コバヤシ

さらに対話は続く

「鬼瓦殿

こんばんは。プログ読みました。

家にあったメイプルソープのカタログを見ると確かに1992年でした。とすると、蕎麦屋廻りをする前だったようですから、恐らく蕎麦が好きだった亡父の影響もあり蕎麦屋に行ったのでしょう。

貴君のプログにあった、青春時代に友達から影響を受けるというのは、その通りで、私も大学時代のサークルで様々な音楽を友達から教わり、自分一人では決して聴かなかったような音楽を聴くようになりました。

では貴君からの影響は何だったかと、今日は難波の居酒屋、西天満のバーとハシゴしながらツラツラと考えてみたのですが、なかなか思い浮かばず、と書きつつも、もしかしたら、それほど人の話を聞くのが得意だったとは思えない自分が、今は気長に人の話を聞くようになったのは、高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰かと思い当たりました。

更に、貴君に連れられて行った様々な遺跡を見たお陰で、最近は茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになったのではないかとも思います。

話は変わりますが、貴君のプログで、私が引越し先にレコードや本を全部持って行くのに感心していましたが、それは福岡に転勤になった時に、もう千葉にあった実家には二度と戻るまいと思って一式持って行ったのですが、その数年後に母親が千葉の家を売り払って福島に行ってしまい、私のものは全て処分されてしまったことを考えると宜なるかなと思います。」

「高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰」で、気長に人の話を聞くことができたって、それ、知的刺激でも何でもないだろう、と、コバヤシからのメールに思わず笑ってしまった。

「茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになった」というのも、断じて言えるが僕の影響ではなく、趣味人としてのコバヤシの素質だろう。

つまり僕は、何ら影響など与えていないのである。

もともと僕は、主体的に何かに熱中できるタイプではなく、他人に影響を与えるような人間でもないことを自覚しているから、コバヤシの認識は正しい。これは亡き父親譲りだと、最近になって思い至った。コバヤシが、趣味人だった亡父の影響で蕎麦屋めぐりをはじめたように。

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対話は続く

5月13日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

久しぶりに朝から出勤し、午前中は神経を使う仕事、午後はたまっていた仕事の処理をしていたら、あっという間に夜になってしまう。

高校時代の親友・元福岡のコバヤシは、どうやらムーンライダーズをきっかけに、いろいろと思い出したらしい。立て続けにメールが来た。

「鬼瓦殿

矢野顕子のSuper Folk Songを貴君に薦めていたのなら、多分、ムーンライダーズを聴き始めた頃と同時期(仕事が嫌で嫌でしょうがなく、音楽を聴くことに逃げていた頃)な筈なので、貴君にムーンライダーズも薦めていた可能性は高いですね。全く覚えていませんが。

蕎麦に凝っていたのは社会人3〜5年目なので、貴君を蕎麦屋に連れて行ったような気がします。

目黒にある東京都庭園美術館に写真家のロバート・メイプルソープ展に連れて行って、貴君が余り面白くなさそうにしていた記憶があるので、多分、利庵という蕎麦屋に連れて行ったのではと推測します。

でも、もしかしたら、神保町の蕎麦屋だったかもしれませんが。

ん〜、やはり人間の記憶というのは曖昧なものですね」

僕も少し思い出してみる。

矢野顕子の「SUPER FOLK SONG」を猛烈に薦められたのは、蕎麦を食べながらだったことは明確に覚えているから、小林が言うように、大学を卒業して、3~4年くらい経った頃なのかもしれない。やはりそのときに、ムーンライダーズの話題も出たことは、ほぼ間違いない。

目黒にある東京都庭園美術館に連れて行かれたことも、覚えている。ただし、何の展覧会だったかは覚えていなかった。

ただ不審なのは、いま調べてみると、東京都庭園美術館でロバート・メイプルソープ展が行われたのは、1992年4月のことで、コバヤシにとっては社会人1年目、僕にとっては大学院1年目ということである。社会人3~5年目に蕎麦に凝っていたとするコバヤシの記憶と、微妙に異なる。

仮に、ロバート・メイプルソープ展に連れて行かれたとして、僕が「余り面白くなさそうにしていた」のだとしたら、そんな僕が、いまの仕事をしているというのは、苦笑を禁じ得ない。じつは無意識下で、いまの仕事に何らかの影響を与えているのかもしれない。

東京都庭園美術館を見たあと、利庵という蕎麦屋に行ったかどうかは、覚えていないが、コバヤシのことだから、僕を蕎麦屋に連れて行ったのだろう。

僕が覚えているのは、日本橋の室町砂場、神田のまつや、あと都内の数軒だったと思う。板わさとかそばがきをつまみに、日本酒を引っかけてから、おもむろに蕎麦を注文する、という、オッサンみたいな食べ方を教わった。20代前半のときですよ!!

立て続けに、こんなメールも来た。

「追伸

矢野顕子がピアノの弾き語りでレコーディングしたニットキャップマンは、そもそもムーンライダーズのオリジナルアルバムに矢野顕子がゲストで入って歌った曲でした。

昨日、家のCDを漁っていたら、ムーンライダーズの80年のライブがあり、改めて聴くと、この辺りのライブは大分イっちゃった感が強く、テクノポップ独特の電子音にノイズ的な要素も入り混じり、曲によっては原曲のメロディーをとどめていないというか、ワザと外してラップ的な曲になってしまったようななのもあり、時代を感じました。

やはり80年代というのは、YMOに象徴されるように、日本のポップスが最も先鋭的な時代だったのでしょうかね。

それでは、またそのうち。」

転勤とともに、高校時代に読んだ本とか聴いていたCDも、そのまま持っていくという物持ちのよさにも、驚かされる。

帰宅中の車で、TBSラジオ「問わず語りの神田伯山」をリアルタイムで聴いていたら、リスナーからのメールに対して、こんなことを言っていた。

「思い返すと、友だちのおかげで世界が広がったことがけっこうある。高校2年の時、自分はプロレスにしか興味がなかったけれど、クラスの友だちが、絶対に面白いからと、広沢虎造の浪花節のCDを貸してくれた。半信半疑で聴いてみたら、これがじつに面白かった。それ以来、授業の休み時間のたびに、広沢虎造の話でその友だちと盛り上がった。いま思うと、それが講談師としての自分のその後の人生に影響を与えたと思う。そんなこと、友だちに教えられなければ、興味など持たなかったから。だから友だちは失わない方がいい」

と、ふだんの毒舌には似つかわしくないことを喋っていた。

僕がYMOにハマったのも、中学時代の友人のヤマセ君(いまとなっては、まったく消息がわからない)が薦めてくれたからである。それによって自分の世界が広がり、授業の間の休み時間には、教室のベランダでYMOの話ばかりしていた。

高校時代には、コバヤシのおかげで、YMOにしか興味のなかった僕に、ジャズという世界を教えてくれた。

そんなことを漠然と考えていたときに、ラジオでたまたま神田伯山が同じようなことを喋っていたのは、やはりシンクロニシティというべきであろうか。

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ふたたび、ムーンライダーズ

ムーンライダーズのことを書いても、このブログの読者にはまったく関心を引かないだろうなぁと思っていたら、高校時代の親友・元福岡のコバヤシから、ムーンライダーズに関する、熱いメールが来た。

「鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

このところこれと言ってネタも無く、貴君にメールすることも暫く無さそうだなあと思っていたのですが、ムーンライダーズの話を読み、またメールせざるを得なくなってしまいました。

貴君のブログでは、ムーンライダーズを紹介したのは中学時代の友達か、私のどちらかだろうと書いていましたが、恐らく私では無いと思います。

何故ならば、私がムーンライダーズを知ったのは社会人1年目の年で、しかも、その知った理由はと言えば学生時代に出入りしていた武蔵野市にある某国立大学のジャズ研で知り合った女の子のバンドに何故かボーカルとして雇われ、その某大学の学園祭でムーンライダーズの「マスカット・ココナッツ・バナナ・メロン」を歌わされたからです。この話を貴君にした記憶は無いので私ではないだろうと思った次第です。

余談ながら、その時にもう一曲歌ったのが矢野顕子の「相合傘」で、更に自慢げに書くと、そのバンドのドラムは前年私のバンドでドラムを叩き、後年、我々の高校の先輩の大西順子のヨーロッパツアーに参加した広瀬君でした。

その時、広瀬君は何を思いながら私のボーカルのバックでドラムを叩いていたのかは全く不明です。当時も怖くて聞けませんでした。

前置きが長くなりましたが、その時にムーンライダーズを知り、7~8枚CDを買い、その格好良さに痺れファンになってしまいました。

特に好きだったのは初期の70年代よりも80年代で、テクノポップの影響を受け余りにも時代から先行し過ぎて発売が延期された「マニア・マニエラ」、その為仕方なく?制作した「青空百景」、サエキけんぞうや蛭子能収を作詞に導入したこれまた先鋭的な「Don't Trust Over Thirty」(このアルバムの多くの曲はE.D MORRISON作曲になっていますが、賢明な貴君であればこれが何の洒落か判りますね!)などです。

尖がっていながらも、メロディアスで独特な詩の世界はジャズばかり聞いていた私には非常に新鮮で、当時、今更ながら聞き始めた矢野顕子と共に私の中では日本のポップス界のレジェンドとなっています。

この辺りのミュージシャンは結構、交流が有り、矢野顕子は自分のアルバムでムーンライダーズの鈴木博文の「大寒町」やムーンライダーズのアルバムに入っている「ニットキャップマン」なども取り上げています。

その後、矢野顕子はジャズ的要素が高かったことも有り、六本木PIT INNやBLUE NOTE東京他にライブを何度か聴きに行ったのですが、ムーンライダーズは未だ行けず終いで、もうバンドはとっくに消滅していたと思っていたので、貴君のブログを読み「お~!」と少し興奮気味になりメールをしてしまった次第です。

昨晩、多分、10年振り以上で前述のアルバムを聞いて見ましたが、やはり格好良い!!

我々YMO世代は、どうしてもこの辺りの音楽に行きあたってしまうのでしょうね。」

コバヤシは、僕にムーンライダーズがいいと言ったのは自分ではない、と書いているが、僕はやはりコバヤシから聞いた可能性が高いように思う。

コバヤシが社会人1年目、ということは、僕が大学院生だった頃だが、その当時、コバヤシとよく、都内の蕎麦屋をめぐっていたと記憶する。その際に話を聞いていた可能性がある。

メールの中に矢野顕子の話が出てくるが、コバヤシが矢野顕子のアルバム「SUPER FOLK SONG」を絶賛していたことをはっきりと覚えている。これは1992年に出されたアルバムだから、僕が大学院に入った年、コバヤシが社会人1年目の年である。だから学生時代にこの話を聞いていたはずはない。

だから、社会人になったコバヤシから、ムーンライダーズの話を聞いていたとしても、おかしくはないのである。

ちなみに、ムーンライダーズの鈴木博文が作詞・作曲し、あがた森魚が歌った「大寒町」は、「SUPER FOLK SONG」の中で矢野顕子によりカバーされているが、僕もこの曲は大好きである。

ムーンライダーズと矢野顕子といえば、前回に書いたかしぶち哲郎の「リラのホテル」は、矢野顕子との共作だし、コバヤシのいうとおり、あの界隈のミュージシャンは、みんな交流があったのである。

先日のラジオの話に戻ると、司会の大竹まことに、「バンドが長続きする秘訣は?」と聞かれて、

「ヒット作(代表作)がないこと」

と答えていたのが印象的で、僕自身の仕事や生き方を考える上でも、励まされる言葉であった。

蛇足だが、E.D MORRISONは、アナグラムである。

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『荻窪風土記』

4月26日(火)

3ヵ月にいちどの「ひとり合宿」の楽しみは、本を読むことである。いわば監禁状態になるので、事前に読む本を準備しなければならない。その吟味の過程もまた楽しい。

昨日は、高校時代の1学年下の後輩が書いた新作の小説を読んだ。あいかわらずおもしろくて、一気に読んでしまった。

今日は、井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫)を読んでいる。

先日、中央線沿線に住む友人から、『中央線小説傑作選』(中公文庫)が出ていると教えられた。中央線小説と聞いたら、僕も黙ってはいられない。読んでみるとこれがなかなかにおもしろかった。それだけでなく、「もし自分が中央線沿線を舞台にした小説をアンソロジーにしたら、どんな本を選ぶだろうか」と想像しながら読んだので、なおさら楽しかった。

僕は大学生の頃、ヒマでヒマで仕方がなくて、中央線沿線の古本屋を、まるで聞き込みデカのように、1軒1軒しらみつぶしに歩いたことがある。

僕にとっての中央線沿線のイメージというのは、中野あたりから立川あたりまでの、いわゆる直線区間の部分である。

そんな思い出もあり、中央線沿線には、ひどく思い入れがあるのである。

さて、「ひとり合宿」のときに、どんな本をもっていこうかと、ふと頭に浮かんだのは、冒頭に述べた井伏鱒二の『荻窪風土記』だったのである。

先に読んだ『中央線小説傑作選』の中には、当然、中央線にゆかりのある井伏鱒二の作品も収録されている。「阿佐ヶ谷会」という、たった2頁ほどの短編なのだが、その文体が妙に印象に残ったのである。これで決まり、と、さっそく『荻窪風土記』の文庫本を入手した。

そうしたところ、『中央線小説傑作選』を薦めてくれた友人から、

「明日から『ひとり合宿』ですね。もしまだなら、井伏鱒二の『荻窪風土記』なんてお供にどうですか。いい本です」
とメールをもらい、その偶然に驚いた。

そういえば、井伏鱒二の『荻窪風土記』は、ずっとむかしに、読もうと思って読まなかったんだよなあ、でも書名はなぜかずっと覚えていて、しかも文庫ではなく、ハードカバーの本として、僕の脳内に画像が記憶されている。

ハタと思い出した。

『荻窪風土記』は、高校時代の親友・元福岡のコバヤシが、高校時代に、僕に勧めてくれた本だったんじゃなかったっけ?たしかコバヤシは、井伏鱒二のファンだったはずだ。だがそのとき僕はピンとこずに、薦められても読まなかったのだ。

しかしその記憶は、僕の勘違いという可能性もある。そこでコバヤシに、確認することにした。

「コバヤシ殿、貴兄は高校の頃、井伏鱒二の本を私に薦めてきませんでしたか?『荻窪風土記』の存在は、貴兄から聞いた記憶があるのですが、記憶違いでしょうか」

するとほどなくして、コバヤシから返事が来た。

「本題の井伏鱒二の「荻窪風土記」の件ですが、多分、私が薦めたのだと思います。

たまたま手元に、昔、実際に読んだ新潮社のハードカバーの本が有り、その本の後ろの頁を開くと、昭和59年5月5日15刷と有りますから、恐らく高校1年の時に読んで貴君に薦めたのでしょう。(ちなみに初版は昭和57年11月5日とあります。)井伏鱒二は釣り好きで、私も子供のころ釣りが好きだったので、確か家にあった「川釣り」という当時は岩波新書(今は岩波文庫のはず)で出ていた本を読み、釣りの話もさることながら、その飄々とした筆致と抒情的な表現に魅かれて井伏鱒二を認識したのだと思います。

有名な「山椒魚」なども読んだような気もしますが、こちらはあまり好きではなかったように思います。

ちなみに井伏鱒二は、戦前(だったと思う)の流行作家であった釣り名人の佐藤垢石に釣りの手ほどきを受けました。井伏は、この師匠、佐藤垢石を主人公にした「釣人」という本も書いていたのですが、確かずっと絶版のままで、残念ながらまだ読むことが出来ていません。

ついでですが、学生時代に読んで今また読みたいなあと思っているのは、幸田露伴と中勘助です。

幸田露伴は、五重塔で有名ですが、それ以外にも大昔の中国の話に題材を取ったものや、やはり釣り好きでもあり、何しろ古今東西のあらゆる本を読んだ博覧強記ぶりを示す内容は、凄いの一言です。

去年読んだ講談社学芸文庫の「珍せん会」(せん の字が変換出来ず)も面白かったですし、昔読んだ「幻談・観画談」なども、また読みたいなあと思っています。

中勘助は、有名な「銀の匙」は置いておいて、やはり、その静謐な文体が魅力的な小説や物語、とりわけ学生時代に読み、静かで澄んだ空気が流れているような文章に魅かれた「島守」などが思い出されます。

ちなみに中勘助は、その文章とは裏腹に私生活は愛人問題やら何やらでドロドロの酷い人だったと読んだように思います。確か「島守」も愛人問題のもつれで謹慎中の生活を書いたものだったはずです。

静謐で思い出しましたが、前にも勧めたように思いますが、須賀敦子は是非、読んで欲しいものです。

硬質で美しく、そして優しいその文体と文章は、何を読んでも本当に素晴らしいです。

白水社のUブックスから出ている一連の作品、どれでも構わないのでご一読のほどを。

と、井伏鱒二の話を書くつもりが長々と書いてしまい申し訳ありません。

でも、ほんの少しでも何かひっかかる本があれば幸いです。」

やはりそうだった。『荻窪風土記』は、コバヤシが僕に薦めたものだった。僕が、その本をハードカバーの本として記憶に残っているのは、コバヤシから見せてもらったか何かしたのだろう。

それにしても、文学に対するコバヤシの目利きはあいかわらずすばらしい。僕はこの年になって、ようやくコバヤシの感性に近づいた。思い返せば高校生のとき、コバヤシからはいろいろな小説を薦められていたのだ。

『荻窪風土記』の内容について、少しふれようと思ったが、長くなったのでまた別の機会に。

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ささやかなカルチャーショック体験

鬼瓦殿

こんばんは。高校時代の友人・元福岡のコバヤシです。

お疲れのようですが大丈夫ですか?

週末に行かれた動物園は、私も物心がついた頃に連れて行かれ、象やキリンのぬいぐるみを買って貰って楽しかった思い出が残っています。

塩谷先輩の たんたんタヌキのナントカは のピアノソロも懐かしく読ませていただきました。

そんなことはさておき、所変われば品変わる、ということで、今日、衝撃を受けた出来事があったのですが、恐らく関西人が大多数の職場の同僚に話したところでこの驚きを理解して貰えないと思い、貴君にメールをした次第です。

ことのあらましはと言えば…。

今日、業界団体の会合があり、浪速の商業の中心地、船場のとある商業ビルに行って来たのですが、その会合の受付で、何をお飲みになりますか?と尋ねられました。

メニューを見るとホットコーヒーとアイスコーヒーに加えて、ジュースというのががあります。東京でこうした会合があると、ほぼコーヒーしか無いのですが、コーヒーが苦手な人もいるので気を使ってジュースを用意しているのかぐらいに思い、その場は流して終わりました。

その後、直ぐに会合が始まり暫く経つと、給仕の女性が飲み物を配り始めました。コーヒーと共に先程おやっと思ったジュースらしきもの、オレンジジュースにしてはどちらと言えば黄色に近い少し泡立ったような液体です。

アレは何のジュースだろうという思いながら、会合の報告を暫く聞いてから、ふと顔を上げると30人近くいるほぼ50歳過ぎと思しきオッさん達のおおよそ半数、いや三分の二以上のオッさん達前に置かれていたのは、先程述べた黄色っぽい謎の液体、即ちジュースではないですか。

想像して見てください。50過ぎの20人を超えるオッさん達の集団がストローでその黄色っぽいジュースを飲んでいる姿を。私はこの異様な光景に大きな衝撃を受けました。

気付けば、私と一緒に会合に参加した同僚もこのジュースを飲んでいます。その同僚に、それ何のジュース?と聞くと、同僚は不思議そうに、自分はいつもジュースを飲むんですよ、としか答えてくれません。

会合が終わり、帰路につくところで、ハタと気づいたのですが、もしやアレが噂に聞く大阪名物のミックスジュースではないか。

家に帰ってネットで早速調べると、ミックスジュースというのは、半世紀以上も前に大阪の果物屋が傷んで来た果物を有効利用しようと作ったジュースで、なかなか評判が良かったので、そのジュースを出す喫茶店を開店したところ、折からの喫茶店ブームに乗り、瞬くまに大阪中に広まり、今では大阪のソウルフードになっている、とのこと。

なるほどと思ったものの、でもやはり大勢のオッさんがミックスジュースを飲んでいる光景はなかなかに衝撃的です。

この衝撃は、前にメールしたように思いますが、大分県の喫茶店でミルクセーキを見た時以来のものでした。

とは書いたものの、次回の会合では、オレもミックスジュースを飲んでやろう、と思った次第です。

ということで、本当にどうでも良い話を失礼しました。

では、またそのうち!

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ちょっとご無沙汰でした、とコバヤシは言った

久しぶりに、高校時代の親友のコバヤシから携帯メールが来た。ここ最近のブログを読んだ感想が書き綴られていた。

まずは、「夢の親子漫才」について、一部改変して引用する。

「高校の後輩の結婚式で漫才をしようなどとは提案していません。2人でスピーチをしたいと申し入れたのです。勿論、私自身も新郎新婦に何か一言お祝いを言いたかったからですが、貴君も当然、何か喋りたい筈だという前提ではあります。それを貴君が漫才にしてしまったので閉口したのですが、結局は貴君が書いてくれたネタはなかなかに良く、地震のせいで東京に行くことが出来ず、あのネタを披露出来なかったことは私も今でも悔やまれます」

たしかにコバヤシの言うとおりである。コバヤシは2人でスピーチをしたいという提案をしただけで、それをむりやり漫才にしようとしたのは僕のほうである。

次に「なじめなかったエッセイ」について、こちらも一部改変して引用する。

「それはそれとして、フリーペーパーに書かれている作家のエッセイの連載終了に対する感想は私も共感するところがあります。私自身も道すがら、その作家の文章は楽しんではいたのですが、やはりどこか違和感を感じており、その感傷的と言うか、あざといとも感じられる文はあまり好きではありませんでした。

ついでに思い出したのですが、学生時代に、自分のゼミの同級生が書いた卒論が中々良いと思い、貴君に読んでもらったところ、貴君から予想外の酷評があり、う〜んと思ったのですが、今、思い返すとその同級生はその作家のファンで、彼が書いた文章も少なからずその作家の影響が感じられるものだったと思います。

そういう意味で、貴君の長年にわたる首尾一貫した態度はナルホドと思わせてくれました」

メールの原文では、僕がぼやかした作家の個人名を見事に当てていた。

後半のくだり、コバヤシのゼミの同級生が書いた卒論を僕が読んで酷評した、というのは、まったく記憶にないのだが、いかにも僕のやりそうなことである。コバヤシがよいと思った卒論を、なぜ僕がそのとき酷評したのか、という積年の謎が、これで解けたようである。これを書いた後、ちょっとネガティブな文章だな、と反省したのだが、コバヤシから共感するコメントをもらって、書いてみるものだなと救われる思いがした。

ほかにも、最近のブログを読んだ感想が綴られていた。いずれも、このブログをこんな形で続けて来てよかったと思える感想だった。

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ちょっと久しぶりですが長々と失礼

鬼瓦殿

こんにちは。「高校時代の友人・元福岡で今堺」のコバヤシです。

相変わらず忙しそうですし、体調もすぐれないようですね。こちらは、いくつか持病はあるものの日常生活では支障はなく、まあそれなりに元気にやってます。

今日は、そんな持病でちょっと離れた街の病院に行くときに車窓から見える風景で貴君と昔旅した時のことを思い出し、久しぶりにメールする次第です。

ちなみにその風景は、毎日通勤時に見ているのですが、うっかりすると何でもない風景として過ぎ去ってしまいます。

最初は全く気に留めもしなかった、その緑の風景、少し距離を置いて点在する森というのか林というのかを見ていたある日、街中に森が点在するのも変だよなあと考えていて、漸くここは堺、あの緑は古墳か!と気付いた次第。

堺には世界遺産に登録された巨大な古墳群があるのですが、残念ながら古墳群は高いビルの上からでも見ない限り、大きすぎて何だかさっぱり判りません。

と前置きが長くなりましたが、今朝この古墳を車窓から見ながら思い出したのは、30年以上も前の大学時代に、貴君の車の乗せられ(私は車が嫌いで自ら何処かに行こう!と言い出す筈も無いので、貴君に無理やり連れていかれた筈?)、当時高校時代の友人が住んでいた信州松本を訪ねた時に、貴君が非常に貴重な遺跡が近くにあるので見に行くぞ、と車で1時間近くうろうろするものの一向にその遺跡は見つからず、最後に小さな丘というのか山というのかに白い棒が1本建っいるのを見つけ、それが遺跡の印というのが判り、貴君が感慨深げに満足している横で、私は、何この棒1本だけ?それがどうしたって言うの?と呆れていた、という思い出です。

それから、同じ時だったと思うのですが、もう一つ重要な遺跡があるから、これも行かねば!と言うので、まだ行くの?と半ばウンザリしながら、やはり車で連れていかれた先にあったのは、少し大きめの石が3つぐらい積み重なって置いてあるだけというもので、これも貴君が満足げにしている横でやはり呆れていたことも思い出しました。

その方面の素養が全くない私には残念ながらその貴重さが全く理解出来ませんでした。

やはり私のような即物的な人間にはもう少し具体的な、何か見て判るものが無いとピンと来ません。

家の近所にあるザビエル公園は、堺の豪商がフランシスコ・ザビエルを招いてもてなしたお屋敷の跡地らしいのですが、ごく普通の公園なのでフランシスコ・ザビエルと言われてもなあ...、と思ってしまいますし、やはり歩いて5分ぐらいのところに与謝野晶子の生家跡というのがあるというので見に行ったら看板一枚あるだけで、これもう~んという感じです。

千利休の屋敷跡なんてのも近くにあるようですが、これも推して測るべしと行くのは止めました。

それはそれとして、ちょっと話は変わりますが、貴君はワクチンを既に二度打ったようですが、私は漸く今日の午後、病院から帰ってきてから、また大雨の中20分ぐらい歩いて、1回目のワクチンを打ちに行って来ました。

今のところ何の体調変化も無いので、まあ大丈夫かと考えています。

せっかく歩いて少し遠くまで行って来たので、700年近く続く和菓子屋さんで堺の名物と言われるスイーツを食べて帰ろうと10分ほど雨の中を歩いていったのですが、この悪天候の中、店の中は人で一杯で、これは無理と諦め店を出ました。

ちなみに、この店は秀吉が大阪城を築城した際に、当時の店主がその屈強振りを称えられ今の屋号を貰ったとのこと。

とは言え、何か甘いものを食べたくなり、ふと思い出せばもう10分ほど歩けば前述の与謝野晶子が幼少時に好んで食べたというあんころ餅が名物の、これまた400年ぐらい続く和菓子屋があるのを思い出し、大分小雨になった中てくてく歩いて行ってみましたが、こちらはお客は全くおらず、それでは名物のあんころ餅を買って帰ろうかと思って店内を見ると、先ほどの店で食べられなかったお菓子が売っていたので、これを買って帰り食べました。

ということで、私には珍しく朝から歴史に想いを馳せる?一日となりました。

ワクチンの2回目は9月の初めに堺市役所の21階で打つ予定で、ここからは堺の古墳群が見えるようなので、気が向いたらまた報告します。

と、ここまで書いて読み返してみると文章は長いし、内容もだから何なんだという感じでもあり、メールするのを辞めようと思いましたが、折角書いたのでやっぱりメールします。

ぐでぐでとくだらない話をメールしてしまい申し訳ありません。

関東も雨で鬱陶しい天気が続くようですが、あまり滅入らないようにお過ごしください。

では、またそのうち。

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御礼

鬼瓦殿

こんばんは、堺のコバヤシです。

唐突では有りますが、貴君に御礼申し上げます。

O先輩とモリ先生の話を書いた貴君のブログで、「恩師に自分の近況をたまにお伝えできるのは、ありがたいことである」という一節を読み、そう言えばここ数年、恩師であるフランス語教師だったY先生に全く連絡していなかったと思い出し、堺に引っ越したこと等の近況をメールしてみました。

暫くして返信が有り、我々学生と過ごせた時期は本当に楽しかったこと、コロナが収束したらまた我々に会いたいと返信を頂くことが出来ました。

しかも、何回かメールのやり取りをしたところ、恩師は体調を崩して入院中だと分かりました。

貴君のブログを読まなければ、そんな恩師の状況も知らずに過ごしてしまい、更に言えばどうやら恩師も私のメールに励まされた感じも有ったので、貴君には本当に感謝の念に堪えません。

ということで、とりあえず御礼まで。

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記憶のパズル

「しかし、人間の記憶はいい加減なものですね。

バベルセカンドに行ったのが山下洋輔のバンドにすり替わっていたとは。

ちなみにスンガリーレストランは、私が大学一年の時に入っていた先輩のバンドで、このバンドもバベルセカンドでライブをやったので、貴殿に来て貰ったように思います。

バンド編成はアルト、テナーがフロントで、電気バイオリン、エレキギター、エレキペース、ドラムというもので、エスニック調歌謡ジャズロックみたいなバンドでした。

このバンドのことはすっかり忘れてました。

そう言えば、このスンガリーレストランは一年生の時の11月の大学祭で、大学の講堂前のメインステージでも演奏したのですが、その時に演奏を聴いてくれたB君が「コバヤシの雄叫びのようなソロが凄かったよ!」と言ってくれたのを、久しぶりに思い出しました。

もうすぐB君の命日でしょうか。

B君のことはたまに思い出して、何故学生時代にあまり会話をしなかったのか、今でも悔やまれます。

貴君のブログで、B君のお墓が有った鎌倉の紫陽花で有名なお寺に独りで行ったとあったのも間違いで、私と二人で行ったのでしたね。

やっぱり人間の記憶はいい加減ですね!

まあそんないい加減な記憶でも、何かをキッカケにあーだったっけ、こーだったっけと思いを巡らせることも良いのではないでしょうか。

歳をとったせいか最近はそういう風に考えるようになりました。

では、またそのうち。」

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O先輩の思い出

6月8日(火)

久しぶりに、高校時代の友人のコバヤシからメールが来た。この4月から大阪の堺に引っ越した。

「鬼瓦殿

コバヤシです。こんばんは。

少しご無沙汰です。

堺に引っ越して早二か月が過ぎましたが、新しい職場にはまだ慣れたとは言いませんが、やはり地方都市というのは物価も安く新鮮な食材も手に入り易く、自炊派の私にはなかなか快適か生活環境では有ります。

改めて東京というのは良くも悪くも特異な場所で、やはり住む場所ではないなあとつくづく実感しています。

前置きが長くなりましたが、今日、貴君のブログにO先輩のことが書かれており久しぶりにメールしようと思った次第です。

貴君のブログには高校在学中には全く面識がなかったと有りましたが、そういう意味では私も一緒なのですが、接点は有りました。

あれは確か一年生の時だと思うのですが、我々が音楽室でサックスのパート練習をしている時に、Salt先輩がドラムを叩いて、女性のピアノの方とジャズのセッションをしていました。高校生なのにジャズが弾けるんだとびっくりしながら聴き入ったことを今でも鮮明に覚えています。そう、その時のピアノがO先輩だったのです。確かウィスパー ノットというジャズの名曲を演奏していたのも覚えています。後は何を演奏していたのか全く覚えていませんが。

ちなみに何故、そのピアノの女性がO先輩と分かったかと言えば、当時、吹奏楽部のパーカッションにいた同期のオオタが民俗音楽研究会=民音(30年以上振りにこの言葉を使いました)と兼部していて、O先輩のバンドのドラムをやっており、うちの高校にはSalt先輩の他にも凄い人がいると言っていたからです。

学園祭の夜のステージで演奏しているのも観たように思います。ちなみにこの時のドラムは当時、オオタです!

ということで、貴君もほぼ私と一緒に行動していたと思うので、O先輩の演奏は聴いていたはずです。

その後、私は大学のジャズ研に入り、2年か3年生だったかの時に、ゲイリー トーマスというニューヨークの若手ミュージシャンのバンドが来日した時に、当時はまだ無名の日本人キーボード奏者を連れて来たのですが、それがO先輩だと知り驚いたものです。

当時、ジャズ研の同級生でバークリーから帰って来て間もないヤマジョーが、O先輩とバークリーで一緒で、高校の先輩なんだけど知ってる?と聞くと、「あ〜、OJ(O先輩は当時、バークリーの日本人仲間からそう呼ばれていたらしい)ね。OJは凄いけど無茶苦茶性格がキツイんだよね。」と言っていたのを覚えています。

ちなみに当時、高校のOB会でO先輩の演奏を聴くという企画があったのですが、我々は抽選に外れて聞けなかったということもの有りました。その時の対バンは、ハンク ジョーンズという超巨匠ピアニストだったので、私はむしろそちらが聴けなかったことが残念でした。

ついでにもう一つかなりこじつけ的なO先輩との関わりを書かせて貰うと、私が大学四年の時にサックス、ペース、ドラムというトリオのバンドを半年ぐらい組んでいたのですが(貴君が覚えているかどうか分かりませんか、ジャズ研の定期演奏会を地元のバベルセカンドでやった時に貴君にもそのバンドの演奏を聴いて貰ってます)、その バンドのドラマーだったヒロセ君という人が、後に日本を代表するジャズドラマーになり、O先輩のヨーロッパツアーに参加しています。ちなみに、このヒロセ君という人は、吹奏楽部の同期でフルートのフクザワの中学時代の吹奏楽の同級生でも有ります。

ということで、かなり長くなり失礼しましたが、かなりなこじつけも含め貴君もO先輩と間接的には多少の関わりがあったというわけです。

なかなか人の繋がりというものは面白いものですね。

ということで、またそのうち!」

ここに書かれている内容を、僕はほとんど覚えていない。

1年生の時の音楽室でのパート練のときに、Salt先輩とO先輩がセッションをしていたというのは、まったく覚えていない。

同期のオオタが、O先輩のバンドでドラムを叩いていたというのも知らなかった。いや、学園祭の夜にオオタのバンドが演奏していたことはよく覚えている。オオタがドラムを叩いていたことも。

そのときに僕が覚えていることといえば、僕はオオタから、学園祭の夜のライブで使いたいから、僕のアルトサックスを借りたいと言われて、しぶしぶ貸したのだが、そのときに僕のアルトサックスがかなり乱暴な扱いで演奏されて、壊されて戻ってきたことを覚えている。

僕は、演奏を聴きながら、自分のアルトサックスの安否ばかりが気になって、O先輩の演奏を聴いていなかったのだろう。

大学4年の時に、地元のバベルセカンドという店でジャズのライブを聴いたことは覚えている。ただしそこで聴いたライブは山下洋輔だったという記憶にすり替わっていた。実際はコバヤシのバンドだったんだな。

そしてコバヤシのバンド名は「スンガリーレストラン」だったと思う。しかし僕の記憶では、サックス、ドラム、ベースのトリオではなく、そのほかにも、電気バイオリンとか、もう少し編成が多かったように思う。

僕は高校生活のほとんどをコバヤシと一緒に過ごしたから、たぶん、コバヤシの記憶が正しいのだろう。

僕の細かな記憶というのは、まことに頼りないもので、たまに入れ替わることもある、というのが、実に興味深い。

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