督だとしたら、撮影監督と一緒にロケを行った、というような仕事である。

いい絵を撮ろうと、撮影監督はこだわる。もちろん監督も、である。対象物を最もいいコンディションで撮るために、カメラの角度を決めたり、照明の位置を調整したり、そのたびに立ったり座ったりとみずからの肉体を酷使し、地味にきつい体の動かし方をする。ただでさえ体の節々が痛い僕をよりいっそう痛めつけてくる。

それも暗い部屋の中で、朝の10時から18時半過ぎまで作業が続き、休めたのは昼食休憩の30分だけである。この地味な仕事を延々していることは、そこにいる人たち以外、だれも知らない。

終わった頃には全身が動かなくなるほど疲労が蓄積した。大して運動していたわけではないのに、なんという満身創痍ぶりだ。

このイベントの準備をすればするほど、自分のやっていることが映画監督という立場とダブって見えてくる。もっとも、僕は映画監督というのが具体的にどんな仕事をするのかは知らないのだが、黒澤明監督や大林宣彦監督や是枝裕和監督の映画のメイキング映像などを見ると、ああ、昨日俺がやった作業は映画でいう絵コンテを描く作業にあたり、今日やった作業はロケにあたるんだな、みたいなことが、なんとなくわかってくる。編集はたいへんそうだなあ、とか。

そういえば若い頃の僕の夢のひとつが、映画監督になることだった。いまやっているイベントの準備は、映画制作にあたるんじゃないだろうか。だとしたら、肩書きを「代表者」ではなく、「総監督」にしてもらいたいものだ。それだけでずいぶんと心持ちが違ってくる。

そうか、自分は映画監督である、と思い込めば、いまやっているさまざまな辛い仕事も、少しは報われるかもしれない。映画を作るようにイベントを作ろう。やっぱり辛いとか、やっぱり自分にはセンスがないとかを思い知らされ、結局は打ちのめされるかもしれないけれど、どんな形であれ、いま自分の置かれている立場の中で自分の夢に近づくことは可能である。人生の夢は常に自分に微笑みかけている、と思い込むことにしよう。

疲れてなんだかわからない文章になったので、今宵はここまで。

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メール地獄

9月21日(水)

本日来た仕事のメールは69件、こちらから送信したメールは18件。これが多いのか少ないのか、よくわからないのだが、少なくともまる一日潰れたのは事実である。

電話による交渉もいくつか行った。電話はいずれも神経を使うものばかり。メールも電話も、その多くはおもに来年開催のイベントにかかわるものである。けっこう「待ったなし」の案件が多い。

今週は、シルバーウィークとやらで、平日が3日しかない。3日で5日分の仕事をこなさないといけないから大変である。

今日は、山ほどある「絶対に落としてはいけない原稿」に取りかかろうと思ったのだが、そんな余裕などまったくなかった。

僕が来年のイベントに関するメールに神経をとがらせているなか、別のチームが、ものすごい勢いでメールをやりとりしていた。

そのチームは、この11月に韓国に行くことを考えていて、日程調整について猛烈な勢いでやりとりをしている。チームの一員である僕にもそのやりとりが送られてくる。

「韓国で案内をしてくれる人が、11月の土曜日を基準にして12、26日が可能とのことです」

とメールが来ると、チームのメンバーは、

「11月12日ならば都合がよいです」

という。しかし、訪れる場所は、ソウルからKTXとバスを乗り継いで4時間近くかかる場所で、もちろん日帰りは無理である。

どうしても、金曜日のうちに韓国に渡航し、日曜日に帰るという2泊3日をかけなければならない。しかしこれはあくまでも最短の日数であって、現実的には、1日だけその町を訪れて帰るというのは、なんとももったいない。

チームのリーダーは、「金曜に仕事があるので、仕事が終わってから飛行機に乗る」と言い出したが、現在、夕方に出発する韓国便は存在しない。

では、土曜日の早朝に日本を出て、土曜の午後と日曜日を見学にあて、月曜日の朝10時半に羽田空港に着くようなスケジュールはできないか、と言うのだが、土曜の早朝に出ても、その日は現地に到着するだけで一日が終わるだろう。

しかし、韓国で対応してくれる方は、基本、平日勤務なので、週末に対応するとなると、勤務外ということで負担を強いることになる。それでも先方は、週末でもいいですよ、と言っていただいているようなのだが、「週末に対応していただけるのはありがたい。ぜひそうしましょう」と、無邪気にその好意に甘えてしまうのは、正直言ってどうなのだろう。

それに、土曜の朝早くに出て、月曜の朝早くに帰るとしても、結局、その場所を落ち着いて見学できるのは、日曜日の午前中くらいしかない。日曜のうちにソウルに戻らなければならないからである。それくらい交通の不便な場所にあるのだ。

先方は、せっかくそういう田舎町に来るのだから、時間をかけて見学してほしいという希望もあることだし、ここは無理をせずに、これはいっそ「水入り」ということでいいのではないか、と思っていたら、チームのメンバーが、さすがにこの強硬スケジュールが不可能だと悟ったらしく、「11月中は無理なので、あらためて2月にしましょう」と提案してきた。その代わり、11月はソウルを中心にまわったらどうでしょう、と、これまたゴキゲンな提案をしてきた。

来年2月となると、僕はイベントの1か月前で準備で最高潮に忙しいので到底参加は無理である。もっとも11月だとしても参加は無理なのだが。というより、今年はもう、イベントに向けて使う体力を温存したいので、韓国に行くためにエネルギーを使いたくないのだ。

そんな韓国旅行の夢が広がるゴキゲンなメールが、今日来たメール69件のうち、9件を占めていた。僕は今のところ、ノーコメントである。

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控えの美学

9月16日(金)

今週も、よくぞ、よくぞTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日アフタートーク」までたどり着きました!

今週もめちゃくちゃ辛かった。

火曜と木曜は僕がホスト役のハイブリッド形式の会合。とくに木曜は、自分がZoomのホストだったので、前日の水曜日の午後に職場で接続テストをしたりして、けっこうたいへんだった。

そして今日の午後は1時半から5時半まで休みなしの二つのオンライン会合。

その後、締切を過ぎてしまった原稿を書き続けたのだが、まったく終わりが見えず、作業を切り上げた。

TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のゲストコーナーを、帰宅途中の車の中で聴いていたくらいだから、どのくらいまで仕事をしていたかは推して知るべしである。

今日のゲストは、ジャングルポケットの斉藤慎二さんだった。

ジャングルポケットが、3人組のコントグループであることくらいは知っている。NHKのEテレの「どーもくん」という子ども向け番組のレギュラーだったことも知っている(今でも続いているのか?)。というか、そのときの印象がいちばん強い。コントは、テレビで何度か見たことがあるが、やはり3人の中では斉藤さんのインパクトがいちばん強い。

どういうコントをしていたか、どういう芸風なのか、あまり覚えていなかったのだが、「ジャングルポケットのコントは演劇的」という武田砂鉄氏の指摘を聞いて、なるほどそうだったと少し思い出した。なにより斉藤さんは、たしかミュージカルの舞台も踏んでいたと記憶する。

印象的だったのは、「ジャングルポケットのコントは、オチに救いがある」という言葉。「誰も傷つけない笑い」という言い方ではなく、「オチに救いがある」という言い方が、そこはかとなくよい。俄然、ジャングルポケットのコントを観たくなったが、テレビではあまりやらないのだろうな。

以前、武田砂鉄氏と心理学者の東畑開人氏がかつてこの番組で対談していた中で「控えの選手」について話が弾んでいた。武田砂鉄氏も東畑氏も、中高生時代は運動部の控えの選手で、決して表舞台に立つ人間ではなかった。しかし控えの選手のほうが、ベンチでさまざまなことを考え、さまざまな思いを抱き、さまざまな人間を観察する能力を身につけるようになる。いつも表舞台に立つレギュラー選手は、そういうことにあまり気づこうとしないし、気づくことができない、と、正確ではないがたしかそんな内容だったと思う。

ジャングルポケットの斉藤さんも、高校生の頃は野球部の控えの選手だったらしい。やはり控えの選手の経験者は、ある種の共通した特徴を持っているのだろうか。今回もその話題が少しだけ出たのである。

僕は運動部ではなかったので、控えの選手という経験はなかったのだが、気持ちとしては、どこにいても控えの人間だ、という思いがある。

適切な例でないかも知れないが、「前の職場」にいた頃、高校の出前講義によく行かされた。前の職場には人気の同僚がいて、「○○先生を出前講義に呼びたい」と、名指しでその同僚を指名してくることが多かった。しかし人気講師なのでなかなか先方の希望に添えない場合が多い。そのときに、僕は「控えの選手」として登板したものである。先方はガッカリしていたが、でも僕は、それがとても心地よかったのである。

なので、僕も「控えの選手」という立場にとても居心地のよさを感じるのだが、どういうわけかたまに、ハナっから表舞台に立たされることがある。僕はそれがとても苦痛だし、恥ずかしいと感じてしまう。

控えの選手が先頭に立つことほど居心地の悪いことはない。

だから僕は、そういうときには先頭に立つふりをして、いつも後ろに隠れることにしている。そうしないと、僕が大好きな人間観察ができないのである。

人の先頭に立つと、まわりの人がみえなくなる、ということは、つまりそういうことなのだと思う。

武田砂鉄氏とジャングルポケットの斉藤さんとのトークの中で、そんなことはまったく語られなかったけれども、僕はそのトークに触発されて、トークの内容とはまったく関係ないことを想起したのだから不思議である。

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牙をむく人

9月14日(水)

とにかく首が回らねえ。

今日はこの仕事をやろう、と思っても、その前にいろいろな仕事が襲ってきて、なかなか本命の仕事にたどり着けない。

いい加減、イヤになってきた。クタクタである。

今日の午後、来客があった。傘寿に近い年齢の方だが、その方のお父様が、戦前に思想犯として10年以上の獄中暮らしをして、それでも「転向」せずに自らの人生を全うした、という壮絶な人生のお話を聞いた。

「非転向」というのは、どうも組織から疎まれるらしく、そのお父様はだれよりもその組織の考え方に忠実だったあまりに、結局その組織から除名されたという。それでも自らの信条をあらためなかった。

そんな話を2時間半ほどその方からお聞きしたのだが、息子にあたるその人も、お父様に負けず劣らず、信念の強い方だということが、話の端々からうかがえた。

しかし、「非転向」を貫く人は、むしろ珍しい。世の中、どうしてこんなに易々と転向する人が多いのだろう、と思うことがある。以前は反体制を標榜していたと思われる漫才師が、ここ最近、急に「転向」する発言をはじめた。芸能事務所が、そういう売り出し方に舵を切り始めたのかどうかはわからないが、いままでいろいろな人を見てきた僕からすると、本人の意志で「転向」した可能性も捨てきれない。

いままで、どちらかといえば立場が弱かった人が、権力や栄誉を得たとたん、突然攻撃的になる人もいる。もっともこれは、立場が弱かった頃からのルサンチマンによるものかも知れない。

僕はそういう人が苦手で、できればいっしょに仕事をしたくないというのが本音なのだが、翻って自分はどうだろう、そうはなっていないだろうかと、常におそれている。

「非転向」を貫くほど激しい信念があるわけではないが、どんな立場に置かれてもなるべくなら変わらないでいたいものだと、そういう人たちを見ていると、そう思う。

 

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オンライン派と対面派

「すべての人間は2種類に分けられる。オンライン波と対面派だ」

これはおなじみ、映画『スウィングガールズ』中の名台詞、

「すべての人間は2種類に分けられる。スウィングする者と、スウィングしない者だ」

のパロディーである。しかし、このコロナ禍において、「オンライン派」と「対面派」があぶり出されたことは、間違いないと思う。

世の中には、どうしても対面でないとダメだという人がいるようだ。ある人は、感染状況がどんなに深刻でも、あれこれと理由をつけて現地に赴き、対面で仕事をするという。先方が「ちょっと感染状況がアレなんで、できればオンラインで…」と言っても、「政府は行動制限をしていないじゃないか」とごねて、むりやり飛行機に乗って現地参加したそうだ。とにかくオモテに出たくて仕方のない人がいるらしい。

また、こんなケースもある。オンライン会合を想定していたら、どうしてもハイブリッド形式(対面とオンラインとの併用)にしたいと言ってきた人がいた。隙あらば自分は対面で参加したいというのである。そればかりか、自分の気に入った人に声をかけて、対面参加を呼びかけたりもしている。ははぁ~ん、これは、あとで仲良しグループで飲みに行くつもりだな、ということにすぐに気づく。

つまり世の中には、「とにかく外に出たい人」「とにかく誰かと会食したい人」たちが、このコロナ禍にあって、さらにその衝動が抑えがたくなっているのである。

そこへ行くと僕は完全な「オンライン派」である。もちろん、どうしても現地に行かなくてはならない場合は、当然移動はするが、なるべくならオンラインで済ませたい派なのである。

今日の会議は、最初は現地参加するつもりだったのだが、7月後半の段階で、ほかの用事とバッティングしてしまうことが判明した。

片道だけで4時間ほどかかる場所を日帰りするのだから、いちにち仕事である。これではどう考えてもほかの用事と時間がバッティングしてしまう。しかし、オンラインであれば、会議の時間だけは参加できる。

僕はダメ元で、

「この日の会議、オンラインで参加することはできますか?」

と聞いてみた。ダメ元で、と言ったのは、この会議がいままで一度もオンラインで行ったことがなく、対面が原則だったからである。小さな組織なので、そもそもオンラインに対応した環境を整える余裕がなかったのだろう。

僕はそういう事情を知っていたので、おそるおそる、オンライン参加の希望を出してみたのである。すると、

「検討してみます」

という返信が来た。

これまでの経験上、難しい注文だったかな?という気がした。これまでも、この種の会議でハイブリッド形式を採用すると、何度となくうまくいかなかったからである。ましてや、数人しか事務スタッフのいない組織で、イチからハイブリッド形式の会議の環境を整えるということができるだろうか。集音マイクやZoomの契約など、予算の問題もあるだろうし、Wi-Fiの環境もよくわからない。

不安な気持ちで待っていたら、数日前に、先方からZoomのミーティングIDとパスコードが送られてきた。

2日前、接続テストをしてみたら、うまくつながった。

「無事につながりましたね」

考えてみればあたりまえである。ZoomのミーティングIDとパスコードさえ正しく入力すれば、たいていは接続するのである。

しかし問題はここからである。

「いま、パソコン同士ではつながりましたけれども、会議室では、パソコンではなく大きいモニターに接続して、そこから画面と音声を出すのですよね」

「ええ」

「それと、会議室にいる方々の発言も聞き取れるかどうかちょっと不安で…」

「会議室のマイクについては、集音マイクを準備したので大丈夫だと思います。モニターからの音声については、これから実験してみます」

「わかりました」

さて、会議当日を迎えた。

10分前に入室すると、会議室はすでに準備万端である。事前に少しマイクテストをして、会議の時間を迎えた。会議室の音声もほぼ問題なく聞き取れ、こちらから発する声もクリアに会議室に聞こえていたようだった。

ということで、大成功である。

僕がわがままを言ったせいで、オンラインを併用したハイブリッド会議について準備を進め、本番で滞りなく会議ができた、というその裏には、周到な準備とそうとうなご苦労、あるいはひょっとするとオンライン会議の実現に向けての各課へ根回しなんかもがあったかもしれない、と想像し、準備にかかわった事務スタッフのみなさんに敬意を表さずにはいられなかった。

そこでふと思った。

先方がオンラインでの参加を望んでいるのに、どうしても対面で参加したいというわがままと、先方が対面で参加してほしいと望んでいるのに、オンラインで参加したいというわがままと、どっちがよりわがままだろうか。

これ考えると、眠れなくなっちゃう。

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言ってもしょうがないんですけど

8月8日(月)

木金は出張で、土日は疲れて何もできなかったから、週明けには返事をしなければならない仕事のメールが山のようにあった。

朝、出勤して、たまっていたメールにひたすら返信を書く。そればかりではなく、メールの内容を書類に反映させなければならない。

あっという間にお昼になった。

午後には、面倒くさい書類の作成やら、重要会議に提出する書類の作成など、とにかく今日中に終わらせなければならない。

なぜなら、明日9日から15日まで、夏休みをとるからだ。夏休みに仕事なんかしたくない。そもそも、Wi-Fiのないところに逃避するのだ。

16日からさっそく重要会議があり、それまでに書類の提出を求められているので、今日のうちに提出しなければならない、とこういうわけである。

その間にも、次々とメールが来て、そのたびに打ち返す。どんなゲームなんだ。

ふしぎなことに、僕に来る仕事のメールのほとんどが、基本的に好意的な返信のメールであった場合も、「ただし…」みたいな留保がついて、その留保した事柄についていちいちこちらで考えなければならない内容を含んでいるのである。もっとはっきり言うと、どんなメールにも、「ちょっとしたトラブルごと」が書かれているのである。

話が通りやすい人に頼んで、先方との交渉をお願いしても、

「基本的に承諾されましたけれど、先方はこんな点を不審がられておりました」

と書いてあったりすると、渋々承諾されたのだろうかとか、その人との交渉では最初はごねられたのだろうか、など、そんなことばかりが気になって、それだけでメンタルがやられてしまう。

わかりにくいかなあ。

つまりなんというか、「交渉」→「内諾」→「正式な手続き」の間に、面倒くさい確認事項がいくつもあるのだ。

正式な手続きの段階になったら、担当事務に引き継げるのだが、それまでのメールのやりとりが、果てしなく多い。

こっちからお願いする仕事は当然としても、向こうから依頼のあった仕事についても同様である。

「ご快諾いただき、ありがとうございます。では、これとあれとそれの書類を提出していただき云々かんぬん」

一つ一つはたいしたことはなくても、それが積もるとたいへんな事務作業量になる。

そうでなくても、事務能力がないのだ、こっちは。

結局、夜遅くかかっても、仕事をいくつも積み残した。

明日からは、仕事のことを考えないぞ!

こういう愚痴って、だれに言えばいいんだ?宮藤さん?_

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不安な大学院授業

8月3日(水)

今日もよく仕事をしたねぇ。

午後は3時間、大学院生7人の前で授業をすることになっていた。オンラインではなく、対面授業である。7名の大学院生はそれぞれぜんぜん専門分野の異なる人たちなので、その7名が満足できるような授業をしなければならない。

パワポを作ったが、どうもあまりおもしろくない。

そこで思い出したのが、僕が昨年の夏に出演したテレビ番組が、10分程度にまとめられてYouTubeにアップされていることである。授業の内容とまったくかかわらないとは言えない内容だったので、それを「箸休め」的に見てもらおう。

いまでも削除されずに残っているのかなと調べてみると、まだそのテレビ局の公式チャンネルに残っていた。

久しぶりにみて、ビックリした。

56万回再生とあるではないか!

56万回再生、ってすごくない?1年経ったいまも、見てくれている人がいるのだな。

とにかくその10分程度のYouTubeの映像をパワポの箸休めに流そうと思いついた僕は、担当の職員に、

「パワポのほかに、パソコンからYouTubeの映像を流したいと思うのですが、部屋のプロジェクターのスピーカーから音声は出ますか?」

と事前に問い合わせた。

僕が心配したのは、先日、ある庁舎で行われたオンライン学習会で、音声が大型画面のスピーカーから流れなかったというトラブルを経験していたからである。

すると担当事務が、

「大丈夫ですよ。問題ありません」

と自信ありげに答えた。

しかし、接続テストをしていないので、ほんとうに大丈夫か不安である。

僕は講義が始まる30分前に、その担当事務の人と部屋に行き、パソコンをセットすることにした。

まず、スクリーンに自分のパソコンの画面が映し出される。はい、第一段階クリア~。

次に、僕のパワーポイントがスクリーンに映し出された。はい、第二段階クリア~。

問題は次である。

YouTubeを立ち上げて、その配信番組を流してみたのだが、スクリーンに映像は映るけれど、音声が聞こえない。

正確に言うと、音声は、僕のノートパソコンからしか聞こえないのである。

「おかしいですねぇ。スクリーンのスピーカーから音声が出ませんねぇ」

俺、さっきメールで確認したよね!「音声は大丈夫ですか?」と。そしたら「大丈夫です」と自信たっぷりに答えたよね!

いろいろ試してみたが、パソコンの音声がスクリーンのスピーカーから出ることはなかった。

困りはてた担当事務は、別の職員に応援を頼んだ。

しかし応援を頼まれた職員も、見るからに、機器に詳しくなさそうな人である。どうしてそんな人を呼んじゃったのだろう?

「おかしいですねぇ」

の連発である。

ほら、もっとほかにも、機器に詳しい職員がいるでしょ!なんでその人を呼ばないの?

…と、喉元まででかかったが、授業開始までもうあまり時間がない。

仕方がないから、苦肉の策で、マイクをノートパソコンのスピーカーに近づけ、ノートパソコンの音をマイクで拾ってそれをスピーカーから流す、という方法を提案した。

「それ、いいですね。聞こえます聞こえます」

それいいですね、じゃないよ!

僕としては、最良の環境で授業を提供したい、と思っているのだが、機器の不具合のために(あるいは、機器に関する知識がないゆえに)、最適な授業環境を提供できないとなると、講義をする方もそれを受講する方も、だいぶテンションが下がる。

でもまあ仕方がない。もとはといえば、事前に接続テストをしなかった僕が悪いのだ。

なんだかんだあったが、授業は無事に終わり、そのあとは、休む間もなく来年のイベントに関する打合せである。

2時間ほどの打合せが終わり、その結果をふまえて、忘れないうちに諸方面にメールで連絡をする。送るべきメールの数が思いのほか多くて、しかも一つ一つが異なる内容であるために、だんだん頭が回らなくなっていった。

ある人がさっそく返信をくれて、「それ、前に確認したはずですけど、以前のメール、見てなかったんですか?」的なニュアンスの、ややキレ気味の内容だった。…というか、僕も疲れているせいで、そんなふうに読み取れたのである。

僕はさっそく「たいへん申し訳ございません。すべて僕の記憶違いと勘違いによるものでした」と返信を書いた。

何事に対しても怒らず、自分に非があればすぐに謝る。そうしないと、自分のような吹けば飛ぶよな存在は、とたんに信頼をなくしてしまうということに、いま思い至っている。

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