名優列伝

橋幸夫のありがたみ

ちょっと前に、ある田舎町のカフェに入ったら、みんなにありがたがられる存在のおじさんが久しぶりにその店にやってきて、そのたたずまいがなんとなく橋幸夫を連想させた、といった内容の記事を書いた

そこでハタと思い出したのだが、橋幸夫が、橋幸夫役でドラマに出ていたことが、2回ほどあるぞ!

1つめは、三谷幸喜脚本のドラマ「王様のレストラン」。

没落しかけたフランス料理店のシェフ(山口智子)が、橋幸夫のファンという設定だった。いつも橋幸夫の歌を聴いている。そのフランス料理店は、奇跡のような出来事の連続で、有名なお店になっていくのだが、たしかその最終回で、本物の橋幸夫が、橋幸夫役でそのフランス料理店にやって来て、それを見たシェフの山口智子が感激する、という場面があった。

2つめは、宮藤官九郎脚本の朝の連続テレビ小説「あまちゃん」である。

主人公・天野アキ(能年玲奈、現のん)の祖母・天野夏(宮本信子)が、若いころに橋幸夫と一緒に歌を歌ったことがあって、その思い出を抱えてずっと生きてきた。東京に旅行する機会をとらえて、橋幸夫に会いたいと願う夏。そしてその夢が叶い、橋幸夫と再会する。このときも、橋幸夫が橋幸夫役で出ていた。

三谷幸喜と宮藤官九郎が共通して橋幸夫に注目し、しかも本人役で登場させているというのが面白い。

そう、橋幸夫は「ありがたい」存在なのだ。そしてそのありがたみは、本人役で登場してもらってこそ意味がある。なぜなら、橋幸夫自身に、「ありがたい雰囲気」がただよっているからである。これはそうそうにない才能である。

最近、引退宣言をしてしまい、とても残念である。あの「ありがたみ」を醸し出すことができるのは、橋幸夫をおいてほかになく、余人を以て代えがたいのだ。

 

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果たせぬ4作目

5月5日(木)

転地療養、というと大げさだが、少し仕事のことは忘れてのんびりするつもりで、今週は山籠もりすることにし、あわよくば体力回復のために少しウォーキングもしてみようと思ったのだが、体調がなかなか思うようにいかない。「ひとり合宿」での身体への負担が尾を引いているのか、投薬期間中と重なったための副作用によるものなのか、はたまたまったく別の要因なのか。

加えて、たびたび書いているように、3400項目の専門用語の韓国語訳解説の校閲を短期間で行わなければならない、という無茶な依頼を受けて、前回はコナン・ドイルの「赤毛連盟」に自分をなぞらえたが、江戸時代に『解体新書』を翻訳した前野良沢と杉田玄白は、こんなふうに苦労して医学の専門用語を日本語に翻訳したんだな、と、追体験しているようでもあった。

そんなことはともかく。

大林宣彦監督の遺作となった映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年公開)には、じつに多くの俳優が出演している。大林監督の晩年の作品には、出演者をこれでもかと登場させる群像劇が多く、それが、映画の祝祭感をいやがおうにも高めていた。まさに「映画、この指とまれ!」といって集まってきた俳優たちである。

この映画の、数ある出演陣の中で、とりわけ強い印象に残った俳優のひとりが、渡辺裕之であった。今、手元に資料がないので、ここから先はインターネットの情報や映画を観たときの記憶をたよりに書くが、渡辺裕之は、演劇の心得のある川村禾門上等兵の役を演じた。タイムスリップした若者たちが、戦争に巻き込まれていくなかで、彼らに対する理解者として登場している。

殺伐とした戦時下にあって、渡辺裕之演じる川村上等兵は、じつに人間味のあふれた態度で若者に接していた。その演技は、映画の中に自然に溶け込んでいたのである。

あとで、『海辺の映画館 キネマの玉手箱』のパンフレットだった何かを読んだら、大林監督の映画に久しぶりに出演できてとても嬉しい、と語っていて、過去の記憶をたどってみたら、2作品に出演していることを思い出した。

一つめは、日本テレビの「火曜サスペンス劇場」枠で放送された「可愛い悪魔」(1982年)である。大林監督が単独で演出をした初めてのテレビドラマで、いわゆる2時間サスペンスドラマというカテゴリーだが、大林監督のカルト的な映像表現が遺憾なく発揮されていて、「火曜サスペンス劇場」の中でも「屈指の傑作ホラー」と評価されている。今でも伝説のドラマとして、ソフト化されている。

主人公の秋吉久美子の新郎役として出演したのが渡辺裕之である。Wikipediaによると、渡辺裕之が初出演したドラマらしい。僕はこの作品を何回か観たが、新人らしいぎこちない演技がまだ残っていたことを覚えている。

同じ1982年に公開されたのが、和泉聖治監督の映画「オン・ザ・ロード」で、このときに渡辺裕之が主演をつとめた。恥ずかしながら、僕はこの映画をまだ観ていない。しかし、この映画の同時上映作品が、大林監督の「転校生」だったことは知っている。当初は、「オン・ザ・ロード」がメインで、低予算で作られた「転校生」は付け足しみたいな位置づけだったのだが、そのうちに「転校生」の評判が高くなり、そちらの方がよく知られた映画になった、と聞いたことがある。これもまた、大林監督との因縁めいたエピソードと言えるだろう。ちなみに言うと、和泉聖治監督はその後、テレビ朝日のドラマ「相棒」のメイン監督として活躍した。

二つめは、宮部みゆき原作の映画『理由』(2004年)である。これもまた出演俳優の非常に多い作品だったが、その中で渡辺裕之は、事件を捜査する捜査一課の警部役で出演していた。出演時間は短かったけれど、黒澤明監督の映画『天国と地獄』で仲代達矢が演じた刑事を、なんとなく彷彿とさせる。本人がそれを意識して演じたかどうかはわからない。

僕が語れるのは、たった3作品だが、三つめの『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の円熟味あふれる演技は、演出をする大林監督を満足させるに十分なものだったと想像する。大林監督がその後も映画を撮り続けていたら、渡辺裕之は、かつての峰岸徹みたいに、常連として参加するかもしれない、と僕は漠然と想像した。

インターネットを検索してみたら、渡辺裕之にインタビューをした、こんな記事を見つけた。その記事の最後の部分を引用する。

「コロナ禍で自粛期間中の(2020年)4月10日、映画監督・大林宣彦氏死去の知らせが届いた。

『その日は、(大林監督の)遺作になった「海辺の映画館 キネマの玉手箱」の公開予定日でした。僕も出演していて、現場では、ずっと監督の近くで勉強させていただきました』

訃報に強いショックを受けた渡辺だったが、そのとき、監督からかけられた言葉を思い出したという。

『「映画で歴史は変えられないけど、未来は変えられるんだ」と。この作品は、戦争の歴史を、劇中映画をとして体験していくもの。観終わったあと、必ず「戦争はいけない」と思うはずです。それこそが、大林監督の遺言のような気がします』

渡辺は前を向いて、力強く語った。」(週刊FLASH 2020年6月23日・30日号)

力強い言葉は、もう聞けない。

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ホームズVSコロンボ

2月15日(火)

火曜日は会議日だが、とくに第3火曜日は終日会議である。今日は会議が終わると、面倒な書類づくりに追われて、職場を出たのは夜9時頃だった。

帰宅してから、NHK-BSPで再放送されているドラマ「シャーロックホームズの冒険」を観た。先日録画しておいた「ウィステリア荘」というエピソードである。

ドラマの途中、非常に切れ者のベインズ警部という刑事が登場し、ホームズと、ちょっとした謎解き合戦をする。細かな痕跡から事件を推理し、その後の事件の展開を先の先まで読むその姿勢に、最初は訝しんでいたホームズも、最後には喝采を送るほどである。

吹き替えの声を聞いて、一瞬、小池朝雄か?と思ったが、よくよく聞いてみると、ちょっと違う。名古屋章だ!

しかし声といい節回しといい、まったくもってコロンボである。台詞がコロンボ的なのは、このドラマの翻訳が額田やえ子なので当然だが、それに加えて、愚鈍そうに見えるベインズ警部が実は切れ者だという設定も、コロンボを彷彿とさせる。

翻訳が額田やえ子といい、ベインズ警部の人となりといい、日本語版では絶対にコロンボを意識しているぞ!おそらく、名古屋章をキャスティングしたのは、それを狙っていたのだろう。小池朝雄本人だと、もろコロンボになってしまうからもちろんNGで、その雰囲気を感じさせるためにわざと名古屋章に声を当てさせたのだろう。台詞回しの様子から、名古屋章も、それをわかって、楽しんで演じているように思える。

名古屋章と小池朝雄の関係を調べてみると、名古屋章は1930年生まれ。小池朝雄は1931年の早生まれで、二人は同学年なんだね。しかもともに文学座に入り、1963年の文学座分裂騒動のときには、二人揃って脱退して、劇団雲の創立に参加している。ちなみに文学座には、小池朝雄のほうが名古屋章よりも早く入団しているようだ。

そして、これもはじめて知ったのだが、ピーター・フォークが大泥棒を演じた「ブリンクス」というドラマでは、小池朝雄がフジテレビ版の吹き替えを、名古屋章がテレビ朝日版の吹き替えを担当している。こうなるともう、双子みたいなものである。

小池朝雄のコロンボはまさに当たり役で、当時の劇団出身の俳優たちの羨望の的だったに違いない。いつだったか、テレビで江守徹が「コロンボの声なら俺の方が上手い」とか何とか言って、小池朝雄の声マネをしていた。ちなみに「新刑事コロンボ」のコロンボ役だった石田太郎は、小池朝雄の劇団雲・劇団昴の後輩にあたり、宴会などの余興で小池朝雄のものまねを本人の前でしていたという。さらに言うと、江守徹と石田太郎は同じ年(1944年)に生まれている。

おそらく名古屋章も、俳優仲間として間近に接していた小池朝雄の声マネを、日頃からしていたのではないだろうか。ベインズ警部の声からは、その遊び心がうかがえるのである。

むかしは声優という独立した職業がなかったので俳優が声優をつとめたのだ、ということはよく言われていることだが、とくに劇団出身の俳優は、それだけでは食えなかっただろうから、声優の仕事も重要な収入源だったのかもしれない。しかしそれが、「声」に対する独特の価値観を生み、ラジオに進出していくのである。近石真介しかり、若山弦蔵しかり、愛川欽也しかり、である。

もうそんな時代は、とっくに終わってしまったのだろうか。

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思索の人

1月6日(木)のNHKラジオ第一放送「東京03の好きにさせるかッ」のゲストは、シティボーイズの斉木しげるさんだった。

同じ事務所の後輩であるラブレターズ塚本氏のコント台本は、おそらく斉木さんに対する日常的な観察から生まれたもので、斉木さんの変幻自在ぶりをあますところなく発揮させていた。72歳になりだいぶ衰えたと本人は言うが、あの緩急をつけた「ヘンな芝居」は、僕が20代の頃に、グローブ座や日比谷の野音で見たときと変わらない。

コントも堪能したが、その後の東京03とのフリートークの方もなかなかよかった。

とりわけ印象深かったのは、若い頃は(シティボーイズのメンバーの)短所ばかりが気になったが、40歳を過ぎたあたりからお互いの短所を気にせず、お互いの長所を伸ばす方に力を入れるようになった、という話。

それに対して東京03の飯塚氏は、「僕は48歳になっても、短所の方が気になる。長所の方は頭打ちになってしまって、これ以上伸びないと思っているから、どうしても短所を克服しようとする方向に行ってしまう」という。

すると斉木さんは、「短所は捨ててしまえばいい」。飯塚「でも、長所は頭打ちなんですよ」。斉木「方向性を変えてやればいいんですよ。いま思っている長所がすべてとは限らない。自分が知らない長所を、他人が知っているかも知れない。だから、自分があたりまえと思っている自分の嗜好や経験をどんどん話せばいいんです」。そうすれば、自分でも気がつかなかった長所が発見できる、というわけである。

そこから斉木さんはおもむろに子どもの頃の体験を話し始める。子どもの頃、田舎道を歩きながら、道ばたの雑草を竹の刀みたいなものを振りまわしてちぎったりしていたのだが、あるときふと、「雑草だって生きているんだ。こんなことをしてはいけない」と気づき、それ以来、一切雑草を慈悲なくちぎることをスッパリとやめたという。

それが自分の長所とどうつながるのか、なんとも謎なエピソードで、司会の飯塚氏もリアクションに戸惑っていたが、そういえば斉木さんは、シティボーイズのコントの中でしばしば、「いちごの気持ちになって考える」とか、そういうヘンな目線で語り始めることがあったのだが、それはそのときの体験があったからか、と、僕はヘンに納得してしまった。

斉木さんは自分のことを「妄想癖が誰よりも強い」というが、むしろ「思索の人」というべきだろう。

20代の頃に見たシティボーイズのコントライブは、その演出や形式をあたりまえのものとして見ていたが、いまふり返ると、それまでにない新境地をひらいたコントライブで、その後のコント師たちに大きな影響を与えていたことに気づく。いまどんなにあたりまえになっていることも、もとをたどれば誰かが始めたことである。僕はその瞬間に立ち会っていたのだ。

大竹まこと氏が語る、風間杜夫氏とのエピソードが好きである。売れない頃、同じ部屋で大竹、風間、斉木の3人で暮らしていたが、あるとき、風間がつかこうへいに見いだされ、演劇の世界で一躍有名になる。そして映画『蒲田行進曲』で主役の座を射止める。そのあたりのことを、『俺たちはどう生きるか』(集英社新書、2019年)で書いている。

「風間の『蒲田行進曲』を三人(注:大竹、きたろう、斉木)で観たことがある。

たぶん、すごく面白かったのだろう。私たちは打ちのめされて、一言も口をきかずに映画館を後にした」(13頁)

かくして大竹、きたろう、斉木は、風間杜夫「じゃない」3人となり、演劇の世界で挫折を味わうことになる。

コントの世界に身を移した3人は、それまで誰もやらなかった単独ライブを成功させ、後にあたりまえとなるコントライブの「型」をつくりあげる開拓者となるのである。

こうして別々の道を歩んだ「風間」と「じゃない3人」だったが、ずいぶん時間が経ってから、風間杜夫とかつての関係を取り戻す。

「いま、風間とは、昔の時間を取り戻すようによく会っているし、麻雀も楽しい。先日は焼肉を食べた。風間の奴、七〇にもなってキムチにマヨネーズをかけていた。私は思わず吹き出してしまった」(12頁)

長い時間をかけて、若い頃の伏線が回収される。人生とは、なんとつじつまの合う物語だろう。

「短所を捨てて、長所を伸ばす。長所が頭打ちになったら、方向性を変えればいい」という斉木さんの言葉は、この経験に裏打ちされたものではないだろうか。数十年かけてたどり着いた境地なのだ。

やはり斉木しげるは、とぼけているようにみえて、「思索の人」である。

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シティガールズ

「和枝が死んじゃってさあ」

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「メインディッシュ」のコーナーで、安藤和津がゲストのときに、大竹まことが不意に漏らしたひと言である。

「和枝」とは、俳優の角替和枝のこと。劇団東京乾電池の柄本明の妻で、息子の柄本佑、柄本時生は、いずれも俳優である。柄本佑は、安藤和津の子の安藤サクラと結婚したので、角替和枝と安藤和津の二人は親戚となり、子どもの結婚相手の母親同士、ということになる。そういう関係があったから、大竹まことは唐突に、角替和枝の死の話を持ち出したのであろう。

こんなことを、僕が唐突に思い出したのは、NHKのドラマ「阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」で、松金よね子がエリコさんの母親役で出演していたからである。

シティボーイズがまだ売れない頃、「シティボーイズ」に対抗して、「シティガールズ」と名乗って同じ舞台に立っていたのが、角替和枝、松金よね子、岡本麗の3人である。つまり大竹まことと角替和枝は、むかしからの芝居仲間だったのである。ただしそれは、たんなる「芝居仲間」という以上の,深い絆があったことが、大竹まことのこのときの話からうかがえた。

角替和枝は、大林宣彦監督の映画に4回出演している。「異人たちとの夏」(1988年)、「北京的西瓜」(1989年)、「理由」(2004年)、「この空の花 長岡花火物語」(2012年)である。

その中でも一番印象に残っているのは、「異人たちとの夏」における、すき焼き屋の仲居役である。主人公の風間杜夫が、幽霊としてあらわれた両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)にすき焼きをごちそうするシーン。この映画の、一番重要なシーンである。角替和枝は、何事もなかったかのように、注文をとり、すき焼きを運んでくる。その自然な演技が、あのシーンをどれほど感動的なものにしたか、はかり知れない。

もう一つ印象に残っているのは、「この空の花 長岡花火物語」で、戦争の証言者のひとりとして、主人公の記者にその体験を語る役として出演している。その語りもまた、知らず知らずのうちに、戦争の悲惨さを追体験させるような、じつに自然な演技だった。ちなみにこの機会に告白すると、僕の娘の名前はこの映画からとっている。

僕が俳優としての角替和枝を観たのは、この映画が最後である。その後も数々の映画に出演したようだが、僕にとっては、これが遺作なのである。

僕は、エリコさんの母親役として松金よね子が出演しているのを観て、もし角替和枝が生きていたとしたら、ミホさんの母親役は、角替和枝がよかったかもしれない、と想像した。シティボーイズに憧れている阿佐ヶ谷姉妹にとっては、これ以上にないキャスティングになったことだろう。

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謎のマ・ドンソク推し

『映画秘宝』界隈でいろいろと問題が起こっているようで、そこに巻き込まれてしまったライムスター宇多丸さんが、ラジオ番組の冒頭で経緯の説明をしていた。

その原因となったのが、今年1月5日の韓国映画特集だったそうなのだが、そういえば、その特集をまだ聴いていなかったなあと思い、ラジオクラウドで聴いてみることにした。

僕はここ最近の韓国映画をほとんど見ていない。「パラサイト」もまだ見ていない。こぶぎさんおすすめの「エクストリーム・ジョブ」も、こぶぎさんだけでなくいろんな人から薦められていたのだが、結局見ることができていない。コロナ前に映画館で見ておかなかったことが悔やまれる。

で、最近の韓国映画事情はどうなのだろう?と、アトロクの韓国映画特集を聴いてみたのだが、なんと、謎の「マ・ドンソク推し」なのである。正確に言えば、宇多丸さんがソン・ガンホ推し、宇垣美里アナがマ・ドンソク推しなのである。

宇多丸さんのソン・ガンホ押しは当然わかるにしても、マ・ドンソクって、誰?と、すぐに顔が思い浮かばない。そんな僕の疑問をよそに、宇垣美里アナは、マ・ドンソク愛に溢れたコメントを次々と繰り出している。「マ・ドンソク出演映画にはずれなし」とまで言っているぞ。

あまりに気になったので、画像検索をしてみたところ、ああ、あの俳優さんか!あの俳優さん、マ・ドンソクって言うのか!と、はじめてその俳優さんの名前がマ・ドンソクであることを知ったのである。

たしかに顔を見ただけで思い出すんだから、印象的な存在感の俳優である。あくまでも僕の印象だが、大友康平をすげえマッチョにした感じ(たぶん異論はあると思う)で、僕にとってはハ・ジョンウ主演の「群盗」を見たときに、鮮烈な印象を残した。というか、それ以外の出演作はたぶん見ていない。

見た目は決して二枚目とは言えない。これが少しむかしならば、美形で細面の男性俳優のファンであることを公言する女性タレントは多かったと思うのだが、宇垣美里アナは、そうではなく、マ・ドンソクを選んだのである。このあたりの宇垣アナの選球眼には、舌を巻かざるを得ない。

『別冊映画秘宝』の韓国映画特集というのをちらっと見てみたが、表紙がなんとマ・ドンソクである(そして表紙のデザインは高橋ヨシキさん)。冒頭からかなりのページ数をさいて、マ・ドンソク特集と、マ・ドンソク愛を語る宇垣美里アナへのロングインタビューへと続く。つまり宇垣美里アナのマ・ドンソク愛に、『映画秘宝』の編集部もすっかりほだされてしまったのだ。こうなると時代はもうマ・ドンソクである。

「最近本屋さんに行くと、本の帯に、武田砂鉄さんか、宇垣美里さんか、というくらい、二人の推薦コメントを見かける」(byアシタノカレッジ)と言われるほど、宇垣美里アナの影響力が大きいことを実感させられる。僕の若いころで言えば、キョンキョンがオールナイトニッポンで、「『ライ麦畑でつかまえて』がおもしろいのよねえ」とひとこと言ったとたん、翌日全国の書店から『ライ麦畑でつかまえて』が売り切れる、という現象が起きたのと同じようなものである。

しかし、僕は言いたい。マ・ドンソクのほかにも、いぶし銀の役者は多いぞ!

ラジオではあまり取り上げられてなかったが、キム・ユンソク、リュ・スンリョン、ユ・ヘジン、クァク・ドウォン・ファン・ジョンミン、シン・ハギュン、オ・ダルス…あげだしたらきりがない。

クァク・ドウォンなんかねえ、松尾諭という役者が出てきたとき、「日本にもクァク・ドウォンがいた!」と思ったもん。僕の中では松尾諭=クァク・ドウォンなのだ。

こんなことを僕がいくら言ってみたところで、宇垣美里アナのマ・ドンソク推しには足下にも及ばないのだろうな…。

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ご縁があれば

4月30日(木)

病院行脚。午前は自宅から1時間半以上かかる総合病院。いつもは電車とバスを乗り継いで行くのだが、新型コロナウィルスの感染のリスクを少しでも減らすため、自家用車で行くことに。午後に家に戻り、夕方は自宅近くのかかりつけの病院にいつもの薬をもらいに行く。まったく、面倒な身体である。

午前中、病院に行く道すがら、TBSラジオ「伊集院光とラジオと」を聴いていた。10時台のゲストコーナーに、俳優の篠井英介さんが出演していた。

篠井英介さんだ!!!

僕は、大人になってから、面と向かってサインをもらった有名人が3人いる。俳優でエッセイストの室井滋さん(初エッセイ集のサイン会に並んでサインをもらった)、映画監督の大林宣彦さん(以前このブログに書いた)、そして篠井英介さんである。

篠井英介さんにサインをもらったときの話は、過去にこのブログに書いた。

ミーハー講師控え室」(2012年6月30日の出来事)

このとき篠井さんは都内の巨大カルチャースクールで、泉鏡花の小説を朗読する、という講座を開いていて、僕はたまたま同じ講師控え室にいたというご縁で、大学ノートの切れ端にサインをもらい、握手してもらったのであった。僕はそのときの篠井さんのオーラと人柄に、すっかり魅了されてしまった。いまもそのサインは、職場の仕事部屋に飾ってある。

返す返すも、篠井さんによる泉鏡花の朗読を聴きたかったものである。

…そんなことを思い返しながら、篠井さんと、パーソナリティーの伊集院光氏、柴田理恵さんの鼎談を聴いていた。篠井さんの人柄が表れた、とてもよい鼎談だった。

途中、こんなやりとりがあった。

篠井さんが若い頃、ほんの短い期間だったが、ポール牧師匠の付き人をやっていた。その話を聞いた伊集院光氏が、

「僕も落語家時代、ポール牧師匠と何度か仕事場でご一緒したことがあるんですよ」

と言うと、篠井さんは、

「じゃあ、ご縁があったんですね」

と返した。

ほかにも、「ご縁があって…」という言い回しが何回か出てきた。

僕はそのとき、篠井さんにサインをもらったあとに、、

「またご縁がありましたら、お会いしましょう」

と言われたことを思い出したのである。そのときの言葉の響きがとても美しく、僕もそれからというもの、「ご縁があったらまたお会いしましょう」という言葉を、よく使うようになったのだった。

近く、大型連休中に、篠井英介さんが朗読する三島由紀夫の『サド公爵夫人』がインターネットで配信されるそうである。ご縁があれば、拝聴しましょう。

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僕の町のコメディアン

3月30日(月)

僕の住んでいる町に、一人のコメディアンが住んでいた。

僕がいまの町に引っ越してきたのは、いまから2年ほど前のことで、引っ越してからほどなくして、同じ町内に、そのコメディアンが住んでいることを知った。

僕の住んでいるマンションから、おそらく歩いて10分ほどのところに、そのコメディアンの家はある。僕が中学生とか高校生だったなら、そのコメディアンの家を探しに行ったかもしれないが、50歳を超えた僕には、わざわざ家を探しに行くほどの無邪気さはもうなく、だいたいの場所を知るのみだった。そのうち、町を歩いていたらどこかでひょっこりすれ違ったりして、という淡い期待を抱きながら。

そのコメディアンが、新型コロナウィルスに感染し、重度の肺炎のため入院したというニュースを聞いたとき、

(もう、戻ってこないだろうなあ)

という予感がした。

僕の父は、2年半ほど前に肺炎で亡くなった。もともと肺に持病を持ち、晩年は酸素吸入器が手放せなかったほどだった。ある日突然、肺炎が重症化し、入院してから4日目で亡くなったのである。76歳であった。

重症化した肺炎の苦しみを傍らで見てきた僕は、そのコメディアンもおそらく、そのように苦しんでいるのだろうと想像した。そのコメディアンは70歳。高齢者が重症化した肺炎にかかったという点では、父と同じだった。父よりも若いそのコメディアンは、父よりも幾分は持ちこたえるだろうというのが、僕の予感だった。そのコメディアンが3月20日に入院して1週間ほどたったあたりから、どうにも胸騒ぎがして仕方がなかったのである。

そして今日のニュースで、昨日、そのコメディアンが亡くなったことを知ったのである。

僕の町のコメディアンは、もういない。

泣ける映画

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日本のソル・ギョング

河瀬直美監督の映画「あん」(2015年)が、BSで放送されていたので、録画して観てみた。河瀬監督の映画を見るのは、これが初めてである。

河瀬監督の映画って、好き嫌いがはっきりと分かれるのではないだろうか。作風が苦手、と思う人もいるのかも知れない。僕は、嫌いではない。

映画を見るとき、純粋にストーリーを楽しめばいいのだろうが、僕の場合、どうしても、スクリーンの外の、役者の実人生のことも考えてしまう。

虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。虚実皮膜の間を彷徨うが如し。

樹木希林が世を去った後、その後を追うように市原悦子も世を去ったが、映画の中の二人の関係はまるで、その実人生をなぞるかのようである。

樹木希林と孫娘・内田伽羅は、映画の中では他人同士だが、まるで本当の家族のような絆を見せる。

もちろん、そんな余計なことを考えなくても、この映画の描く世界にどっぷりと浸ることができる。だが映画と実人生とは、時にシンクロすることがあり、それが、映画を見るときの僕の楽しみ方にもなっている。

この映画での樹木希林の演技が素晴らしいことはいうまでもない。僕にとってはこれまでどちらかといえば「怪優」というイメージが強いこともあり、むかしからあんなにいい俳優さんだっただろうか、と、この映画を見て思うことがある。

全然違う話だが、先日あるラジオで、亡くなった桂歌丸師匠についてある落語家が語っていた。「昔は、同世代の談志や円楽たちの中に埋もれて、どちらかといえば平凡な噺家だったが、晩年、病気になってからの落語は、自身の落語と向き合い、その噺は気迫に満ちていた」と。僕も以前、歌丸師匠の「竹水仙」を生の舞台で聴いて、歌丸師匠ってこんなすごい噺をする人だったのかと、感動したことがある。

心身共に健康の時の方が、もちろんいい仕事ができるのかも知れないけれど、病気に侵され、残りの人生について考えるようになった人間のほうが、それまでにない飛躍を遂げることもあるのではないだろうか。

僕が2年前に大病を患ったときも、人生の残りの時間というものを意識するようになったのだが、この年は不思議なことに、健康だったとき以上にたくさんの原稿を書いたのである。

樹木希林の演技を見て、そんなことを思った。

さて、ここまで書いてきたことは、タイトルの「日本のソル・ギョング」とは、まったく関係のない話。

この映画の永瀬正敏の演技もまた、素晴らしい。

彼こそは、日本のソル・ギョングである。そのことを書きたかったのである。

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求道者

映画「桐島、部活辞めるってよ」の中で、映画部の男子高校生二人が会話している中に、

「昨日、満島ひかりに夢の中で逢った」

「まじでー!!」

みたいなやりとりがあった。

その映画を見たとき、私は満島ひかりというのがどういう人なのかわからなかったのだが、しばらくして、何かのテレビドラマを見ていると、満島ひかりという女優が出ていて、ようやく認識したのであった。

それからというもの、別に意識して満島ひかりの出ているドラマを見ているわけではないのだが、たまたま見ているドラマに満島ひかりが出ていると、

(達者な人だなあ)

と感心した。「達者な人」というのが、いちばんしっくりくる言い方である。

それ以来、なんとなく満島ひかりが気になって仕方がない。

一時期、どんなドラマや映画を見ても、そこに出てくる女優を見ては、

(あれ、満島ひかりでないのか?)

と、何でも満島ひかりに見える病にかかってしまったのである。

聞くと、満島ひかりは沖縄出身で、Folderというグループのメンバーだったというではないか。20年くらい前に活躍した、小中学生によるグループである。

そういえば、いたなあ、Folder。

バカ売れした、というわけではないが、妙に印象に残るグループだった。

あのリードボーカルの男の子、やたら歌とダンスがうまかったが、たしか声変わりしてから、あんまり見なくなっちゃったな。

…と思ったら、いま、三浦大知として活躍していると聞いてびっくりした。

そうか、あの三浦大知が、Folderのリードボーカルだった少年だったのか…。

満島ひかりも三浦大知も、求道者、というイメージに近い。Folderという過去にとらわれず、女優の道を究めようとする求道者、歌やダンスの道を究めようとする求道者…。

Folderとして世に出たことを貯金として使い果たすことなく、その後も研鑽して、芝居の世界や音楽の世界で「本物」として活躍し続けている、という感じがする。

たしか同じ頃、やはり沖縄出身で、小中学生から構成された4人組のメンバーが大ブレイクしていた。

こちらの方は、バカ売れして、国民的なアイドルグループになった。

そういえば、あのグループの人たちは、いま何をしているんだろう…。

知っている人がいたら教えて下さい。

この二つのグループのその後を比較すると、人生をどう生きるかによって、人間の運命はいかようにも変わるものだと、しみじみと考えさせられる。

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