コバヤシ

大阪のバーの夜

こんにちは。コバヤシです。

少しご無沙汰してしまいましたが、元気ですか?

本日、訪ねたバーでなかなか面白い体験をしたので、メールさせて頂きます。

昨日、業界団体の会合が有り、大阪の商業の中心地、船場に行ったのですが、会合とその後の懇親会が早く終わったので、大阪に来てからたまに行く、北新地に近いバーに行くことにしました。

お店に入ると、右端に2人連れの少し歳のいった男性客、左端の方に若い方が1人で飲んでいます。
その間に私は座ったのですが、右横の2人連れは結構呑んでいる感じで、楽しそうに盛り上がっています。どうやら2人は会社経営者とそのお客さんの社長のようです。

私も飲み始めて少しすると、2人のうち年輩らしい方のノヅさんという方(御年は確か65歳と言っていました)が、「ハマちゃん(経営者の方で多分50代)な、折角、久し振りにこの店に来たんやからタッちゃん(バーのマスター)にも1杯奢ってやらんと。」、と言い出しました。更に、「ハマちゃんな、他にお客さんも2人おるし、折角だからシャンパンの1本でも開けて一緒に呑んでもらったらええやん、これも何かの縁(えにし)やし。」、と言い出します。ハマちゃんはすかさず、「ちょっと待ってアンタ、アンタお金出してくれんの?というか俺が出すんやろ、いい加減にしてくれや!」、と返します。ノヅさんは、悪びれた様子も無く、「俺は一銭も出さんで、アンタガ金出すんやろ。ここでご馳走しといたら、アンタかっけえ~で。しかも、今だったら店には5人しかおらんし。この後、他のお客さん来たら、もっと高くつくで。」、と返します。ハマちゃんは、「オッサンん死ねや、いい加減にしてくれや、さっきの店でもアンタ、1杯しか飲めんと言っとたのに5杯も飲んだやんけ。しかも、ここのお客さんとは多分もう二度と会わへんで!」と少し怒り気味に答えます。その後、ハマちゃんが私の方を向いて、「このオッサンと昼の11時過ぎから飲んでて、もう6件目ですわ。どう思います?」と言ってくるので、「そんな時間から今まで飲んでるとはお二人ともお元気ですね。」とお茶を濁すと、ノヅさんは全く意に介さず「ハマちゃん、いいからシャンパン1本奢ったれ。」と言い、押し切られたハマチャンは「分かったは、じゃあ1本シャンパン奢るわ。他のお客さんにもお騒がせして迷惑かけたし。」と豪勢にも、たまたまいた我々にもシャンパンをご馳走してくれました。

ノヅさんは「この酒、ホント旨いな。やっぱりシャンパンは良いわ。」と飄々と語ります。ハマちゃんは「オッサン死ねや。高い酒なんだから旨いのは当たり前や!」と突っ込みます。ついには、ノヅさんは、歌でも歌うかと何故か博多祝い唄を歌い出す始末。ハマちゃんは「いい加減にしろや。この店は歌を歌うような店やないやろ。他のお客さんに迷惑やろ!しかも、なんで大阪の人間なのに博多なんやねん。」とすかさず突っ込みを入れますが、ノヅさんは全く意に介せず、「そやなあ。タッちゃんが修行してたXXXXXでは、ワシも流石に歌う勇気なかったわ。あの店は何というか圧が強くて、ワシも静かに飲んどったわ。」ハマちゃんも「XXXXXは大阪1の高級バーやから当たり前やろ!でも、確かにあの店は本当に凄かったなあ。」と、どうやら今は閉店したらしい北新地のバーの思い出話にマスターも入って花が咲きますが、暫くすると、またノヅさんが「じゃあ折角美味しいシャンパンを飲めたから、博多一本締めでもするか。お客さんも一緒に御願いします。ほな行きますか。よ~、(パン、パン)、もひとつ(パン、パン)、(パパンガパン)。ありがとうございました!」と自由奔放に振る舞います。ハマちゃんも思わず一緒に一本締めをした後、「オッサン、何しとるねん。迷惑やろ。しかも何で、また博多一本締めなんやねん。」と突っ込みを入れ、私ともう1人のお客さん、そしてマスターの3人は笑いこけるばかり。

暫くしてグラスのお酒が減ってくると、またノヅさんが「ハマちゃんな、折角だからシャンパンもう1本開けてみんなで飲もうや。」と言い出します。すかさずハマちゃんが「アンタもう帰れや!誰が勘定払うと思ってるんや。あんた払わんか!ここにカード置いてけや!」とたたみかけます。ノヅさんは、全く動じることも無く「俺は1銭も出さんで。ええやん、アンタが出しとけば。」と淡々と返します。するとハマチャンは再び私の方を向いて「このオッサン、資産12億円はもっとるんですわ。それなのに、俺に奢れなんて、どう思います?」と訴えてきます。流石に私も「もう1本奢って貰うのは申し訳ないので。。。」と、ノヅさんの方を見て言うと、ノヅさんは「俺が金出すわけやないんで構いませんわ。シャンパン旨いですやろ。」としゃあしゃあと答えます。ハマちゃんは、ノヅさんの方を見て「オッサン死ねや。アンタ、金出さんくせに何言うとんねん。ええい、分かったわ、もう1本シャンパン開けるわ!」と半ばやけになって言います。マスターは「ありがとうございます。高いシャンパンを2本も開けてくれて助かります。ご馳走になります!」と言うと、ノヅさんは「そうやろ。新地の酒の味も判らん姉ちゃんに高い酒飲ますぐらいなら、ここの酒の味判る人達と飲んだ方がよっぽどマシやわ。」と答え、ハマちゃんはまた「オッサン死ねや!カネ出しとんのはワシやで!」と返します。その後、暫く横の2人はボケと突っ込みを繰り返し、最後にハマちゃんが「お騒がせしてすいませんでしたね。」と我々に話しかけて、2人はお店を出ていきました。

2人が店を出て暫くしてから、バーのマスターが「あの2人は、この店にもう20年以上も通ってくれているんですよ。実はノヅさんは建築関係の会社を経営しているんですが、数年前に仕事に行き詰って鬱になってしまってお酒を辞めていたんです。今日は久しぶりに2人でお店に来てくれたんです。ハマちゃんは、あんなこと言ってましたが、ノヅさんが楽しそうにしてくれていたんで、本当に嬉しかった筈です。」としみじみと語ってくれました。

2人の会話を聞いているだけで漫才を聞いているようで面白かったのですが、そんなことがあって今日2人がここで飲んでいたのだと思うと、表面では判らない大阪人の人情の深さに少しジ~ンときてしまいました。
という訳で、何だかよくわからないまま、美味しいお酒を飲みながら、漫才を楽しみ、更には人情話まで聞くという、大阪のバーの懐の深さを実感した次第です。

それでは、またそのうち。

…とここまでが、高校時代の親友・コバヤシからのメール。

8年ほど前の、ある地方都市でのやきとり屋での出来事を思い出した。

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新大阪再会

11月20日(日)

明日は午前から関西で用務があるので、日曜日に用務先と同じ市内に前泊することになった。

いま大阪府内に住んでいる高校時代の友人・コバヤシに連絡をとってみたところ、せっかく日曜日に関西方面に来るなら、会おうということになった。たしかに、平日に関西に滞在しても、コバヤシは仕事なので会うことは難しい。

コバヤシと会うのは何年ぶりかと調べてみると、2018年6月に生まれたばかりの娘の顔を見にわが家にやってきて以来だと思うから、4年半ぶりくらいである。

問題は、どこで会うか、である。

僕が滞在する用務先と、コバヤシの住んでいるところとでは、同じ関西といっても、ちょっと離れている。最初はその中間くらいの場所を指定されたのだが、新幹線から降りて、在来線に乗り換えて途中下車して、また用務先のホテルに向かうというのは、荷物も重いし、かなりしんどい。かといって、いっぺん用務先のホテルにチェックインして、そこから在来線で30分以上かけて移動するというのも、これまたしんどい。加えて、昨日の土曜日はひどく具合が悪くて、コバヤシに会う体力が残っているか心配になった。

何かいい方法はないものか、と調べてみると、1日に4本だけ、新大阪駅から用務先のホテルの最寄りの駅まで直通の電車が走っていることがわかった。これならば、新幹線を降りて在来線に乗り換えて途中下車する、という手間が省ける。新幹線を降りて新大阪駅で会えば、そのままその在来線の直通電車に乗って用務先の最寄りのホテルまで直行できる、というわけである。

ということで、新大阪で待ち合わせて会うことにした。

約3時間、ああでもない、こうでもない、と話をしたのだが、とくに来年開催予定のイベントの準備で大変だ、という話をすると、コバヤシは大笑いしながら、

「人間というものはいくつになっても変わらないものだな。おまえを見ているとつくづくそう思う」

と、いつもと同様の結論を繰り返した。面白そうだと思って自分が言い出した企画を実現しようとして、最終的にはそのことに苦しめられる、というのが、高校時代からの僕の性分のようだ。

いろいろと話してくうちに、僕自身は何の趣味もないのだが、趣味人、それも「知られざる趣味人」に出会うのが好きなのだ、ということが自分でもわかってきた。

「だから俺とつきあいが続いているんだな」とコバヤシ。

たしかにそうだ。趣味人のコバヤシは、いままで僕の知らない趣味をいろいろと教えてくれた。

コバヤシとは、性格も、趣味嗜好も、おそらくは思想信条も、かなり異なるのだが、それでも長続きしているのは、そういうことなのだろう。

「最近は、みんなで集まることよりも、会いたい人に会いに行く、という方がおもしろくってね」

「終活みたいなこと言うなよ」

50歳を過ぎたら、若い頃に張り巡らされた人生の伏線の回収がはじまる。あながち終活という言葉も、間違ってはいない。

もちろん、「また会おう」と言って別れた。

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表現力について

10月27日(木)

前回の記事で、久石譲の「人生のメリーゴーランド」がビッグバンド用の編曲にとてもよくマッチしていて、どことなく「Beautiful Love」というジャズの名曲を彷彿とさせる、といったようなことを書いたが、それに対して、高校時代の親友・元福岡のコバヤシがすぐにメールをくれ、「そう言われてナルホドと気付きました」と書いてくれていた。

「人生のメリーゴーランドは短調、すなわちマイナーのキーが4小節続き、その後の4小節は長調、すなわちメジャーに転調します。この展開はBeautiful Loveも一緒ですし、有名な枯葉も同じような構成です。

ちなみに私のオリジナル曲もマイナーで始まり、少し間をはさんでメジャーに転調するので似たような感じは有ります。

そもそも自分も含めて日本人はマイナーの曲を好むというか、感情移入しやすい傾向にあると思います。

そうすると、貴君が私の演奏で感心したのも、私の演奏技術より、日本人好みのマイナーの曲だったからでしょうか。う~ん」

すごい。僕の音楽に対するざっくりとした感覚を、理論立てて説明してくれている。ナルホドと思ったのはこっちの方である。

僕はジャズにぜんぜん詳しくないのだが、それでもなんとなく頭の中にその引き出しができているのは、高校時代に同期のコバヤシや1年下の後輩からいろいろなことを教わったからである。先日のミュージアムコンサートで、「リカード・ボサノバ」(ギフト)という曲をこれからやりますと聞いて「おおっ!」と思ったのは、高校時代にボサノバ好きな後輩にイーディ・ゴーメがいいと奨められたからである。僕はイーディ・ゴーメのレコードを買って、ある時期、くり返し聴いていた。人生において、なにひとつとして無駄な知識はないのである。

コバヤシはメールの別のところでこんなことを書いていた。

「ちなみに私の今の演奏技術は学生時代よりも相当衰えています。ただ成長したとすれば、歳を重ねた分、技術とは違う表現力がついたのかもしれませんね。もし、年齢を重ねたことがほんとうに表現力の向上に繋がったとするならば、嫌々続けたサラリーマン生活も無駄ではなかった、ということでしょうか」

そう、無駄ではなかったということである。技術の衰えを表現力でカバーする、というのは、僕が職業的文章を書く場合でも同じである。

表現力についての考察は、別の例でもう少し書いてみたいところだが、疲れたので次の機会に書く。

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人生のメリーゴーランド

久しぶりに、高校時代の親友・元福岡のコバヤシからメールが来た。

「鬼瓦殿

ブログを読む限り、どうにかこうにか何とかやってるみたいですね。でも相変わらず、仕事を詰め込んでるのを見ると、人間変わらないものだなあと、つくづく思います。

先程、貴君のブログでミュージアム コンサートに行き、また人前で演奏してみたい、と書いていたのを読み、久しぶりにメールしようと思いました。というのも、10月に入り先週末、先々週末と私自身が人前で演奏する機会が有り、その楽しさをしみじみと実感していたからです。

ちなみに先々週末は奈良の○○寺というお寺で、この夏から参加し始めた大阪のビッグバンドで演奏し、この週末は門司港で10年来続けている福岡のカルテットで演奏しました。

久しぶりの人前の演奏でしたが、やはり観客に向かって演奏するというのは、演奏の出来自体はともかく嬉しいものですね。所詮、自己満足でしかないのですが、やはり人に見て欲しいという欲求が自分にもあるのだなあと、つくづく思いました。

貴君も諦めずに是非また挑戦して欲しいものです。

ということで、先週土曜の門司港の演奏を知り合いが撮ってくれた映像のアドレスを添付するので興味があれば聴いて見てください。学生時代に作曲したオリジナルを33年振りに演奏してます。

ビッグバンドの方はYoutubeで検索すると出てきます。「人生のメリーゴーランド」という曲でソロを吹いています」

送られてきたリンクをたどり、演奏を聴いてみた。

門司港でのカルテットの演奏は、コバヤシのオリジナル曲で、彼の演奏を堪能できた。高校の後輩で、CDを出したりしているサックス奏者もいるのだが、コバヤシの演奏がはるかに心にすっと入り込むのは不思議である。むかしから聞き慣れた音だからだろうか。若い頃よりも上手くなっている。若い頃からどんな演奏をやりたいのかがはっきりしていて、軸がぶれていないな、と感じる。

奈良の古刹での演奏はビッグバンド編成で、どれも親しみやすい曲ばかりだった。彼がソロをとった「人生のメリーゴーランド」。すごく聞いたことがある曲で、何の曲だったかな?と調べてみたら、宮崎駿監督の映画『ハウルの動く城』の劇伴音楽で、久石譲が作曲したものだった。どうりで心に残るはずである。

この曲をビッグバンドのためにアレンジしたものなのだが、妙にマッチしている。どことなく「Beautiful Love」というジャズの名曲を彷彿とさせるからかも知れない。そう感じているのは僕だけかも知れないが。

僕自身の演奏は叶わなくても、職場にミュージシャンを呼んでコンサートをしたい、などという思いに駆られる。

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食を巡るご縁

閑話休題。

「秘境探検」の続きを書く前に、「高校時代の友人・元福岡のコバヤシ」から、「食を巡るご縁」と題する新作が届きました。食にこだわるコバヤシの、不思議な縁の話をお楽しみください。

「食を巡るご縁」

この週末、所用で福岡に行ってきました。

折角なので、福岡時代にたまに伺っていたHという和食の店に行こうと予約していたのですが、前日に娘さん(この店は大将とその奥さん、娘さんの3人でやっています)から電話があり、「すみません。お父さんが、また体調を崩してしまい、明日はお店を開けられそうに有りません。」とのこと。

3月にも伺おうとしたのですが、やはり大将が体調を崩して店を開けられず、今回、予約した時に大将が電話に出てくれたので「大丈夫ですか?」と聞いたら、「もう大丈夫ですよ!」と元気そうに話していたので、楽しみにしていたものの、恐らく70代後半という年齢を考えると致しかたないのかと諦めました。

前置きが長くなりましたが、じゃあ何処に行こうかと考えていたら、この何年か伺えていないバーが赤坂にあることを思い出し、先日たまたまその店のインスタを見たら、15時から20時までしか開いてないと書いてあったので、じゃあ久し振りにここに行こうと思い立ち行ってみました。

このバーOは、貴君も連れて行ったことのある唐津の寿司やYの大将が、おくんちさん(唐津くんち)の時に常連のお客さんをお店に招いてご馳走してくれた時に知り合ったYさんが営むお店です。実は唐津のYの大将もこの春に体調を崩していたので、そんな話でもしながら飲もうかと伺った次第です。

久しぶりにお店に伺うと、「東京はいかがですが?」とYさんが話しかけてくれたので、「実は昨年から、大阪の堺に転勤で引っ越したのです。」と話すと、Yさんが驚いたように、「そうなんですか!実はうちの家内が堺の出身なんですよ。奇遇ですね!」とのこと。

その後、唐津のYの大将の話などをしていたのですが、ふとYさんのインスタに最近、私がちょくちょく伺っている日本料理やのUという店の料理らしき写真が何処にある店とも書かれずにあがっていたことを思い出し、Yさんに「インスタにあがっていたUって、心斎橋にある和食のお店ですか?」と尋ねると、Yさんが「そうです!コバヤシさんUさんを知っているのですか?」と聞き返されたので、「去年からUには、ちょくちょく伺っています。大阪のキタにあるバーRのKさんに、是非、行ってみて、と言われて行ったら、物凄くて本当にビックリして2か月に1回ぐらい行ってるんですよ!」と答えると、Yさんは「えっ!本当ですか!私もUさんにはもう8年ぐらい家族で通っているんですよ。と言っても、それなりの値段もするし家族4人で行くとそれなりの覚悟が必要なので、年に1回ぐらいしか行けてないんですけど。でも、大将にも女将さんにも顔を覚えて貰っていて、子供もつれてくもんですから、いつも女将さんがウチの子供たちをハグしてくれるんですよ。ウチの子供たちも御婆ちゃん年々小さくなっていくけど大丈夫かなあと心配してるんですよ。」とのこと。

ここで少しUの説明をすると、この店は大阪のいわゆるミナミでもう40年近く続いている老舗の日本料理屋で、人によっては、江戸時代から続く大阪の料理を継承する最後の一軒、という知る人ぞ知る名店です。気は優しいけれど照れ屋なので軽口をたたきまくる大将と、飄々としながら優しい大将のお姉さんが女将さんをやっている店です。二人ともとおに70歳を過ぎる方達です。

何せ業界の中では大将はコワモテで通っているらしく、行って見たいけど怖くていけないという人が多数いるようです。

ということで、ひとしきりUの話題で盛り上がり、Yさんは「まさか福岡でUの話が出来るなんて、本当に嬉しいです!」と感激しきりでした。

と書いていて、ふと気づいたのは、10年程前に唐津の寿司屋Yで出会ったバーOのYさんと今、大阪に住む私が、共に大阪の日本料理屋Uに通っている奇遇です。

しかもUを紹介してくれたのは、東京時代に通っていた浅草のバーDのNさんが、大阪に行ったらと紹介してくれたバーRのKさんで、その元を辿って行くと、浅草のDを知ったのは京都のバーRで、Rで飲んだコニャックがたまたま浅草のDが記念に詰めたボトルで、その話を銀座のバーDでしたところ、浅草のDを紹介して貰い、その繋がりの中で、私は今、大阪のUに通うことになり、そこで、また唐津のYで出会った福岡のバーOのYさんと繋がったわけです。

と、私だけかもしれませんが、飲食を巡るご縁の不思議さをこの週末に体験した次第です。

ついでに書くと、私がこの10年間で通うようになった店の殆どは家族経営で、しかもその多くが70歳を超える人たちが料理を作っていることにも気づきました。後何年、そうした皆さんの料理が食べられるのか。。。

ということで、今回もまた長々と失礼しました。

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さらに対話は続く

「鬼瓦殿

こんばんは。プログ読みました。

家にあったメイプルソープのカタログを見ると確かに1992年でした。とすると、蕎麦屋廻りをする前だったようですから、恐らく蕎麦が好きだった亡父の影響もあり蕎麦屋に行ったのでしょう。

貴君のプログにあった、青春時代に友達から影響を受けるというのは、その通りで、私も大学時代のサークルで様々な音楽を友達から教わり、自分一人では決して聴かなかったような音楽を聴くようになりました。

では貴君からの影響は何だったかと、今日は難波の居酒屋、西天満のバーとハシゴしながらツラツラと考えてみたのですが、なかなか思い浮かばず、と書きつつも、もしかしたら、それほど人の話を聞くのが得意だったとは思えない自分が、今は気長に人の話を聞くようになったのは、高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰かと思い当たりました。

更に、貴君に連れられて行った様々な遺跡を見たお陰で、最近は茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになったのではないかとも思います。

話は変わりますが、貴君のプログで、私が引越し先にレコードや本を全部持って行くのに感心していましたが、それは福岡に転勤になった時に、もう千葉にあった実家には二度と戻るまいと思って一式持って行ったのですが、その数年後に母親が千葉の家を売り払って福島に行ってしまい、私のものは全て処分されてしまったことを考えると宜なるかなと思います。」

「高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰」で、気長に人の話を聞くことができたって、それ、知的刺激でも何でもないだろう、と、コバヤシからのメールに思わず笑ってしまった。

「茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになった」というのも、断じて言えるが僕の影響ではなく、趣味人としてのコバヤシの素質だろう。

つまり僕は、何ら影響など与えていないのである。

もともと僕は、主体的に何かに熱中できるタイプではなく、他人に影響を与えるような人間でもないことを自覚しているから、コバヤシの認識は正しい。これは亡き父親譲りだと、最近になって思い至った。コバヤシが、趣味人だった亡父の影響で蕎麦屋めぐりをはじめたように。

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対話は続く

5月13日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

久しぶりに朝から出勤し、午前中は神経を使う仕事、午後はたまっていた仕事の処理をしていたら、あっという間に夜になってしまう。

高校時代の親友・元福岡のコバヤシは、どうやらムーンライダーズをきっかけに、いろいろと思い出したらしい。立て続けにメールが来た。

「鬼瓦殿

矢野顕子のSuper Folk Songを貴君に薦めていたのなら、多分、ムーンライダーズを聴き始めた頃と同時期(仕事が嫌で嫌でしょうがなく、音楽を聴くことに逃げていた頃)な筈なので、貴君にムーンライダーズも薦めていた可能性は高いですね。全く覚えていませんが。

蕎麦に凝っていたのは社会人3〜5年目なので、貴君を蕎麦屋に連れて行ったような気がします。

目黒にある東京都庭園美術館に写真家のロバート・メイプルソープ展に連れて行って、貴君が余り面白くなさそうにしていた記憶があるので、多分、利庵という蕎麦屋に連れて行ったのではと推測します。

でも、もしかしたら、神保町の蕎麦屋だったかもしれませんが。

ん〜、やはり人間の記憶というのは曖昧なものですね」

僕も少し思い出してみる。

矢野顕子の「SUPER FOLK SONG」を猛烈に薦められたのは、蕎麦を食べながらだったことは明確に覚えているから、小林が言うように、大学を卒業して、3~4年くらい経った頃なのかもしれない。やはりそのときに、ムーンライダーズの話題も出たことは、ほぼ間違いない。

目黒にある東京都庭園美術館に連れて行かれたことも、覚えている。ただし、何の展覧会だったかは覚えていなかった。

ただ不審なのは、いま調べてみると、東京都庭園美術館でロバート・メイプルソープ展が行われたのは、1992年4月のことで、コバヤシにとっては社会人1年目、僕にとっては大学院1年目ということである。社会人3~5年目に蕎麦に凝っていたとするコバヤシの記憶と、微妙に異なる。

仮に、ロバート・メイプルソープ展に連れて行かれたとして、僕が「余り面白くなさそうにしていた」のだとしたら、そんな僕が、いまの仕事をしているというのは、苦笑を禁じ得ない。じつは無意識下で、いまの仕事に何らかの影響を与えているのかもしれない。

東京都庭園美術館を見たあと、利庵という蕎麦屋に行ったかどうかは、覚えていないが、コバヤシのことだから、僕を蕎麦屋に連れて行ったのだろう。

僕が覚えているのは、日本橋の室町砂場、神田のまつや、あと都内の数軒だったと思う。板わさとかそばがきをつまみに、日本酒を引っかけてから、おもむろに蕎麦を注文する、という、オッサンみたいな食べ方を教わった。20代前半のときですよ!!

立て続けに、こんなメールも来た。

「追伸

矢野顕子がピアノの弾き語りでレコーディングしたニットキャップマンは、そもそもムーンライダーズのオリジナルアルバムに矢野顕子がゲストで入って歌った曲でした。

昨日、家のCDを漁っていたら、ムーンライダーズの80年のライブがあり、改めて聴くと、この辺りのライブは大分イっちゃった感が強く、テクノポップ独特の電子音にノイズ的な要素も入り混じり、曲によっては原曲のメロディーをとどめていないというか、ワザと外してラップ的な曲になってしまったようななのもあり、時代を感じました。

やはり80年代というのは、YMOに象徴されるように、日本のポップスが最も先鋭的な時代だったのでしょうかね。

それでは、またそのうち。」

転勤とともに、高校時代に読んだ本とか聴いていたCDも、そのまま持っていくという物持ちのよさにも、驚かされる。

帰宅中の車で、TBSラジオ「問わず語りの神田伯山」をリアルタイムで聴いていたら、リスナーからのメールに対して、こんなことを言っていた。

「思い返すと、友だちのおかげで世界が広がったことがけっこうある。高校2年の時、自分はプロレスにしか興味がなかったけれど、クラスの友だちが、絶対に面白いからと、広沢虎造の浪花節のCDを貸してくれた。半信半疑で聴いてみたら、これがじつに面白かった。それ以来、授業の休み時間のたびに、広沢虎造の話でその友だちと盛り上がった。いま思うと、それが講談師としての自分のその後の人生に影響を与えたと思う。そんなこと、友だちに教えられなければ、興味など持たなかったから。だから友だちは失わない方がいい」

と、ふだんの毒舌には似つかわしくないことを喋っていた。

僕がYMOにハマったのも、中学時代の友人のヤマセ君(いまとなっては、まったく消息がわからない)が薦めてくれたからである。それによって自分の世界が広がり、授業の間の休み時間には、教室のベランダでYMOの話ばかりしていた。

高校時代には、コバヤシのおかげで、YMOにしか興味のなかった僕に、ジャズという世界を教えてくれた。

そんなことを漠然と考えていたときに、ラジオでたまたま神田伯山が同じようなことを喋っていたのは、やはりシンクロニシティというべきであろうか。

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ふたたび、ムーンライダーズ

ムーンライダーズのことを書いても、このブログの読者にはまったく関心を引かないだろうなぁと思っていたら、高校時代の親友・元福岡のコバヤシから、ムーンライダーズに関する、熱いメールが来た。

「鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

このところこれと言ってネタも無く、貴君にメールすることも暫く無さそうだなあと思っていたのですが、ムーンライダーズの話を読み、またメールせざるを得なくなってしまいました。

貴君のブログでは、ムーンライダーズを紹介したのは中学時代の友達か、私のどちらかだろうと書いていましたが、恐らく私では無いと思います。

何故ならば、私がムーンライダーズを知ったのは社会人1年目の年で、しかも、その知った理由はと言えば学生時代に出入りしていた武蔵野市にある某国立大学のジャズ研で知り合った女の子のバンドに何故かボーカルとして雇われ、その某大学の学園祭でムーンライダーズの「マスカット・ココナッツ・バナナ・メロン」を歌わされたからです。この話を貴君にした記憶は無いので私ではないだろうと思った次第です。

余談ながら、その時にもう一曲歌ったのが矢野顕子の「相合傘」で、更に自慢げに書くと、そのバンドのドラムは前年私のバンドでドラムを叩き、後年、我々の高校の先輩の大西順子のヨーロッパツアーに参加した広瀬君でした。

その時、広瀬君は何を思いながら私のボーカルのバックでドラムを叩いていたのかは全く不明です。当時も怖くて聞けませんでした。

前置きが長くなりましたが、その時にムーンライダーズを知り、7~8枚CDを買い、その格好良さに痺れファンになってしまいました。

特に好きだったのは初期の70年代よりも80年代で、テクノポップの影響を受け余りにも時代から先行し過ぎて発売が延期された「マニア・マニエラ」、その為仕方なく?制作した「青空百景」、サエキけんぞうや蛭子能収を作詞に導入したこれまた先鋭的な「Don't Trust Over Thirty」(このアルバムの多くの曲はE.D MORRISON作曲になっていますが、賢明な貴君であればこれが何の洒落か判りますね!)などです。

尖がっていながらも、メロディアスで独特な詩の世界はジャズばかり聞いていた私には非常に新鮮で、当時、今更ながら聞き始めた矢野顕子と共に私の中では日本のポップス界のレジェンドとなっています。

この辺りのミュージシャンは結構、交流が有り、矢野顕子は自分のアルバムでムーンライダーズの鈴木博文の「大寒町」やムーンライダーズのアルバムに入っている「ニットキャップマン」なども取り上げています。

その後、矢野顕子はジャズ的要素が高かったことも有り、六本木PIT INNやBLUE NOTE東京他にライブを何度か聴きに行ったのですが、ムーンライダーズは未だ行けず終いで、もうバンドはとっくに消滅していたと思っていたので、貴君のブログを読み「お~!」と少し興奮気味になりメールをしてしまった次第です。

昨晩、多分、10年振り以上で前述のアルバムを聞いて見ましたが、やはり格好良い!!

我々YMO世代は、どうしてもこの辺りの音楽に行きあたってしまうのでしょうね。」

コバヤシは、僕にムーンライダーズがいいと言ったのは自分ではない、と書いているが、僕はやはりコバヤシから聞いた可能性が高いように思う。

コバヤシが社会人1年目、ということは、僕が大学院生だった頃だが、その当時、コバヤシとよく、都内の蕎麦屋をめぐっていたと記憶する。その際に話を聞いていた可能性がある。

メールの中に矢野顕子の話が出てくるが、コバヤシが矢野顕子のアルバム「SUPER FOLK SONG」を絶賛していたことをはっきりと覚えている。これは1992年に出されたアルバムだから、僕が大学院に入った年、コバヤシが社会人1年目の年である。だから学生時代にこの話を聞いていたはずはない。

だから、社会人になったコバヤシから、ムーンライダーズの話を聞いていたとしても、おかしくはないのである。

ちなみに、ムーンライダーズの鈴木博文が作詞・作曲し、あがた森魚が歌った「大寒町」は、「SUPER FOLK SONG」の中で矢野顕子によりカバーされているが、僕もこの曲は大好きである。

ムーンライダーズと矢野顕子といえば、前回に書いたかしぶち哲郎の「リラのホテル」は、矢野顕子との共作だし、コバヤシのいうとおり、あの界隈のミュージシャンは、みんな交流があったのである。

先日のラジオの話に戻ると、司会の大竹まことに、「バンドが長続きする秘訣は?」と聞かれて、

「ヒット作(代表作)がないこと」

と答えていたのが印象的で、僕自身の仕事や生き方を考える上でも、励まされる言葉であった。

蛇足だが、E.D MORRISONは、アナグラムである。

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『荻窪風土記』

4月26日(火)

3ヵ月にいちどの「ひとり合宿」の楽しみは、本を読むことである。いわば監禁状態になるので、事前に読む本を準備しなければならない。その吟味の過程もまた楽しい。

昨日は、高校時代の1学年下の後輩が書いた新作の小説を読んだ。あいかわらずおもしろくて、一気に読んでしまった。

今日は、井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫)を読んでいる。

先日、中央線沿線に住む友人から、『中央線小説傑作選』(中公文庫)が出ていると教えられた。中央線小説と聞いたら、僕も黙ってはいられない。読んでみるとこれがなかなかにおもしろかった。それだけでなく、「もし自分が中央線沿線を舞台にした小説をアンソロジーにしたら、どんな本を選ぶだろうか」と想像しながら読んだので、なおさら楽しかった。

僕は大学生の頃、ヒマでヒマで仕方がなくて、中央線沿線の古本屋を、まるで聞き込みデカのように、1軒1軒しらみつぶしに歩いたことがある。

僕にとっての中央線沿線のイメージというのは、中野あたりから立川あたりまでの、いわゆる直線区間の部分である。

そんな思い出もあり、中央線沿線には、ひどく思い入れがあるのである。

さて、「ひとり合宿」のときに、どんな本をもっていこうかと、ふと頭に浮かんだのは、冒頭に述べた井伏鱒二の『荻窪風土記』だったのである。

先に読んだ『中央線小説傑作選』の中には、当然、中央線にゆかりのある井伏鱒二の作品も収録されている。「阿佐ヶ谷会」という、たった2頁ほどの短編なのだが、その文体が妙に印象に残ったのである。これで決まり、と、さっそく『荻窪風土記』の文庫本を入手した。

そうしたところ、『中央線小説傑作選』を薦めてくれた友人から、

「明日から『ひとり合宿』ですね。もしまだなら、井伏鱒二の『荻窪風土記』なんてお供にどうですか。いい本です」
とメールをもらい、その偶然に驚いた。

そういえば、井伏鱒二の『荻窪風土記』は、ずっとむかしに、読もうと思って読まなかったんだよなあ、でも書名はなぜかずっと覚えていて、しかも文庫ではなく、ハードカバーの本として、僕の脳内に画像が記憶されている。

ハタと思い出した。

『荻窪風土記』は、高校時代の親友・元福岡のコバヤシが、高校時代に、僕に勧めてくれた本だったんじゃなかったっけ?たしかコバヤシは、井伏鱒二のファンだったはずだ。だがそのとき僕はピンとこずに、薦められても読まなかったのだ。

しかしその記憶は、僕の勘違いという可能性もある。そこでコバヤシに、確認することにした。

「コバヤシ殿、貴兄は高校の頃、井伏鱒二の本を私に薦めてきませんでしたか?『荻窪風土記』の存在は、貴兄から聞いた記憶があるのですが、記憶違いでしょうか」

するとほどなくして、コバヤシから返事が来た。

「本題の井伏鱒二の「荻窪風土記」の件ですが、多分、私が薦めたのだと思います。

たまたま手元に、昔、実際に読んだ新潮社のハードカバーの本が有り、その本の後ろの頁を開くと、昭和59年5月5日15刷と有りますから、恐らく高校1年の時に読んで貴君に薦めたのでしょう。(ちなみに初版は昭和57年11月5日とあります。)井伏鱒二は釣り好きで、私も子供のころ釣りが好きだったので、確か家にあった「川釣り」という当時は岩波新書(今は岩波文庫のはず)で出ていた本を読み、釣りの話もさることながら、その飄々とした筆致と抒情的な表現に魅かれて井伏鱒二を認識したのだと思います。

有名な「山椒魚」なども読んだような気もしますが、こちらはあまり好きではなかったように思います。

ちなみに井伏鱒二は、戦前(だったと思う)の流行作家であった釣り名人の佐藤垢石に釣りの手ほどきを受けました。井伏は、この師匠、佐藤垢石を主人公にした「釣人」という本も書いていたのですが、確かずっと絶版のままで、残念ながらまだ読むことが出来ていません。

ついでですが、学生時代に読んで今また読みたいなあと思っているのは、幸田露伴と中勘助です。

幸田露伴は、五重塔で有名ですが、それ以外にも大昔の中国の話に題材を取ったものや、やはり釣り好きでもあり、何しろ古今東西のあらゆる本を読んだ博覧強記ぶりを示す内容は、凄いの一言です。

去年読んだ講談社学芸文庫の「珍せん会」(せん の字が変換出来ず)も面白かったですし、昔読んだ「幻談・観画談」なども、また読みたいなあと思っています。

中勘助は、有名な「銀の匙」は置いておいて、やはり、その静謐な文体が魅力的な小説や物語、とりわけ学生時代に読み、静かで澄んだ空気が流れているような文章に魅かれた「島守」などが思い出されます。

ちなみに中勘助は、その文章とは裏腹に私生活は愛人問題やら何やらでドロドロの酷い人だったと読んだように思います。確か「島守」も愛人問題のもつれで謹慎中の生活を書いたものだったはずです。

静謐で思い出しましたが、前にも勧めたように思いますが、須賀敦子は是非、読んで欲しいものです。

硬質で美しく、そして優しいその文体と文章は、何を読んでも本当に素晴らしいです。

白水社のUブックスから出ている一連の作品、どれでも構わないのでご一読のほどを。

と、井伏鱒二の話を書くつもりが長々と書いてしまい申し訳ありません。

でも、ほんの少しでも何かひっかかる本があれば幸いです。」

やはりそうだった。『荻窪風土記』は、コバヤシが僕に薦めたものだった。僕が、その本をハードカバーの本として記憶に残っているのは、コバヤシから見せてもらったか何かしたのだろう。

それにしても、文学に対するコバヤシの目利きはあいかわらずすばらしい。僕はこの年になって、ようやくコバヤシの感性に近づいた。思い返せば高校生のとき、コバヤシからはいろいろな小説を薦められていたのだ。

『荻窪風土記』の内容について、少しふれようと思ったが、長くなったのでまた別の機会に。

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ささやかなカルチャーショック体験

鬼瓦殿

こんばんは。高校時代の友人・元福岡のコバヤシです。

お疲れのようですが大丈夫ですか?

週末に行かれた動物園は、私も物心がついた頃に連れて行かれ、象やキリンのぬいぐるみを買って貰って楽しかった思い出が残っています。

塩谷先輩の たんたんタヌキのナントカは のピアノソロも懐かしく読ませていただきました。

そんなことはさておき、所変われば品変わる、ということで、今日、衝撃を受けた出来事があったのですが、恐らく関西人が大多数の職場の同僚に話したところでこの驚きを理解して貰えないと思い、貴君にメールをした次第です。

ことのあらましはと言えば…。

今日、業界団体の会合があり、浪速の商業の中心地、船場のとある商業ビルに行って来たのですが、その会合の受付で、何をお飲みになりますか?と尋ねられました。

メニューを見るとホットコーヒーとアイスコーヒーに加えて、ジュースというのががあります。東京でこうした会合があると、ほぼコーヒーしか無いのですが、コーヒーが苦手な人もいるので気を使ってジュースを用意しているのかぐらいに思い、その場は流して終わりました。

その後、直ぐに会合が始まり暫く経つと、給仕の女性が飲み物を配り始めました。コーヒーと共に先程おやっと思ったジュースらしきもの、オレンジジュースにしてはどちらと言えば黄色に近い少し泡立ったような液体です。

アレは何のジュースだろうという思いながら、会合の報告を暫く聞いてから、ふと顔を上げると30人近くいるほぼ50歳過ぎと思しきオッさん達のおおよそ半数、いや三分の二以上のオッさん達前に置かれていたのは、先程述べた黄色っぽい謎の液体、即ちジュースではないですか。

想像して見てください。50過ぎの20人を超えるオッさん達の集団がストローでその黄色っぽいジュースを飲んでいる姿を。私はこの異様な光景に大きな衝撃を受けました。

気付けば、私と一緒に会合に参加した同僚もこのジュースを飲んでいます。その同僚に、それ何のジュース?と聞くと、同僚は不思議そうに、自分はいつもジュースを飲むんですよ、としか答えてくれません。

会合が終わり、帰路につくところで、ハタと気づいたのですが、もしやアレが噂に聞く大阪名物のミックスジュースではないか。

家に帰ってネットで早速調べると、ミックスジュースというのは、半世紀以上も前に大阪の果物屋が傷んで来た果物を有効利用しようと作ったジュースで、なかなか評判が良かったので、そのジュースを出す喫茶店を開店したところ、折からの喫茶店ブームに乗り、瞬くまに大阪中に広まり、今では大阪のソウルフードになっている、とのこと。

なるほどと思ったものの、でもやはり大勢のオッさんがミックスジュースを飲んでいる光景はなかなかに衝撃的です。

この衝撃は、前にメールしたように思いますが、大分県の喫茶店でミルクセーキを見た時以来のものでした。

とは書いたものの、次回の会合では、オレもミックスジュースを飲んでやろう、と思った次第です。

ということで、本当にどうでも良い話を失礼しました。

では、またそのうち!

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