コバヤシ

今時のバーの話

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

大分ご無沙汰してしまったような気もしますが、いかがお過ごしでしょうか

と書いたものの、こちらは貴君のブログはずっとチェックしているので、少しは様子が分かっているつもりだったりするのですが

このメールも、今日のブログで「バーの話」が書かれていたので、そろそろなんか書けよ!と言っているのではないか、と思い書いた次第です。

前置きが長くなりましたが、貴君のブログで、山口瞳の時代でさえ既にバーは時代遅れで今の時代良きバーに出会うのは至難の業云々と書かれていましたが、それは大きな間違い!と指摘させて頂きます。

ただバーの業態は山口瞳の時代とは大分様変わりしているのではないかと思います。

昔のバーのイメージは、我々が若い頃もそうだったように思いますが、居酒屋なんかで呑んだ後に呑み足りなくてもう少し呑みたいというシチュエーションで行く場所だったのではないかと思います。

「呑む」と書いたように、そこは更にアルコールを補給して酔いたいと思い行っていた場所ではないかと思います。

では、今時のバーは?と言うと、当然、「呑み」に行く場所としての役割を担っている店も多々あるとは思いますが、それ以上に、店主が自分が素晴らしいと思うお酒を自分が考える理想的な環境で客に味わって貰いたい、という店が増えているように思います。

そもそも所謂、食後酒を飲む、というのは西欧の文化で、お腹一杯食べた後に高いアルコールのお酒を飲むことで胃腸の活動を活性化させて消化を促すという側面と、ブランデーのように薫り高いお酒を葉巻などをくゆらせながらゆったりと楽しむ、という2つの側面が有ります。

今時の志あるバーの店主は、そうした食後酒を楽しむという文化を日本にも広めたい、又は上質なお酒を時間をかけてゆったりと楽しむことを伝えたい、と考えている方が多いように思います。

そうしたお店は、店の調度やBGMにも拘っており、グラスはヨーロッパのアンティークを揃え、BGMはヨーロッパを意識してオペラを流すなど、それぞれの店が自分の理想とする空間を演出しています。

客もそうした空間を求めて、自分に合うお店を探し出して通っています。

現代の日本人の嗜好というのか趣味性はかなり細分化されており、バーもそうした多様な嗜好を前提にかなり細分化されています。

例えば、この10年、20年はモルト・バー、スコットランドの蒸留所ごとの原酒のウイスキー(所謂、スコッチと言うのは、こうした原酒を複数ブレンドしたウイスキー)を飲むバーが流行り出し、これは世界的な潮流と流行にもなっていますが、今の日本ではモルトだけでは無く、マデラ酒(ポルトガルの酒精強化ワイン)やパーリンカ(ハンガリーの果物の蒸留酒)などという超マニアックなお酒の専門店や、私の好きなブランデーでもコニャック(仏コニャック地方の葡萄の蒸留酒)、アルマニャック(仏アルマニャック地方の葡萄の蒸留酒)、カルヴァドス(仏ノルマンディー地方の林檎の蒸留酒)とそれぞれの専門店があります。

そうしたお酒を好むマニア達は、特定のお酒を求めて全国のバーを訪ねます。

そうしたお店は、今のSNSやネットが発達した現代においては容易に探し出すことが可能であり、更に言えばバー業界の慣習で、バーテンダー達は自分のお店に来た客に対して、その客の好みと思われる店や、自分の好きな店を積極的に紹介してくれます。(私が今通っている浅草のバーも銀座のバーもバーテンダーの方に紹介してもらいました。)

結果、ニッチなお店であっても意外に流行っていたりするのです。

少々長くなりましたが、上述のように今のバーはお店も客も山口瞳の時代とは大きく様変わりしているように思います。

余談ですが、去年から私が通っている銀座のバーの店主の亡くなられた奥さんのご実家は国立の山口瞳の家のご近所だったそうです。
ということで、久し振りにメールを書いたら、ちょっとマニアックな内容になってしまいました。つまらなかったらごめんなさい。

それでは、またそのうち。

…………………………………

以上、コバヤシからのコメントをいただきました。

「生兵法は大怪我のもと」。やはり酒場文化を知らないド素人が酒場文化をわかったような気になって書くととんでもない間違いを犯してしまうものです。山口瞳のエッセイを誤読というか誤解をした上に、現代の酒場事情について深く調べずに書いてしまったことは汗顔の至りであります。

せっかくコバヤシからコメントをいただいたので、一定期間、「バーの話」を公開した上で、このエピソードは後日削除いたします。その間に、コバヤシのコメントをご味読ください。コバヤシのコメントは編集して残します。

| | コメント (0)

バーの話

山口瞳の『酒呑みの自己弁護』というエッセイを読んでいたら、高校時代の親友・コバヤシのことを思い出した。

コバヤシは、僕が病気になってからしばしばこのブログに登場している。代作というには失礼なほど力作をいくつも書いてもらっている。

その大半は、銀座、福岡など、転勤先で出会ったバーの話である。そこではさまざまな人間模様が繰り広げられる。まさに、山口瞳がこのエッセイ集で書いていることと重なる。

バーの文化は、山口瞳の時代においてさえ、すでの時代遅れの文化であるような書き方をしていた。それを思うと、いまのこの時代、よきバーに出会って、バーでお酒を飲むことは、至難の業なのかも知れない。

しかしコバヤシは、少なくなったと思われるバーを、さまざまな人間関係を通じて渡り歩いている。もともとコバヤシは「酒呑み」ではなかったはずなのだが、美味しい洋酒にめざめて、それをほどよく飲むという嗜みを覚えたのであろう。その意味でバーは学校である。

僕の記憶違いかも知れないが、まだお酒が飲めた頃、一度だけ、コバヤシにバーに連れていってもらったことがある。たしか有楽町駅近くのバーである。

カウンターだけの席で、カウンターの中にバーの店主がいて、その後ろにおびただしい数の洋酒が並ぶ。静かで落ち着いた空間だった。

そのとき、大勢で新宿あたりの居酒屋に行って、周りの声がうるさくて大声で喋らないと聞こえないという居酒屋はまっぴらだと思った記憶がある。

もう今はお酒を飲まなくなってしまったので、どっちにしろ関係のないことなのだが。

| | コメント (0)

社会人の友達

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

東京は漸く猛烈な暑さから解放されそうですが、療養先のそちらはいかがですか?

先週の木曜(9月4日)の夕方6時過ぎに、翌日に仙台出張が控えていることも有り、さっさと会社から帰ろうと、ふと横の副社長室を覗くと、まだMさんが仕事をしているではないですか。

黙って帰るのも何だなあと思い、Mさんに「すみませんが私は先に帰らせて貰います。Mさんも仕事はほどほどに早く帰ってくださいね。」と挨拶をすると、Mさんはそっけなく「お~!お疲れさま。じゃあ、またな。」と言います。いつものパターンだと、大体Mさんから「じゃあ、(呑みに)行くか!」と言われるので、今日は何もなかったなあ、とちょっと物足りなく思いながら5、6歩歩いたところで、副社長室から「コバヤシ!ところでさあ、あれどうなってんだっけ?」と呼ぶ声が聞こえます。

えっ、さっき「またな。」って言ったじゃんと思いながらも、まあ仕方ないかとMさんのところに戻り、かくかくしかじかと説明すると、「あ~、もう仕事やる気なくなったわ!じゃあ、しょうがないから行くか!」と言い出します。私はすかさず「ちょっと待ってくださいよ!何ですか、その『しょうがないから!』って言うのは。私は何も誘ってませんよ。家に帰ろうとしてたんですから!」と言うと、Mさんは「まあ、良いじゃん。呑みに行こうよ!」と言うんで、まあ確かに帰りの挨拶に行った時点で、呑みに行くのかなあ、と思っていたのは確かなので、「じゃあ、行きますか。」と結局、予定調和的に呑みに行くことになりました。

2人で会社の地下までエレベーターで降りながら、どこに行こうかと話し、結局、蕎麦屋に行くことにしました。

Mさんは「今日は軽くな。日本酒は2種類までにしよう。」と言うので、私は「2種類って言うけど、1合か2合かじゃ大違いですすよ。どうするんすか?」と聞くと、Mさんは「じゃあ2合ずつにしよう!」と言います。私は、全然軽くじゃないじゃん!と心の中で思いつつ、まあいつものことだしいいか、と蕎麦屋に入りました。

こうして二人で呑みながら、お互いの仕事の話をあれこれしているうちに、何故か友達とは?という話に話題は変わっていました。

酔っぱらった私は「Mさんが何と言うかはか分かりませんし、5歳も年上の人に言うのも何ですが、私にとってMさんはやっぱり大事な友達なんですよね!」と言うと、Mさんは「勿論、俺もお前のことを友達だと思ってるよ!」と言います。

更に続けて「俺は思うんだけどさあ。社会人になってからの友達ってさあ、仕事を通じて苦楽を共にした仲間だと思うんだよね。そいつがいなかったら、俺が社会人として生きてこられなかった、俺を助けてくれた仲間だと思うんだよ。俺も20代、30代の若い頃はさあ、自分が一番!自分は何でも出来る!と根拠の無い自信に溢れてたんだけど、歳を取って初めてそうじゃなかったことに気付いたんだよね。」と言います。

確かに私もそう、20代、30代の初めまでは、俺は何でも出来る!と思っていたけど、色々と苦労してそうじゃなかったと気付いたんだよな、やはり皆んな同じなんあだなあ、と思いつつ、こうして今、そう言ってくれる人がいるということは、自分の社会人人生も満更でも無かったんあだろうなあ、としみじみと思わせてくれました。

その後も、あーでもない、こーでもないと話をしてから、2人地下鉄で帰りました。

明けて今週、Mさんのところに、やはり子会社に出向して社長をしている、Mさんの2つ上の先輩であり、私の千葉、福岡時代の上司でもあったOさんが、仕事の相談をしに来ました。

我々が参加する会議の前に打合せをしていたのですが、会議の開始時間を過ぎても一向にMさんが来る気配はありません。

仕方がないので、2人がいる応接室の前まで行って中を覗き込むと、ちょうどOさんと目があったので、ずかずかと応接室に入り、Mさんに皆んなが会議室で待っていることを伝えると、2人はスマンスマンと言って部屋を出て、Oさんはそれじゃあ帰るかということになったのですが、帰り際Oさんは私に向かって「コバヤシさあ、こんなにお前のことを愛してくれる上司なんて世の中に居ないぞ。良くその有り難さを考えろよ。」と言います。

思わずMさんと私は口を揃えて「だって長年の腐れ縁ですから!」と答えていました。

貴君も、社会人になってからの友達は、また一緒に仕事をしたいと思わせてくれる人だ、と書いていたように思いますが、確かにそうなのかもしれません。

更に言えば、歳の差も地位も関係無く友人関係が成り立つのも社会人の友達だからではないでしょうか。

話は変わりますが、私の福岡の友人Yさんも社会人になってからの大切な友達です。

貴君にYさんの話をしたことは殆ど無かったように思いますが、Yさんは福岡で一緒にバンドをやっている同い年のドラマーの友達です。

Yさんとは、福岡に赴任して2年目ぐらいに当地のビックバンドに入団して知り合ったのですが、もう15年以上の付き合いでしょうか。Yさんは博多出身の熱い九州男児で、鹿児島の大学を出てから、今は亡き都銀に入ったもののバブル後の金融業界の酷さに精神的に耐えられず福岡に帰って来て、今は保険の外交員をしながらアマチュアとして音楽を続けています。非常に世話好きなのですが、ちょっとキレやすいのが玉に瑕でしょうか。

それでもYさんは、彼が居なければ私は福岡で音楽活動を続けることが出来ていない、本当に大切な友達です。

Yさんは、私が福岡に帰ってくることを心待ちにしながら、あちらこちらに音楽仲間や、演奏する場所を開拓してくれています。今のバンドも、もう15年近く続けていますが、私とYさん以外のメンバーは何人も変わっています。

バンドメンバーが辞める都度、Yさんは新しいメンバーを見つけてきてくれ、おかげ様で今のメンバーは3年目を迎えています。

また、福岡の門司港での演奏を始め、今でも年に2度ほどライブのブッキングをしてくれます。

その度に私は東京から遠路はるばる福岡に行くことになるのですが、それもYさんとまた一緒に演奏したいと思うからです。

まあそんな訳で、貴君のブログをきっかけに、社会人の友達について思いを巡らせてみました。

そうそう忘れるところでしたが、貴君が大好きだと書いていた小田嶋隆さんでしたっけ、確か小石川高校卒業だとのことでしたが、何を隠そう私の父親も小石川高校の卒業生です。

と言っても、うちの父親は府立5中から戦後そのまま小石川高校に上がった口ですが。

まあ、どうでもいい話でしたね。失礼。

それでは、また。

お元気で!

〔付記〕

「20代、30代の初めまでは、俺は何でも出来る!と思っていたけど、色々と苦労してそうじゃなかったと気付いたんだよな」

「歳の差も地位も関係無く友人関係が成り立つのも社会人の友達だからではないでしょうか」

これは本当にそう。学生時代は先輩、後輩を過剰に意識するけれど、社会人になれば年齢も肩書きも関係なく友人になれる。これが社会人になってからの友人のよいところ。

上記の文章を読んで、学生時代の友人について付け加えるならば、「社会人になって進む道は違っても、社会人での体験から得られた境地については共感をもって話をすることができる間柄」、と言えるのではないだろうか。

僕の場合、学生時代の友人のサンプルがコバヤシしかいないのが説得力に欠けるのだが。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-6a4d76.html

| | コメント (0)

幸福な連鎖

病室の引っ越しのことを書こうと思ったが、予定を変更して別の話題を書くことにする。

高校時代の親友·コバヤシから、またもやメールが来た。

「今日も腐れ縁の副社長Mさんに誘われて飲みに行き、あーでも無いこーでも無いと酔っ払って話した後、家に帰り貴君のブログを読むと、また新たな教え子が寄稿してくれているではないですか!

おかげ様で、私も貴君のおこぼれ頂戴で、暫し幸福な一時を味合わせて貰いました。

何度でもしつこく書きますが、これもやはり貴君が書き続けているからです。貴君が書き続けていることで幸福な連鎖が起こっている訳です。」

「新たな教え子の寄稿」とは、Sさんのメールのことである。

幸福な連鎖、とはありがたい言葉だ。本当にそうなのか、半信半疑ではあるが、「私も貴君のおこぼれ頂戴で、暫し幸福な一時を味合わせて貰いました」と書いているから、少なくともコバヤシには連鎖したのだろう。

「サイレントダマラー」という言葉を考えてみた。短いメッセージの中でダマラー(このブログの読者)であることを伝えてもらったり、ちょっとした感想をもらったりすることがあり、飽きずに見守ってくれていることは本当にありがたい。このたび入院した時にいちど投稿を呼びかけたが、本当は読んでもらうだけでありがたいのだ。それが幸福な連鎖につながっていることを意味するのかは、はなはだ自信がない。

| | コメント (0)

Eさんのこと

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

ご療養中、お見舞い申し上げます。

学生時代のネタでもメールしようと思ったものの、ちょっと違うなあと思いつつ、貴君の病状を知り、久し振りに思い出した方のことを書いてみようと思います。

私が嫌々サラリーマンになったことは折に触れて話して来ましたが、では30数年に渡るサラリーマンがそんなに嫌だったのか?というと決してそういう訳でも無く、その時々で嫌々働く私を鼓舞してくれる人たちが現れ、おかげでどうにかこうにか私もサラリーマンを続けることが出来ました。

そんな私を鼓舞してくれた1人がEさんです。

Eさんは、私よりも3歳上の女性で、短大卒の所謂一般職(この言葉は今では死語かもしれませんね)ながら、仕事に取り組む真摯な態度とその厳しさは、私の会社人生でも一二を争う方でした。

私が勤める鉄鋼会社が合併して、それを機に私は千葉の工場に転勤になり工場の出荷全般を担当することになったのですが、その時に出会ったのが本社に勤務するEさんでした。

Eさんの仕事に対する態度は本当に厳しいもので、当時、私と一緒に働いていた子会社の物流会社の仲間達も恐れる存在でした。

Eさんは、日々起こるトラブルに右往左往する我々工場の人間からすると、ちょっとそこは見逃してくれないかということにも一切忖度すること無く正論を突き付けて来ます。その弁舌は本当に見事で、前述の物流会社のリーダーに元暴走族の総長をしていたTさん(TさんはEさんにとって盟友とも言うべき人です)という方が居たのですが、Tさんをして「Eの追い込みは本物だ。俺も怯むぐらいだ。」と言わしめるほどで、少し若い奴などは、ちょっと誤魔化そうといい加減な発言をしたことを電話口で徹底的に糾弾され半泣きになるぐらいでした。

ただ姉御肌の人情味もある人だったので、我々が本当に困っているときは助けの手を出してくれて庇ってくれることも多々ありました。

とは言え普段の仕事では日々バチバチで、電話で1時間近くも怒鳴られたり、言い合いになることは日常茶飯事でした。

でも、Eさんは人と人との関係を大切にする方だったので、年に2~3回は後輩のNさんを連れて我々のいる千葉に来て飲みに行くのが常で、そんな時は本当に楽しく和やかな時間を一緒に過ごしたものでしたし、私の千葉の仲間達と一緒に旅行に行くことも有ったぐらいです。

そんなEさんは私のことを気に入ってくれていたらしく、いつか本社で一緒に仕事をしたいね、と事あるごとに言ってくれたものでした。

そうこうする内に、私は福岡に7年間転勤で行くことになり、Eさんとも暫く話す機会を失うことになります。

7年後に私は何度か書いた今の会社の上司でもあるMさんに東京に呼び戻されることになり、Eさんとはグループは違うものの同じ部署で働くことになりました。

私が転勤になると、Eさんは本当に喜んでくれて、赴任してすぐに歓迎会も開いてくれ、同じグループで働きたいね、とまた何度も言ってくれました。

ただ、残念ながらそれが叶うことは有りませんでした。

私が東京に赴任して3年経ったある日の冬、Eさんのいるグループがざわついていたので、どうしたのかと尋ねると、今朝がたEさんが自転車で駅に向かっている途中で脳梗塞で倒れ病院に運ばれたというのです。

Eさんは入院中も厳しい状態が続き、結局、左半身付随となり言葉を話すことも1人で生活することも出来なくなり、3年に渡り会社を休むことになります。

その3年目に、漸く私はEさんのグループに上司として異動することになりました。同僚の女性がEさんに私のことを連絡してくれたらしく、異動して間もなくEさんから私の携帯にメールが入りました。

「コバヤシさん、やっと私のグループに来てくれたのね。でも残念ながら私はこんな状態なので一緒に働くことは叶いません。コバヤシさんと一緒に仕事をしたかったな。」

Eさんは会社を休業して3年目だったので、会社の規定で退職を余儀なくされることになりました。

私はEさんの上司として色々手続きをしなければならなかったので、Eさんのご親族であるお姉さん夫婦にも何度かお会いすることになりました。お姉さんから「コバヤシさんのことは妹から何度も聞いています。本当にお世話になりました。ウチの妹、我儘だったから本当に大変だったでしょう。」と言って貰ったのはせめてもの救いだったように思います。

お姉さんや、同僚の女性(彼女達は定期的にEさんを訪ねていました)の話を伺うと、Eさんは24時間介護の状態で、家の中も車椅子でしか移動出来ず、言葉を喋ることも出来ないので、最初の1年は自暴自棄だったらしいのですが、この1年ぐらいは本当に前向きになり、こんな自分でも何か出来ることがある筈と一生懸命考えているし、喋ることは出来なくとも携帯でメールをする速度は常人を凌駕しており、片手だけで打つ速さは喋る速さ並みだとのこと。

そんな話を聞いて私も少し安心をしました。

ただ、Eさんに関しては少し気がかりなことが1つあって、私が福岡赴任中にEさんより一回りほど先輩のNさんと仲違いして、Nさんは失意の中、会社を去っていったと聞いていたことでした。私は二人には本当にお世話になっていたので、残念で仕方が有りませんでした。

Nさんとは福岡から東京に戻った後も、前述のMさんの計らいで何度も会う機会が有ったのですが、そんな時、Nさんはいつも仲違いしていた筈のEさんのことをしきりに心配してしていました。

それもあり、Eさんが会社を退職する直前に私はEさんにメールをして、NさんがEさんのことを本当に心配していること、私がそんなことを言える立場ではない事は重々承知な上だが、やはりNさんと仲直りして欲しい、と伝えました。

暫くしてEさんからメールが届きました。

「お姉ちゃん(EさんはNさんのことをそう呼びます)にメールしました。あの時は色々有って酷いことを言ったことを謝りました。おかげでお姉ちゃんとまた仲直りすることが出来まし,た。コバヤシさん、ありがとう。」

このメールを読み、色々なことがあっても、生きている限りまたやり直すことが出来るんだなあと、本当に涙が止まりませんでした。

それからEさんとは一度も連絡を取っていませんが、Eさんは今もきっと前向きに生きているに違いないと信じています。貴君の近況を知り、またEさんと連絡を取りたいなあと思った次第です。

ちょっと感傷的な内容になってしまいましたね。すみません。

それでは、また。

お大事に。

〔付記〕

個室の病室でひとり嗚咽しながら読んだ。途中で看護師さんが入ってきて焦った。涙はいまも枯れない。

幸いにして、僕は意識があるし、話すこともできる。リハビリを頑張って仕事復帰したいと考えている。このブログも左手で入力している。しかし運命が少し、Eさんの境遇に近くなったとしたら、心が折れない保証はあるだろうか。

そして、こんな僕でも、また一緒に仕事をしたいと言ってくれる仕事仲間はいるだろうか。ここまで病気が長引けば、もうそんな人はいないかもしれない。我が身を振り返り恥じ入るばかりである。

ぜひ、今回の記事の感想をお聞かせください。私宛に何らかの方法でお送りくださいますと幸いです。原則公開はしません。励みになります。

| | コメント (0)

サラリーマンは腐れ縁 ~自慢話~

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

大分暑い日が続いていますが、体調は大丈夫ですか。

ネタ切れで困っていたら、腐れ縁の上司が小ネタを提供してくれたので、忘れないうちにメールさせていただきます。

今日も朝イチから、20年来の腐れ縁の上司、今では私の会社の副社長になってしまったMさんへの業務報告です。

今日は案件が多かったのと、私の報告の後すぐにMさんに来客が有りお尻が切られていたので、早めに入ってしまおうと副社長室を覗くと、丁度暇そうだったので、良いですか?と言いながらズカズカと部屋に入り、返事も待たずに自分のパソコンを副社長室のモニターに繋ぎ、さっさと報告の準備にかかります。

「今日は何の報告だ?」とMさんが聞くので、カクカクシカジカと、今度の会議の議題や資料や、私が企画した9月に開催する若手社員の社長報告会(本当はそんな面倒なことはしたくなかったのですが、行きがかり上、やると言ってしまった)の概要の報告と相談です、と答え、早速、説明を始めました。

Mさんからは、あの会議にはアレも報告させろとか、社長報告会には上司達もオンラインで良いから必ず参加させろとか、社長報告会に部下を出張させる予算が無いと言うバカがいたら、お前の上司の接待ゴルフ削らせればいいだろう!と言ってやれなどと、いつものように、あーだこーだ言いだします。私の方も、いつもの調子で、ハイハイとか、え〜っ!などと言いながら報告を進めます。

気付けば、意外に報告が早く終わり副社長室を出ようとしていたら、Mさんは「ちょっと自慢していい?」と嬉しそうに私を呼び戻します。私は「また、なんか良い本買ったとかいう自慢ですか?」(以前書きましたが、須賀敦子全集を買ったと自慢されたこともあります)と聞くと、「お前、穂村弘って知ってるか?」と逆に質問しできます。「確か有名な歌人でしたっけ?前にMさんに、穂村弘と川上未映子だったかの対談集を貸して貰ったような。」と答えると、「そう、その穂村弘だよ。」と言って、少し派手目な表紙の一冊の本を取り出しました。

Mさんによると、最近、緑内障に侵され目が不自由になってきた穂村弘が書いた本だということで、「満月が欠けている」という本を見せてくれました。

私は「その本がどうしたんですかか?」と聞くと、Mさんは本のページをめくりながら、「ちょっと見て見てみろよ。この本の終わりの三分の一ぐらいは、穂村弘が選んだ、古今東西の病について読んだ歌が紹介されてるんだよ。」と言うので、私はちょっと興奮気味に「まさか、Mさんの歌が載ったんですか!?」と聞き返すと「そうそう、ほらこのページに寺山修司の歌が紹介されてるだろ、で、一番最後は北原白秋の歌で終わるんだよ。」と言いながら、またページを前にめくって行くと「ほら見ろよ!ここに俺の歌が載ってるんだ!どうだ、凄いだろ!寺山修司と北原白秋の間だぜ!娘にも自慢したら、流石にコレは凄い!と言ってくれたよ。」と嬉しそうに話します。

私もちょっと嬉しくなって「コレは確かに凄いっすね!自慢したい気持ちも分かりますよ。」と答えると、Mさんも「そうだろ!凄いだろ!」と嬉しそうに繰り返します。

実はMさんも、ここ数年目の難病を患って両目のレンズを変える手術をしたのですが、今一つ芳しく無く、かなり見えにくいと嘆いています。

そんな気持ちを表現した歌を、常連になっている日経新聞の歌壇に投稿したところ、選者をしている穂村弘の目に留まり、晴れてこの本に掲載されることになった、とのことでした。

Mさんは、興奮気味に更に、出版社から掲載許可の連絡があったことや、掲載のお礼としてこの本を出版社が送って来てくれたことを話してくれました。

他人ごとながら、ちょっと私も嬉しくなったのと、貴君もちょっとは面白がってくれるかな、とメールした次第です。

と書いて、このメールを終わらせようとしていたところで、そういえば高校時代の貴君が雑誌に書いた文章を読んだ、私の母校の名誉教授だった亀井孝さんが貴君の家に電話してきたということを思い出し、あの時も貴君から自慢された私はなんだか嬉しいような、誇らしいような気持ちになったことを思い出しました。

それでは、また。


〔付記〕

『満月が欠けている』(ライフサイエンス出版、2015年)をさっそくAmazonで注文した。僕は穂村弘さんの本、とくにエッセイが好きで読んでおり、穂村弘さんの最新刊にコバヤシの上司の歌が掲載されていると聞けば買わないわけにはいかない。こうして私の人生にまた1冊が加わってゆく。

高校時代に亀井孝先生から電話をいただいたエピソードも、当時は誰にも言わなかったが、コバヤシにだけは打ち明けていたのか。上司のMさんと同じことをしていたんだな、と苦笑を禁じ得ない。

| | コメント (0)

謎の紳士

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

今日は広島の福山に日帰り出張です。

帰りの新幹線の時間潰しに、久しぶりに思い出した小ネタを書いてみます。

私が千葉に住んでいた頃のことなので、もう20年ほど前でしょうか。

当時、週末は良く御茶ノ水にあるディスクユニオンにCDを物色に行っていたのですが、確か夏の夕方だったのではないかと思うのですが、欲しかったCDを手に入れ、千葉の家に帰ろうと駅前の丸善の辺りを歩いていた時に、突然、目眩がして立っていられないぐらいよろけてしまいました。でも、途中で揺れているのは自分では無く地上の方だと気づきました。震度5強の揺れだったのではないかと記憶しています。

揺れがおさまり御茶ノ水駅の改札前まで行くと、電車は止まっていて復旧の目処が立っていないというアナウンスが聞こえ、駅前は凄い人です。

私は暫くどうしたものかと考えていたら、そう言えば神保町に、昔、会社の同期とよく行っていたベルギービールのバーがあるではないかと思い出し、電車が動くまでの2、3時間、その店で時間を潰すことにしました。

神保町まで坂を下って、その店に着くと、先客が1人います。

店員に、昔良くこの店に来ていたなどと話しながら、ビールを飲んでいると、暫くして先客でいた身なりの良い紳士が私に話しかけて来ました。

紳士は、映画好きとのことで、神保町にちょくちょく来ては昔発売されていたVHSの映画のビデオを集めているとのこと。私にもその日の戦利品を見せてくれたのですが、なにせ私は映画には全く興味が無かった為、スミマセンなどと話していたのだと思います。

すると、その紳士は話題を変え、突然、「宇崎竜童さんの奥さんの阿木燿子さんはご存知ですか?」と私に尋ねます。私が「え〜、お名前ぐらいは。」と答えると、「阿木燿子さんは、本当に美しい方です。私はお二人のことを昔から知っているのですが、今でもお綺麗ですが、若い頃の阿木さんは本当に美しかったんです。旦那になった宇崎さんは、それはもう阿木さんにぞっこんだったみたいです。」と語り、続けて「でも残念なことに、お二人は今、別居しているんですよ。」などと、聞いてもいないのに説明してくれます。

その後、また突然「和田誠さん、あの人はダメです。」と語りだします。「和田さん、最近、あまり表舞台に出て来なくなくなったでしょう。あの人、若い女性スタッフと浮気しているんですよ。そういう人はダメです。」と、そんな業界の裏話を見ず知らずの私なんかにしてもいいの?と私は戸惑うばかり。「和田さんも昔から知っているだけに残念でたまりません。」と紳士は続けます。

そうこうするうちに夜になり、電車も動き出したのではないかと、私は店を出ることにしました。

あの紳士は一体何者だったのだろうか?今でもたまに思い出すことが有ります。しかも、何故あんな話を私にしたのか。

でも、今になって思うと、紳士はしがらみのある身近な人達には話せなかったのではないか。

逆に、何の縁もゆかりもない私だったからこそ、紳士は自分の残念な思いを話すことが出来たのではないだろうか。

今は何となく、そう思ったりします。

それにしても、あの紳士は何者だったのだろうか?

それでは、また!

これからどんどん暑くなるので、くれぐれもご自愛ください。

〔付記〕

今回いただいたメールは、着眼点とか、何気ないやりとりとか、なんとなく不肖僕が書く文章に近づいていると思う。

むかしコバヤシから、お前の書くブログの文章は、オチがあるんだかないんだかわからない、と言われたことがあって、たしかにそうだ、と我ながら思ったことがある。いまでもオチがあるんだかないんだかわからない文章を書き続けている。

そういう意味でいうと、この「謎の紳士」も結局何者かがわからずに文章を終えている。これは僕がよくやる手口だ。

僕のブログの文体に合わせてくれたのか?それとも長年読んでいると、似てくるものなのか?

| | コメント (0)

ヤマジョーの思い出

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

昨日、今日と、久しぶりに涼しくなりましたね。体調はいかがでしょうか?

ブログを読む限りでは、少しずつ快方に向かっているようですが、あまり無理はしないでください。

さて、貴君にリクエストされた「福岡の思い出」の方は全く書く気が起こらず、これが貴君がよくブログに書いていたことなのだろうかと、比べるレベルでは無いことは重々承知ので上ではありますが、つらつらと考えでしまう今日この頃です。

では、仕方ないが無いので、もっと昔の思い出はどうかというと不思議なことにネタが浮かんで来たりします

最近、とみに物覚えが悪くなり、最近会った筈の人の名前や顔が浮かばないのに、幼少期の友達の名前や顔が、50年以上も会っていない筈なのに、鮮明に思い出されるのはどういうことなのでしょうか?

大学時代のジャズ研の同期、ヤマジョー(日本のジャズ界ではこの呼び方が定着しているようです)に初めて出会ったのは何時のことだったのか。

貴君が記憶に残っているかどうかは分かりませんが、忘れもしない高校2年の11月、多分、土曜の吹奏楽部の練習が終わり、当時、よく部活に顔を出していたOBのT先輩も一緒に、後に私が入学することになる近くのH大学の学祭を観に行った時のことだと、今でもハッキリ覚えています。

せっかくなのでジャズ研の演奏を聴いてみようと、多分、T先輩、貴君、アサカワ辺りと行ったのではないかと思います。

ジャズ研が演奏する部屋に入ると長髪で白いTシャツにGパン姿の若者がアルトサックスを吹いています。私は、さすが大学生、上手いなあ、大学生になったら自分もこれぐらい吹けるようになるのだろうかなどと思いながら聴いていたのですが、演奏が終わった後のメンバー紹介で、先程の長髪の若者が、実は17歳の高校2年生だと分かり、まさか自分と同い年だったとは!と衝撃を受けたのが最初の出会いでした。

ただ、その時分かったのは彼が同い年の高校生ということだけで、名前までは知ることが出来ませんでした。

その後、浪人生活を経た3年後に、私は再び彼に出会うことになります

私は晴れて前述のH大学に通うことになり、入学式を終えた我々新入生は様々なサークルの勧誘を受けることになります。

ただ、私は最初から大学に入ったらジャズ研に入ると決めていたので(私の大学の選択条件の一つは、ジャズ研が有り、かつプロを輩出している、というものでした)、他の勧誘には目もくれず、新入生勧誘の演奏を行なっているジャズ研のステージを観に行きました。

ステージでは、長髪の学生がアルトサックスで流暢なソロをとっています。私は、大学三年生ぐらいになったら、これぐらい吹けるようになるのかなあと思いながら演奏に聴き入り、その後、ジャズ研の部室に入部の申し込みに行きました。部室には、先程のアルトの学生がおり、新入生のコバヤシですと自己紹介すると、驚くことに、彼は自分も新入生なのでヨロシクと言います。

そして、よく見れば、数年前に大学祭で観た高校生に似ているように思われたので、その旨を伝えると、確かにその時の高校生は自分だと言うではないですか。そして、初めて私は彼の名前を知ることとなりました。

こうして、私はヤマジョーことジョーに再び出会い、彼がアメリカに留学していた一年半を除く約二年半の時間を共に過ごすことになります。まあ、と言っても、ジョーは入学して間もなくプロ活動を開始したので、部室に来るのは週に1、2回ぐらいだったのですが。

ジョーは、当時の大学生には比べる者もいない程の実力だったにも関わらず、我々新入生にジャズのアドリブについて、丁寧に教えてくれました。このコードには、このスケールを使うというような基本的なことや、音楽理論はこの本を読むと良い、などということも助言してくれました。

気軽に一緒に吹いてくれたりもしたので、ある日などは、少しは吹けるようになったつもりでソロをとっていた私に、演奏後、「お前が吹いているのは何だ?ただの音の羅列だろ。アドリブはそんなものではない。言葉と一緒で、楽器を使って、おはよう、とか、こんにちは、とか伝えるものなんだ。」と言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えています。

またある時は、ジャズの語法について教えてくれ、チャーリー・パーカーのソロのコピー譜を例に、ジャズのフレーズというのは言葉と一緒で、フレーズのある音にアクセントを付けたりタンギングをしたり、音を飲んだりと、アティキュレーションをきちんとすることで初めて意味を持つことになる、外国語と同じように話し方をきちんと勉強しないとジャズは吹けない、などということも教えてくれました。

ただ、今でもジョーに対して一言苦言を呈したいことは、私が、「やはり誰かプロについて習った方が良いのだろうか?」と相談した際に、「ジャズは人に習うもんじゃない。自分でやり方を見つけていくものだ。それに、分からないことがあったら俺や、Oさん(ウチのサークルで初めてプロになったOBのテナー奏者)に聞けばいいじゃないか!」と言われたのですが、その後、彼がアメリカ留学から帰ってきて初めて私の演奏を聴いた時に、「お前、結構吹けるようになったんだな。本当にビックリしたよ!一年生の時のお前の演奏を聴いてた時は、どうなることかと思ってたんだけど。」と言われたのと、大学を卒業して暫くしてからプロで活動するジョーの経歴紹介を雑誌かなにかで読んだところ(その頃の彼はスイングジャーナルの人気投票のアルトサックス部門で、あの渡辺貞夫を抜いて何年か1位に輝いていました)、中学時代には日本を代表するビッグバンドのシャープス・アンド・フラッツのリード・アルトの方に習い、その後の親の転勤でニューヨークに住んでいた頃は高名なスタジオミュージシャンに習っていたと書いて有り、私は「ちょっと待て。あの時、お前、俺に、ジャズは人に習うもんじゃない、って言っただろうが!その言葉を信じて俺は挫けそうになりながらも独りで毎日何時間も練習してたんだぞ!」と心の中で叫んでしまいました。とは書きましたが、もしかしたら、学生時代の彼の中では、先生について習ったことにより、自分の演奏が型にハマったものとなってしまったというジレンマがあり、当時の私に、自分で考えろと言ったのではないかと思ったりもします。

ジョーと過ごした学生時代のことで思い出されるのは、彼がアメリカから帰ってきてから少しして、三年生になった私はジャズ研の部長になったのですが、当時、色々あり活動が停滞気味になっていた我がジャズ研を潰してはイケナイ、新入生に好印象を持って貰う為には先ずは部室を綺麗に掃除しよう、ということで2人だけで汚い部室を掃除したことや、何かの用でジョーに電話をした際は、必ず音楽についての議論になり、1時間も2時間も、我々は音楽で何を表現しようとしているのかとか、良い音楽とはどんなものなのか、など今となっては何を話していたのかあまり思い出せないのことも多いのですが、青臭い議論を延々としていたことでしょうか。

大学も四年生になると、私もご多分に漏れず就職活動を始めたのですが、楽器を続ける為に一年ぐらい留年してもいいかなあなどと考えていた私は、当然、就職活動に身が入る訳も無く、いくつかの企業の面接に都心まで行きはしたもの、だんだんウンザリしてきたので、家に帰りしな、そうだアイツだったら昼間は暇な筈だと、当時、荻窪に住んでいたジョーの家に電話して、暇だったら遊びに行っていいか?と言って何度か彼の家に押しかけたこともあります。

そんな時は、ジャズのCDやビデオなんかを聴かせてくれて、この演奏のここが良いんだ、とか、ソロのカッコイイところで「イエ~イ!」などと言いながら何時間も2人でジャズを聴き続けたものです。

そうした体験は今でも自分の音楽を聴き方に少なからず影響を与えており、特にジョーが、晩年のレスター・ヤングやビリー・ホリデイの演奏、彼等が全盛期からするとかなり衰えた頃の演奏を聴かせてくれた時に「一流ミュージシャンの晩年、特に死ぬ前の演奏は本当に凄い。楽器や歌の上手い下手なんてことは通り越して、本当に説得力のある表現だけが残るんだ。」というようなことを言っていたことが今でも記憶に残っています。この言葉は、楽器が上手い下手で聴いていたところも無かったとは言えない私には強く印象に残り、以降の私の音楽の聴き方や好みに大きな影響を与えることになります。

私の大学生時代の演奏は、まあ当時の学生の中ではそこそこのレベルではあったものの、ジョーなどのプロからしたら足元にも及ばないレベルでしたが、学祭などでたまに演奏を聴いてくれた際には、当時、私はフリー・ジャズにもハマっていたことも有り、自分のバンドなどでは力任せにフリーキーなソロを取ることも多々あったのですが、それを彼は「エナジー」という1つの表現だ、などと言ってくれたこともありました。

また、確か大学四年の冬だったと思いますが、ジョーが遅くまで独り部室で練習して終電を逃してしまったことがあったのですが、ウチに泊めてくれと電話してきたので、いいよ、と泊めてやり、ついでに腹が減ってるだろうと豆のカレーをご馳走した後、じゃあ俺の最後の定演の演奏(貴君にも来て貰った府中のバベルセカンドの演奏です)を聴いて感想を聞かせてくれと言ったことがありました。今思い出すと、よくそんな恥ずかしいことを言ったなと思うのですが、ジョーは、最初の曲の出だしでベースが走ってリズムが裏返りそうなところを聴いて「お前、バックがこんな状態で良くソロなんか吹けるな。俺には無理だよ。」と言いながらも、黙って最後まで聴いてくれました。最後に私の演奏について何と評したのか全く覚えていないのですが、Ask me nowというセロニアス・モンクのバラードのソロを私が吹いている時に、当時、私がしきりに練習していた変則的なコード・チェンジの長いフレーズがばちっと嵌まった瞬間があり、そこでジョーがすかさず「イエ~イ!」と一言いってくれ、それが本当に嬉しかったことは今でもハッキリ覚えています。

私は、幾度かの中断を挟みながら、今でも細々とジャズを続けています。また、昔ほどは長い時間は聴かなくなりましたが、たまにレコードやCDを引っ張り出して来て、今でもジャズを聴き続けています。そうした音楽を演奏したり楽しんだりするうえで、ヤマジョーが教えてくれたことは大きな糧になっています。私がジャズを続けているのも全て彼のおかげと言っても過言ではありません。

大学を卒業してからジョーと会って話したのは、新入社員だった頃の夏に一度だけ、青山のブルー・ノートにライブを二人で観に行ったのが最後です。

それから30年以上、彼と会って話したことは殆どありません。正確に言うと8年前ぐらい(貴君のブログで確認しました(笑))に、彼の復活ライブに行った際に、演奏後、一言二言、言葉を交わしただけです。

ただ、いつか「お前のおかげで、細々とだけど音楽を楽しむ人生を送ることが出来ているよ。」と感謝の言葉をジョーに伝えることが出来たらなあ、と思うことがあります。でも実際に会っても、そんなことを上手く伝える自信は無いので、夢想するだけで終わりそうです。

今回もかなり長くなってしまい失礼しました。しかも最後の方はかなり感傷的な内容になってしまいお恥ずかしい限りです。

でも、せっかく書いたので、え~い、とメールしちゃいます。

それでは、また。ご機嫌よう!

〔付記〕僕は8年前に「おかえり、ヤマジョー」という記事を書いた。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-f7e8.html

高校2年の時、H大の学園祭で同い年のヤマジョーが演奏しているのを聴いて衝撃を受けたことを僕もよく覚えている。

その後、コバヤシはヤマジョーと同じくH大のジャズ研に入ったことも知っていた。

しかしその後、二人がどういう交流をしてきたかは知らなかった。今回のメールで初めて知った。

読んでいくうちに、涙がとめどなく流れてきた。大げさだが「嗚咽」といっていいくらい涙を流した。

それはたぶん、僕も思い出を少しだけ共有しているからだろう。陳腐な言い方かもしれないがコバヤシとヤマジョーの「絆」を感じることができた。気の効いた言葉が見つからない。

| | コメント (0)

フリー·ジャズ

鬼瓦殿

おはようございます。コバヤシです。

暑い日が続きますが、体調はいかがですか?

ネタ切れとなってしまったこともあり、たまには昔の話でも書いてみようと思います。

登場人物を知っている人は殆どいないと思うので、実名で書いてみました。

大学時代、私がジャズ研で音楽に没頭していたことは、貴君もたまにライブに聴きに来て貰っていたので、覚えていてくれているのではないかと思います。

当時の私は、メインストリームのジャズを演りながらも、フリー・ジャズにも傾倒していました。

何故、フリー・ジャズだったのかと言えば、若かった事もあり、伝統的な枠に縛られない何か自由なものを求めていたこと、更に言えば若く無知だから故に、自分が何か新しいものを創造出来るのではないかと信じていたのだと思います。

まあ、そんなことはさておき、フリー・ジャズに傾倒していた私は、やはり同じことを志向する友人がいたことも有り、友人達と当時の先鋭的な様々なライブを観に行ったり、時にはセッションのようなものにも参加してみました。

そんなある日、確か大学2年の頃だったと思いますが、ベースを演っていた友達が、当時の学生の誰もが読んでいた雑誌ピアで、銀座のギャラリーでフリー・ジャズ・セッションが開催されるのを見つけて来ました。

その友達が行ってみないか?と言うので、ちょっと怖いなぁと思いながらも、好奇心も有り、当時一緒に演っていた友人2人と私の3人で、とりあえず行ってみようということになりました。

銀座のどの辺りだったのかは、今では全く思い出せませんが、ギャラリーの名前は覚えていて、確かケルビームという名前だったと思います。

中央線で有楽町まで出て、銀座のギャラリーに何とか辿り着き、恐る恐るギャラリーの扉を押すと、中では既にセッションが始まっていました。

ギャラリーには、巨大な黒人の立体作品が壁一面に飾られており、その作者と思しき若い派手な格好の女性がいます。

その会場の中で、頭にピッタリとした帽子のようなものを被った小柄な中年男性が胡座をかいてポケット・トランペットを吹いています。後はパーカッションの方だけだったように思います。

お店に入り暫く演奏を聴いたのですが、フリー・ジャズと言いながらも、トランペットが奏でる音は何か不思議なメロディアスな演奏でした。

トランペットの男性は、我々に気付くと、演奏を終わらせて、セッションに参加する為に来たのかと尋ねます。そうです、と伝えると、先ずは何か一緒に演ってみようということで、みんなで演奏を始めました。

フリー・ジャズのセッションなので、曲などは無く、確かパーカッションをバックにトランペットのソロから始まり、順番にソロを回して、最後はトランペットの合図で演奏を終了したように思います。

その後、トランペットの方が自分が、このセッションの主催者で、元々は東京で演奏をしていたが、今は地元の伊豆の下田に戻ってチェシャー・キャットというジャズ喫茶を営なみながら、月に一回ぐらい東京に出て来て(その方曰く、昔の女のところに泊めて貰ってるんだ、とのことでした)、演奏活動を続けている、というようなことを話してくれたように思います。

お名前は、庄田次郎という方で、ニュージャズ・シンジケートというフリー・ジャズ・オーケストラも主催しているとのことでした。

後で調べると、ニュージャズ・シンジケートというのは、70年代から活動している日本のフリー・ジャズ・オーケストラの草分け的存在で、一時期は日本を代表するジャズ・パーカッション奏者である富樫雅彦も参加しており、数多くのフリー・ジャズの演奏者を輩出しているバンドということが分かりました。

しかも、庄田次郎という方は、知る人ぞ知るフリー・ジャズのトランペッターで、早逝の伝説的アルトサックス奏者、阿部薫の盟友だったようです。

ちなみに、阿部薫という人は70年代の日本のフリー・ジャズを象徴する人物で、その破天荒な人生と共にアルトサックス・ソロで数々の伝説的ライブを行ったことで有名な方です。

やはり、70年代に活躍した女流作家の鈴木いづみの夫だった人でもあり、2人のことを描いたエンドレス・ワルツは、後に映画化されたので、貴君も知っているのではないでしょうか。

庄田次郎さんは、我々に、自分のアイドルは、マイルス・デイビスとドン・チェリーであり、こんな感じでセッションをしたりしながら細々と全国で演奏を続けていると語り、良かったらまたセッションに来てくれと言ってくれたので、どうやら我々の演奏も悪くはないと思ってくれたようでした。

確かもう一度くらい、ケルビームのセッションに行ったのではないかと思うのですが、今となっては判然としません。

ただ、その時に、連絡先を交換したように記憶します。

暫くして、当時、私が下宿していた所沢の祖母の家に、2度程、庄田次郎さんから電話が有りました。

どちらが先だったかは定かでは有りませんが、一回は、日本縦断ツアーをやるのだが、テナーで参加してくれないか?というものでした。ただ、バンで日本縦断するのと交通費、宿泊費等で参加費を10万円を用意して欲しいとのこと。

もう一回は、ニュージャズ・シンジケートでテナーの欠員が出たので加入しないか、というものでした。

前者は、そんなお金も無いし、貴君もご存知の通り私は乗り物が嫌いなのに、車で日本縦断なんて耐えられない、しかも知らない人達なんかと、いう事で、後者の方は、ちょっと興味はあったものの、言い方は悪いけどそんなアングラなバンドというか、得体の知れないバンドに参加するのはやはり怖い、ということで、すみません、と断ってしまいました。

しかし、あの時、参加すると言っていたら、自分の人生はどうなっていたのだろうか?と今でもたまに思うことがあります。

また、庄田次郎さんには、阿部薫のことや、日本のフリー・ジャズについて、色々と聴いてみれば良かったなあ、と思うこともの有ります。

まあ、今となってはもうどうしようもないことなのですが。

貴君が先日、ブログに書いていたアクション俳優の方とお寿司を食べた話を読み、こんな話を書いてみてもいいかなあ、と思いメールしました。

今回もマニアックな話な上に、また長くなってしまったので、つまらなかったら、すみません。

それでは、また!

〔付記〕せっかくのチャンスを、怖くなって辞めてしまった経験は僕にもあります。でもそれはそれで自分の運命で、いまの状況は必然なのだと思うことにしています。小椋佳の作詞した『遥かな轍』の「こうとしか生きようもない人生がある」という歌詞を思い出します。

| | コメント (0)

バーを繋ぐ話

鬼瓦殿

こんにちは。コバヤシです。

暑い中、ままならない時間をお過ごしのことと、お見舞い申し上げます。
私の方は、先週、大阪から北海道と出張で渡り歩き、日曜は東京でビッグバンドの練習に参加したら、週明けからもうヘロヘロで何とか週末まで辿り着きました。

ただ、出張に行ったことで少しネタが出来たので、メールさせていただきます。
でも、書いていたらかなり長くなってしまったので、つまらなかったら捨て置いてください。

先週は、大阪から帰って来た翌日の木曜から、北海道に出張ということで、初日は苫小牧、翌日は札幌と移動し、無事、仕事とその後の懇親会も終わり、時計を見るとまだ9時と少し時間が有ります。
そこで、行こうかどうしようか迷っていた札幌の薄野にあるバーBを訪ねることにしました。
バーBは、以前のメールに何度か登場した浅草のバーDのNさんが札幌に行くならと紹介してくれて、7、8年に一度訪ねたバーです。バーBのマスターHさんとNさんは大の仲良しで、2人は札幌と浅草とお互い大分離れた場所に住んでいるにも関わらず、折を見て会っているようです。

大通り公園を横目に、薄野のビルのニッカの看板の前を通り過ぎてバーBのあるビルに着きました。
エレベーターに乗って上まであがると、沢山のボトルが店のガラス越しに飾られた見覚えのあるお店が有りました。
店の扉を開けると、マスターのHさんが「ウチはオールドボトルが専門のバーですが大丈夫ですか?」と尋ねます。私は二度目の訪問だったので、「大丈夫です。」と言いながら店の中に入ると、「ウイスキーとブランデーのどちらが好みですか?」と聞かれます。「ブランデーです。」と答えると、店の奥のブランデーの瓶が並ぶ棚の前のカウンターに案内されました。

暫くして「ご注文はどういたしますか?」と聞かれたので、「では、アルマニャックを2杯ほどお願いします。」と頼みました。マスターのHさんが「お客さまは当店は初めてですか?」と尋ねるので、「大分前に浅草のバーDのNさんの紹介で一度来たことが有ります。」と答えると、Hさんは「そう言えば、お会いしましたね。すっかり忘れていて、失礼しました。」と話します。続けて「Nさんのお店、ついこの間、再開したばかりですが、行かれましたか?」と聞くので、先日のメールでも書いたレセプションパーティーの話を、カクカクシカジカと説明すると、マスターのHさんは、「僕も再開する少し前に浅草と札幌で二度程会ったんですよ。」と言います。すると、常連と思しきご夫妻の奥さまの方が「そう言えば、Hさん、そのときの写真をSNSにアップしてましたよね。」と話すので、それを受けてHさんは「そうなんですよ。僕はNさんが大好きなんです。だってNさんは本当に素晴らしい人なんです!そうですよね。」と私の方を見て言うので、私が「確かにNさんは、本当に真面目というのか、誠実な人ですよね。」と答えると、Hさんは「僕とNさんはお酒で繋がっているのでは無く、心で繋がっているんです。僕とNさんが会うと、仕事の話なんか一切せずにどうでも良い話をずっとしています。と言っても、九割方、僕が喋ってるんですけどね。それをNさんは、いつも黙ってニコニコしながら聞いてくれるんです。本当に素晴らしい人です。」とNさん愛を全開に、カウンターにいる我々に熱く語ります。

先程のご夫妻もその話につられて「一度、Nさんのお店にも行ってみたいですね!今度、東京に行く時に紹介してくださいよ。」とHさんに言うので、Hさんはちょっと考えてから「浅草のNさんのお店に行くなら私も一緒に伺った方が良いかもしれませんね。お客さんはどう思います。」と、また私の方を向いて尋ねます。私は「そうですね。Nさんは何せ本当に真面目な方なので、我々の話だけ聞いてお店に行かれると、ちょっと戸惑うかもしれませんね。やはり、Hさんと行く方が良いかもしれませんね。」と答え、続けて「初めて行くと色々な説明を受けるんですけど、例えば、コニャックはグラスに注いだ後、五分ぐらいは飲まずに香りを楽しんでください、とか、水は飲んだらエグ味が出るのでダメですとか、結構、細かい説明なので、初めてだと大分戸惑うでしょうね。」と答えました。
Hさんは、やはりそうだなあという顔をして「大分前に私の知り合いのバーテンダーの若い子が、Nさんのお店に初めて行った時に、お客さん少し香水の香りが強いので手を洗って来てくれませんか?と言われて、結局、2度も手を洗いに行かされたそうなんですよ。確かにその子が手首につけた香水の香りがちょっと強かったみたいなんですけど。でも、その子は素直な良い子だったんで、ちゃんとNさんのことを理解してくれたんで、良かったんですが。まあ、今では彼も大分Nさんと仲良くなったみたいです。」と話を続けます。

Nさんは本当に真面目で誠実な方なので、自分が出すお酒をきちんと楽しんで欲しいという思いが強く、特に初めての人にとっては結構ハードルが高いところがあります。私もかなりNさんのお店には通っていたので、ネットなんかの評判だけを見て、誤って迷い込んで来た若いカップルが、Nさんのコニャックを美味しく飲む為には云々の口上を長々と聞かされて居た堪れない様子でいるのを何度も目撃しています。

そんなこんなで気付けば11時も回ったので、「では、明日は東京に帰って浅草のNさんのお店に行くつもりなので、HさんのNさん愛を伝えておきますね!」と言って、店を出ました。

翌日夕方に東京に帰り、早速、浅草に向かいました。
先日のレセプションパーティーには行ったものの、Nさんのお店にきちんと伺うのは実に一年半振りです。少しドキドキしながら、お店のドアを叩くとNさんが満面の笑みで私を迎えてくれました。自分て言うのも何ですが、Hさんは私のことが大好きです。
お店には私の他に客は誰もいませんでしたが、カウンターの向こうにはNさんの他に若い女性がいます。席に座ると、Nさんは「カウンターの中がちょっといつもと違うと思ったでしょう。開店したばかりで、特に週末は忙しいのでヘルプの方に入って貰ってるんですよ。」と説明してくれます。Nさんは女性に説明するように「コバヤシさんはマイナスイオンが出ているというのか、お店に居てくれると本当に癒されるんですよ。この前、Nの奥さんも、同じことを言ってました。」と話すと、付け足すように「Nというのは、元々、トンカツ屋さんだったんだけど、息子さんがお寿司の修行をしたんで、だったらトンカツもお寿司も出しちゃえと、トンカツとお寿司ので店Nになっちゃたんですよ。お刺身や海老真薯みたいな美味しい和食も食べられる上に、カニクリームコロッケなんかの洋食も美味しくて。でも僕は分厚い肉を焼いた生姜焼きが一番好きなんですけどね。」と説明します。

私も、そうそう、と言いながら「マイナスイオンと言えば、17、8年前に千葉の工場で働いていた時、当時の上司に業務報告をしていたら、上司が居眠りを始めたちゃったんですよ。まあその上司は当時、かなりの激務をこなしてたんで大分疲れてたみたいなんですけど。仕方がないから起きてくださいと肩を揺すったら、目を覚ましたその上司が、コバヤシ、お前、クマのプーさんだろう!アルファ波出してるだろ!と逆ギレし始めちゃって、なんてことがありましたよ。」と、ちょっと調子に乗って話を繋ぎます。(ちなみにその逆ギレした上司は、私と腐れ縁のウチの会社の副社長Mさんです。)
学生時代の私を知っている貴君からすれば、いつも暴言を吐いていた私が、まさか癒し系と評価されているなどとは思いもよらないとは思いますが、私自身もオカシイとは思いつつも、周りの評価はそうなっているようです。これも年月が成せる業でしょうか。

そんな話をしながら、Nさんにお酒を注文すると「じゃあ今日はコバヤシ、スペシャルバージョンでとっておきのコニャックを出しますね。せっかくだから、この前ヨーロッパに行った時に買って来たロブマイヤーのグラスでお出ししましょう。」と言って、グラスにお酒を注いでくれました。
私は、そのお酒を飲みながら、前日に札幌のバーBに行ったこと、そしてマスターのHさんがNさん愛を熱く語っていたことを話しました。それを聞いたNさんは「そうなんですよ。Hさんと会うと、いつもHさんがずっと喋ってるんですけど、楽しそうに喋っているんで、せっかくだから気持ち良く喋って貰おうと、黙って聞くことにしてるんです。」と優しく話してくれます。

久しぶりにNさんと会ったこともあり話は尽きなかったのですが、そうこうするうちに、私は一杯目のコニャックを飲み終わりました。
するとNさんは私のグラスを見て「さすがコバヤシさん、やっぱりグラスが真っ白ですね。」と言いながら、ヘルプの女性に「コニャックは時間をかけてゆっくりかけて飲むと、お酒の全ての要素が引き出されて、こんな風にグラスが真っ白になるんです。これを僕はパーフェクトグラスと呼んでいます。」と説明します。女性はふ〜んという顔付きで聞いているので、私も口を挟んで「ちなみにパーフェクトグラスなんて言葉を使うのはNさんぐらいです。しかも、Nさんは、この白くなった私のグラスを写真に撮って、店のお客さんへの説明に使ってるんですよ。たまに、私のすぐ横で写真を見せていたりするんで、ちょっと恥ずかしかったりするんですけどね。まあ、私も公認してるんでいいんですけど。」と補足します。更にNさんが続けて「せっかくのコニャックを直ぐに飲んでしまう人がいるんで、そういう人達への説明にコバヤシさんのパーフェクトグラスの写真を見せて説明するんです。あっ、せっかくだからニューバージョンのパーフェクトグラスとしてこのグラスの写真を撮って、また使わせて貰ってもいいですか?」と言うので、私は「ただの飲み終わった後のグラスですから、私のものでも何でも無いし、どうぞご自由にお使いください。」と言うと、Nさんはグラスを持ってカウンターの端っこに行って、嬉しそうに色々な角度で写真を撮っていました。

そうこうする内に、お店はお客さんで一杯になって来ました。
Nさんも私ばかりに構ってはいられないので、その後は独り静かに美味しいコニャックを堪能させてもらいました。
最後の一杯を飲み終わる頃には時計は11時を回り、かれこれ3時間以上は店に居座ってしまったのでお会計をして、満ち足りた気分で店を出ました。

こうして、私は、バーテンダーの皆さんのおかげで、そこそこ楽しく過ごさせてもらっています。


今回も書き始めたらかなり長くなってしまいましたが、お楽しみいただけたでしょうか?

また暫く間が空くかもしれませんが、ネタが出て来たらメールします。


では、またそのうち!

| | コメント (0)

より以前の記事一覧